【漸進しない、失敗出来ないというキーワードから】(2004.12/28)


  機は熟したとみた。

  以前から私は、オタク達の一部とニートの一部(特にリンク先で言えば第二、
 第三、第四の類型に近いようなニート)との間にある種の共通性を予感して
 いた。だが、自分の考えが漠然としすぎていて放置していた。しかし今回、
 他サイトさま(主としてblog界隈)の議論を見ていてようやく勇気づけられ、
 以下を表明してみる事にした。私はニートに関しては十分に勉強しているとは
 言えないし、引きこもりの症例もまだまだ数をこなしているとは言えない。
 故に随分と穴の多い話になってくるとは思うが、まあいい、やってみようと思う。


 ・私が着目した、一部ニートの特徴と心理的問題

  まず断っておくが、これから示していくニートの特徴は、ニートという
 大きな集団のステロタイプとしても適切ではない可能性がある。ニートという
 言葉が対象としている凄い数の男女は、様々なプロフィールや誕生過程
 を持った集団なので、以下に示すようなプロフィールの集合体として描写
 できるニートは全体の一部に過ぎないと考えられる。また、これも勘違い
 して欲しくないのだが、以下に示すようなプロフィールだけが彼らをして
 ニートたらしめているわけではない事も誤解しないで頂きたい。ニートの
 なかでも以下に示すようなプロフィールを持っている人は、それだけでも
 随分と働いたり就学したりトレーニングしたりしにくいだろうけど、他の様々
 な要因(経済事情、社会構造、親の富、教育格差)も大いに関与している
 事を私は否定しないし、他の要因があまりにもヘビーな為にニートに
 甘んじている人達がいる事も否定しない。

  ただし、ネット上でのニート関連の記事を読みまくったり(例えばここ
 ここの、逸脱しない範囲ぎりぎりまで考察を進めている技量に舌を巻いた)
 玄田氏の本を読んだりしている限りにおいては、以下のようなプロフィール
 の全部または一部が、少なからぬニートに当てはまるのではないかと思って
 しまうのだ。ニートについていつも議論している人にとってはつまらない二番
 煎じかもしれないが、私が今回着目したニート(の一部が持つ)プロフィールに
 ついてまず挙げよう。


 ○困った時にアクセスできる相談相手が少ない
  時には両親も含めて、相談できる相手が少ないという現状がみられる。
 比較的若い年代に必要とされがちな、同年代の同性・異性の相談相手への
 アクセスが難しいニートが沢山存在するらしい。こういった状況は、コミュニ
 ケーションスキルの向上や、そのほかの問題に関する情報収集力、多彩な
 アイデア、励まし等を得ることを困難にする。これは不利なことであり、何も
 ニートか否かに関わらず社会適応の予後に好ましくないファクターと考える。


 ○対人コミュニケーションスキルの問題
  理由がどのような点にあるにせよ、ニートの少なからぬ人々は就学や就職
 に際しての心理的障壁としてコミュニケーションスキルの問題(と、それに
 関するコンプレックス)を持っているようだ。これはもうLovelessZeroさん
 所で紹介される記事を見ていても、玄田氏の記事を見ていても、ニートと
 おぼしき人達のブログ・mixi内記事を盗み見ても常に感じざるを得ない。
 少なからぬニートはコミュニケーションスキルの問題で悩んでいて、実際に
 同世代の同性に比較して低いコミュニケーションスキルに甘んじていると
 推定される。そして、このサイトの非差別オタク関連の記事でも散々書いて
 きている事だが、コミュニケーションスキルの問題や障害は、それ自体が
 社会適応の範囲をかなり規定してしまう


 ○評価されないする事の恐れand/or最初から評価されたがる事
  どうやらニートの少なからぬ割合は、自分が最初から高い評価を得られる
 ことが期待されるような“戦場”や、自分が低い評価に甘んじる可能性の低い
 “戦場”、トレーニングの段階から十分な活躍が期待できるような“戦場”でしか
 戦わないような傾向があるように見える。上にリンクしたこちらでも登場している
 が、否定的な評価や完全なゼロからスタートする立場を許容できないニートは
 かなり存在していると思われる。こういう人達の場合、自分の望んだ仕事でなけ
 ればしないとか、自分の望んだ将来性の高いものでなければしないという理由で
 就職・就学・訓練を延期するだけに留まらないっぽい。そういうニートさんの
 場合、就職・就学・訓練を延期する際に“自分が望んで、且つある程度の評価
 が最初から得られる”とか“訓練過程や就学過程そのものが評価される職種や
 学習環境”でなければ選択出来ないように見える。ともあれ、彼らが就職などに
 際して心理的障壁と感じているもののなかに、第三者からの評価への敏感さ
 と、自分が評価されないという事態への脆弱さを感じ取らずにはいられない。
 もちろんこの、自分が評価されないという事態への脆さは、就労就学といった
 文脈だけでなく、極単純な対人関係の場面でも問題となっている可能性がある。
 彼らはあまりにも、他人からのNo!に弱すぎる

 注:このような特徴を持たないニートも存在している事には注意。ただし、その
 ようなニートは知的機能の問題等のその他の問題で極端にハンディを背負って
 いない限り、そう長くはニートという立場に留まることが「出来ない」かもしれない
 と私は推測している。


 ○プロセスへの非着目と、過剰なまでの結果への着目
  働くというプロセスや学習するというプロセス、或いは非難されたり新入りとして
 しごかれるというプロセスをどれぐらいのニートが重要なものと位置づけているの
 だろうか?私が知る限り、ニートへのインタビューや言動、ネット界隈のニート
 関連テキストのいずれにおいても、彼らがこういうプロセスに重要な意味を見い
 だしている兆候に滅多に出会えない。ひとつ上の項目とも関連するが、彼らは
 目の前の就労・就学が重要な結果をもたらすのかどうかには敏感そうだが、
 就労・就学・学習(EET)のプロセスが副次的にもたらすものや、就労や就学に
 際しての喜怒哀楽、そこで生まれる人間関係とそれにまとわりついている
 情報リソース等には鈍感に見える。

  実は最初から仕事などが高く評価されるという結果は発生し得ず、地道な
 プロセスの積み重ねこそがコンスタントな成功と安定した評価に繋がるという
 事実――この事実への着目は、彼らにおいては極めて乏しい。ことに、「失敗」
 や「挫折」や「後退」や「無駄」というプロセスとなると、彼らはそこに含まれる
 リスクと不評にしか着目しない。リスクや「成功に伴う報酬」には彼らは十分
 (否、十分以上に!)鋭敏だが、失敗や挫折や後退にこそ成功へのバネが
 潜んでいるという発想は彼らの中にはあまり存在しない。…当然だが、
 そういう人間には安定した評価は望むべくもない。天才ですら、時に誤り
 ながら漸進するという発想が、びっくりするほど欠落している。こういった
 プロセスを無視して結果だけを見ている人が、能力や安定した評価を獲得
 する事は無いのだが。結果を重視しすぎてしまうという彼らの性質は、
 前項の評価されたがる性質(No!に対する脆弱性)とコインの裏表の
 関係にあるようにも思える。


 ○以上のような特徴を持っているニート達の選択行動
  上に挙げた項目に当てはまるニート達は、当然ながらフットワークが重く
 ならざるを得ない。成功と失敗に敏感で、失敗や(一見すると)成果の無い
 プロセスに着目しない視点を持ち、コミュニケーションスキルにも自信が
 もてない…こんなニートの場合、彼が何か新しい事を始める可能性なんて
 極めて低い…高いわけがない。勿論そんな彼らも、失敗のリスクが少なく、
 自尊心を逆撫でされるような新兵プロセスも無く、コミュニケーションスキルの
 敷居があまり高くないような状況には迅速に飛びつくことが出来そうだ
 しかし、そんなに都合のいい選択肢はどこにも見あたらない。せいぜい、
 MMOやRPGぐらいのものなんじゃないだろうか。

  世間では、誰もが飛びつきたくなる選択肢や高いベネフィットのポジションは、
 残念ながら高いポテンシャルやキャリアを持った人間によって占領されてしまう。
 そういうポジションは、失敗や罵倒も含めた精錬のプロセスの中に自らを置く
 ことや、失敗というプロセスを学習に組み込むことや、コミュニケーションスキル
 の欠点を補う事が必要条件として要請されている(注:十分条件ではない)が、
 私が着目しているようなニート達はプロセス無視で、結果だけを望んでしまう。
 天才ですら自己精錬を要請され、失敗やリスクを犯しているという事実も無視し、
 彼らは望んでしまう。彼らが望んでいる就労・就学・訓練(EET)の結果と、彼ら
 の心理的背景が許容し得るリスク・コストには、深刻な溝があるように思える

  「働いたら負けだと思っている」という戯言も、案外本音なのかもしれない。
 能力・心理的障壁・プロセス無視傾向の為に手が届かないような、“評価されて
 利得も十分な”EETだけをニートが見つめているならば、実際にニート達が
 直近で手をつけられる殆どのEETは全く無意味で、旨味のないものと映りそう
 だからだ。結果を重視し失敗やコストを避け、プロセスを度外視するニートなら、
 旨味が明確でなく、リスクや傷つく機会ばかり目に映るEETを、やるだけ無駄
 とみなすに違いない。そういったEETを彼らは、リスクと苦労ばかり多くて、
 自分には何のメリットももたらさないものと捉えるだろうから。そのうえ
 EETは未知の人間とのコミュニケーションを強いられるときている!
 そりゃあ、彼らがEETに参加したくなくなるのもうなずける。もし私が上記の
 条件を全て満たしているニートなら、きっと失敗も含めたプロセスを含めた
 漸進的な発想も浮かばないんだろうから、“どうせ俺が今出来る仕事は無駄
 でしかない。メリットのある仕事は、デキる奴らが持っていってしまうんだし”と
 思ってしまいそうだ。即ち、「(今すぐ出来るような、旨味が無くて失敗リスク
 ばかりが目につく)EETに着手したら、負けだと思っている」と考えてしまい
 そうな気がしてならないのだ。

  以上、私が目下注目している“ニートの中の一群”のプロフィールを紹介して
 みた。しつこいようだが、ニートの全てがこうであるとは私は考えない。他の
 要因、特に景気や教育格差といったもっと広汎な問題が背景にある場合や、
 知的機能の問題を背景に持っている場合などの、様々なケースがニートという
 枠に含まれている事を忘れない。失敗というプロセスを無視しないニートや、
 配偶者や友人に恵まれているニート、コミュニケーションスキルに長けた遊び人
 の如きニートすら存在している事を否定しない。しかし私が今回焦点をあてて
 いるニートは、上記のようなプロフィールの全部か一部を持ち合わせた人達と
 ご理解頂きたい。



 ・コミュニケーションスキルが低劣なオタク達のプロフィール、心理的特徴


  以上のようなニート達をみると、私は自分がいつも気にしている、ある種の
 オタク達との間に共通するものを見いださずにはいられないのだ。そして、
 この共通点を指摘したうえで考察を試みることこそが本稿の目的である。

  私がニートとの共通点を感じているオタク達とは、LovelessZeroさんの所の
 表現を借りれば“非コミュ系オタク”、即ちオタク趣味を持ちオタクコミュニティ
 との接触までは可能だが、他趣味領域の非オタク達とのコミュニケーションが
 阻害されているオタク達、その一部である。私のサイトの表現を引用すると、
 “侮蔑されがちなオタクで、それに悩んでいるオタク”“オタク趣味以外の人とも
 接触したいけど、どうにも出来ずにそこで立ち止まっているオタク”である※1
 彼らの一部はニートとも重複している一方で、彼らの多くはニートではなく就職
 していたり就学中だったりしている。EETに就いているか否かという視点では、
 両者を等号で結ぶことは不可能である。

 しかし両者のプロフィールや心理的特徴には、強い親和性を感じる。
 どこに感じるかというと、先の項目で挙げたニートの特徴で挙げた、
 ○困った時にアクセスできる相談相手が少ない
 ○対人コミュニケーションスキルの問題
 ○評価されない事への恐れand/or最初から評価されたがる事
 ○プロセスへの非着目と、過剰なまでの結果への着目
  という特徴に対してである。

  この四項目、実は『被差別オタク達が自分達の状況を何とかしたいと発心
 した際にも、大いなる妨げとなってオタク達を頓挫させている』ものと一致して
 いる。先に挙げたニート達が、こういったプロフィール・心理的特徴によって
 ニートという立場から動き難いのと同様に、被差別オタク達は被差別オタクと
 いう立場から動き難くなっていると考える。いや、考えるだなんて遠回しは
 ここではやめとこうか。そういうオタク達を私は実際に何人も知っているし、
 極めて多くの被差別オタク(求道者は除く)がこういう心性を隠し持っている事を
 確信している。被差別オタク達がいわゆる“脱被差別オタ”※2を試みる際に、
 どう上記四項目が当てはまるのか、次に具体的に説明してみよう。

  まず、彼らはアクセス出来る相談者を持ち合わせていない(項目1)
 脱被差別オタには両親は全く役に立たない。じゃあオタク仲間達はどうかと
 いうと、これも頼りにならない。同じオタクワールドの井の中の蛙同士、井戸の
 外の話は忌避こそすれ積極的に話さなかった仲間達は、相談されても適切な
 答えが見つからずにまごついてしまう。それどころか、相談された側も同じ
 悩みを抱えつつ目を逸らせていた場合があったりして、そういう場合には
 気まずい沈黙が場を支配する。多くの場合、同じ穴の狢は同じ程度しか
 非オタ世界の情報を持ち合わせておらず、相談相手としては役に立たない
 むしろ相談すると、脱差別オタの話やコミュニケーションスキルの話を煙た
 がられてしまう事さえある。よって、ニート達の支援者が不足しているのと同様、
 彼らは適切な助言や励ましを提供されないままに脱被差別オタを遂行して
 いる場合が多い。逆に言えば、仲間にアクセス出来る場合、脱被差別オタ
 推進の大きな力となり得るのだが。

  また、コミュニケーションスキルの低劣さも彼らの主要な問題である(項目2)
 当サイトでも散々既出で、あちこちのサイトでも語り尽くされた感のある話だが、
 コミュニケーションスキルが足りない事こそが、脱被差別オタにとっての中核的
 な問題となっている。オタク差別においては、オタク趣味を持っている為に
 差別されたりキモいと言われたりするのではなく、差別されるか否かはコミュニ
 ケーションスキルの可否によって決定づけられる。仮にオタク趣味をやめた
 だけの脱オタをしたとて、ただ単にキモオタ→キモメンに呼称が変わるに
 過ぎない。それでは決して脱被差別オタクという目的は達成されないのだ。

  しかし、コミュニケーションスキルを底上げするのは非常に難しく、プロセスに
 おいて甘受しなければならない苦痛や苦労も並々ならず、やっているプロセス
 においては誰からも評価されず、しかも必ずやっただけの成果が上がるとは
 限らないときている。故にこそ、後述するような特性を持ったオタクには、
 なかなか手が出せない改善対象となっている。


  次に、評価されない事への恐れと、最初から評価されたがる事(項目3)
 これも一部オタク達には恐ろしい程当てはまる。被差別オタク達の多くは、
 自分が得意としている分野に対してはともかく、自分が全く知らない分野に
 関して他人と話をするのがとても苦手である。なんというか、このこと自体が
 既に終わっているというか被差別オタクの被差別オタクたる所以でもある
 わけだが、自分の得意な話題以外のコミュニケーションをとる事が非常に
 苦手だし、それゆえコミュニケーションの幅もコミュニケーションの対象も
 広がらない。背景には、『自分の得意分野や好きな話題以外では、自分が
 会話の中で評価されないんじゃないか?』という危惧が存在していると私は
 強く疑っている。自分の土俵以外で相撲が取れないのは、自分の土俵では
 高い評価を得る自信があっても、他の土俵では(少なくとも最初のうちは)
 自分が優勢を誇る事が出来ないからである※3。 このようなオタク達は、
 自分が不得手な分野の話題が出ると自分の話題に強引に戻そうとしたり、
 沈黙したり、不愉快を表明したりする。さらに自分の得意な分野で批判され
 たり自尊心を傷つけられようものなら、大変な屈辱と怒りを表明する事さえある。

  事態が、脱被差別オタクの為にコミュニケーションスキルの幅を広げましょう
 という話になった時、いよいよこの問題は明確となる。彼らは、他人にどう
 評価されるかを気にしてしまって、道中かなりの屈辱と劣等感を舐めさせ
 られる脱被差別オタクの道に踏み込むことが出来ないのだ。世間一般では、
 コミュニケーションスキル向上の勉強や努力は殆ど評価の対象とはならず、
 (特に、オタク達が差別を避けたいと願うレベルへの努力の場合は)むしろ
 嘲笑の対象とすらなり得るため、彼らの他者評価への敏感さと屈辱耐性の
 低さ(裏返せば自尊心と自己愛の肥大が看過できる!)は大きな妨げとなる。
 “ある程度の評価が最初から得られる”なんて戦場や、“効果が絶対に保障
 されている”戦場、“努力している事自体が高く評価される”戦場なんてものは、
 コミュニケーションスキル改善の試みにはありっこないが、オタク達の多くは
 上記のような条件を要求してしまう。それが期待できないもので、結局は
 苦しい評価をくぐり抜けなければならないと分かると、彼らはすごすごと
 引っ込んでしまうか、様々な自己欺瞞を用いて問題の直視を避けてしまう
 彼らは結局、この屈辱回廊を心理的に通過する事が出来ずに頓挫する、
 というわけである。


  最後に、プロセスへの非着目と、過剰なまでの結果への着目(項目4)
  上の項目3ともダブっているのだが、彼らは失敗や成功といった結果に
 大変うるさい。アニメやゲームを見ている時はそうでもないじゃないかと
 指摘する人がいそうなので、表現を改めるなら、彼ら自身のリソースが直接
 問われ、且つ、失敗すると(自尊心の傷つき等の屈辱的な)インシデントに
 見舞われるような決定や選択に関しては、結果に大変うるさい、と書けば
 いいだろうか。要は“やっぱり僕はダメだー”と痛感させられる選択がどうして
 も選べない、というわけなのである※4。屈辱や傷つきやrejectがダメという
 傾向が強いのだ。実際には、屈辱的な経験・二度と挽回できない失恋なども
 経験しながら、ようやく恋愛だのコミュニケーションだののスキルは向上していく
 わけだが(そりゃ稀には失敗の少ない人もいるよ、でもやっぱり稀)、彼らは
 ダメ出しやNo!に極端に脆いがために場数を踏む事が出来ないし、避けて
 さえいる。期待値が相当高いならいざしらず、期待値不明の事象にも滅多に
 踏み込まない。稀に、思い切って一度踏み込んでみても、(当然ながら)初め
 のうちは上手くいかないので、最初の段階でとても傷つき、すごすごと撤退
 してしまう可能性が高い。そして一旦暖かなオタクコミュニティに戻ってしまうと、
 次のチャレンジのことなどは忘れて、期待値が1に限りなく近く、傷つく事も
 少ない日々を再開してしまうのだ※5。これではコミュニケーションスキルが
 身に付く筈もない、という次第だ。

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 【※1そこで立ち止まっているオタクである。】

  非コミュ系オタクという表現には、コミュニケーションスキルが低いオタクという
 意味があるっぽいだが、私が問題にしているのはそのなかでも、“非オタクとの
 コミュニケーションが苦手な事に悩んでいて、何とかしたいとは内心思っている
 けどどうにもしてない”オタク達だけであることを、一応付け加えておく。

  稀に私達は、何者をも捨ててオタク趣味に全身全霊を傾けて後悔の無い、
 求道者のようなオタクを見かける事がある。彼らは全てをオタク趣味に
 捧げ尽くしている為、ファッションを含めたコミュニケーションスキルがメチャ
 クチャだったり、他人の意志に全く無頓着であることが多い。こういった稀な
 ケースも非コミュ系オタクという表現は包含してしまいそうだが、今回のテキスト
 ではこういう稀な求道者オタクは議論の対象とはしていない。




 【※2いわゆる“脱被差別オタ”】

  わざわざ脱被差別オタなんていう言葉を使うのは、昨今のネット上における
 脱オタの意味が、しばしば二通りで用いられる為である。

 例1:純粋なココロ様の用例
 この場合の脱オタは、オタク趣味をやめる事ではなく、オタクとしての一般的な
 差別やコミュニケーションスキルの建て直しを意味する言葉として用いられる。
 本稿における脱被差別オタという言葉と殆ど同じ意味である。
 必ずしもオタク趣味の放棄を含まない。

 例2:赤の七号様の用例(12/24のテキストをリファレンス)
 この場合の脱オタは、コミュニケーションスキルの建て直しを意味する言葉では
 なく、単にオタク趣味をやめるという意味で脱オタという言葉を用いている。
 2ちゃんねるなどでは、こちらの用法もしばしばみられる。




 【※3出来ないからである。】

  これを読んで、なんて自己愛の強い、プライドの高い、傷つく事に脆弱な
 人達なんだろうと思いこむ非オタクの人がいるかもしれない。しかし、この際
 そう思いこんでくれて構わない!オタクのなかでも被差別オタクの少なからぬ
 一群、特にここに挙げたような心性を持っている人達に限って言うなら、その
 思いこみは殆ど当たっている。実際、そういったオタク達は自分に対する
 批判や侮蔑に驚くほど敏感である。あまりにもひどい時は、会話相手が
 自分の事を批判したわけではない事すら自分への批判だと思い込み、
 プリプリと怒りはじめてしまう人もいるぐらいだ。この事は裏を返すと、彼らが
“君はダメだね”とか“残念!”と他人に真正面切って言われる事への耐性が
 低い事を暗示しているように思う。No!への耐性の低さ、rejectへの耐性の
 低さと、こいつはおそらくコインの裏表だ。

  ちなみに、2ちゃんねる等で、些細な議論にも必死に人を見かけるが、そういう
 人はくだらない議論においてさえNo!を受け入れられないほど、傷つきやすい
 御自身を持っているように見える。もし彼らが傷つきやすい自己愛を持っている
 なら、そういう時に 必 死 になってしまうのも不思議ではない。何せ、普通の
 人ならスルー出来るような些細な否定的文脈すら、彼らの傷つきやすい
 ナーバスな心には格別に痛く響くであろうから。いや、バカなだけで食らい
 ついてついている人も沢山いるけどね。

 (注:2ちゃんねるで 必 死 な人は、必ずしも全てがオタクでは無い。
 だが、本テキストで描写したプロフィールを先鋭化させたような人間の
 可能性は、極めて高いと考える。たまに精神科でも見かけるし、そういう人。
 もちろん、対人コミュニケーションスキルのバランスは、悪い可能性が高い)




 【※4選べない、というわけなのである。】

  ダメ人間を積極的に自称する、ダメなオタクを時々見かけるが、あれは
 かなり有効な自己欺瞞だと思う。本来、ダメ出しされるのが嫌で仕方がない
 人が、自分がダメな事を特別視したりそのダメっぷりをユニークなアイデン
 ティティと捉え直したりすれば、いくらダメ出しされても、心の中では褒め言葉
 に変換されてヤワな自己愛は傷つかない、というカラクリだ。自分で自分の
 事を誇らしげに笑うことすら出来るかもしれない。

  人間が自分の心に対して繰り出す神経症的防衛機制は、防衛陣地の構築の
 仕方次第で実にバラエティに富んだ“心理的防御”を展開するが、ダメ人間を
 自称するのもなかなか面白い一手である。このような防衛機制を展開している
 以上(決めつけちゃったよ)、彼ら自称ダメ人間も実際はNo!をガッチリ受け
 入れているとは言えない。故に、彼らを反証とする意見を私は受け容れない。
 第一、ダメ人間を自称している人達だって、ダメっぷりをアピールしている
 ように見えて、徹底的にバカにすると大抵は怒りはじめちゃうんだしね。
 ダメ人間がホントにダメっぷりをアピールするなら、ただひたすら喜んで
 _| ̄|○ がデフォなんじゃないの?と問いつめたくなるような自称ダメ
 人間があまりにも多すぎる。



 【※5再開してしまうのだ】

  ところで、アニメやMMO、RPG、その他一人でも可能なオタク趣味には、
 No!を明確に指摘する出来事は殆ど存在しない。また、仮に一度reject
 されても何度でも再起が可能のものが殆どである。こういう造りは、自尊心が
 傷つきやすい人にもなかなか向いている。そういった一人遊びを貪っている
 間は、誰にもNo!を突きつけられないし、他人と一緒にそれらの話をして
 いても、特別な競争でも無い限りはNo!を突きつけられないのだから。

  また、全般的に、オタクコミュニティ内のぬるま湯的雰囲気は、彼らの
 自尊心や自己愛が傷つきにくい、互いにNo!を実感させられにくい構造を
 しているように思える。オタク同士の付き合いも、消費されるコンテンツも、
 いたいけな心を柔らかく包み込む事が出来る。もちろん、何か競争的・競合的
 な事態がオタクコミュニティ内で起こればこの限りではないが、例えば現在の
 恋愛を巡る情勢などに比べれば、なんとも穏やかなものである。