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かまくら颱風 1

鎌倉のとある古刹をたずねる途中に、問題のフランス料理店はあった。参道から外れて右折する小道の、袋小路の突き当たりにその白壁の一軒家は建ち、垢抜けたたたずまいを見せていた。小道との分岐点に店の名を記した案内板があり、有名な雑誌で紹介されたときのページがラミネートフィルムに挟まれて添えられていた。
わたしたちは、そのとき旅先に在ったにもかかわらず、旅の醍醐味の一つである食の堪能を「ある事情」で阻まれていた。旅の最終日、美味への満たされぬ思いは焦燥感にまで募っており、帰りの列車の時間も迫っていた最後の食事を、このフランス料理店でとることに一同の異論はなかった。

その前夜は、泊まった宿の屋根が吹っ飛ばんばかりの大嵐だった。わたしたちが味わった恐怖は書き留めるに値する。フランス料理店での出来事を語る前に、まず、前日のいきさつから始めるべきだろう。

200×年、その年は、南洋で膨れ上がった「超」と名のつく大型台風が、とっかけひっかけ日本列島を目指して北上し、国土の南端に上陸して北端に抜けるまで、陸地という陸地を機銃掃射のように蹂躙していた。
わたしたちが計画した鎌倉旅行は、予めそのシーズンを狙ったわけでは決してなかったが、出発の数日前から、テレビのお天気番組はその年いくつめかの「超」大型台風の日本列島接近をうるさく報じていた。

私と友人である彼女は夜行バスで大阪を出発し、もう一人の友人が待つ東京駅を目指していた。バスがターミナルを出る頃から本格化した雨風は、高速に上ってから車窓のガラス板にふんだんに降り注ぎ、台風の渦がすぐ背後に迫りつつあることを知らせた。
身動きとれない深夜バスのリクライニングでエンジンの振動に鬱々とし、眠ろうとする苦労は一向に報われぬまま、わたしたちのバスは迫りくる暴風雨圏の一寸先を東へ向け、闇の中を疾走する。「ケツに火がつく」とはまるでこのことだと思いながら、本物のケツの傷みに夜通し苛まれて夜が明けた。
それでも高速バスの時速は台風の足のそれを上回っていたのだろう。到着すると東京駅はまだ曇天だった。

駅で友人との合流を果たし、軽く昼食を済ませたわたしたち3人は、台風を首尾良く振り切ったことに気をよくして、わいわいと目的地へ向かった。が、東西の関係でいうと、鎌倉は東京の若干西に位置する。
江ノ電への乗り換えのために鎌倉駅に到着したあたりで、わたしたちの周りに再び暗雲が立ちこめはじめた。

時雨れつつある空をにらみながら、それでもわたしたちは先ず荷物を宿に預け、タイムリミットまで観光を楽しもうと、予約のある宿を目指した。宿の案内図に従い、由比ガ浜に近いとある駅で下車し、歩き始めたが、その頃にはもう互いの声が雨音でかき消されて会話が成立しない。道路はふりそそぐ雨量に排水能力が追いつかず、靴は一足ごとに水を吸い、周囲は四方八方がねずみ色に煙って景色も標識も何もない。勘を頼りに宿にたどり着いたら、女将が奥から出てきて「あれま」と素で呆れ、気を取り直して、どうぞおあがり、と難民を迎え入れてくれた。

宿は大正期の創業、建物は創業時からそのままの姿というのがセールスポイントで、歴史的建築物として自治体から保存対象の名誉を担っている。旅館業は、宿の齢より一回りほど若手と思われる女将と、その亭主とおぼしき爺さんの二人で切り盛りされていた。客など来るはずもないこの日、二人はむしろ、台風を迎え撃つ準備のほうに奔走していた。時折の突風で外壁がばりばりと衝撃音を立て、表でブリキのバケツが勢いよく回転する音がする中、わたしたちはぬれた靴下を絞りながら女将に問いかけた。「このあたりは、台風は多いのですか?」 質問の真意はこうである。「この家は建ってから数々の台風に耐えてきたのだから、さぞかし頑丈なんでしょうね?」 女将の返事は、否、であった。鎌倉は、台風には余り縁のない土地なのですよ。私は娘時分からここの住人ですが、直撃は今回が初めてです、と。

女将に先導され、暗い廊下、狭い階段をぎしぎし踏み歩き、通された二階の部屋は土壁が湿気を吸ったときの独特のにおいがこもっていた。テレビをつけると、数時間前、わたしたちが和気藹々と昼食をとった東京駅の地下街に、今、水が怒涛を打って流れ込み、土嚢を担いだ人々があたふたとしている様が繰り返し報じられていた。

計画ではわたしたちはこの後、江ノ電に乗って高名な神社仏閣を訪ね歩き、グルメガイドお勧めの甘味処で一服し、土産物屋を冷やかして、そのあと夕暮れの海岸が見渡せる自然食レストランで白身魚のカルパッチョかなんかをつっつくはずだった。そう、わたしたちは湘南の小洒落たダイニングキッチンで地元の食材ふんだんのディナーを楽しむつもりでいたので、宿泊オプションである夕食は敢えてキャンセルしていた。宿にたどり着いた時点で外出はもはや暴挙であり、仮にわたしたちが暴挙を犯したとしても、この日この町の空の下に開店営業の暴挙を犯す飲食店があるとは思えなかった。わたしたちは事実上、その夜の飯抜きを宣告され、口々に呪いの言葉をつぶやいた。飯抜きなんてのは、いたずらがばれて親にお仕置きをくらった大昔と検診の前夜以外に経験がない。

柱時計は夕方の刻限を指しているが、雨戸がかたく閉ざされているので時間の感覚がない。わたしたちはおのおの鞄から持参のおやつを供出して、女将が運んでくれたポットのお湯で番茶を淹れた。同じニュースを繰り返すテレビにはとうに飽いていたが、10分おきに報じられる台風の現在位置への興味はさすがに捨てきれず、じっと眺めて過ごした。そうこうして1時間ばかり、ついに台風の中心部が、かつてない低気圧を引き連れて、処女地鎌倉の上空に到着した。

歴史的な価値は十分だが、もしかしてその価値と反比例して脆弱かもしれないわたしたちの旅館は、雨風に翻弄されて、ぎし、がし、と大胆に横揺れした。ごぉっと風鳴がするなり、雨戸がばかーんと鳴って鼓膜を打ちのめし、建物のあちこちで生じた同様の衝撃音が余韻も含めてわたしたちの耳に重層的に届く。それは振動を伴って座布団越しの尻に伝わり、背筋を伝って首筋を凍らせる。はて、先ほどから天井付近で聞こえる面妖な物音は、柱と梁が互いの軋轢に耐えかねて決別する前の絶叫ではないだろうか。わたしの精神は恐慌を来す一歩手前までやってきた。なにか頑丈なもの、揺るぎないものに縋り付きたい衝動に駆られた。目の前の座卓は頑丈で、一見、頼りがいがあるように思われた。わたしは分厚い無垢板の端を両手で掴み、心身の動揺を鎮めることに集中した。しかし一陣の暴風を受けて家ごと傾ぐのに合わせて、重厚な座卓は畳の上を、ず、と10センチばかり横滑りし、ココロの拠り所はあえなく指からすっぽ抜けた。3つの湯飲みが茶托に乗ったまま天板の上を滑走して向こう側の縁からもんどり打って畳に落ちた。

旅先で遭難する不覚を詫び、事後を託すメールを家族と友人、職場に打つべきか、打ち始めるのなら今をおいて時はないが、もし、生きて故郷に戻った時に、それが一生の笑い者となる危険は免れず、そういう恥は忍びないと逡巡を繰り返している、そのときだった。
1階の帳場で、電話が鳴ったのは。

古風な旅館に似つかわしいその電話の呼び出し音は、懐かしい黒電話のそれであった。数回鳴って、誰も出ないままいったん切れた呼び出し音は、一呼吸おいて再び鳴りだした。わたしたちは、指を折ってその回数を数えた。それが10回を越え、その後も延々鳴り続けると、わたしたちは、指を折るのをやめ、今置かれている状況が真に笑えないことを相互に覚った。

女将も亭主も電話に出ないわけは容易に想像できた。彼らは職務を放棄して現場を離脱したのだ。長年の住人である彼らは誰よりも建物の弱点を知悉していて、ゆえに、現況を危急の事態と判断したのだ。客を神様と思わず置き去りにして、自分たちだけ近隣を頼ってなるべく近代的な民家に移動し、身の安全を確保したのだ。
わたしたちは、怨嗟の言葉を絞り出して宿と一蓮托生の覚悟を決めた。

以上が、前夜のあらましである。幸い、台風はピークに達した後、あっけない早さで立ち去った。鎌倉の町は夜空に星が見えるほどの穏やかさを取り戻し、命を長らえたわたしたちは、いつの間にか持ち場に戻ったじいさんとばあさんからコンビニの場所を聞き出した。そして水が引いた直後の夜道をとぼとぼ歩き、おにぎりとプリンを買ってきて、件の座卓でささやかな宴会を張った。

さて、話は翌日へ続く。
わたしたちは、そのとき旅先に在ったにもかかわらず、旅の醍醐味の一つである食の堪能を暴風雨によって阻まれていた。美味への満たされぬ思いは焦燥感にまで募っており、一夜明けた旅程最終日の、この地で最後となる食事を、ふと見かけた瀟洒なフランス料理店でとることに一同の異論はなかった。
その後の展開が予見不可能であったことはむべなるかなである。

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