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ナマケモノの耳に論語 1

白川静という美しい名前の、その主はいかほどの佳人か麗人かと思わせる御仁は、大きな目玉に意志強固が宿るおっかない容貌の爺さんであり、ウィキペディアの記述によれば「現代最後の碩学」であり、持ち運びにいささか難儀なごつい字書を3冊書き上げたうえ、山のような専門書と新書の読み物をいくつか著作して、先年96歳の生涯を終えたとても偉い漢字学者である。その訃報を夕方のテレビニュースで知らされたある家の茶の間では、茶碗をかき込む箸の動きが止まり、湯飲みに注がれる番茶が溢れ、団欒は一時停止して、皆、ありゃ、とか、うへぇ、とか、うぐぅ、とか、それぞれの吃驚の度合いに応じた感嘆詞を喉から絞り出した。

享年96であれば、天は学者に惜しげなく寿命を授けたことになるので、わたしたちは別れを受け入れ、偉業を讃えてにこやかに見送るのが礼儀なのだけれど、学者は物故の前年まで矍鑠として演壇に立ち、漢字文化の復権を熱く説き、現役の研究者として仕事に追われていた。学者が一代で一気に掘り下げた漢字研究は、幾多の書物でわたしたちの手元に残り、後世に承継されるとしても、その大事業をもたらした異能は学者の一身に専属していたわけで、それが学者の天命と共にあっけなくこの世から消えてしまったことに思い至ると、茶の間の衆生たちは、あらためてため息をついて感慨を深めた。

折口信夫を指して、縄文人が現代に転生して、べらべら喋り出したような、と言ったのは誰だっけか。輪廻だ転生だと、そんな特例は広い世間に一つあれば十分なの
だが、白川静という学者もまた、仄暗い殷商文明の時代から三千有余年の射程を経て現代に着地し、べらべら喋り出してしまった。前世の記憶などその代限りで償却して、昨日の晩に何食ったかも思い出さない俗輩どもにとって、学者が読み解き、文字に施した再解釈がどれほど思いがけないかというと、遠眼鏡の先に古代王朝の神殿を据え、筒を覗いてこまごまとした光景を目の当たりにするが如しである。輪っかに押し当てた目を懸命に凝らすと、そこに在るのは、覇王が荘厳な社に引き籠もり、彼の後見人である神を懸命に慰撫する有様であって、祭壇に奉られた供物の色や生臭さ、哀れ根性焼きに耐えかねてひび割れする亀の甲、祝詛をはき出す祭主の息の調子までが鼻先に迫りきて五感を圧迫する。漢字は、このような環境で神のご託宣を記録する符号として生み出されのが原初であり、符号の形はその場にあった祭具や供物や人や炎や、諸々の印象を模して刻まれ、その字形は幾世代の変転を重ねようとも、字義と共にわたしたちが日常酷使する漢字の中に潜んでいるのだと知らされる。
対象物をふるいに掛け丹念に分別し適切な方法で検討を加え、論理の規則に従って結論を導き出すべく、学者は日夜、岩壁をこつこつ穿つような作業を積み重ねたのであろう。突然、手元に開いた風穴の向こうに、長年の帰納法から導き出された必然が画像として結ばれたとき、一番驚いたのは学者本人ではなかったろうか。 

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