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ナマケモノの耳に論語 2

ところで、これまで日々の暮らしの中でさほどのご縁もなく、その存在も忘却の彼方にあった論語世界に、うっかり触れる機会を持ってしまった。だいたい、長年新聞は読まない雑誌は買わない、漫画の吹き出しすら斜め読みのナマケモノに、いきなり漢字含有率十割の漢籍とは、何の罰ゲームであろうか。べそかき遠慮し尻込みするナマケモノに論語教室の主宰は説かれた。漢文こそ日本文学の祖であり礎であり、儒学は日本人の精神が因って立つ根本である、しかしながら、昨今の衆生に見られる古典離れ、仁義礼智の崩壊ぶりは何事であるか。よって、我こそは日本文化の更生を期し、心ある者どもに決起を促し、論語に基づく道徳教育を敢行し、世直しの蓆旗を広く天下に翻へすのであると。
そうして主宰殿は、森の奥の木の枝で太平の夢をむさぼっていたナマケモノの襟首をつかんで引きずり下ろし、有志でも志士でも何でもない只のバカを今更ながらの手習いの世界へ放り込んでしまったのである。

主宰殿は、ナマケモノがその昔、お下げ髪を揺らし弁当箱を下げて森の学校に通っていた当時の恩師である。かくしてナマケモノは久方ぶりに旧師の教鞭の下にノートを広げることになった。貴重な学識を授かる機会を再び得たのは非常に有り難いことであるが、師は、相も変わらずというか、授業から脱線することにいささかの躊躇もない。例えば、件の白川大人による漢字学に論が及ぶと、みるみる興に拍車がかかり、本来の講義を置きっぱなしで熱弁をふるわれる。生徒は生徒で、授業の本題はあっさり忘れて脱線の顛末だけ学んで帰るのであるから如何ともし難い。学校や学舎と名のつく施設で、古来、飽くことなく繰り返されてきた誠に正しい教育のあり方がここでも踏襲されている、とでも言っておくべきか。

「子曰學而時習之不亦説乎(子曰く、学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや。)」は論語入門後、誰もが最初に拝眉する孔子先生の言葉で、古人が論語編纂を思い立った動機が門人の啓蒙と学習書の制定であったのならば、このフレーズを全20編の冒頭に割り付けた編集者の直感は正しく、刊行の目的とよく合致している。私学校の入学案内のキャッチコピーみたくウェルカムであるところに商業的センスを感じるし、掛け軸のお題として温故知新と並べて朝晩拝むとご利益を賜りそうである。仁義礼智の攻勢に押されて気息奄々のナマケモノも、ここだけ覚えて暗唱を試みれば論語読みの末席に連なった気分が味わえるし、いつでも森に戻って近所の極楽鳥やアリクイに自慢ができる。
神妙に傾聴している風を装い、腹の中の志はあきれるほど低い。生徒というものはいつの時代も不謹慎な生物である。

ところで、とナマケモノは思う。「学んで時にこれを習う」の「学」と「習」の相違は那辺にあるか。いずれも小学校低学年の書き取り問題で解いた記憶があり、以来、日常語として馴染みの深い「学ぶ」と「習う」であるが、両者の間にある風合いの差を上手く言語化できないというのは、悶々として精神衛生上よろしくない。そこで白川大人が記されたところの字書三部作のうち「字通」に解答を求めることを思いついたのだけれど、この重厚長大な字引は、運搬に多大なエネルギーを消費するばかりか、開く際にもいささか心理上の防御を要するのである。

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