第四十五回            

1.スカウトのおきて(続き)
少年から大人になる入口にさしかかるローバーになると、もはやスカウトのおきてを実行することを学ぶのではなく、人生を送る指針として実際に使うものだということを忘れてはならない。

スカウトのおきてのすべてを日常の生活や遊びの中で実行するスカウトは、少年の時だけでなく、その後、大人になってからも人生をうまくやっていくに違いないと私は信じている。

2.スカウト訓育法
私たちの訓練の方法は、外側から教え込むよりも内面から引き出すものである。少年たちをひきつけるためにゲームや活動を提供することは、まさに少年を道徳的、精神的、肉体的に訓育することになるだろう。

スカウティングは様々な成分を含んだ薬のようなものである。処方せんに従って適正な割合に混ぜられない限り、それを使う者は患者の状態が満足いくものではないからといって医者を責めてはならない。

3.スカウト訓育法の継続
スカウト訓練から大きな成果を得ようと思うなら、少年は段階的にカブ、ボーイ、ベンチャー、ローバーの各段階を経るべきである。

少年の人格というものは11歳や12歳で確立するものではない。カブ隊の作業の実際はボーイ隊の作業に導くものだということをカブ隊長が知らない限り、大部分は少年たちを駄目にするに違いない。カブが善悪の判断が十分にできるようになるまでこうした訓練が実行されないなら、カブとして身につけておいたほうが良いことの多くは短時間の内に失われてしまう可能性がある。


カブ隊長はカブ隊というものは単にスカウトになるまでの「待合室」に過ぎないということをすべての新入カブ隊員とその両親に明らかにし、カブであるより前に「より良いスカウト」であるという理想を保ち続けるようにすべきである。
我々の年齢幅は「8歳から80歳」までであり、同じ四つの原則〜すなわち、人格、健康、技能、奉仕〜である。これらの原則はすべての年齢に適用でき、その訓練の細かい部分は少年の様々な成長段階にあうように変えられている。


   第四十四回            

1.ローバーリング(続き)
ローバーとは、野外を愛し、奉仕をする仲間のことである。彼らは単なる仲間ではなく、キャンプ仲間であり、同じユニフォームで世界中にその「巣(den)」や集会場を持つ愉快な仲間である。

ローバーは、遍歴をする仲間なので、ローバーの一員として外国にまで旅をして他の国のローバー仲間と友情を交わすことができる。

我々の運動のこうした一面は興味があり、教育的であるばかりではなく、相互の善意を通して世界の将来と平和を確実にする本当の一歩を作ろうとするものである。

2.スカウティングの人生における価値
スカウトとして、何ができるかを学んだ少年は、社会で良いチャンスをつかむものだ。

少年たちにとってスカウティングは良いものだと私が奨めているのは、私がスカウティングを子どもの時から始めたからである。そして、人生を楽しみ続けたいなら、若い時に、スカウティングを学ぶことがその大きな一歩となる。

スカウティングはどんな種類の生活をしようとも大変役に立つものである。それがたとえ、軍隊生活であろうと町中での商業生活であろうと。


3.スカウトのおきて
スカウトのおきては、スカウト訓練が根ざしているもののすべての基礎である。

スカウトのおきては、我々を規則正しく結びつける力である。少年というものは、「するな」ということで支配するのではなく、「する」ということで導かれるものである。

スカウトのおきては、自分の欠点を矯正するものというよりは、むしろ行動を導き出すものとして考えられたものである。

少年たちにスカウトのおきてやその根底にあるすべてのものを実行させるには、隊長自身が自らの生活の細かい部分まで、おきてに述べられていることを良心的に実行しなければならない。一言も命令しないでも、少年たちは隊長に従うであろう。


   第四十三回            

1.責任(続き)
自分の経歴を良いものにしたいなら、責任が取れるようにならねばならない。責任が取れるようになるには、自分自身に自信を持つこと、自分の仕事の知識を持つこと、それに責任を果たす力量が必要である。

2.休養
日曜日は安息日である。ぶらぶらして過ごすのは休養ではない。
休養というのは、私の解釈では怠けて過ごすということではなく、仕事を変えることである。

3.危険
何よりも「安全第一」という最近の風潮は遺憾なことだ。人生にとってある程度の危険は必要なことであり、生命を延ばすにはある程度は危険に対する実習をすることは必要なことだ。スカウトは、人生において困難や危険に遭遇することを備えておかねばならない。したがって、我々はスカウトたちの訓練を軟弱なものにはしたくはないのである。

4.ローバーリング
 ローバーリングというのは、目的がなく歩きまわるということではない。私が意味しているのは、視野の中にきちんとした目的を定めて愉快な小道を進んで自らの道を見つけ、その途中で出会いそうな困難や危険に対処する考え方を持つということである。

   第四十二回            

1.宗教(続き)
どんな少年も( 貧民窟の少年も含んで)キリストを自分の英雄として眺められるようになれる。それには、キリストのことを少年の本質的な部分に訴えることである。すなわち、痛ましい姿ではなく、むしろ男らしさ、勇気、騎士道精神、ユーモア、謙遜の心、さらには人間そのものとしての怒り( 両替商に対して)を持った人として示すことである。
すべての人の心には「愛」(Love)の種が宿っている(それは霊魂の「神の片鱗」と言われている)もし、あえて表現するなら、それは少年の人格にしみとおるようになるまで発達するものである。「愛」はラジウムのように放出しながら成長する。いったん少年の心の中に芽生えると、大人になっても衰えるようなことはない。その傾向は、彼の全存在とあらゆる行動に充満するまで増え続けるもので、実際にこの地球上に天国を見つけるといった、より高い幸福を与え、さらに神と同等の存在と永遠の生命をもたらす。兄弟たちよ、我々ができる間にできることをしよう。

2.創意工夫
経験豊かなスカウトは創意工夫に満ちているものだ。そういうスカウトは困難や不愉快なことから抜け出す方法を見い出すことができる。
自分に必要な物すべてが思い通りに自分の手元にはないからといって、諦めてはいけない。自分の持っているものを利用すること、機転を使うこと、そしてそれを最大限に使うことだ。

3.責任
我々の訓練の価値は、責任を若い人たちの背中に負わせることによって半分は達成される。
少年たちに多くを期待しなさい。そうすれば、大抵は成果が得られるものだ。



   第四十一回            

1.宗教(続き)
神はある種の人々が想像するような何か心の狭い人ではない。それは形式や教義、宗派などの細かな違いは問題にしないような大きな愛の心であり、自分の才能に応じて神に仕えることに心から最善をつくそうとしている者を祝福するものである。
インドでは苦行僧をしばしば見かけるが、彼らは自分のかけた「願」のために、片方の腕を高く挙げて決して使おうとしない。彼らの腕は衰え、そして使えなくなる。同じように、あらゆる人々が持っている愛の輝きは、もしそれを使わなければ衰えて消滅してしまう。しかし、それを使うならば、大きく強く成長し、毎日が活気づいたものになる。
神のチームの一員になれ。
私がスカウティングとガイディングを始めた時、宗教に関してどう思っているのか、もっと詳しく述べるよう求められたことがある。それは「宗教というのは何処から生じたのですか?」というものだった。
そこで私は、「宗教というものはどこからかやって来るというものではなく、もともとあるもので、これがスカウティングとガイディングの基礎をなす基本的な要素である」と答えた。
宗教は教養のある人たちのための科学ではない。さもなければ、宗教は単に学者にのみ利益をもたらし、貧乏な者たちの手の届かないものになる。また盲目的な崇拝物でもない。さもなくば、宗教は単に弱い性格の人や感情的な人、迷信家たちだけのものになってしまう。



   第四十回            
1.宗教(続き
神の下僕として、神を敬うこと、隣人への敬意、自らを尊重することは、いずれもあらゆる形の宗教の基礎である。
我々の運動には数多くの異なった教宗派があるので、宗教的訓練を定義するのはなかなか困難なことである。したがって、神へのつとめに関する細かい表現については、大部分をその教宗派の手にゆだねられねばならない。しかし、我々は少年がどんな形で宗教を信じていようとも、それを守り実行することを強く求めている。
宗教はただ“捉えられる”ものであって、“教えられる”ものではない。宗教は外から言われて着るような日曜日の晴れ着ではない。宗教は少年の人格や精神の発達の本質的な部分であって、簡単にはがせるベニヤ板のようなも
のではない。それは内面的な信念の問題であって、教えるものではない。人々の行動の大部分は、現在ほとんど宗教的信念によって導かれてはいない。これは教え育てることに代わって教え授けるということが、しばしば行われてきたということが、大いに原因がある。
もし本当に成功する道(すなわち幸福になること)を切り開こうと思うなら、生活に宗教的基盤をもたねばならない。これは単に教会に行ったりバイブルの歴史や理論を知るということではない。多くの人々はそんなことをほとんど知らないし、勉強しないでも、心から信仰心を持っている。
宗教の意味をごく簡単に言うならば、第一に、神が誰で、いかなる存在かを知ること第二に、神が与えてくれた人生を最高にするように、そして神が我々に望んだことを実行することである。これは主に他の人々に何かすることで行うも
のである。




   第三十九回            

1.宗教(続き)
少年は自然に宗教に心を傾けるものである。しかし、大人の心を惹くような視点から少年に宗教を教えるなら、恐らく少年は退屈し、固苦しい人間になるであろう。心から神の存在を身につけるようになる確実な方法は、自然研究と善行などスカウトの実践を通して信仰の義務をわからせていくということである。
スカウティングは「新しい宗教だ」と言われたことがある。もちろんそうではない。スカウティングはいま非宗教的な訓練として認められている原理〜子どもに明確な目標を与え、学びを実践させること〜を宗教訓練に適用しているにすぎない。
 自分の思考を目で見ることはできない。しかし、思考があることはわかっているし、何か仕事を成し遂げた時、それが思考の結果だということがわかるのである。同じように神は目に見えないが思考とまったく同様に神は存在している。そして、善い行いをした時に神の存在がわかるのである。時として善いことをしなかったり、神が示さなかったような行いをするかもしれない。そういう時は恥ずかしさを感じるだろうし、再びそんなことはすまいと考えるだろう。そういうことだから、何かをする前にはよく考えて自問してみることだ。「神は私がこうすることをお望みだろうか?」と。もし、心の中に「そうだ」という言葉が浮かべば実行することだ。逆に「ちがう」という
言葉が浮かべば、しないことである。最初に考えてから実行に移すなら、正直で清潔な人生を送ることは難しいことではない。
スカウトクラフトは典型的なゴロツキに、より高い考えと神を信ずる要素をもたらす方法である。神の下僕として、神を敬うこと、隣人への敬意、自らを尊重することは、いずれもあらゆる形の宗教の基礎である。


     第三十八回                     

1.進歩
ただじっとしているだけでは何の役にも立たない。前進するか、休むかどちらかだ。前進しよう〜ほほ笑みをもって。


2.正確さ
少年にとって時間厳守は従順であることのテストにするよりは、面白いことは逃したくないという強い熱望の現れになるべきである。指導者の側にとって、時間厳守はもっと必要なことは言うまでもない。


3.宗教
神を信じ、そのおきてに従わないとは決して良い人とは言えない。したがって、すべてのスカウトは信仰を持つべきである。信仰は、とても簡単なもののように思われる。
第一に、神を愛し仕えること
第二に、あなたの隣人を愛し奉仕すること
信仰心の欠如を治すには、最初からあまりに精神的なものを追及するよりは、実際的な宗教活動を通じて行うべきである。宗教は少年に教えることができるし、教えられるべきである。しかし、気の抜けたような方法や神秘的、感傷的なやり方ではいけない。宗教の英雄的
な面やきちんとした人にとっては、ごく自然で日常的なものであるとして宗教を少年に示すなら、容易に受け入れるものである。そして、これは自然研究を通じて行えば少年たちに容易に導入できる。
我々は日常生活と行動にキリスト教信仰の実践を目指すものであり、単に日曜日に神学上の告白をしようというものではない。


   第三十七回            

1.技能章

 技能章の狙いは、少年たちが興味を持つ問題を自分で学ぶように励ますことである。

 技能章の目的は、欠点をなおすことを助け、人格と肉体的健康を増進させることである。

 バッジは少年が趣味や職業を持つよう励まし、それを一定の水準まで進歩させることを意図したものにすぎない。バッジは少年が、何かを成しとげたということを外部の人に示すものであって、テストに合格し、専門的技術を持っている者だということを示すものではない。
 バッジ修得に関する我々の基準は、知識や技術の質が一定レベル以上にあるということではなく、少年がそうした知識や技術を修得するのに費やした努力によるというものである。このことは最も見込みのない少年でも、もっと素晴らしくより優れた仲間と共通の基盤に立てるという可能性を示すものである。
 したがって、バッジの考査は競争的なものではなく、単に個人のテストにすぎない。

  バッジ修得作業を通して、(そこには区別が適用される)我々は最もさえない者や内気な少年にハンディキャップを与える。そうすることで、より優れた少年や最も素晴らしい仲間たちとの間に公平な機会を与えることができる。そして、我々はこうした少年に野心、希望そして達成感を与えることができ、さらに大きな冒険に挑戦させることができる。



   第三十六回            

1.準備
 今している仕事はあなたが過去に行った訓練の結果の一つだということを確認しておきなさい。
 ある日ある小さな老女に封筒の形をした奇妙な案内用の旗を私の前に突き出されたことがある。それにはB−P”の文字以外は何も書かれていなかった。しかし、私にとってこれは隠された意味を持つものである。あらゆる状況において、例えば平和の時であろうと戦争の時であろうと人生の最中であろうと死においてであろうと適用できるもので、全ての人が覚えておくべきものがあるとすれば、それは「そなえよつねに(BE PREPARED)」ということだ。
 スカウトのモットーは、そなえよつねにである。これはつとめを果たすために、何時も心と身体の準備をしておくということだ。
 心の準備とは、どんな命令にも素直に従えるよう自分を律しておくこと、また起こるかもしれない事故や状況をあらかじめ考えておく。そうしておけば、必要な時に正しいやり方がわかっているので進んでそれをするようになる。
 身体の準備とは、自分の身体を強く活動的にしておくことで、必要な時に的確な処置ができるようにしておく。そして実際にそれを実行することだ。良くない市民というのは、自分の都合だけを考える人のことである。良い市民とは何時でも地域社会に力を貸す準備のできている人のことである。
 私は「準備」と言っているのであって、単に進んでとは言っていない。大抵の人は進んでやろうとしているのだが、いざという時になると(それはしばしば生じることだが)その処理の仕方を習ったことがないので、役に立たないのである。
 したがって、ローバーのつとめは、他の人たちのために緊急の時に備えてどう準備しておけば、うまくいくかということを学ぶことである。



   第三十五回            

1.かわいそうな少年(つづき)

  スカウトの訓練は、少年たちの階層が高いものであろうと低いものであろうとあるいは富めるものであろうと貧しいものであろうと、あらゆる少年たちをひきつけるものである。そして、さらに耳や口、目の不自由な人たちといった肉体的に障害のある者までもとらえるものである。
  よりかわいそうな少年たちはゲームに関心を払わない、ゲームもできないとよく異議が唱えられる。
  これは主として、彼らがこれまで教えられたこともなければ、ゲームをするよう励まされたこともないからである。ここに、我々スカウトたちが入り込む余地がある。我々は、よりかわいそうな少年たちにどうすればゲームの参加者になって、人生を楽しめるかという方法を示すことができるし、同時に道徳的資質だけでなく肉体的資質も強化するものである。
 よくできる少年たちはヨットやボートをする豊富な機会に恵まれている。そして我々のシースカウトの目的はより恵まれない少年にもそのすべての歓びと恩恵を得られる素人の船乗りになれるような機会を与えてやることである。
 我々の望みは少年たちを〜主により恵まれない少年〜援助し公平なチャンスを手にできるようにしてやることである。こうしたチャンスは、自尊心を持ち幸せで成功した市民になり、他の人々に奉仕するという理想に満ちあふれようとする者を、これまであまりにしばしば拒否してきた。


2.祈り
 祈りは心からするもので、暗記するものではない。私が個人的に好む祈りの主な原則を言うならば、祈りは短く最も簡単な言葉を使って表現し、次の二つの考え方のうちのいずれか一つに基礎をおくべきである。


 〜神から受けた恩恵または喜びを神に感謝すること。
 〜神に何かお返しするのに必要な精神的な保護、体力または導きを求めること。

  スカウツオウンを行う時に、少年たちが大人ではないということを覚えておき、出席者の最も若い者が最も教育を受けていない者のペースに合わせるなら、スカウツオウンは協会の礼拝以上に大きな結果を少年たちに及ぼすであろう。退屈は、畏敬につながらないどころか信仰心さえも生みださないであろう。



   第三十四回            

1.ゲームをする(つづき)
  自分が愉しむためにだけ「ゲームをする」のではなく、味方が勝つのを助けるようにすることだ。「ゲームをする」場合は、それが結局スカウトの主なつとめである。
 役に立つ市民は、フットボールのうまい選手によく似ている。彼はまず個人として自分が役に立つようにする。そうすれば、チームの中の自分の持ち場で効果的にプレーできるようになる。
 仕事をゲームとして眺めるなら、我々の仕事は楽になる。その場合、我々はチームに加わり、それぞれが自分の持ち場で皆が、味方が良くなるようにプレーする。そして、我々がその精神を身につけた時、我々は単なるゲームをしているのではなく、偉大 なゲームをしているということが分かるようになる。


2.ゲームをする(対見物人
  ゲームをしなさい。見物をするのではなく。若者たちにどんなゲームであろうとゲームをする時は、男らしくするように教え、単なる見物人やブラブラしている者にならないようにさせることである。
 フットボールは自分を強く活動的で良い気性に作る最高のゲームである。しかし、自分でゲームをするのに較べて、見ているのはまったく楽しくないものだ。


3.政治
  スカウト運動において、政党の政策がどうであろうと我々には政治性はない。我々が少年たちに身につけさせてやりたいのは政党人としての活動よりも国家人としての能力である。


4.かわいそうな少年
  我々の目的は皆に平等な機会を与えることであり、最も幸の少ない者に最大限の援助を与えることである。
 スカウトの訓練は、少年たちの階層が高いものであろうと低いものであろうとあるいは富めるものであろうと貧しいものであろうと、あらゆる少年たちを引きつけるものである。そしてさらに耳や口、目の不自由な人たちといった肉体的に障害のある者まで もとらえるものである。



   第三十三回            


1.演劇(つづき)
  演劇はカブだちを大いに楽しませる。それはロマンが一杯であり、大人たちによって準備されたという利点と手に入れることのできるあらゆる種類の魅力的な衣装をともなった本当の作り事である。
  演劇はカブたちに本当の喜びを与えてくれる上に練習や人前で上演することは、カブに自信をつけさせてくれるし、はっきり物を言うことを教える。そして、記憶力を鍛え、忍耐と自己制御、それに本当の努力をカブに求めること。
   歌を歌うことと演劇は、自己表現力をつけるにはよい訓練である。またこれらは、良いチームワークを生みだす。それはみんなが自分の役割を学び、それをうまく行う。それはみんなが自分の役割を学び、それをうまく行う。それは自分が喝采を浴びることではなく、上演全体の成功のためである。
   演劇は、すべての少年たちの自己表現力をつけるための教育の一部を形成すべきである。


2.ゲームをする

  兵隊を訓練する第一のポイントは、彼をナショナルチームの熱心な一員にすることである。
  スカウティングはフットボールのゲームのようなものである。君は前衛に選ばれた。ゲームを進めなさい。味方が勝つようにプレーして、自分自身の永光や危険を考えてはいけない。あなたの味方は後ろで援護してくれる。奮闘して手にしたチャンスを最高に生かしなさい。フットボールは良いゲームである。しかし、それより良いのは、またその他のゲームと較べても良いのは、スカウティングである。
 
  我々は壁のレンガによく似ている。我々にはそれぞれの持ち場がある。それは大きな壁の小さな一つに見えるかもしれない。しかし、一つのレンガがもろくなったり抜けたりしたら、他のレンガに余分な重みがかかって割れ目が生じ、壁はぐらつくようになるだろう。



   第三十二回            

1.計画
  私よりは優秀な人たちはたぶん特別な方式を使うことなしに、少年たちを忙しくして知識を進歩させることができるだろう。しかし、実のところ私にはできないことである。私の場合、事前にきちんとしたプログラムを作り、

それに沿って実施するようにする以外にはうまくやれるという方法を知らない。
組織的に計画してやるやり方のほうが、でたらめに思いつきでやるより、四倍も価値があるというのは決して誇張ではない。少年たちに教えることだけではなく、事前に作業の計画を立てることも彼らの人格にとって良いことである。そして少年たちが何を目指しているかを知れば、彼らは二倍も熱心になる。

  「仕事の計画をたてよ〜そして計画に従って作業せよ」

  計画を立てない人は人生でなにも進歩することはない。

2.遊び
  遊びは最初の最も偉大な教師である。このことは動物にとっても人にとっても真理である。
  私たちはカブたちに遊びを通して小さな事柄を教えるが、それは結果的には彼らが大きなことを本気で実行することにつながるであろう。
  遊びは少年の生活にとって最も重要なことである。

3.演劇
  ベーコンに言わせると「演劇は子どもを教育するには最高の方法の一つである」ということだ。これはまったくその通りである。演劇は模倣、機知それに想像力など生まれつき持っている力を発達させ、それらすべてが人格を発達させる助けとなる。そして、同時に歴史と道徳の勉強は教師がどんなに多くを教えこもうとしても、子ども自身が出来事そのものを登場人物になって演ずることの方が、心にもっとよく印象づけることができるものだ。

演劇は演説の訓練には最良のものである。

人格教育のもう一つの有益で常に人気があるものは扮装と演劇である。これを基礎に様々に発達する面について数え上げるつもりはないが、例えば自己表現力、精神の集中力、声の発達、想像力、哀れみの心、ユーモア、冷静さ、規律、歴史的または道徳的教訓、自意識を無くすことなどである。カブの隊長が演劇の手助けを充分に行うことで、自分自身が何を得るのかを知れば、また劇的で空想的な年齢のカブたちがどのようにして自分の努力に応えてくれるかを悟るのであれば、すぐにこのことを自分自身でも認めるようになるであろう。


   第三十一回            


1.肉体的健康(つづき)
  この素晴らしい体は神のみわざと神が宿るものとして保ち、発達させるよう与えられたものだということを少年に考えさせなさい。そして、この体が義務と騎士道精神、すなわち高い道徳的気品によって導かれるなら、立派な仕事や勇敢な行為が肉体的に可能になる。
  神はあなたに身体を与え給うた〜いや、神はあなたに身体をお貸しになったのだ〜それを上手に役立てるようにするには、酒びたりになったり、不摂生でぐにゃぐにゃになったり、虚弱にならないように身体に気をつけて、本当に立派な男として、また子どもたちの父親として強い身体を作り上げることである。

君さえよければ、これはできることである。君次第だ。そして、これはなんと素晴らしい挑戦になりうることであろう。


2.肉体的健康へのヒント

  スカウトは鼻で息をし、口からはしない。

  走ることができる少年がいかに少ないかということは驚かされる。自然でゆったりした軽い足の運びは走る練習なしにはできない。練習をしなければ哀れな少年は田舎者のようなのろく重い足どりが街の男のように足を引きずって歩くようになる。(そして、人の歩きぶりでいかに人格の多くが判るかということだ)

  スカウトはいつも口を閉じている。

  全てのスカウトたちは早起きの習慣を身につけるべきである。これは時間を節約する最も簡単で可能な方法である。

  自分自身のために、私は夏だけではなく、冬も戸外で寝る。私は屋内に長くいると疲れたり気分が悪くなるだけである。そして、部屋の中で寝る時だけ風邪を引いてしまう。



                            


    第三十回            

1.個人教育
  自分の預かっているガイドたちを取り扱う場合、ガイダーは一人ひとりに心を配らなければならない。彼女らはそれぞれ異なった心と能力を持っているのだから。

  個人的な教育とは教師と生徒の間での年上と年下の兄弟関係のような密接な信頼関係を意味する。個人の気質、年齢、性格の知識を通して、そのケースに応じた様々な扱いをすることである。

  個人の訓練をなぜ気にするのかですって?それは君ができる唯一の方法だからだ。もし君が大きな声と訓練手段として魅力的な方法を持っていれば、一度に千人の子どもたちに教えることはできるであろう。
  しかし、それは教育ではない。

  少年たちの集団にスカウトのおきてを説いたり命令したりしても、少しも役に立ちはしない。彼らの一人ひとりの心の中で必要とするものは特別に解説してくれることとそれを実行する意思である。ここに隊長の人柄と能力が入り込む余地がある。

2.肉体的健康

我々の目的は個々の少年が自らの健康と体力に個人的な注意を払い、かつ責任を持つということを理解させねばならないということである。これは自分自身、国、そして造物主への義務でもある。

若い市民に自分自身の発達と健康の責任を負うように教えることは、最も重要なことである。

体育は肉体訓練と同じものではない。



   第二十九回            

1.班制度(続き)
 スカウティングは少年たちを友情にあふれる仲間集団にする。それはゲームやいたずら、ぶらぶら歩きなどをする自然な組織である。

 少年たちを6人から8人の恒久的な班に編成し、それぞれに責任を持った指導者をつけ、別個の単位として取り扱うことが立派な隊を作る鍵である。班は仕事であろうが遊びであろうが、また義務を果たすに必要な規律のためであろうが、常にスカウティングの単位である。

 班は個人にとって人格養成学校である。班長たちにとって班は責任と指導力を実行する機会を与えてくれる。スカウトにとっては全体の利害に自分が従うこと、協力というチーム精神や良き仲間意識を含む自己否定と自己コントロールの要素を学ぶのである。

 班制度の主たる目的は、少年たちの人格を発達させるためにできるだけ多くの少年たちに本当の責任を与えることにある。隊長が班長に実質的な力を与えて大きな期待をかけて自由に仕事をさせるならば、学校教育がこれまでしてきたもの以上に少年たちの人格を発達させられるであろう。

2.平和教育
[国際平和に向けての]第一歩は、あらゆる国で次の世代の人たちを訓練し、公平な絶対的感覚によって、あらゆる物事を導いていけるようにすることである。人が一方の側のゲリラになる前に、問題を両面から公平に見て人生のあらゆる問題を処理する本能を持っていれば、もし二つの国家間に危機が訪れたとしても、彼らは当然にその問題を公平に眺めて、平和的解決をするようになるだろう。そうすることは、彼らが唯一の解決手段が戦争をすることだということに慣れている限りはできないことである。

 平和を求める精神が人々の心と意思の中にない限り、商業的な利害、軍事同盟、一般的な軍縮または相互条約などによって平和が守られるということは全くない。これは教育の問題である。

 警察を無くしても犯罪が無くならないということと同様に、軍隊を無くしても戦争は無くならない。我々は戦争の原因を無くさなければならない。軍隊は恐怖と戦闘心の結果の所産である。そして、これは教育の問題だ。


 平和がどんな形をとるかは、誰にも判らない。連邦連合、経済、国際同盟の復興、ヨーロッパ合衆国など、様々なものが提案された。しかしどんな形をとろうと、一般的かつ恒久的平和のためには、一つ重要なことがある。それは、人の間の精神の全面的改革である。すなわち、人々の心を密接な相互理解に変えること、国家的偏見を無くすこと、そして、友情のこもった思いやりの目で他の人々を見る能力を身につけることである。



   第二十八回            


1.班長たち(続き)
  権限と責任が班長たちに委ねられている隊は最高度に進歩する。班長に多くを期待しなさい。彼らは十のうち九まではあなたの期待に応えてくれるだろう。
 班長になった時、覚えておかなければならないことは、自分が本当に大きな責任と重要な地位についているのだということである。
というのは、あな
たは多くの女の子たちの面倒を見なければならなくなるし、彼女らはあなたの手本と指導で人格を形成することになるからだ。したがって、もしあなたが怠け者になれば彼女らもそうなることだろうし、逆にあなたが立派なガイドになれば、彼女らもほとんどそうなるものだ。
 あなたは自分の班を導いていかなければならない。そう、自分自身を信頼できる時だけ班員たちの信頼を得られる。そして、自分の仕事を充分によく知っている時にだけ、自分に自信を持つことができるのである。
 あなたはあなた自身の個人的なお手本を示すことによって、完全に指導できるのだということを忘れてはならない。私の言いたいのはこのことで、これは成功を手にする簡単な方法なのである。そして、これは簡単な方法だということだけでなく、この方法しかないのである。

 自分の班と共にうまくやっていった班長は、社会に出ても成功する機会はいくらでもある。



2.班制度
班制度はスカウト訓練が他のあらゆる組織のものと異なる一つの重要な特徴である。
  私は六個班くらいで小さなキャンプをするよう強く奨める。各班は別々のテントを別々の場所に分かれて張る。そうすれば、スカウトたちは大きな群れの中の一員だと感じないで、独立した責任ある組織の一員だと感じる。班はあらゆる状況の下で、結束を強めねばならない。
班制度から第一級の成果を挙げたいなら、班長に全面的な責任を与えなさい。もし、部分的な責任しか与えなければ、部分的な成功しか得られないであろう。
   班制度は正しくそれが使われたなら、人格訓練をする上で大きな価値がある。班制度は少年たちにそれぞれの班をよくするには共通の個人的責任があることを分からせる。また班制度を通して、隊長はスカウトたちを指導できるだけでなく、スカウトたちに道徳的な物の見方について自分の考え方を伝えることができる。
 そしてさらに、スカウトたち自身は、隊が実施することについて、さまざまな意見が言えるということを少しずつ学ぶのである。隊を形成し、あらゆるスカウティングの問題に心から協力的な努力をすることこそ班制度である。




   第二十七回            

1.辛抱
  辛抱することだ。アフリカの西海岸の住民が猿を捕まえる時のように。彼らは言う「走って行って、猿を捕まえるのは駄目です。そう静かに静かに猿を捕まえるのです!」
  「辛抱はどんな仕事の場合でも成功の鍵である」
  飲酒、詐欺、ワイン、女などのために仕事を駄目にしてしまった男たちが沢山いる。しかし辛抱が足りなかったために、仕事を駄目にしてしまった男たちはそれ以上にいる。
  忍耐力を身につけるのは難しい。すぐに結果が知りたいだろう。しかし、忍耐力というものは、もし君の将来の目的を見すえて、その中間段階がいかに必要なことかということを知るならば、身につけられるものである。

2.愛国心
  「私自身より国を先に」をあなたの目標にすべきだ。
  国に対する忠誠心は人の見方のバランスと適切な見方を保つために、最高の価値を持つものである。他の人々への奉仕と自己犠牲は自らの国に対して何時でも奉仕できることを含まねばならない。これは、外敵の侵入に対して国を守らねばならぬという必要性から生じる。そして、これはすべての国民の義務である。しかし、このことは血に飢えていたり、攻撃的精神があることを意味するものではないし、少年が軍事的義務や戦い方の知恵を訓練されなければならないということを意味するものでもないのである。

3.班長たち
  素晴らしい少年が一人か二人だけで残りは全然駄目ということではまったく役に立ちはしない。班長は皆をかなりの程度まで良くしなければいけない。そうするのに最も大切な一歩は君自身がお手本を示すことだ。というのは君がやればスカウトたちもするだろうからである。

覚えておかなければならないことは、君はスカウトたちを導いていくのであって、押しつけてやっていくということではないということだ。



   第二十六回                     

1.継続する教育
  多くの若者は22歳の時には、知っておかねばならないことは殆ど知っていると考えている〜そして、彼らは他の人たちにその事実を知ってもらいたいと考えている。32歳になると、あと一つや二つのことは学ばねばならないと考える。そして、42歳になると一生懸命に勉強する。(私は73歳の今もそうしている)

2.楽天主義
  努めて黒雲の裏にある明るい面をいつも見るようにしなさい。そうすれば自信を持って暗い局面に正面から対応することができるだろう。
  完全な人がいるなどと期待してはいけない。人には必ず欠点があるものだ。馬鹿な連中には、人の悪いところばかり見えるものだ。相手の良いところを見つけ、それを自分の最も大切なところに持ち続ければ、それらが少しずつ相手の欠点を消していってくれる。  我が山(ケニア山)が「より広く見よ、より高く見よ、より遠くを見よ、そうすれば道は見えてくるだろう」と語りかけている。
  物事の暗い面よりも明るい面を見よ。

3.両親
  カブ隊をうまく運営していくのに大きな助けになるのは、カブたちの両親と接触することである。アイデアを彼らと相談し、自分が取ろうとしているこれまでとは違ったことをする理由を説明して、彼らに心から興味を持ってもらう。少なくとも年に一回は両親たちを訪れ、カブ隊の諸行事やキャンプに招待する。そして、家庭でのカブたちの作業を援助してもらうべきである。
  成功への第一歩は少年たちを知ることであり、次は彼らの家庭を知ることである。
  少年たちの両親には思いやりと支持があり、彼らが隊の作業とこの運動の目的に全面的に興味を抱き、相互に協力するような精神のある家庭であれば、隊長の仕事は比較的楽になっていくものである。

  両親たちを訪ねる時、スカウティングの価値を強く心にとどめてもらおうと思うあまり、少年たちの訓練についてどう思うか、またスカウティングに何を期待し、どこに不備な点があるかなどを聞き出そうと考えてはいけない。







   第二十五回            


1.観察と推理

 訓練された二つの目は、訓練されていない一ダースの目に値する。

 スカウトが学ばねばならないことで最も大切なものの一つは、それが戦争スカウトや狩り人または平和のスカウトであったとしても、彼の目からは荷物も逃がさないようにすることである。

 スカウトは前を見るだけではなく、両側と後ろも見なければいけない。諺でいうように、「頭の後ろには目」を持たなければならない。

 細かいことを注意して、それらを思い出せるようになることは、スカウトの訓練の中で最も大切な点の一つである。これは何処にいようとも、学び練習することができるものだ。

 大きなさんご礁の島は、海の小動物たちが組合わさって作り上げたものである。人の偉大な知識もまた、あらゆる種類の小さな事柄を注意して覚えておき、心の中で組み立てることによって作られる。

 普通の人たちと一緒にいて、その人たちが大きいか小さいか、近いか遠いか、高いか低いかをスカウトより先に見つけるなら、それはスカウトの恥である。

 
観察と推理はあらゆる知識の基礎である。したがって、若い人たちに対する観察と推理力の重要性は過大評価できない。子どもたちはすぐに観察力を身につけるとよく言われるが、それも大きくなるにしたがって、やがては衰えるものである。その主な理由は、初めての経験をすることには注意を引き付けられるが、その注意を繰り返すことができないからである。

 観察力は事実、少年にとって習慣にすることができるものである。追跡は、観察力を身につけるには興味深い第一歩である。推理力は推論を引き出し、観察したものから意味を引き出す技術である。少年が一度、観察力と推理力を習慣として身につけたなら、人格を形成するのに大きな第一歩を手に入れたことになる。



   第二十四回                 


1.登山
 仲間と一緒に山登りをして、雄大でこの世のものとは思えないような景色の頂上に着いたなら、皆から離れて一人座って考えて見なさい。

 そして、考えながらそこにあるすべての素晴らしいインスピレーションを吸い込みなさい。
 再び地上に降りた時には、肉体、知力、精神ともに別人のようになったことに気づくであろう。

 私にとって山に登ることは、単に登山のための登山というスポーツをするという意味だけではなく、何か精神的に高揚するものがある。したがって、身体を鍛えるということ以上に心にとって良いものである。


2.自然
 自然研究の目的は、創造主である神を実感させる心を発達させ、自然の美しさが判るような感覚を注入することである。

 自然研究は学校の正規の授業で教えるだけではなく、少年(少女)一人ひとりが実際に手に触れたり、扱ったりすることで、中でも特に自分が気に入った分野を、興味を持って追求することである。

 自然を研究すると無限のものや歴史上のもの、微小のものが、偉大な創造主のみ業としての調和のとれた統一体であることがわかる。

 あらゆる不思議なことでもっとも不思議なことは、教師たちが簡単かつ確かな教育方法である自然研究を、いかに無視してきたかということである。そして、教師たちはじっとしていない元気いっぱいの少年たちがより高い次元のことを考えるようにするために、聖書を少年たち押し付けていることに四苦八苦しているのだ。

 戸外はスカウティングの本当の目的であり、成功の鍵である。

 自然の美しさが判らない者は、人生の楽しみの半分は失っている。
 

 一日の終わりに薪の小さな炎で食事をすることに勝る喜びはないし、その火の匂いに勝る香りはない。
丘の中腹の森林地帯に作った寝床からの眺めに勝るものはない。そして、暖かい毛布が薄い紙の下に敷いて戸外で寝ることに勝るものはない。

 女性のカブ隊長がカブに博物学を教えて質問をした。「兎は何に覆われていますか。それは髪か毛か柔らかい毛か、それとも他のものかな?」そのカブは答えた。「おやまー、アーケイラは兎を見たことがないの?」

 どうしてアフリカが好きなのかだって?そう、アフリカでは映画、ジャズ、バス、人ごみ、騒々しい通り、ガソリンのムッとする臭い、それに我々が文明と呼ぶあらゆる人工的な生活から逃れることができるんだ。
 どうか私に広い南アフリカの草原とその輝かしい太陽の光を与えて下さい。そこでは自然の山々、密林、そしてそこに住んでいる現地人たちと顔をつき合わせて生活するのです。そこが私がかつて住んでいたケニアやタンガニイカであり、私が再び住みたい所なのです。




   第二十三回                

1.おかね
 ペンス(イギリスの貨幣で単位は100分の1ポンドのこと)を貯金しなさい。そうすれば、ポンドを手にすることができる。


 ある人々はお金を貯めるのが好きで、決して使おうとはしない。節約することは良いことである。事実、それがお金を貯金する目的の一つでもあるわけだから。

 最も富んでいる人は、最も欲しがらない人である。

 子どもの時からお金を儲け始めた人は、大人になってからも続ける。


 簡単にお金持ちになれると思ってはいけない。大きな成果を手にしようと思ったら、小さなことから始めなければいけない。それは大人になるには子どもから始めなければならないのと同じことである。

 ガイド(ガールスカウト)は、お金を上手に使うことを学び、できるだけ無理なく貯蓄できる。そうすれば、失業した時にもお金はあるし、他の人の重荷になることもない。それどころか、必要な時には他の人を助けることもできる。

 お金持ちには限界がある。彼は二つから三つの家を持ち、それぞれに多くの部屋を持っているかもしれないが、それらの部屋は代わる代わるに一部屋ずつしか使うことはできない。それは、身体は一つしかないからである。そういう点では、お金持ちも最も貧乏な者と同じと言える。お金持ちも夕暮れを眺めて感動し、夕日を楽しむかもしれないが、貧しい者にはそれ以上に楽しむことが出来るのだ。

 あなたの周りには生活のためにお金を必要としている人がいるというのに自分自身の贅沢のためにお金を使うことはできない。



2.母親
 
母親が自分の息子として誇れるようなことをしなさい。そして、母親を悲しませたり、恥ずかしがらせるようなことは決してしないことだ。母親はあなたにたくさんのことをしてくれたのだから、今度はあなたが母親のためになることをしてあげる番だ。

 世界で有名になった人たちのかなりの割合の人たちが、自分たちの性格と成功は母親の影響によるところが大きかったということを認めている。これは当然のことである。というのは、母親は彼らが生まれた時から、彼らの世話をし、しつけの面倒を見てきた人だからである。そして、母親は自分の持っているものの最高のものを子どもに与えたのである。

 子どもたちは決して返すことのできないほどの恩義を母親に負っているのだ。しかし、この恩義を返せる最高の方法は母親の努力に対して感謝の気持ちを持ち、自分が社会の役に立つことを証明し、成功をもたらすことを示すことである。




   第二十二回               


1.男らしさ
  本当に役にたつ人間になろうとするなら、三つのものを手に入れるようにしなければならない。
   1.健康で強い身体
   2.何が望まれているのかということを素早く見つけ、実行するに充分な賢さのある知性
    3.どんな犠牲を払ってでも善いことをしようという熱意のある精神

2.結婚
  夫婦というものは長靴とドアマットの関係にあるとして描かれ、この場合はどちらか一方が虐げられているということになる。しかし、別の模写もあり、それは男と女は友だちであり、仲間であるとするものである。こうした見方が結婚に対する正しい見方であり、それに沿うことが両方に最大の幸福をもたらすのである。
  それはこの世界で手にすることのできる最大の幸福である。夫と妻が苦楽を共にする仲間であるならば、喜びは倍になり試練は半分になる。
  しかしそういう仲間になるためには、女の子はあらかじめ自分自身の仕事を知っておかねばならないし、失敗と苦闘し、成功を勝ち取る喜びを手にしておかなくてはならない。このことで伴侶が困っている時、精一杯の思いやりを寄せられるようにするし、また助ける際に役立つことができるようになるのである。

  人生をうまくやっていく一番良いやり方について、私の考えをほんの数語、例えば50語ぐらいで定義するよう言われたことがある。

  私は3語(a happy marriage)で言えると答えた。すなわち「幸福な結婚」をすることである。
 私が言っている幸福な結婚とは、数週間か数ヶ月の楽しい新婚生活、そして次に来るのは、お互いの忍耐といったものではなく、長い年月続く新婚生活のことを言っているのである。


3.軍事訓練
  教練は個性を破壊する。そして、私たちの主な目的の一つは個人独自の個性を発展させることである。
   私たちの目的は、辺境開拓者のようなスカウトを作り上げることであって、兵隊のコピーを作るのではない。

   私たちの運動には、軍事的な目的や訓練はない。

   押し付けの規律は反発を誘う。内面からの規律には何も必要としない。 

   教訓:軍事訓練が今日の市民性を育てるには、最高の準備になると、信頼してはいけない。

  軍事訓練と規律は、我々がスカウト運動で教え込むものとは、全く反対のものである。


   第二十一回                 


1.聞くこと
 隊長が少年の意向や性格が判らない時は、大抵は耳を傾けることによって判るものだ。一般的に言って、アイデア不足の時は、少年たちが好む活動を押し付けないことだ。少年たちがどういった活動が一番好きかは聞いたり、質問したりして見つけ、どの程度まで実現できるか確かめてみる。


 すなわち、その活動が少年たちのためになりそうかどうかである。

2.地域的条件
 隊長たちの多くはあらゆる項目を詳しく教えてくれるべきだと思っていることだろう。しかし、現実的にはこれは不可能である。というのは、ある一定の場所の特定の隊、あるいはある種の少年には向いているものが、そこから一マイル以内にある他の隊には向いていないかも知れない。ましてや、それが世界中に拡がった全く異なった条件の場合は、もっと向かないであろうから。


3.減少
 楽しい笑い声や競技に勝ったことの喜び、それに新たな冒険に対する新鮮な興奮などに満ちているような隊では、退屈から退団する者などはいないに違いない。


4.動物への愛情
 スカウト(ガイド)はできるだけ動物を苦痛から救うべきである。そしてどんな動物も不必要に殺すべきではない。神の作られた最も小さな生き物でさえもである。


 自然な状態の動物をずっと眺めていると、とても好きになって撃つどころではない。動物狩りというスポーツは全てウッドクラフトの追跡にあるのであって、殺すことにあるのではない。


 動物はあなたと同じように神がお造りになったものである。したがって、動物も我々の仲間である。動物は我々の言葉を話すことはできないが、我々と同じように喜びや苦痛を感じることができるし、親切にしてくれる人に感謝する気持ちも持っている。

 スカウトは足、目、耳、口の不自由な人たちに何時も手を差し伸べる。したがって、スカウトはまた我々の物言わない仲間の生き物たちにも善くしてやるのである。

5.愛対恐怖
 自分の子どもを恐怖よりは愛でしつけなさい。


 「父親の恐怖は必ずしも尊敬を意味するものではない」


 「鞭はしばしば卑怯者と嘘つきを作り出す」


6.幸運
 一般的に幸運と呼ばれるものは、実のところ機会を捉えたら、飛び上がって捕まえるという力に大いによっている。あまりの多くの者が座って幸運がやってくるのを待っており、決してやってくることはないので不平を言っている。




   第二十回                   

1.リーダーシップ
 よく引用される言葉に「最初に従うことを学んだ者のみが指導をすることができる」というのがある。その通りだが、多くの決まり文句と同じように、この言葉にも限界がある。私は指導することを学んだ者が指導者になるのが好ましいように思う。

 指導者であることと、指揮者になることとは違う。どんなに馬鹿な者でも、命令を拒絶する者に罰を与える力を十分に備え、自分を支持させることができる者であれば、指揮することはできるし、人々を命令に従わせることはできる。しかし、指導すること、すなわち人を大きな仕事の中で納得させるということとは、別のことである。

 リーダーシップは成功への基調をなすものである。しかし、リーダーシップは定義しにくく指導者は見つけにくい。私がしばしば言っていることだが「どんな馬鹿でも指揮者にはなれる。そして、訓練された者はしばしば教授者になれる。しかし、指導者はもっと詩人に似ている。生れるのであって、作られるのではない。


指導者に求められる資質としては、四つの基本的なものがある。

 1.自分の目的の正当性について、心からの信頼と信念を持っていなければならない。

 2.陽気で精力的な個性と共に、従う人たちに対する思いやりと友情あふれた理解を持っていなければならない。

 3.自分の仕事をよく知ることを通して自分に自信を持たねばならない。
 4.自分が教え諭すことは自分自身が実行しなければならない。

リーダーシップの本質を電文風にまとめてみると、「仲間意識と適性」である。

2.実行によって学ぶ
 全てのスカウトは見習いから始め、最初は多少の失敗をする。ナポレオンに言わせると「失敗をしたことがない者は決して、たいしたことはできない」ということだ。

 子どもは何かしらしたがるものだ。だから、それを良い方向でやるよう励まして、自分のやり方でやらせることである。そして、失敗をさせなさい。子どもが経験から学ぶのは失敗することによってである。

 ブディングがおいしいかどうかは食べてみることである。

 少年たち自身がしなければならないことにあまり手出しをしないことだ。彼等がすることを見ていなさい。「自分が何かをしたい時は、自分でしないことである」というのは、正しいモットーである。

3.人生
 人生は議論したりするには短すぎる。

 少年たちが幸福な市民になるようにする訓練には、二つの単純かつ強力な助力を必要とする。

1.少年自身に生まれつき備わっている、湧き上がるような情熱
2.訓練をする人、自身の人生相談

 私はいつも奇妙に思うのだが、人は死ぬ時に人生で得た全ての知識をそのまま持ち去ってしまう。


 我々の人生は短い。だから、有意義なことは、今すぐ行うことが大切である。私自身のことを言えば、四年前に自分自身に言ったことだが、「三年以内に私は死ぬだろう。だから、あれもこれも具体化し仕上げねばならない。
 さもないと手遅れになってしまう」


   第十九回                

1.名誉の観念
 スカウトは何物よりも名誉を重んずるべきである。
 ガイドが「その通りです」と言った場合、それは彼女が最も厳粛な誓約をしたのと同じ位に信頼できることだということを皆が知っている。

  もし、ガイドが命令あるいは仕事を実行する時は、名誉をかけて行うということで信頼されるなら、それがどんなに困難であろうとも、全力を上げて実行しなければならない。

  もし、ガイドが嘘をついたとするなら、彼女は自分の名誉を損なうだけではなく、仲間のガイドたちの名誉を落とすことになる。

2.個人対地域社会
 個性が発達しすぎると、自己をルーズにしてしまう。これは我々が求めるものとは正反対のものである。人格を伴った個性というのはこれとは別のもので、自律、活力、能力、騎士道精神、忠誠心その他、立派な人間を作る諸々の資質を持っている人を意味している。そして、これらの資質が地域社会への奉仕に使われる時に、その人は立派な人間という以上に立派な市民と言えよう。

 個人の自由は、社会の幸福を全体として妨げない場合においてのみ正しいといえよう。人は誰でも自分の意見を持つことは歓迎すべきことだが、それにも一定の限界がある。我々は現在ほとんどの国(そこには、人間は自分が決して過ちを犯していなくても、間違った組織と状況を通して、不幸か罪滅ぼしの存在として生きることを余儀なくされている)の文明を覆っている不名誉を取り除こうとする真に公正な社会主義には賛成である。

 神の手によってこの世に送られた全ての人間は窮乏という人の作った境遇を最初からハンディキャップとして負わされることなく、最高の生活を楽しみ、作り上げる公平なチャンスを持てるようにしたいものである。


3.率先
 好機というものは、停留所のほとんどないバスのようなものだ。

 ゲームをしている時、キャプテンが「突っ込め」とか誰かに「パスしろ」といつも指示して欲しいと思ってはいけない。そうしたことを全て、自分一人ですることだ。キャプテンが自分に何を期待しているのかを知り、何も言われないでも自分でうまく処理することだ。

4.ジャンボリー
 スカウト運動は世界中にまたがった兄弟愛である。いつかジャンボリーに行くことがあれば、様々な国からきたスカウトたちに会えるだろう。

 私が繰り返し言いたいことは、ジャンボリーの際、我々は少年たちに他の国の少年たちとキャンプをしているということだけで満足させないようにすること、また少年たちが共に過ごす少ない時間をうまく使って世界の未来の仲間であるスカウト兄弟と知り合い、そして友情を育てるように励まさなくてはならないということである。そうすれば、少年たち各自は、ジャンボリーから自己への新たな責任感、すなわち自分の地区の平和と善意の使徒が持つ責任感を携えて帰ってくることができようということである。

 普通の少年のスカウト生活というものは、比較的短いものである。そして、様々な年代のスカウトたちが少なくとも一回は大きなラリーを見ることは良いことである。何故なら、そうすることによって、少年は自分が本当に偉大な兄弟愛を持った運動の一員だということが分かるようになるし、同時に他の地区や国の兄弟スカウトと個人的に知り合いになることができるからである。

 時折、私は次のような質問をしてみる。「ジャンボリーは少年にとって良いことなのか、それとも運動にとってか、国にとってか、あるいは国際的な関係にとってなのか?」個人的には私はこれについての意見を持っているが、この種の決定をする前にはいつも私が最も良いと考えている権威者に相談することにしている。すなわち少年たち自身である。




   第十八回                 

1.幸福
 幸福になるということこそ、唯一の本当の成功である。
 
 幸福になるための二つの鍵は、

  〜 物事をあまり深刻に捉え過ぎないようにするが、自分のベストを尽くすこと。そして、人生はゲームで世界は競技場だというように眺めることである。
  〜 自らの行動と考えを神の愛によって、導かれるようにすること。

 本当の幸福というものは、ラジウムのようなものである。これは愛の一種であって、与える量に比例して増すものである。

  キャンプに行く前、そしてキャンプに行っている間中、「他のカブたちのために、僕はこのキャンプをこれまでで一番楽しいものにするぞ」と心に言い聞かせることだ。

  幸福というものは、座って待っていてもやって来ることはない。

  どんなにお金がなかったり、身体が弱かったとしても、何時でも他の人々に陽気な輝きをもたらすことはできる。そして、そうすれば、自分自身に最高の幸福がもたらされるということを覚えておきなさい。

  神は私たちが人生を幸福に愉しむよう、この世界に送られたものと私は信じている。幸福を手にする本当の方法は、他の人に幸福を与えることである。

  幸福とは金持ちになったり、単に仕事の上で成功したり、ましてや好き放題にすることで得られるものではない。幸福になる第一歩は、少年の内に自分を健康かつ強壮にしておくことである。そうすれば、大人になった時に役に立つことができるし、人生を愉しむこともできる。

  自分が手にしたものに満足し、それをできるだけうまく使いなさい。

2.天国
 賢い人は、はっきりしない来世の天国などを当てにしたりはしない。それは自分自身の天国を今生きている世界で、自分自身で作ることができることを知っているからである。

 天国は天のどこにあるのかがはっきりしないものではなく、この世界のすぐそこ、そう、あなたの心とその周囲にあるのだ。


3.趣味
 趣味は悪魔のちょっとした解毒剤である。


 趣味を持っている人には無駄に過ごす時間はない。


   第十七回                 


1.善行(つづき)

 どんな善いことをしたかとウルフ・カブに聞いたら、まだ一つもできていないと応えた。その大きな理由は自分が小さすぎると考えているからだった。さてさて、彼の言っていることは馬鹿げたことだ。というのは、一つの小さな善行をするのに小さすぎるなどということはないからだ。たとえ、その善行が他の人に微笑むだけのことであっても、人々を幸せな気持ちにさせるのだから。

2.善意
 善意(goodwill)は神のご意思(God’s will)である。

3.ガイディング
 ガールガイディングには二通りの意味がある。ある者にとっては、ガールガイドとしてゲームをする喜びであり、またある者にとっては少女たちを導くという「ゲームをする」という楽しみである。

 ガールガイドは姉妹である。これは、この一員であるものは上から下まで姉妹(年上と年下の姉妹)として働く喜びをもって共に働く。

 個人的な考えだが、スカウティングとガイディングの二つのうち、少女たちの部門の方がより重要だと思う。何故なら、少女たちは次世代の少年たちの母親になるからである。

 「ガイズ(Guides)」という名称は、ロマンスと冒険の意味合いを意図したものだが、この名称には将来は男たちを導き、さらには自分の子どもたちを良い方向に育てあげるという責任があるということも示しているのである。

4.障害児スカウティング
 スカウティングを通して数多くの手足、耳、口、目の不自由な少年たちが今ではこれまでに得たことのない大きな健康、幸福、そして希望を手にしている。こうした少年たちの多くは通常のスカウト考査の全てにはパスすることはできないので、特別に変更した考査を行っている。この少年たちの素晴らしいところは、彼等の陽気さと熱心さで自分たちのできる限りのスカウティングをしようとしていることである。彼等は絶対に必要だと思わない限り、これ以上の特別な考査や扱いをしてもらいたいとは思っていない。スカウティングは彼等を世界的な友情に結びつけ、何かしなければならないことを与え、さらには自分を試す機会を与えることによって将来を見つめさせ、また他の人たちに何かをできる機会(これまた困難なことだが)を与えることなどによって、こうした少年たちを援助している。


   第十六回                

1.上進
 昔の騎士は危険なところに赴き、自分の庇護者、国、貴婦人の名誉のために闘ったものである。

 今日のカブはカブ隊の名誉のためにボーイ隊に上進することができる。

 前途に危険や困難が予想されればされるほど、カブたちは胸を張って、前進しなければならない。

(上進するカブに)ボーイ隊では自分自身で考えねばならないし、自立しなければなら ないだろう。もし仲間がスカウトらしくない仕事をしているかどうか判らなければ、仲間について行くのは自分でやめるべきである。物事が活気なく不快に見えるからといって、あきらめることはないようにしなければならない。必要なのは本当の勇気と堅実さである。

2.善行
 私は「善行」という言葉で、諸君が人々の役に立ち、ちょっとした親切をするようにということを意味している。その相手は友人であろうと知らない人であろうと。これは難しい問題ではない。これをするのに最も良い方法は、毎日誰かに少なくとも一回は「善行」をするということを決意することである。そうすれば、直に善行をすることが習慣になるだろう。「善行」は、どんなに小さいものでも構わない。例えそれは老齢のご婦人が道を横切るのを助けることや、悪口を言われている誰かに言葉をかけるとかいったことである。大切なことは、何かをするということである。


 スカウトは他の人々、特にお年寄りや子どもたちを助けるためにはあらゆることをする。スカウトは一日に最低一つは善いことをする。

 スカウトのちかいを立てたら、名誉にかけて「毎日誰かに一つ善いこと」をすること。しかし、スカウトは一日にたった一つだけ善いことをすればいいというように考えてはいけない。スカウトとして一つは善いことをしなければいけないが、もし50個できるのなら、それにこしたことはない。

 善行というものは、友だちにするだけではなく、知らない人、例え敵に対しても行いなさい。

 少年というものは、生まれつき善いことをするという本能を持っているものだ。もし、その実際的なやり方さえ判れば、この善行という仕事は本能を満たし、発達させる。そして、これを発展させることが隣人に慈善の心をもたらすことになる。


   第十五回                   

1.ゲーム
 スカウティングの目的の一つはチームによるゲームや活動を少年たちに与えることである。これらは少年たちの健康と体力を増進し、人格の発達を促すものである。

 重要なことは可能な限りあらゆるゲームと競技を用意することである。そうすれば、スカウト全員が参加できる。というのは、我々は単に一人か二人の立派な選手を育てるだけで、後の者は全く駄目だというようにはしたくないからである。全員が練習をして、うまくなるべきである。

2.贈り物
 あなたがもらったプレゼントは、それをくれた人にあなたはお礼を言うまではあなたのものではない。


 ほとんどの人はいわゆる「天分(GIFT)」と言われるものを隠し持っている。ある者は生まれつきの画家であったり、俳優であるかもしれないのに、食料雑貨店に勤めていたり、大工さんとして働いている。またある者は巧みな手品師や歌手であるかもしれないのに、ウェイターや機関車の火夫をして生計を立てている。

 では何故「天分(GIFT)」と言われるのであろうか?そう、それは本来的な資質―神から与えられた贈り物(GIFT)―だからである。それ故、その資質を持っている者は神のためにそれを役立てるべきである。このことはその贈り物を他の人々に再び与えることによって可能となる。

  自分の才能を自分自身のためよりも他の人の役に立つように使いなさい。そうすれば神の御業を行うことになるし、また幸福の意味を見い出すことにもなる。

3.女性
 淑女と下品な女、女も色々いる。


 一緒にいる所を母親や姉妹に見られたくないような女の子と時を過ごしてはいけない。結婚する気がないような女の子と恋愛ごっこをしないこと。妻や子供を養えるようになるまで結婚しないことだ。

 社会で働く時、女の子が男の子と同じ能力であるなら、その女の子にも男の子と同じ機会を与えるべきである。すなわち、人格、技能の習得、肉体的健康を同じように身につけられるような機会とそれらを身につけたら同じように使う機会を与えるということである。

 女性にとって仕事上の成功は終着点や目的ではないし、人生最大の喜びでもない。彼女の眼前にはまだ仲間として、また保護者として人生を分かつ心に叶った男性と人生の聖堂である自分の家庭を築くという輝かしい報酬がある。(彼女がいかに自分は独立し、自信があると感じていても、強い愛情のこもった健康的な腕の中で身体を休めるという喜びがそこにある)そして、次に子供である。(これは全てを魅了するものだ)考え、行動ともに正しい方向へ熱心に教育することである。

 この世にはきちんとした女性と飾りだけの女の両方いる。


   第十四回                       

1.実例による訓練
 隊長のすることを少年たちはするものだ。隊長はスカウトたちの中に写しだされる。

 我々の訓練の大部分は実例によるものである。

 
少年たちの目からすると意味があるのは大人の行動で、決して話していることではないということは疑いのないところである。従って、隊長は正しい動機に基づいて正しい行動をし、それを見せびらかすのではなく、自分がしていることを見せるという非常に重い責任を担っているのだ。

 小規模なキャンプでは大抵のことが隊長の示す手本によって行われる。隊長は少年たちの中で暮らし少年たちに見守られ、無意識の内にまねをされるが、そのことに恐らく隊長自身も気がつかないだろう。

 もし、隊長が怠け者なら少年たちも怠け者になるだろう。もしいつも清潔にしていれば、彼らもそうするだろう。もし隊長がキャンプの工作品をうまく作れば、少年たちは直ちにライバルになるだろう。

 少年たちというのは恐ろしいほどの模範家である。私は恐ろしいという言葉をわざと使ったのだが、それは私たちが少年たちに示す例が少年たちにどんな害を及ぼすか、あるいはどんな利益をもたらすか考えると恐ろしい気持ちで一杯になるからである。

 少年たちというのは自分たちより年上の者で人柄や行いを賞賛された者を英雄視したがるものである。

2.名声
「噂されることと名声は同じものではない」

3.救急法
 救急法は重要で難しい問題である。難しいからこそ、細心の注意と正確さ、精密さ、それに常識を必要とする(これらは全て普通の少年なら持ち合わせていない資質である)

4.一級スカウト(ガイド)
 一級スカウトになるまではスカウト訓練の完全な価値を本当に手にしたとは言えない。
 二級ガイドに腰を下ろして留まっていることで満足しているようなガイドは、三級の少女に過ぎない。

5.元スカウトと元ガイド
 外国においては数百万の大人たちが我々の訓練を経験している。人格、健康、積極的に人の役に立つこと、愛国心などの他に、階級や信教、国家には拘らない広い意味での友情や兄弟愛を学んでいる。

 このようにして、各国の人々の間には相互間の仲間意識や平和への確固とした意思が今は僅かでも日を追う毎にしみわたっており、その機運は大きく育っているのである。

6.友情
 あなたが出会った人に対して恐怖感や嫌悪感を抱かねば、相手も同様に不安や疑いの念を抱かないで、あなたに好意を持ち友だちになれるだろう

   第十三回                        

1.有能
「有能」という言葉で、私は単に金儲けの技術のことを意味しているのではない。一般的な知性と自由に生きる能力、それに豊かで幸福な人生を送る能力のことを意味しているのである。

 有能になるようにしなさい。そうすれば、自分の自信を持つことができる。自分の仕事あるいは自分に与えられたどんな仕事でも、自分自身のやり方を考え出してやりなさい。

 他人の助けを借りよう等と思ってはいけない。自分自身でやることだ。自分のしたことを褒めてもらおう等と思わないことだ。善いことをしたら、それが褒美なのだ。考えねばならないことは、自分の最善をつくすこととつとめを果たすことである。

2.11番目のおきて
 スカウトのおきてに11番目のものがあるとすれば、それは文字にはなっていないもので、「スカウトは馬鹿ではない」というものだ。

3.忍耐
 困難等、ものともせず、かじりついて頑張ることだ。

 スカウトの格言に「死んでしまうまでは決して死ぬというな」というものがある。そして、もしこれを実行したなら、あらゆることが自分にとって悪く運んでいるように見える時でも、きっと抜け出せるだろう。これは勇気、辛抱強さ、強さ等が混ざりあったもので、我々は「忍耐力」と呼んでいる。

 物事が悪く見える時は、ちょっと笑って歌う。ちょうど、つぐみが歌うように。「スティック・トゥ・イット(Stick to it,がんばれ)、スティック・トゥ・イット、スティック・トゥ・イット」そうすれば、物事は上手く運ぶだろう。

 成功への大きな第一歩は、失望に耐えられることである。

 本当のスカウトというのは、最も辛抱強い人のことである。一遍に上手くいかなくても心配しないで静かに待ち、最後に「成功する」まで固い決意で働く。それが小さなものであろうと大きなものであろうと。
 「オークの木(ブナ科ナラ属の木の総称)も、かつては一個のどんぐりに過ぎなかった」小さなことから始まった人生に成功することに希望を失ったら、大きくて強いあのオークの木も、最初は地面の上に転がっていた小さなどんぐりに過ぎなかったことを思い出しなさい。

 死んでしまうまで決して死ぬとは言わないことだ。様々な困難や危険と闘って、それらに負けないことだ。そうすれば、結局は上手くいくだろう。

「強い意志を持った人にとって手に負えないものは何もない」成功したいという意志があれば成功するだろう。例え何が起ころうともである。

 私がブダペストの会場に着いた途端に物凄いどしゃぶりの雨が降り、私は同時に「ベーデン・マイスター」と歓呼の声を浴びた。
私は少年たちに君たちの能力を試すためにわざと雨を持ってきたのだと説明した。何故なら私はスカウトたちが全くの上天気の中で、キャンプをして欲しくないからである。



   第十二回                 

1.教育対教授
若い人たちに良い市民性を培うのに必要な点は、
 @人格

 A学識
 の2つである。これらは重要なものから順番に並べたものである。Aは学校で教えられるものである。@は生徒が学校外の時間に、環境に応じて自分で取り組むものである。この@こそ、スカウト運動が与えようと努力しているものである。

訓練には主として2つの方法がある。
 @教育(Education)による。少年一人ひとりの持っているものを「引き出し」、希望を与え、自分で熱心に学ぶということを身につけさせる。
 A指示(Instruction)による。少年に知識を押し付け、繰り返しをさせる。
 Aは今もなお、しばしば支配的である。スカウト運動において、我々は@の方法をとっている。

訓練というものは、人々が興味を持ってやるようなものにしなければならないと私は固く信じている。そうすれば、自分から熱心に学ぶよう助長されるし、押し付けられた無味乾燥な教授に代わって、自分で自己教育の一つの形を作るようになる。

 命令的な道徳教育(例えば教練)は、見かけの良いベニヤ板を作るようなものである。下地に適度に成熟した人格がない限り、そんなものは長持ちすることはない。
 
 カデット(学生軍事教練団)とスカウト運動は共に立派な少年を作ろうと一生懸命である。この2つの訓練方法の顕著な違いは、その原則にある。すなわち一方は押し付け、(Impression)によって行われ、他方は自らの意思を表す(Expression)ことによって行われる。カデットの訓練は、外から少年に集団的な指導を押し付ける。一方、スカウト運動の方は、個人の内面から自己の発達を促すものである。軍事教練は、少年を機械部品としての基準に合うよう形作る。一方、スカウティングの目的は最初から個人の人格とやる気を伸ばすことにある。
(ガールガイド)精神は、内から養われる。すなわち、自己発展である。精神は外から本による教えや規則を使って人為的に発達させることはできない。
 隊長は少年の自己表現を促すことによって教育するのであって、警察のように抑圧的な方法を使って少年を鍛えるのではない。

 学校で教えられたことに全面的に頼ることはしない方がよい。教師は全てのことを教えられる訳ではないが、役に立つ知識を教えてもらったら、それを続けて物事を学ぶのは自分次第である。
 自分で学ぶ者は、人生に成功するものである。したがって、自分から学び教えてもらうのを待つようなことはしてはならない。


   第十一回           

1.教育の重要性
 もしあなたが世界を今よりも少しでも良いものにすることを目指すのであれば、あなたは幸せになるだろう。
父親としてこの方向に一歩踏み出すということは、あなたの子供をあなた自身より良くしてやることだ。

2.教育、積極的対消極的
 指図や中でも命令は少年たちにとって(我々が意図するものとは)異なった真反対の効果さえもたらす。少年に煙草を吸うなと命令したら、少年は冒険のつもりですぐにでも煙草を吸おうとするだろう。しかし、例を示して馬鹿な奴は煙草を吸うが、賢いスカウトは吸わないということで、別の問題だということを教えてやることだ。


 「するな」と言って説教することは悪いことをするよう、そそのかすようなものだ。それよりもむしろ、健全な精神を吹き込んでやることだ。すなわち弾丸に火薬を詰めるように、行動に健全な精神を吹き込んでやることだ。

 教育は積極的に行うべきであって、消極的に行うべきではない。また、能動的に行うべきで受動的ではいけない。例えば、スカウトのおきては各項目とも「スカウトは〜します」というふうになっている。

 権威者たちは、スカウトのおきての改定に同意し、おきての字句の能動的な面を認めないで各項目を「〜してはいけない」という全く逆のものに変えてしまっている。「〜してはいけない」というのはもちろん、抑圧という時代遅れな制度の特徴であり、またモットーであるもので、少年たちを挑発するものである。少年にとって間違ったことをするのは、一つの挑戦となるものである。

3.教育の成功
 教育や教会を通じて良い市民を作る費用よりも、これとは反対に警察や刑務所を通じて悪い市民を罰する費用の方が高くつくという、地域社会の充分な得失計算はできない。
 
教育が成功したかどうかは、少年が学校の卒業試験の後で、何を知っているかを見るのではなく、十年後に少年が何をしているのかを見て判るものだ。

4.教育対教授
 自己学習、すなわち少年が自分で学ぶのであれば、それは確実に身につくものとなるし、将来の人生を導くものとなる。これは教師から教え込まれたようなものとは全く異なったものである。

 正しい教育の秘訣は、生徒一人ひとりが自分自身で学ぶようにしてやることで、型にはまったやり方で、生徒に知識を叩き込むことで指導することではない。


   第十回            

1.つとめ
 スカウトは仕事を自分のつとめだと思うからするのであって、ほうびをもらおうと思ってするのではない。

 スカウティングは単に面白いだけではなく、あなたに求めるものも多い。まず、自分のつとめを果たすことである。そうすれば、権利を手にすることができる。立派なスカウトになまけ者はいない。

 立派なスカウトは、いつも人よりたくさんの仕事をするものだ。


 つとめを果たしなさい。それがいかに面白くなく、誰からも注目されないものであったとしてもだ。

 友人には忠実でありなさい。しかし、同時に自分のつとめに不誠実になってはならない。時として、友人とつとめを果たすことの板挟みになることもあろうが、その時はつとめを優先して実行すればよい。

 能率というのは全く結構なことだが、内面にはもっと何かがなければならない。あなたにとってどんな危険や難儀があろうとも、つとめを果たすためには勇気と決断、そして決意がなければならない。


2.神へのつとめ
 神へのつとめを果たす時には、常に神に感謝しなさい。楽しんだ時、面白いゲームをした時、良いことをするのが上手くいった時には、食事の時にお祈りをするように、たとえ一言二言でも神に感謝しなさい。

 神に忠誠をつくすというのは、神を決して忘れないというだけではなく、何をする時にも神を思い出すということである。もし、神を忘れないなら、あなたは間違ったことは決してしないだろう。もし、あなたが何か悪いことをしている時、神を思い出すのであれば、それを途中で止めるだろう。神はいつもあなたに善いことをしてくださったのだから、あなたはお返しに神に何かをしなければならない。すなわち、これが神へのつとめなのである。

 自分の果たす「神へのつとめ」という部分は、人生航路のために神が備えてくれた才能を神聖なる信託として、いつくしみ育てていくことだということを少年は知らねばならない。健康と強壮さ、それに生殖力を持った肉体は神への奉仕のために使わねばならない。素晴らしい理性と記憶力、それに感謝の心を持った知性は動物の世界よりも高い次元のものである。そして魂。これは心の内面にある神の片鱗、すなわち愛は絶えまざる表現と実行によって育て強くしていけるものである。このようにして我々は単に神の情け深さにすがるのではなく、隣人に愛を実行することで神の意思を果たすことが神へのつとめだということを、少年たちに教えるものである。

3.教育、能動的対受動的
 スカウトは積極的に善いことをするのであって、消極的な善良者ではない。

 追い求めて得た知識は長持ちするが、簡単に手に入れた知識は長持ちしない。

 少年は実行によって学ぶのであって、教訓によって学ぶ訳ではない。少年にとって愛するということは、単に心の状態であるから、それを表現すること、すなわち奉仕するということは、何か自分のできることをするということで、全く別の問題である。
 そこで、若い人たちに対して私達は、宗教の精神を実際の活動に置き換えねばならない。このことから、スカウトのおきてやちかいの中で、「神を愛せよ」という抽象的な考え方の代わりに積極的な考え方である「神へのつとめを果たせ」とうたっているのである。また、同じように抽象的な「汝の隣人を愛せ」という言葉を「何時も他の人々を助けよ」という同じ意味の積極的なものに置き換えている。


   第九回          

1.規律
 規律はどこでも必要である。しかし、大切なことは若い時に小さな事柄から実行することを学ぶことである。そうすれば、大きな困難や危険に直面した時には、それにきちんと対処できるようになるだろう。そのためには、まず第一に自分自身を抑制できるようにならなければならない。

 規律には二つの形がある。一つは行動によって忠誠を示すものであり、今一つは罪の恐ろしさから命令に服従するものである。

 命令に服従させるためには、自分自身がどう服従するかを理解しなければならない。他の人にいかに服従してもらうかは、自己の規律する訓練によってのみ判るのである。

 国を繁栄させるには、よい規律がなければならない。そして、個人の規律によってのみ集団の規律ができる。規律というのは、この場合、権威やその他の義務に対する命令への服従のことである。これは抑圧的な方法ではできないもので、まず少年に自己規律を教育し、そして他の人のために自己と自らの喜びを犠牲にするよう教育することによってできるのである。この教育は模範を示すこと、責任を与えること、さらに高い基準の信頼性を期待することによって大きな効果が得られる。

 隊長は規律を強調すべきで、小さなことまで厳格にすぐ従うようにする。少年たちを自由に振る舞わせるのは、あなたが許した時だけにする。これを時々やるのは良いことである。

 我々のルールは、ルールであって法規ではない。すなわち、我々のルールはフットボールやクリケットをみんなが公正なゲームとして必要とするルールのようなものである。我々のルールは進むべき一定の方向への手助けになるもので、官僚的形式主義の意味合いはない。

 事実、この運動の全ての規律は自由にそれぞれの者が自分の立場で「ゲームを楽しむ」という欲求から生じている。

2.最善をつくす
 グランド・ホウルは、君が両手を使って最善を尽くすという意味です。大抵の少年のように右手だけを使うというように、片手だけということではありませんよ。両手を使えば、君の最善を尽くすということは、普通の少年の倍になります。「最善をつくせ」というのは、カブのモットーです。

 この世界をあなたの時よりは、少し良くして残すように努力しなさい。そうすれば、あなたに死が訪れた時、少なくともあなたは時を無駄に過ごすことなく最善を尽くしたと感じて幸福に死んでいくことができる。

3.絵を描くこと
 やってみれば誰でも絵は描けるものである。これは学ぶ必要はない。世界中に知られた有名な画家も小さな子供より上手く絵が描けなかった時期があったのである。すぐに画家のように上手く描けると思ってはいけない。最初はかなりへたくそにしか描けないだろう。しかし、一生懸命にやれば、きっと上手くなるだろう。これは、学校で学ぶものではない。

 どんな幼稚な絵であっても、絵を描くことを奨励すれば、少年たちは色や形の美しさを知り、汚い環境の中にも光と影や色彩と美があることを判るようになる。

4.飲酒
 ビールやワイン、強い酒を毎日一杯やる習慣のある男は、スカウティングにはほとんど使い物にならないし、他のことでも役に立ちはしない。

 飲酒の習慣を持っている人は、しばしば自分自身の健康、幸福さらには家庭をも破壊してしまう。古い諺に言う「強い酒は弱い人間を作る」ということは本当のことである。


   第八回             

1.勇気
スカウトに必要とされる勇気は非常に質の高いものだ。危険が目前にある時は、立ち止まって見ないことだ。見れば見るほどそれが嫌になるだろうから。突っ込んで行って大胆にその中に入ってみるといい。生まれつき勇敢な者もいるが、そうでない者は勇気を強制させねばならない。しかし大多数の場合、勇気は養うことのできる資質である。

2.礼儀正しさ
真の男というものは、礼儀正しいものである。すなわち、彼は敬意、人間としての思いやり、それに完璧なまでに愉快なユーモアを身につけている。

3.カビング
カブの訓練は、スカウトたちのものとは異なるが、それに一歩近づくものである。
非常に重要なことは、カビングをできるだけ、スカウティングとは違ったものにすることである。そうすれば、カブがその年令になった時には、心からスカウトになりたいと願うであろう。成長している少年は、変化と多様性を望んでいる。そして、スカウティングがもし、カビングの延長のようなものであったなら、直に退屈になってしまうだろう。彼はスカウトになったら、新しい技能や新しい知識を身につけたいと思っているのだ。
 我々のカブの訓練は、彼らの生涯の中で最も重要な時期になされている。この時期の少年というものは、心身共に良い方向へ持っていくのに、最も影響されやすい。

 ウルフカブ隊を扱う大原則、そして少年たちを引きつけ間違いを治させるものというと、カブたちを一つの幸せな群れにすることである。それは単なる群れではなく、幸せな群れである。
 少年たちは騒ぎたがるものだから、そうさせてやりなさい。遊ぶ時は、思いっきり遊ばせることだ。
 バッジが実力通りかということを試すことで、カブ隊が本物かどうかを見極めることにはならない。幸せな群れ意識こそ何物にも代え難いものである。

4.好奇心
 「何か」ということで満足しないで、「何故」「どうやって」ということを知ろうとしなさい。

5.困難
 人生が全て砂糖みたいに甘かったら、つまらないにちがいない。塩は、それだけを舐めたら苦いが、料理の一部分として味わう時は、肉に味をつけてくれる。困難は人生の塩のようなものだ。
 私は、若い友人に、敵と直面した時は「ポロ」をするよう、よく奨めたものだ。すなわち、がむしゃらに攻撃するのではなく、相手の横につけて走り、トラックの外に押し出すのである。
 困難な仕事に取り組まなければならない時は、それを助けてくれるよう神にお願いしなさい。そうすれば、神はあなたに力を与えてくれるだろう。しかし、それでもなお、あなた自身が取り組まなければならないことだ。
 一時的な敗北や失望に落胆する必要はない。こうしたものは、時々やってくるものだ。これらは、我々の進歩に味をつけてくれる塩である。困難を乗り越えて、私たちが目指す大きな意味を見つけよう。

6.規律
 船は天国にも地獄にもなりうる。それは、正にその船の乗船員次第である。もし、乗船員たちが無愛想で不平を言うことや、だらしなければ、彼らは不幸な船の仲間になるだろう。もし乗船員たちがスカウトたちのように、陽気で最高のものを作り上げようと考えたり、お互い譲り合い、自分たちの持ち場をきちんときれいにしておくならば、彼らは幸せな仲間として航海を楽しめるだろう。
 スカウト(ガイド)は。命令を受ける時には、陽気に進んで従うべきで、のろまで役立たずのようなやり方はしない。


   第七回              


1.陽気さ
 もし少年がいつも明るい顔つきで街を歩くなら、それは素晴らしいことだ。(このことを彼は隊長から学んだということをお忘れなく)明るい顔はすれちがう多くの人たちを幸せにし、明るくする。そうでなければ、彼らはたくさんの不機嫌な顔に出会ったところである。不機嫌な顔も明るい顔も、同じように人にうつりやすいものである。
笑顔は、多くの人の心を開く秘密の鍵である。

2.騎士道
 騎士道精神のない男は男ではない。

3.キリストの模範
 私が不思議に思うのは、良きキリスト教徒だと高言している人たちが困難にある時、「キリストだったらどうされたただろうか?」と単純に自ら問いかけ、それに従って導かれるということをよく忘れがちになることである。この次の機会に、困難や疑問にぶつかってどうしたら良いかという時には試してみなさい。

4.市民性
 市民性を端的に定義するなら「地域社会に対する積極的な忠誠心」ということである。消極的な市民性では不十分で、積極的な市民性だけが役に立つ。

5.清潔
 スカウトはいつもきちんと整理整頓をしている。それがキャンプであろうとなかろうと習慣としてするのである。もし、家できちんとできなければキャンプに行ってもきちんとできないだろう。そして、キャンブできちんとできなければ、単なる新米でしかないし、ましてやスカウトとはいえない。

キャンプというのは、明らかに困難な条件の中で隊長が清潔さを期待する機会である。


 清潔にするということは、神を敬うことに次ぐものである。

 どんなに貧しくても問題ではない。少なくともきれいに整理整頓はできるし、それにはお金はかからない。

6.共学
 ボーイスカウト運動と同じ組織と訓練の原則は、ガールガイド運動に加わっている少女たちにも適用される。一つの部門は他の部門を助け、共に家族、仲間として尊重する。両者の協力は共学のより良い形を予知させるものである。なぜなら、共通の興味を通して生徒に働きかけるものだからである。

7.常識
 常識というものは人格を形成する上で最も役に立ち、価値のあるものである。

8.協力
 フットボールをしていて、ボールを持った場合、君もよく知っている通り、あまり長くボールを持ち続けるべきではない。(どれぐらい長く自分がプレーできるかやってみるのは楽しいことではあるが)自分勝手なゲームを決してすることなく、君のベストを尽くして味方に素早くパスしなさい。

 他のことでも同じようにすれば、きっと上手くいく。自分自身で抱え込まずに、他人と分担しよう。……「他の人に渡すことだ」

 大きな目的を持った大きな運動をする際、小さな個人的努力に入る余地はない。小さなアイデアは無視して、全体として効果的に進めるために大きな「連帯」の輪を作らねばならない。成功を勝ちとりたいと思うなら、協力こそが唯一の方法である。

 南太平洋では、数百万の小さな虫が一緒になって働き、少しずつ珊瑚礁を作り、やがて大きな島を作り上げる。

 このことで、多くの人たち全体が、一緒になってやれば何かをなし得るものであることが分かる。ボーイスカウトは、次から次へと友情と善意を実践していくことで、大きな仕事をしようとするものである。そうすることで全世界の国々がいつの日か皆、友達になれるだろう。


   第五回           

1.人格
 一つの国が他の国より優位に立つには、その国民の人格によるものであって、軍事力によるものではない。

 有用な国民を作るには人格の方が単に本による教育よりも重要であることはよく知られている。それにも関わらず、なんら具体的な案がそれ相応に教育の中に取り上げられていないのである。

 一般的に言って、母親の影響は人格に最初に働きかけるものだということに疑う余地はない。しかし、母親は自分自身が持っていないものを子供たちに与えることはできないのである。従って、我が国の母親たちは高潔な人格を子供たちに刻み込むためには、自分たちも高潔な人格を持たなくてはならない。


 人格というものは主として環境と躾、さらには経験によるものである。人格は学校の塀の中で教え込まれるものよりは、学校外の環境によってより多く形成されるものである。従って、人格というものは環境で良くもなれば、同時に簡単に悪くなったりするものである。

 人格を伴わない知識は、パイの皮のように崩れやすい。

 人格というものは、人生におけるどんな特性よりも価値がある。

 仕事における成功や運、恩恵やつてのお陰とか、また学習によるものだとかは、問題外で、重要なことは本人の能力と人格である。仕事上の専門的技能は成功に役立つものであるが、さらに価値の高いものにするためには人格、すなわち絶対的な信頼感、機知、活力が不可欠となってくる。

 人格というものは、教室で教えられるものではない。それには個人が発展しなければならない。そして、それは生徒自身の努力によるところが大きい。

2.陽気さ

 笑いが欠けていることは健康が損なわれていることを意味する。できるだけ笑いなさい。そうすれば健康になる。だから、笑える時はいつでも笑い続けることだ。そして、できれば他の人たちも笑わせなさい。そうすれば、その人たちも健康になる。

 もし、苦しんだり困ったりすることがあれば、それに向かって笑いかけなさい。このことを覚えておいて、自分をそうするようにすれば、本当に違いが出ることが分かるだろう。

 困難はあなたがそれに向かって笑いかけ、取り組んだ途端に困難ではなくなる。

 スカウトの生活は、とても陽気にしてくれるので、スカウトはいつも歯を出して笑っている。

 笑いは、ガミガミ怒鳴るより、2倍の効果がある。背中を軽く叩くのは、針で一突きするよりもっと強い刺激があるものだ。

 本物の狼を見たら、口から大きな歯をむき出しているのが分かるだろう。だからカブの少年もいつも微笑んでいるべきである。例え、笑いたくないとしても(時には泣き出したいこともあるだろうが)カブは決して泣かないことを覚えておきなさい。事実、カブはいつも笑っている。そして困難や苦痛、困ったこと、危険等があったとしても、いつも歯を出して笑い、耐えるものだ。

 カブたちにとってスカウトの笑いとは、声を出して笑うことであるべきだ。大きな声を出して笑うということは若者たちの悪性の大部分をくじき、陽気な仲間意識と広い心を作る。よく笑う少年は嘘をつかないものだ。

 ガイド(ガールスカウト)はいつも微笑みを浮かべ歌を口ずさんでいる。そうすれば、自分も楽しいし、他の人も楽しくする。特に危険な時に笑っていられたら、いつもと同じように振舞うことができる。

 一般的には最悪の時でさえこっけいな一面があるものだ。

 楽しいユーモアは、はしかのように感染する。

 一服の楽しい笑いは、私にとっては頭の洗濯のようなものだ。


  第四回            

1.少年の本質

 私たちは年をとって気難しくなればなるほど、自分もかつては若者であったということを忘れがちである。

(訓練にあたっては)まずその少年自身を知ることである。何か好きで何が嫌いか、それに長所と短所などを知り、それに応じて訓練をしていくことだ。
 子供たちは10分もじっとしていられないものである。ましてや学校のように何時間もというのはなおさらのことである。これは少年が精神的にも肉体的にも成長しているからである。これを治すにはテーマを変えて外を走らせたり、戦い踊りをさせると良い。

 どんな人間でも5%は良い所があるものだ。その良い所を見つけてやり、80%にも90%にも伸ばしてやるのは楽しいことだ。

 少年は一般的に自分の能力に自信を持っている。子供扱いされて、ああしろ、こうしろと指図されることを嫌うのである。少年は一般的にいって針のように感受性が強いものである。

 少年は1カ月も2カ月も一つのことをし続けることはできない。それは少年が常に変化を求めているからである。

 少年は誰かが自分に関心を抱いてくれていると感じたなら、その人に応え従うものである。少年たちは、友達同士お互いに忠実である。友情は少年に生まれつき備わっているものである。

 少年たちを魅きつけて良い影響下におこうとしている人と魚を獲ろうとしている釣り人はよく似ている。

 もし、釣り人が自分の好きな食べ物を餌としてつけたなら、魚をたくさん釣ることはできないであろう。だから、魚の好む餌をつけることである。

 少年たちに対しても同じことが言える。もし、あなたが少年たちを向上させようと考えて説教をするなら、彼らの心を捕らえることはできないだろう。少年たちにとって魅力的で興味のあることをすることこそ、少年たちを魅きつける唯一の方法である。

 少年の心理はバイオリンの弦によくにている。なぜなら、正しい調子に合わせれば、本物の音楽を奏でることができるからだ。

 一般的に少年は健全な行動を通じて健全な精神を身につける。一方、大人の行動は精神によって活発になる。したがって、我々はカブを励ましてスカウトに上進しても、善い行いをする練習をし続けるようにする。このような行動を通じて少年は人に役立つ精神を身につけていき、最後にローバー、大人として犠牲と奉仕の精神を奮い起こすことになる。

 少年を10分以内に魅きつけることができないような人は放り出してしまえ。



  第三回          

1.少年の力

 もし、大人がみんな引き下がって少年たちに世界を支配させると面白いと思う。そうすれば、善意と友情に満ちた楽しい世界を持てるに違いない。

2.寛大な心
 
 寛大な心は、それを持っている人たちだけが他の人に伝えることができる。


3.キャンプ

 キャンプは、スカウティングの大きな特徴で、少年たちを引きつけ、健康以外に独立心と創意工夫を教える良い機会である。

 キャンプは広い所で行われる。しかし、一人そこに置けない者がいる。それは、たくさんある細々とした半端な仕事を分担しようとしない者のことである。キャンプには怠け者や不平屋がいるような余地はない。


 新米は「キャンプはつらい」という。しかし、キャンプで生活することをゲームと思っているスカウトにとっては、決して「つらい」ものではない。

 キャンプの目的は、a)スカウトの野外生活をしたいという少年たちの欲求に沿うものであり、b)少年の人格、独創力それに肉体的、精神的発達を促す個人的訓練のために一定期間、少年たちを完全に隊長の手にゆだねることである。

 全てのスカウトは、キャンプを終えるに当たり、二つのことを残して置かねばならないことを知っている。

 1.ゴミなど何も残さないこと
 2.あなたの感謝の心 ― 楽しい時を過ごせたことを神に、また、キャンプ地を使用させてくれた土地の所有者に

 キャンプをぶらぶらと遊んだり、怠けるための単なる言い訳に使われるなら、キャンプをしないより、もっと始末が悪い。

 自然研究を本当に適切な方法でできるのは、キャンプの期間中だけである。というのは、キャンプでは、朝から夜までずっと自然に接しているからである。

 私が理想とするようなキャンプは、みんなが陽気に忙しくしており、班はどんな状況においても変わることがない。そして、班長もスカウトも、みんな自分たちのキャンプと工作物に誇りを持っている。

 キャンプやハイキングでボーイスカウトが多く期待されていることを覚えておきなさい。そのためには、スカウト運動の良い評判を維持しなければならない。


 キャンプは、スカウトと違ってカブにとっては、必須のものではない。したがって、必要とされる全ての施設や経験がない限りは、全くキャンプをしない方が良い。

 良いキャンプというものは、カブたちにとって、長く続く価値があるだろう。まずいキャンプは、あなたにとっても、カブ隊にとっても、また恐らくこの運動全体にとっても長く続く不名誉なことになるだろう。この危険を犯すよりは、あまり魅力がなく、ゆっくりしていても可能な方法で、少年たちを訓練した方が良い。

 カブのキャンプはカブたちを研究するには、もっとも良い機会である。何故なら毎月の集会より、この数日間の方が、カブたちのことを、もっと多く知ることができるし、人格や清潔、健康など、どうすれば長く続く習慣として身につけられるかを、カブたちに影響を及ぼすことができるからである。


  第二回                       

1.冒険

少年たちというものは、古く汚れたあひるの池のようなつまらない場所であっても、冒険心をそそられるものである。隊長も少年の心を持っていれば、少年たちと同じように冒険を見出せるものだ。

どの少年も生まれつき冒険心を持っているのだが、人のたくさんいる街の中で冒険を見つけるのは難しいことである。

2.大望

 正しいことをしようという大望こそが大望である。


3.できの悪い少年

 指導者の目標は、見込みのある少年たちを援助してやるだけではなく、少々飲み込み悪い少年に、それ以上の力を注いでやることである。

 競技を行う時に予選ができるくらいの人数がいれば、勝ち抜き戦は勝者同士が行うのではなく、敗者同士でやるべきである。


 ゲームは、一番上手な者を見つけるのではなく、一番下手な者を見つけるようにする。そうすれば、上手な者が賞を取ろうとするように、下手な者は、ビリにならないように努力する。こうした競技の方法なら下手な者もうまくなるように練習するだろう。

 一対一の個人競技より、常に班対抗の競技をしなさい。そうすれば、一番下手な者もチームの平均点を上げようと努力し、上手くなる。
 競技は、自分自身のためだけに行うのではなく、班がよくなるために行うものである。


 一番遅い者のペースにあわせなさい。以前、私はスカウト特別教会の礼拝から出てきたスカウトに、牧師がどんな話しをしたのか聞いてみたことがある。その少年は、「大人たちのようにやめなさいということでした」と答えたので、「それはどういう意味かね」と聞いたら、「よくわからないけど、きっと大人たちのように教会にいくのをやめて働けということだと思うよ」と答えた。

 騎兵隊で、我々は最も遅い馬のペースに合わせるように教えられた。

4.悪い習慣

 
悪い習慣とは、虫歯のようなものある。取り除いてしまいなさい。

5.バランスの練習

 
体調を整える努力をすれば精神的な調和もとれるようになる。

6.美

 ガールスカウトは、何が美しいのかを見極められるように自分を訓練しなさい。


 下品で不潔な話しを聞いたり、そうした話しに加わったりすることを避けられる強い意志を持てるようになる。


 美しいものを鑑賞する機会のない人生は、日差しのない、どんよりした日々を過ごすようなものである。


7.本

 本は、大きな宝石箱のようなものである。その中には、金や宝石、金貨(中には、つまらない物も入っているが)が一杯詰まっている。その中にある、自分にとって大切なもの、残しておきたいもの、嫌なものを選り分けるのは、とても楽しいことである。


 本というものは、人間にとって最良の友である。好きなものを選んで、いつも頼りにすることができる。さらに、仕事や余暇を過ごす時の助けとなり、悲しみをまぎらわせてくれる。気の向いた時は、いつでも使えるようにそばに置いておきなさい。



  第一回             

1.スカウティングを始めた動機

ボーイスカウト訓練法の目的は、自己本位の観念の代わりに社会奉仕の観念を植え、精神も身体も共に公に奉じ得るよう、各人の能力を鍛えるのである。(中略)キリスト教旨の実践躬行を少年の日常の行為に求め、あえてこれを日曜日ごとの教会の説教に留め終わらせまいとするためのものである。
 ボーイスカウト訓練法のねらいは、利己を奉仕に置き換えるのである。そして若者たちの個々の道徳的・肉体的な能力というものを、地域社会への奉仕のために用いる能力とすることに目標を置いたのである。(中略)われわれは日常の生活や交際に、キリスト教信仰の実習をすることを目的としたもので、毎週の日曜日だけ神学的な告白をするのではないのである。

2.スカウティングの目的

 スカウティングの全目的は、少年達の性格がまだ固まらないうちに捉えて望ましい形にまとめ上げ、その個性を発展させるように促すことである。そうすれば少年は国にとって、善良かつ価値ある市民になるよう自分を磨くであろう。ガイド訓練の目的は、少女たちの環境がどうであろうと、少女たちに一連の健康的かつ楽しい活動を与えることである。そして、これらは少女たちを楽しませながら次の四つの特定の項目に従って、学校外の教育課程を与えるものである。

 性格と知性/技能と手技/肉体的健康と衛生/他の人への奉仕と仲間意識
ガールガイド運動の目的は、学校の外から好ましい環境と健康的な活動を与えて、両親、学校の先生、牧師たちを援助することである。

 スカウト訓練の目的は我々の将来の市民意識の基準を、特に性格と健康の点において改善することである。自己の奉仕に置き換え、少年たちが地域社会に奉仕するのに必要な能力を使えるように、少年たちを個人として有能で精神的、肉体的に立派にしてやることである。

 この運動における我々の目的は、地球上に神の国をもたらすことができるように、若い人たちの生活の中に無私の善意と協力の精神。そしてそれらを日々の実践として教え込むものである。
 ボーイスカウトとガールスカウト運動の目的は、市民男女に三つのH、すなわち健康(Health)、幸福(Happiness)、役に立つこと(Helpfulness)を授け、育成すことである。

 我々の目的は、次の世代の者達をかつてよりは、より広い展望を持った役立つ市民として育てることである。そして過去において戦争や不安を多く作り出した階級、人種、国家間に拡がる敵対意識に代わって、仲間意識と協力を通してこの世界に善意と平和をもたらすことである。我々は、全ての人間が唯一の神の息子たちとして、兄弟であると考え、互いに寛容と善意を愛を通して発達させることによってのみ幸福をもたらすことができる。
 我々の究極の目的は、それぞれの国に強い身体と知力、精神力を持った男らしい男たちを作り出すことである。すなわち、信頼される人間、つらい仕事のみならず、つらい局面にも直面できる人間、自分自身で決め多勢の意見に左右されない人間、国家をよりよくするのに、個人のかなりの部分を犠牲にできる人間のことである。

 その愛国心は決して偏狭なものであってはならないし、広い視野を持って他の国々の愛国者の大望に対しては、思いやりを持った目で眺めることができなければならない。
 道徳的なことより技術的なことに重きをおいてはならない。戸外での能力、森林開拓者としての能力、キャンプ、ハイキング、善行、ジャンボリーでの仲間意識、これらは全て方法であり、最終の目的ではない。最終の目的は性格である。すなわち、目的を持った性格である。

 その目的とは、気違いじみたこの世界で、次の世代の者の心を健全にして、神と愛や隣人への務めの積極的な奉仕について、より高い奉仕の実現を発展させることである。

 スカウティングが目指しているのは、少年たちにどう生きるかということを教えるのであって、単に生計の手段を教えることではない。