No045                         

         常 識


私は信仰の究極の目的は、完全なる人間を作ることであるとも思う。勿論世の中に完全ということは望み得べくもないが、少なくとも完全に一歩一歩近づかんとする修養――これが正しい信仰的態度である。故に信仰に徹すれば徹するほど平々凡々たる普通人のごとくに見えなくてはならない。そうなるのは信仰を咀嚼し、消化してしまったからである。その人の言動がいかにも常識的であり、万人に好感を与え、何を信仰しているか判らないくらいにならなければ本当ではない。人に接するや軟かき春風に吹かれるごとくで、謙譲に富み親切であり、他人の幸福と社会福祉の増進を冀うようでなくてはならない。(昭和23年9月5日)

【おきて】


(ボーイスカウト)「スカウトは親切である」
           
スカウトは、すべての人の力になります。幼いもの、年寄り、身体の不自由な人をいたわり、動植物にもやさしくします。

(ガールスカウト)「私は言葉と行いに責任をもちます」
    
 
 No044                         

         順序を過る勿れ


森羅万象の動きを観れば分かるが、すべて順序正しく運行されている。四季にしても、冬から春となり、夏となり、秋となるというように、梅が咲き、桜が咲き、藤が咲き、菖蒲が咲くというように、年々歳々不順序なく生成化育が営まれる。かように大自然は順序を教えている。もし人間が順序の何たるを知らず、順序に無関心である結果は、物事が円滑にゆかない、故障が起こりがちで混乱に陥りやすいのである。ところが今日までほとんどの人間は順序を重要視しないが、これを教えるものもないから無理もなかった。私は一般が知っておかねばならない順序の概略をかいてみる。

 まず順序について知りおくべき事は、現界のあらゆる事象は霊界からの移写であるとともに、現界の事象もまた霊界へ反映するのである。そうして順序とは道であり、法であるから、順序を紊すということは道に外れ、法に悖り、礼節に叶わない事になる。仏語に道法礼節という言葉があるが、この事をいうたものであろう。
 
 まず人間が日常生活を営む上にも、守るべき順序があって、家族の行動についてもおのずから区別がある。例えば部屋に座る場合、部屋の上位は床の間であり、床のない部屋は入口から最も離れたる所が上座である。上座に近き所に父が座し、次に母が、次に長男が、長女が、次男が、次女がというように座るのが法であって、こうすれば談話も円満にゆくのである。いかに民主主義でも法に外れてはうまくゆくはずがない。例えば、ここに一人ずつしか渡れない橋があるとする。それを数人が一度に渡ろうとすれば、混乱が起こり、川へ転落する。どうしても一人ずつ順々に渡らなければならない。そこに順序の必要が生まれる。また客が来るとする。客と主人との間柄が初対面の場合と、友人、知人の場合と、上役や部下の場合、座るべき椅子も座席もおのずから順序がある。挨拶等もその場に適切であり、相手によって違いがあるから、それに注意すれば、すべて円満にゆき、不快を与えるようなことはない。また女性、老人、小児等にしても、態度談話にそれぞれ区別がある。要は出来るだけ相手に好感を与えることを本位とすべきである。        (昭和23年9月5日)

【おきて】



(ボーイスカウト)「スカウトは礼儀正しい」
      スカウトは規律正しい生活をし、目上の人を敬います。言葉づかいや服装に気をつけ、行いを正しくします。

(ガールスカウト)「私は礼儀を正しくします」

    
 
 No043                         


         「世界人たれ」


 かの明治大帝の御製にある有名な“四方の海みな同胞と思う世に、など波風の立ち騒ぐらむ”すなわちこれである。みんなこの考えになれば、明日からでも世界平和は成り立つのである。全人類が右のような広い気持になったとしたら、世界中どの国も内輪(うちわ)同志というわけで、戦争など起こりようわけがないではないか。この理によって今日(こんにち)でも何々主義、何々思想などといって、その仲間のグループを作り、他を(かたき)のように思ったり、ヤレ国是(こくぜ)だとか、何国魂とか、何々国家主義だとか、神国などといって、一人よがりの思想が、その国を(あやま)らせるのみか、世界平和の妨害ともなるのである。だからこの際少なくとも日本人全体は、今度の講和を記念として、世界人となり、いままでの小乗(しょうじょう)的考えを揚棄(ようき)し、大乗(だいじょう)的考えになる事である。これが今後の世界における、最も進歩的思想であって、世界はこの種の人間を必要とするのである。話は違うが宗教などもそれと同じで、何々教だとか、何々宗、何々派などといって、派閥など作るのは、もはや時代遅れである。ところが自慢じゃないが本教である。本教が他の宗教に対して、触るるななどというケチな考えはいささかもない。かえって触るるのを喜ぶくらいである。というのは本教は全人類を融和させ、世界を一家のごとくする平和主義であるからで、この意味において、本教ではいかなる宗教でも、仲間同志と心得、お互いに手を(たずさ)え、仲良く進もうとするのである。
    (昭和2610月3日)

【おきて】



(ボーイスカウト)「スカウトは友情にあつい」
      スカウトはきょうだいとして仲良く助け合います。すべての人を友にし、相手の立場や、考え方を尊重し、思いやりのある人になります。

(ガールスカウト)「私はすべての人の友達となり、他のガールスカウトとは姉妹です」


     
 No042                         


      「信仰は信用なり」

例えばあの人のいうことなら間違いない、あの人と交際をしていれば悪いことは決してない、あの人は立派な人である−というように信用されることである。
それでは右のような信用を受けるにはどうすればいいかというとこれもわけはない。なによりも嘘をいわないことと自分の利益を後にして人の利益を先にすることである。いわばあの人のお蔭で助かった、あの人につき合っていれば損はない、実に親切な人だ、あの人と遇うといつも気持がよい−というようであれば、何人といえども愛好し尊敬することは請け合いである。何となれば自分自身を考えてみれば直ぐ判る。右のような人と識り合うとすればその人と親しく交際したくなり、安心して何でも相談し、いつしか肝胆相照し合う仲になるのは当然である。
(昭和24 年6月18 日)

【おきて】
(ボーイスカウト)「スカウトは誠実である」
スカウトは信頼される人になります。真心を込めて、自分のつとめを果たし、名誉を保つ努力をします。
(ガールスカウト)「私は誠実であるように努めます」



 No041                         

      「おきて」の理解を通じて

1.スカウトの名誉は信頼されることである。
2.スカウトは忠実である。
3.スカウトのつとめは、他人の役に立ち、他人を助けることである。
4.スカウトは全ての人々の友人であり、他の全てのスカウトと兄弟である。
5.スカウトは礼儀正しい。
6.スカウトは動物の友である。
7.スカウトは、親や班長または隊長の命令に黙って従う。
8.スカウトは、いかなる苦境にあっても微笑み、口笛を吹く。
9.スカウトは倹約する。
10.スカウトは、思考、言葉、行動において健全である。

この「おきて」に則って、日本的に文章表現されたものが、日本の「おきて」です。
この「おきて」が漢字ではなく、「かな」で書いたのには少なくとも2つの理由があります。それは「ちかい」を「かな」で書くと同じように和訓を選びました。
もう一つの理由は、漢字「掟」は、他律的で命令的ですが、それに対して「おきて」は、自律的・自発活動という意味です。これは「してはならない」という禁止的な表現ではなく、「する」「である」という自律的で積極的な表現を用いているからです。
また、この「おきて」の「おき」は、「心のおきどころ」という意味でもあり、「おきて」の「て」は、「行く手」という意味です。その「行く手」は、「ちかい」を指しています。
このことは、「ちかい」を「心のおきどころ」としており、「ちかい」に基づいた「おきて」の実践ということになります。
さらにつきつめると、「ちかい」は、「神へのつとめ」「他へのつとめ」「自分へのつとめ」という三つの原理に基づいており、スカウト一人ひとりは、「神」「他」「自分」へのつとめとして、「おきて」を実践します。
このように考えると「おきて」は、道徳的なものとして捉えるのではなく、信仰心のあらわれ方として見るべきではないでしょうか。



 No040                         

      「ちかいの意義」〜からだを強くし、心をすこやかに、徳を養います〜


明主様は、「人間が現世に生れるという事は神の命によるのである。生命の命は命令の命と同一であるのもその意味であろう。誰しも思う事は、人間は何が故に生れたかという事である。斯事を真に把握せざる限り正しい行動も安心立命も得られないのみか、空虚な酔生夢死的人生に畢る惧れがある。然らば神の意図とは何ぞやといえば、此地上をして理想世界、言い換えれば地上天国を建設する事である、とはいえどそれは恐らく、その規模に於て、其構想に於て、壮麗雄大なる言語に絶するものがあろう事は想像に難からない。何となれば無限に進歩しつつある文化は、極る処がないからである。此意味に於て現在までの世界歴史は、基礎的工作に過ぎなかったのである。そうして神は一人一人それぞれの使命を与え、特長を持たせ、生き更り死に替り、理想目的に向って前進せしめつつあるのである」と示されています。私たちは、この意味をしっかりと捉え、人間のあり方として、神様のご意志に応えるように努めるべきであるのではないでしょうか。そのためには、社会に役立つ自分づくりが必要です。
「私は今日一日を生かしていただくことができた。明日も生かせていただけますように、明日も誰かの役に立たせていただけますように」という感謝の心を持つことから始まります。心も身体も神様から与えられたものなので、心身ともに向上していくことが大切です。
さらに明主様は、「一切は霊が主で体が従であり、霊主体従が万有の法則であるからである。一例を挙げれば人間が四肢五体を動かすのも、眼に見えざる意志の命によるので、決して五体が勝手に動くのではないと同様である。故に奇蹟と雖も本原は霊に起り、体に移写するのであるから、この理を先ず確認する事である」と示され、現界の一切の出来事は霊界における出来事が移写されたものであり、霊を向上させることで心身が向上するとしています。その一つの方法として、善徳を積むことであります。その結果、霊を浄めることができ、心身ともに向上していくことができるのです。他人の幸福を願い、報いを求めない積み上げた徳は、神様のみ心に通じていくことでしょう。




 No39                         

            「ちかいの意義」〜いつも他の人々をたすけます」〜

 明主様は、「小乗信仰と大乗信仰の違いさは、小乗信仰は自分が救われようとするのです。自分はどうでもよい。世の中の苦しんでいるこの人達を救わなければならないというのが大乗信仰です。だから自分が救われようということは捨てて、多くの人を救わなければとても可哀相で見ていられないということを、本人が終始思って念願するのです。そういうのが本当の信仰です」と説かれています。われよしの現代社会にあって「自分のことを後まわしにして、まず他人の幸せを願う」という心を育てることこそ明主様の意に添うものです。
さらに「幸運者となるにはどうすればいいかと言うと、分り切った話であるが、善の種を蒔けばいいので、昔からいう善因善果、悪因悪果の言葉通りであるから、悪の種とは人を苦しめ、損害を与え、自分さえよければ人はどうでもいいというような利己的観念で、善の種とは他人を喜ばせ、他人に利益を与える利他愛観念である。としたら甚だ簡単のようだが、それが中々難かしいので、人生は厄介なものである。ではどうすればいいかというと、右の道理を信じ、守り得られる心を作る事で、そうなれば嫌でも実行するからである」と幸福者
になるためには、他人を幸福にすることであることを、具体的に説かれていました。
 ベーデン・パウエル卿の「最後のメッセージ」にも、「幸福を得る本当の道は、ほかの人を幸福にすることにある。この世の中を、君が受け継いだ時より、少しでもよくしてあとに残すように努力したなら、死ぬ時が来ても、とにかく自分は一生を無駄にしないで最善を尽くしたのだという満足感で、幸福に死ぬことができる。幸福に人生を送り、幸福に死ぬために、この考えで常に備え、いつもスカウトのちかいを守り、大人になってもそれを忘れないことだ」と幸福を得る方法として、私たちに言葉を残されています。
「ちかい」の「いつも他の人々をたすけます」の中には、心から他の人が「幸せになる」ことを願い、実践するという、一言では言い表せない深い意味があります。



 No38                         


          「ちかいの意義」〜神と国とに誠を尽くしおきてを守ります〜


 「世界救世教教義」に「世界の創造主たる主の大神(エホバ)は、この地上に天国を樹立すべく、大初より経綸を行わせ給いつつある事を吾等は信ずるのである」とあります。この教えに基づいて「神に誠を尽くす」ということは、明主様の望まれる人間としてどうあるべきかを常に心に置き、真文明世界実現を目標として、それぞれの使命を果たすよう努力することです。このような人々が多くなることによって、必然的に「国に誠を尽くす」ことになります。
 具体的には、救いの三本柱の実践により、深い理解が得られます。このことについても、明主様は「しかし懐疑そのものだけでは何等意味をなさないかせ、これによって誰でもこの謎を解こうとする意欲が起るであろう。それが尊いのである。何となればこれによって真理を?み、智識は進み向上されるからである。従って懐疑の起る人ほど進歩的で、将来性ある人と言わねばならない」と説かれ、実践することでより深く明主様が進められるご経綸を理解でき、その結果が真文明を創造していく営みにもなります。
まずは、個の取り組みから始め、その取り組みから家族、地域に誠を尽くすことから始め、やがて国、世界におよび、全人類に誠を尽くすことに繋がります。そのためにスカウトは、自分自身にも誠を尽くし、明主様のご経綸に添うためにも「8つのおきて」を受け止め、生活の基盤として、その実行を継続するように努力します。
 「世界人たれ」に「本教は全人類を融和され、世界を一家の如くする平和主義である」とあります。日本の国が世界の国々に愛され、信頼されるように誠を尽くす広い心と視野を持たねばなりません。



 No037                         


        「ちかいの意義」〜私は名誉にかけて、次の3条の実行をちかいます〜


 現代かなづかいでは「ちかい」ですが、もとは「ちかひ」と書いていました。「ひ」は霊であり神を意味する日本の古語で、神秘なエネルギーのことを意味します。この「ひ」に向かって近づこうとベストを尽くす人間の決意が「ちかひ」であります。
また「ちかい」は「あるべきところ」を指し、「あるべきところ」とは「真理」であります。これに対して「おきて」は、「あらしめる」を指し、「現象」であります。つまり「あるべきところ」に「あらしめる」のが「ちかい」と「おきて」の関係であります。ですから「ちかい」は神にちかうことであり、自分自身にもあり、同じ「ちかい」を立てた仲間にもちかいます。
 ちかいの式は、中世の準騎士が正騎士の身分入りをする時の叙任式の形をとって、ベーデン・パウエル卿が創案されました。それは英国聖公会の主教や司祭によって執り行われた歴史があります。スカウトは騎士の復活だと考えられたのです。
 騎士をもって基本的な人間の一例だとベーデン・バウエル卿は暗示したのだと考えられていました。
 また、騎士が「名誉にかけて」という場合は、「生命をかけて」ということに相当します。それぼど「ちかい」は重要なことであり、口先だけのものではありません。
 では、何故生命をかけるほど重要なのでしょうか。それは見えざるものを主とした世界を基本にした生活を高めていくからです。

ものの考え方の基盤を唯物的な考えから、唯心的な考えに改めていく価値観の転換をしなければなりません。この転換がなされなければ、明主様はもちろんのこと、神の存在、霊の存在までも否定されてしまいます。
 スカウトは、明主様の望まれている人間として成長するために「名誉にかけて3条の実行をちかう」のです。「私は、今この時から明主様に選ばれて、この言葉とともに、スカウトになるのだ」という自覚をもって「ちかいの式」に臨むことが大切です。

     
No36                          

            「人間が美化していくことの大切さ」


 明主様は、「大三災と小三災」の中で「霊界の曇りは人間の健康にも影響すると共に、草木特に農作物にも悪影響を与える結果、凶作の原因ともなり、害虫の発生も旺盛になるのである。故に今日日本各地における松や杉を枯死させる害虫の発生もこの理によるのであるから、人間が大いに向上しない限り、これを防ぐ事は難かしいのである。言変えれば日本人自身の過ちが、自分の国の松や杉を枯死さしているという訳であるから、人間の想念と言霊は大いに慎まなければならないのである」と述べられ、さらに「曇りとは如何なるもので如何にして堆積するかを解説してみるが、それは人間の想念と言霊によるのである。即ち想念の悪に属するものとして、不平、憎み、呪い、妬み、個人的怒り、偽り、復讐心、執着等が霊界を曇らせるのである」と述べられています。これは私たち一人ひとりの言語行動が環境問題に大きく影響していることを説かれています。
 その解決策として「即ち人間にあっては心の美即ち精神美である。勿論、言葉も行動も美であらねばならない。これが個人美であり、個人美が押し拡がって社会美が生まれる。即ち人と人との交際も美となり、家屋も美わしく、街路も交通機関も公園も、より美わしくなると共に、美には清潔が伴なうのは勿論で、大にしては政治も教育も経済関係も美わしく清浄となり、国家と国家との外交も美わしくならなければならない」と説かれています。
 先ず、私たち一人ひとりの精神性を高め、言動を美化していくことが大切であります。その意味でも子どもたちに美化活動や、さまざまな奉仕活動を体験させる中で、美意識を養うとともに、日常生活の中においても、実践できるように導くことが大切です。





                          

         「子どもの不良化」について


 この問題の根底には、地域、学校、友人、家庭、個人等々、多種多様な要素が含まれています。しかし「子どもの問題は親にある」ということは間違いのない真理であります。親がしっかりとした信仰を持って、子どもの教育に当たるならば、何の問題もありません。なぜなら、子どもの健全な成長は、幼児期における生活習慣を抜きにしては考えられないからです。そして、子どもが初めて接するのが親であり、子どもは親の姿を見て、その姿の真似をしながら成長する「写し鏡(鑑)」でありますので、親としては、一番子どものために心底から沸き起こる良い心の行いをすることであります。
 また、父母の中には、自分の子どもをどのように育てればよいのか戸惑っている場合があります。特に若い父母は、いかに子どもを育み、教育すれば良いのか、明確な方針を持ち合わせていないことが現実ではないでしょうか。もし、親として子どもの教育に対するしっかりとした信念がなければ、真の愛情をかけていくことはできません。例えば、親として子どもの幸福を考えるあまり、大き過ぎる期待をかけたり、自分にできなかった夢を託す場合があります。それから、目先のことにとらわれて、狭い視野に立った愛情で子どもを見ていくと、結果において子どもの可能性を潰したり、親子の対立を生むことにもなりかねません。ですから、愛しい我が子であるという見方と共に、神様の命によって、その子どもにしかできない使命を受けて、この世に生まれた一人の人間という見方が必要であります。




                          


 霊界の実相、霊界と現界との関係を学び、他の人を助け、祖霊供養に心がける霊と体が密合するところに、人間の本質がありますが、現界における体がなくなることによって、霊が独立し、霊界での生活が始まります。従って人間の死を意味するところは、肉体が滅びることであります。このような霊界と現界の関係は、霊主体従の法則、霊体一致、浄化の理を踏まえて成立しています。
 これらのことから、それぞれ生きている人間は、自分一個の存在ではなく、祖霊の繋がりで、祖霊の延長であることをしらなければなりません。言いかえれば、無数の祖霊の総合が、固体たる人間であり、無数の祖霊の霊線が、自分一個の霊と繋ぎ合っているということです。
 さらに、祖霊が負っている霊の曇りも、人間に流れてくるのです。そのためにも、現界にいる私たちは、誠意をもって懇ろなる法要を営み、他の人を助け、心底から沸き起こる良い心の行いをすることによって、祖霊の浄化作用は促進されるのであります。このように私たちの幸福と祖霊の向上とは切っても切れない深い関係にあるのです。





                          


             自然と積極的に触れ合い、多くの技能を身につける

 大自然の摂理は、人間の本来あるべき姿を教えてあまりあるものです。
 大自然は、私たちに謙虚であるべきことや、順序のあることを教えてくれています。

 明主様は「時期を待て」の教えの中で、「大自然は人間に対し時期の重要性を教えており、大自然のあるがままの姿こそ真理そのものである。従って人間は何事をなすにも大自然を規範としなければならない。それに学ぶ事こそ成功の最大条件である」と説かれています。何事も、人間の力で解決できる、克服できると慢心してしまうところに大きな落とし穴があるのです。

 B-P卿の“世界を少年に任せてしまえば良い”という発想は、全て、鋭い観察眼や感性を備えた、好奇心や冒険心豊かな少年期に、自然という追随を許さない師匠に学べという意味に外なりません。

 私たちが、自然の中で暮らせば暮らすほど、自然は私たちに様々な工夫をする機会と才能を与えてくれるものです。技能を磨く最高のチャンスでもあります。自然の中で暮らすことを通して学んだ技能や、細心でしかも大胆な発想や行動は、人生を開く大きな鍵となり、生涯忘れずに心や体に残るものです。大自然の計り知れない猛威と、底知れない慈しみを体験する機会を子どもたちに与え、強さと優しさを兼ね備えた社会に役立つ立派な人間に育てていきたいものです。




                          
 

                   救世スカウトの目的とは        発行日:平成22年 3月 6

 「教育」の一環として、救世スカウトを捉える時、その意味することとして、「教育は立派な人間をつくることである」というところに行きつきます。
明主様は、『社会悪の根源』の中で次のようにみ教えいただいています。

『人間は自身の不正行為に気が咎めなかったり、不純な行為に恥じる心がなかったり、人を苦しめて哀憐の情が起らなかったりするとしたら、それ等は最早人間としての価値を失っている。何程口に高邁な理論を説き、学識を誇ると雖も、それだけでは人間の価値はない、魂のない物質人間である。かような人間が今日あまりに多過ぎる為、社会悪が瀰漫し、地獄的世相を顕出しているのである。一言にして言えば、日本全体が重症患者となっているとも言える。
 以上のような憂うべき現象は何が故であろうか。それは全く、我々が常に言う処の唯物主義教育の為である事は、一点の疑いを挿むべき余地はあるまい。この故に、社会悪絶滅の方法は別に困難ではない。ただ唯物主義思想を打破する事それだけである。然らばその方法は何か、言うまでもなく唯心主義教育である。即ち神を認める事である。霊を、霊界の存在を信ずる事である。
 それが宗教本来の貴重なる使命である。と言っても、徒らに宗教理論を唱えたり、説教やお念仏だけでは神や霊を認識させる事は不可能である。どうしても如実に奇蹟を現わす事であり、顕著な現当利益を与える事であって、それ以外に唯物思想を打破する方法は絶対にないのである』


 このように、立派な人間をつくるためには、先ず、現代教育の中に存ずる知育偏重等への傾向を正し、今の教育の中にあるさまざまな間違いに気づく必要があります。さらに、現代教育(知育偏重)に代わるものを、子どもたちに与えなければなりません。その一番基本となる条件に挙げられるのが、「見えざるものを信ずる教育」であり、神仏や祖霊、目に見えないものを心から信じられる人を育成することです。つまり、人間の学力を対象とした教育には限界があり、人間の霊
性を開発しない限り、立派な人間、社会に役立つ人間をつくることはできないということです。
 二つ目として、日常生活の中で先ず、人の幸福を第一に考える人になることです。子どもの時代から人に尽くす喜びを体得することが、その子どもの人生にとって如何に大きな価値を与えるかは、想像をはるかに越えるものがあると思います。この点においても、人間の霊性を認め、霊性を尊重し、霊性を開発するという意識が指導者に要求されます。
 三つ目として、大自然を規範とすることであり、本来、大自然と人間は一つのものであり、自然と人間を別個のものとして、対立的に考えて対応するものではありません。
例えば、昔からよく朝起きると、昇り来る太陽に向かって拍手を打ち、本当に自然に神を感じて手を合わせ、自然の中に神があるという習慣が培われてきました。それは、自然の恵みのありがたさ、また、自然というものの怖さも十二分に知り尽くし、いかに自然と共にあるかということを長い歴史の中で培われてきました。何故なら、大自然のあるがままの姿こそ真理そのものであり、人間は何事も大自然を規範としなければならないからでありました。
 これらの教育観を通じて、21世紀を創造していく力溢れる人材を育成していくことが必要であり、世界の大転換期に際し、地球的視野に立った次世代リーダーたるべき人材の輩出が可能になることでしょう。








                          


            累進・生涯教育(積極的な自主教育である)             


 明主様は、『新人たれ』のみ教えを通して、人は常に進歩向上を心がけなければならないことをお示しいただいています。また、『宗教プラグマチズム』のご論文を通じて、「宗教行為主義」という言葉をお使いになられ、常に開拓進歩を遂げることをご教示いただいています。よって、「愚夫・愚婦」に止まることを厳しく戒めておられます。

 B−P卿は、“私たちは、常に前途に大きな目標を掲げて置かなければなりません。そして、目標に向かって常に足取りを向けなければなりません”“自ら探し求めて得た知識は永続する。そうでない知識は永続しない”と語りかけ、ガールスカウトには、“ガールガイドの訓練の目的は、我々の少女たちに一連の健全で楽しい活動を与えてあげることにあるのです。そしてそれらの活動が、彼女たちに喜びを与えると共に、四つの実践的な点で学校の勉強の他に教育を与えているのです。つまり人格と教養を学ぶ課程、技能の手作業の課程、肉体的な健康と衛生に関する課程、他人や仲間に対する奉仕の四つである”とも述べています。

                 


           
                          


                  人間性の向上と心身の鍛錬を計る             平成21年9月8日

 人間性の向上や心身の鍛錬を図るためには、先ず正しい人間観を持つことが大切です。「人間は何のために、この世に生まれてきたのか」ということについて明主様は、『人間が現世に生まれるという事は神の命によるのである(中略)然らば神の意図とは何ぞやといえば、この地上をして理想世界言変えれば地上天国を建設することである。(中略)そうして神は一人々々それぞれの使命を与え、特長をせ、生き変わり死に変わり、理想目的に向かって前進せしめつつあるのである』とおっしゃっています。
 人間は理想世界の実現を目指して、努力精進を重ねた結果、物質文化は急反面、難病奇病、犯罪、精神的疾患も激増してきたのが実状ではないでしょうか。このような現代を明主様は「半文明半野蛮の時代」と喝破され、真文明創造の根本的あり方を次のように示されました。
『現代は最も進歩した文明世界と誰しも思っているだろうが、その内容をよく検討してみると、余りに欠点の多いのは、日々の新聞をみても分る通りで、犯罪者や不幸な人間の記事で埋まっている。(中略)では一体この情勢に対し如何にすればいいかというと、それは敢えて難かしい事はない。至極簡単である。即ち私が常に唱えている唯物偏重教育より目覚め、唯心教育を
勃興させる事である。分り易くいえば、形のみを信じ、形なきものは信じないという迷蒙を打破する事であって、その唯一の方法としては、宗教の力によって、神の実在を認識させる事である』とおっしゃっています。

 その意味で、理想世界を建設するには、人間一人ひとりに神の実在を認識させることであり、み教えに基づいた人を救う実践がその要となります。そしてこのことが魂の向上にも繋がるとみ教え下さいました。『それには人を助けるのです。そうすると人の感謝によってその人は始終光を受けますから、それでこっちの魂が浄まるのです。つまり難行苦行の代りに、人を喜ばせ、人を助ける、それによって同じ結果を得られるというわけです』とおっしゃっているように、常に神様の意図を受け止め、実践していく努力が必要であり、その体験一つひとつが全てその人の力になり、さらに大きな幸せがいただけることは間違いありません。

 B−P卿のいう“幸福を得る真の方法は、他人を幸福にすることにある。この世を去る時、あなたが生まれてきた時よりも世界がもっと良くなっているように努力せよ”の精神も、“他の人を幸せにしなさい。そうすればあなたも幸せになる。なぜなら、そうすることによって、あなたは神のみ心を行っているのだから”という言葉もこのことを奨めているのではないでしょうか。




                          


                      誠・正直・正義を貫く心・叡智   発行日:平成21年 6月18日

 
信仰を ただ一口に約むれば 誠の一字につくるなりけり」

 明主様は、『誠』、『誠の有る無し』、『感じの良い人』、『信仰は信用なり』、『評判と感情』、『悪に対する憤激』、『正義感』、『正直と嘘』等、数多くのご論文を通して、「誠」の重要性を説かれています。


 B−P卿は、『スカウト運動における我々の目的は、青年たちに利己心のない善意と協力の精神とそれを実践することを教えることによって、神の国をこの地上にもたらすことである』、『義務を果たし、他人を助け、率直で、正直で、快活で勇敢あれ。いつもこれを正しく続ければ、神のみ心がわかり、報いを得られるであろう』、『人生の目的とすべきもの、それは次の三つである。丈夫で健康な身体。何が必要とされているかを素早く読み取って、それを行うことができる頭脳。どんな犠牲を払うことになっても、正しいことを行う精神』と述べています。



                      
     
                     自然観・大自然の摂理        平成21年 3月 6日


「大空の 広きを仰ぎて意ふかな 限りも知らぬ神の大愛」大自然の摂理を通じて、私たちの日々の生活や行動の規範を神さまが示されているとして、明主様は、「無神論に就いて」「植物は生きている」「順序を過まる勿れ」「時期を待て」等のご論文の中でこのことを教えていただいています。

 B−P卿は、“神はあなた方が楽しむためになんと美しい、しかも素晴らしいものに満ち満ちた世界を造って下さったのだろう”“神は美と不思議なことがいっぱいあるこの世界を、我々が住むために与えて下さった。そして、もしそのように見ようという気持ちさえあれば、それを見る目ばかりではなく理解する心まで私たちに下さった”“周囲を見渡して、自然の驚異についてできるだけ多くのものを学びとり、神があなたに与えたもうたさまざまな美と面白さを見よ”“大自然を理解することは、ある場合には信仰に至る第一歩になることもあると私は主張する”と述べています。
自然の中には、人間に示された神のメッセージがかくされているのかもしれません。
このメッセージを読み取ることが人間の生き方を理解することができることでしょう。




                  


         地上天国建設の思想
       平成20年12月15日

 地上天国建設は、私たちの最大の目標です。しかし私たちは、ときおり物質的な天国化ばかりに心や目を向けがちになります。実は「心の天国化」こそ、まず一番に達成しなければならないものなのです。
 明主様は、「天国を造るにはまづ一番の元は、ご自分ですよ。自分が天国にならなければならない。けれども、自分の境遇や家庭を、急に天国にすることば出来ない。だから、その因である自分の心ですね。心を天国にする。そうすれば、一家が天国になり、一国が天国になり、世界が天国になるんでから、まづ何といっても心を天国にする」と説かれています。

 B−P卿は、“天国は死んでから行くどこか空の高いところにある幸福の国ではなく、今ここに、この現実の世界に、しかも我々の家庭の中にあるものだ”
 “善意と協力、すなわち他人への奉仕を通じてのみ、人間は真の成功、つまり幸福に到達する。そして、この時はじめて人間は天国は来世の夢ではなく、この世にあるものだということを知るであろう”

 “天国とは、空の上のどこかにある何か漠然としたものではない。天国はここに、家庭の中にある。富や地位にあるものではなく、あなたが自分の頭と心と手を使って、自分のやり方でどのように自分で天国を造り出すかによるのである”と述べています。
 つまり「個人が救はれ完成し、それが拡って世界は救はれ、完成されるのでありますから、先づ個人が救はれ完成しなければならないのであります。一軒の家が世界の型とすれば、一家が天国になって、救はれて世界は救はれる訳であります」という教え通りの活動であります。


                   

             
 利他愛の徹底的な奨励            平成20年9月22日


          よき心 つとめておこせ重なれば いつかまことの善人となる

 明主様は、「幸福」「幸福の秘訣」「私というもの」「唯物主義が悪人をつくる」「入信以前の私」「宗教文明時代」等、多くのご論文の中で、人の幸福を願う心の大切さを繰り返し、み教え下さっています。

 B−P卿も、“「一日一善」行って、人を幸福にすることが第一歩である。自分が幸福になることを考えなくても人を幸福にすれば、やがて自分も自然に幸せになることがわかるであろう。”“人のために良いことをしたという喜びほど、大きな喜びはない。それこそ現実的で人間的な形の神のみ業だからである。”と述べています。

 決して幸福は我よしの心から求めて得られるものではなく、他人を幸福にし、相手の感謝や喜びの中から薫り出てくるものです。

 また、“他の人を幸せにしなさい。そうすればあなたも幸せになる。何故なら、そうすることによって、あなたは神のみ心を行っているのだから。”とも述べられています。



                


                 信仰教育の徹底          平成20年6月25日


明主様は、「唯物偏重教育より目覚め、唯心教育を勃興させる事である。分かり易くいえば形のみを信じ、形なきものは信じないという迷妄を打破する事である。その唯一の方法としては、宗教の力によって、神の実在を認識させる事である」と教えを説いておられます。
 一方、B−Pは、“人は神を信じ、神のおきてに従わなければ、決して良い人間とはいえない。それゆえ、どのスカウトもみんな宗教を持つべきである”“神を敬うこと、隣人を尊ぶこと、そして自分自身を神のしもべとして尊重すること、これは全ての宗教の基本である。スカウトはみんな何かの教派に属して、その礼拝に出席すること”“神のチームの良き一員となれ”等々、繰り返し明確な信仰の堅持を奨励しています。
 このことは、スカウト運動の基本原則の中でも、「神へのつとめ」「他へのつとめ」「自分へのつとめ」というように、3つの原理として示されています。原理とは、スカウト運動の目的を達成する際に守らなければならない「基本的な規則と信念」であり、「加盟員を特徴づける行動規範」を表しています。この3つの原理を反映するのが、「ちかい」であります。
B−Pは、この3つの原理の意味について、次のような意味の言葉を示されています。

◇自分へのつとめ

 神からいただいた心と体を健康にしておくこと。そして、神からいただいた資質(個性と特長)に気づき、高めていくこと。


◇他へのつとめ

 自分以外のものへの貢献をすること。このことを通して、魂(心の内面にある神の片鱗)を強く育てていくようになる。
それは、人生の中から「何を得ることができるか」から「何を与えることができるか」と変化していく。


◇神へのつとめ

 神を決して忘れないというだけではなく、何をするにも神を思い出すということである。自分へのつとめ、他へのつとめを実行することが、神の意思を果たすことに繋がる。
 B−Pが残した「最後のメッセージ」にある“神は、私たちを、幸福に暮らし楽しむようにと、このすばらしい世界に送ってくださった”ことが人間のあるべき姿であるならば、3つの原理を「行動規範」とし、人間としての役割を全うするためにも、まずは神の実在を認識するための教育こそが必要になってきます。



                    



                        信仰実践努力          平成20年3月25日


 明主様は、「プラグマチズム」の教えの中で「宗教を総てに採入れる事によって如何に大なる恩恵を受けるかを想像する結果として、こういう事が考えられる。先ず、政治家であれば第一不正を行わない。利己のない真に民衆の為の政治を行うから民衆から信頼をうけ、政治の運営は滑らかに行く、実業家にあっては誠意をもって事業経営に当たるから信用が厚く、愛をもって部下に接するから部下は忠実に仕事をする為堅実な発展を遂げる。教育家は確固たる信念をもって教育に当るから生徒から尊敬を受け、感化力が大きい」と示されています。

 指導者として、たとえ教える技術がいたらなくとも、分からないことは分かるまで努力しよう、教え方が間違っていたら素直に反省し改めていこう、という謙虚な姿勢と、情熱に関しては誰にも負けないと言える自分であることが大切です。

 人を指導しようという人は神を信じ、人間を神の子、尊い存在として考える心をもった人でなければなりません。そうであるからこそ、「向上して行くのが人間であり、駄目な人はいない」という人間観を前提にして、育成を考えていくことができるわけです。明主様の“人間は無限に進歩向上する”との教えこそが、教育活動を進める拠り所であります。また真実と真理を何よりも大切にするという態度に貫かれていることが大切です。

 良き指導者になる為の条件としては、み教え拝読を徹底し、それを一つひとつ実践することによって得た証を通じて、明主様のご神格を魂深く覚らせていただくことが大切であり、明主様のご神格を?めただけは子どもたちにも反映し、指導者としてはスカウトの技術的な向上は勿論のことですが、自ら教えを実践することが最も大切な、しかも基本的なことであります。

 ベーデンパウエル卿も“人々を指揮するためには、その人たちの信頼を得ていなければならないし、そのためには、自分を信頼しなければならない。自分への信頼は、仕事を完全に良く知ることによってのみ得られるものである”と述べています。

 私たちは、子どもたちに信仰を伝える上で、ただ単に義務の押し付けをしていても意味はなく、私たち自身が実践し、納得してこそ影響力があるわけです。

 そのために、信仰と生活とスカウティングが一体のものであることを理解した上で、自ら実践を重ね、喜びを見出し、自らの姿を通じて、子どもたちに伝えていくことが大切です。





                


                  祖先の働きを意識した日常の育成           発行日:平成19年12月10日

明主様は、人間には主神の分霊である本守護神、祖先の中から選抜された正守護神、後天的に憑依した副守護神があると説かれています。

 正守護神の働きについて明主様は、「人間が危険に遭遇した場合、奇蹟的に助かったり、また暗示を与えられたり、夢知らせや虫が知らせる等の事があるが、皆正守護神の活動によるのである」と説かれ、正守護神の働きが人間の運不運に大きな関わりをもっていることを明らかにされています。

 本来祖霊は常に子孫の繁栄と幸福を願っているものです。祖霊に対して感謝と誠を尽くしていくならば、祖霊の働きによって人生は導かれていくことでしょう。

 先ず、指導者自身がそうした祖霊の願いや、正守護神の働きがあって導かれていることを理解することが大切です。同時に、子どもたちが人間として正しい人生を歩んでいくためにも、祖霊の働きを充分認識した上で日常の育成にあたることが大切です。


【明主様の教え】

1.本守護神について

人間がこの世に生まれてくるということは、神からの受命によることはさきに説いた通りである。この神から受命された霊魂を称して本守護神というのである。
  そうして本守護神は絶対善性であり、良心と名付けられているものである。  
                               (「守護神」 昭和181023日)

2.正守護神について
  正守護神とは、祖霊から選ばれた霊で、危急の場合助けたり、重要なことは夢で知らせたり、また特殊の使命をもつ者は神様(大抵は産土神)がお助けになることもある。例えば汽車が衝突しようとする場合、神様はどんな遠くでもよく知らせるから、一瞬にして汽車の霊を止めてしまう。その場合、何百、何千里でも、一秒の何十分の一の速さでその場所へ到着し救われるのである。
                                                (「奇蹟の解剖」 昭和26年6月6日)

3.副守護神について
  本来人間には、神より与えられたる本霊―すなわち善霊と、動物霊たる副霊すなわち悪霊と、この両様の霊が、必ず内在しておって、この両者が、絶えず闘争しつつあるのであります。したがって副霊が勝った場合は、悪の行為として顕れ、本霊が勝った場合は、善の行為となるのであります。
  しかし、いかなる場合でも、本霊が勝って行くことが、原則なんで、人間の本来の道なんであります。しかし副霊が勝てば、それが脱線になって悪となり、範囲を越えるから失敗をし、苦しみをすることになるんであります。それですから副霊は、悪でありますから、どこまでも人間を脱線させようと、絶えず骨を折っているのであります。
                                               (「本然の道」 昭和10年5月21日)





                


            早期教育の弊害       発行日:平成19年 9月14日

 明主様は、「早期教育の弊」の教えの中で、「今日の人間は、智慧が発達して頭脳が悪くなったというと、変な言い方だが、実はこうである。浅智慧の上っ面の、小才のきく人間が多くなって、智慧の深い、ドッシリした人間が少なくなったという意味である。これは何の為かという事であるが、これに就いて私の考察によれば、全く早期教育の結果である。
 早期教育が何故悪いかというと、頭がある程度発達しない時期に、学問を詰め込む、つまり学問と発育のズレである。本当からいえば人間は年齢に応じて、頭脳も身体も適度に用いなければならないに拘わらず、早期教育とは、七、八つの児童に十五、六歳の頭脳労働をさせるようなもので、全く学問過重である」と述べられ、早期教育の弊害を説かれています。

 現実の社会をみましても、知育偏重と学歴優先のために、機械的な記憶力は養われても、子どもたちの豊かな感性や創造力は失われつつあります。
 ベーデンバウエル卿も、「物事には、全て取り組むに相応しい年齢があり、相応しい時期に、相応しい事柄に挑戦させることである」という言葉を残しています。そうした意味でも、私たち自身が、子どもの年齢に応じた教育のあり方を考えていく必要があります。


今年はスカウト運動創始100周年B

☆ ギフト・フォー・ピース
   ギフト・フォー・ピースとは、みんなで平和について考え、自分たちにできることから実践していくことです。必ずしも、新しい活動をしようというものではなく、日頃のスカウト活動を通じて、すでに実践している内容でもあります。私たち日一人ひとりにとって、もっとも大切な「世界が平和であること」を考え、実践していこうというものです。

   〜 一人ひとりが平和に向けた自らの役割に気づく機会〜

 「贈り物」の意味で、「ギフト」という言葉を使いますが、ギフトには「神様から授けられたもの」「天賦の才」という意味もあります。そして、特別な人だけに与えられるものではありません。誰とでもすぐに友だちになれること、どんな困難な時にも笑顔を絶やさずにいられること、そのようなこともその人に授けられたギフトと言えます。

  しかし、自分のギフトに気づかず、何もしなければ、残念ながら何も起こることはないのです。自分のギフトに気づき、それをどのように世の中に還元するのか、特に平和な世界を築くためにどのように使い、どのように行動するのか、それがギフト・フォー・ピースの目指すものです。


  〜 スカウティングは「よりよき世界を築く」ことを願っています 〜

 それぞれの国や地域のスカウト組織は、青少年がそれぞれの社会に貢献する積極的な市民として活躍できるよう展開しています。スカウトは、「ちかいとおきて」を実践しながら、それぞれの地域社会に役立つような、さまざまな活動にも意欲的に取り組んでいます。

  よりよき世界、より平和な世界を築くために、一人ひとりが自分たちのギフトを、気づくことができるように活動を展開しましょう。

 詳しくは、下記、HPアドレスをご覧下さい。
ギフト・フォー・ピース http://www.peace-scout.jp/


                    



         型と順序   〜個と家の完成〜           発行日:平成19年 6月 6日


 型の完成とその拡大について、霊主体従の法則に則って、まず霊界に拡がり、次に現実の世界の結果として現れることを明らかにされています。それは、現界で小さな型ができれば、霊界で拡大され、現界に映ってくるということです。神人合一の境地に立たれた明主様が、「型と順序で経綸を進めている」と説かれていますので、何か別の方法で進めても進むことはありません。

 「個人が救われ完成し、それが拡って世界が救われ完成されるのでありますから、先ず個人が救われ完成しなければならないのであります。一軒の家が世界の型とすれば、一家が天国になって、救われて世界は救われる訳であります」と説かれているように、この型は個人から家庭、地域そして世界へという、順序に従って拡がっていくのです。つまり、個の救いと個の完成、家の救いと家の完成ということを、明主様は地上天国建設の最初の型として捉えておられるのです。

 そのためにも、自らが地上天国建設のために、神の代行者として進んで実践することを第一に捉え、自分自身の完成を目指し、それを家庭内から実践していくことが、地域社会へと拡がっていくことでしょう。



今年はスカウト運動創始100周年A

☆ サンライズ・セレモニーとは・・・

2007年8月1日は、ベーデン-パウエル卿がブラウンシー島で実験キャンプ(ボーイスカウト運動のスタート)実施から100年目の日になります。
 世界スカウト機構(WOSM)に加盟する世界中のスカウトが、それぞれの国の「日の出」にあわせ、スカウティングの新しい世紀の夜明けを祝います。

 この「サンライズ・セレモニー」は、キリバス、カムチャッカ、フィジー、ニュージーランド等、日付変更線に近い地域のスカウトたちから始まり、地球を一周します。

私たちの救世スカウトの団でも、2007年8月1日「サンライズ・セレモニー」を実施しましょう!



                


               指導者との連携の密接化           発行日:平成19年 3月 3日

 子どもといえども、神様より使命をいただいて、この世に生を受けているという意識のもと、子どもたちがスカウト活動や日常生活の中で、発見したことや感動したことに耳を傾け、ともに神様の働きを確認し合うことができれば、神様に対する感謝の心は自然に芽生え、子どもの人生に大きな影響を与えることに繋がります。
 しかし、理屈は分かっていても、なかなか思うように行かない場合が多いものです。そのためにも、親は、子どもたちが何を求めているのか、しっかりと把握し、また、親としては、何をスカウティングに求めているのかを、指導者と率直に語り合うことが大切です。
指導者と密接な連携を持つことにより、安心して、より充実した子どもたちの育成にあたることができるはずです。



今年はスカウト運動創始100周年ンシー島から始まったスカウト運動・・・いったいどこにあるの


ロンドンの南西約100km.にあるイギリス本島の南、イギリス海峡に面したボーンマス西側のプール湾内に浮かぶ八つの中で最大であり、長径2km.短径1km.程度の東西に長い楕円形をし、2つの小さな湖があります。 ローマ時代のガレー船や古代デンマークの帆船が基地とし、クヌート王が財宝を隠したという伝説、15世紀頃にはハリーページの隠れ家があり、16世紀には密輸業者のアジトになっていました。

 1901年以降は、バン・ラルート家の地所となっていましたが、現在では、島のほとんどをナショナル・トラストによって所有され、自然保護区に指定されています。


 1907年、B−Pと21人の少年がこの島で8日間の実験キャンプを行いました。そして、この島には「スカウト最初のキャンプ」として、それを記念する石碑「スカウト・メモリアル・ストーン」ガ立っています。



詳しくは、BS山口連盟のホームページhttp://www.ymg.urban.ne.jp/home/bsymg/ に、ブラウンシー島の写真や実験キャンプ地等が詳しく掲載されています




                           



             『宗教は幸福への不可欠な要素である』            発行日:平成18年12月4日


                     (ローバーリング ツウ サクセス より)



君たちが成功―すなわち幸福―への道へ歩みを踏み出そうとするならば、無宗教ないかさま師の仲間に引き入れられるのを防ぐだけではなく、君の生活に宗教的な基盤を持たせなければならない。その意味では、単に教会に行くとか、聖書の歴史を知るとか、神学を理解するということに留まらない。多くの人々はそんなことはほとんど知らなくても、また勉強しなくても、心から宗教的なのである。宗教は非常に簡明に述べれば、次のことである。

第一に、神とは誰か、何かを認識すること。

第二に、神が授けた生涯に最善を尽くし、神が我々に望んでいることを行うこと。これは、主として、他の人々に役立つことをするということである。

君の信仰はこうでなければならない。この信仰はただ日曜日にだけ思う信仰ではない。日々の生活のあらゆる時間、あらゆる場面において守るべきものである。

以上の2つの要点に到達し、無神論者にならないようにする方法として、私は君に実行を奨めたいことがある。

その一つは驚くべき古典、つまり聖書を読むことだ。それは神の啓示を読みとれる上に、君たちはそれが歴史と詩と道徳の教えとに満ちた素晴らしく興味ある物語であることを発見するであろう。

今一つは、もう一つの素晴らしい古典本、すなわち「大自然」という本を読むことである。そして、大自然が君を楽しますために作った驚異の美について、できる限り観察し、研究することである。

それから、君は神が君に貸し与えた生命を燃やす間に、どうすれば神に対して最善の奉仕ができるかということに、君の心を向けることである。

この文章は、ベーデンパウエル卿の著書「ローバーリング ツウ サクセス」の中の「無宗教」という項目の中に掲載されていました。
文面には「聖書」というところがありますが、これを「明主様の教え」と置き換えることで、明主様が示した人間観というものが、見えてくるのではないでしょうか


                            

                        『愛と知の温床』            発行日:平成18年8月24日


明主様は「植物は生きている」のみ教えの中で、「私は花に対して決して無理をせず、出来るだけ自然のままに活けるので、生々として長持ちがする。というように、余り弄ると死んでしまうから、面白くない。そこでいつも活ける場合、先ず狙いをつけておいて、スッと切って、スッと指すと実にいい。これも生物と同様弄る程弱るからである。又この道理は人間にも言える。子を育てるのに親が気を揉んで、何や彼や世話を焼く程弱いのと同様である」と説かれています。

 親として子どもに対するしっかりした観点がなければ真の愛情を懸けていくことはできません。例えば親として子どもの幸せを考えるあまり、大きすぎる期待をかけたり、自分にできなかった夢を託す場合があります。あるいは、目先のことにとらわれて狭い愛情で子どもを見ていくと、結果において、子どもの可能性を潰したり、親子の対立を生むことにもなりかねません。
 
ですから、ただ単に、愛情を注げばよいというものではなく、※@叡智を働かせて、子どもの将来を思い、封建的にならず、子どもの人生を長い目で見ることが必要になります。

 愛しい我が子であるという見方と、※A神様の命によって生まれ、その子どもでないとできない使命を受けて、この世に生まれた一人の人間という見方、この二つの見方を持って、子どもに接していくことが大切です。
 ※@「叡智とは、賢明な人間が現わす智慧で、仏教で智慧証覚とか単に智慧というのはこれをさすのである」(み教え「五智を説く」より
 ※A「人間が現世に生まれるという事は神の命によるのである。生命の命は命令の命と同一であるのもその意味であろう。誰しも思う事は、人間は何が故に生まれたかという事である。(中略)神の意図とは何ぞやといえば、この地上をして理想世界言変えれば地上天国を建設する事である。
 そうして神は一人々々それぞれの使命を与え、特長を持たせ、生き変り死に変り、理想目的に向って前進せしめつつあるのである」(み教え「霊層界」より)



                          

  
                 『明るい会話のある家庭』     発行日:平成18年6月26日

子どもが最初に住む共同体が家庭であります。家庭とは本来、家族の一人ひとりが年齢や性別を越えてお互いの立場を尊重しあい、助け合い、励まし合って共同生活を営むところです。ですから、家族の日常生活における会話は、お互いの立場を理解する上でとても重要な役割を果たしています。まして、子どもの成長段階においては、非常に大きな影響を与えるものです。

 明主様は、「幸福の秘訣」の中で「何よりも幸福の根源を発見し実行する事である。ではその方法はといえば常に我々のいう、他人を幸福にする事で、ただこの一事だけである。処がそれには最もいい方法がある。その方法を私は長い間実行していて、素晴らしい好結果を挙げているので、それを教えたい為にこの文を書いたのである。右を先ず簡単にいえば、出来るだけ善事を行うのである。始終間さえあれば、何か善い事をしようと心掛けるのである。例えば人を喜ばせよう、世の中の為になら妻は夫を気持ちよく働かせるようにし、夫は妻を親切にし安心させ喜ばせるようにする。親は子を愛するのは当然だが、叡智を働かせて子供の将来を思い、封建的ではなく、子供は親に快く心服し、愉快に勉強させるようにする。その他日常総ての場合相手に希望をもたせるようにし、上役に対しても下役に対しても、愛と親切とを旨とし、出来る限り誠を尽くすのである。(中略)かように善事を多くした人程幸福者になる事は請合である。以上のようにみんなが気を揃えて善事を行ったとしたら、国家も社会もどうなるであろうかを想像してみるがいい。先ず世界一の理想国家となり、世界中から尊敬を受けるのは勿論である。その結果凡ゆる忌わしい問題は解消し、我等が唱える病貧争絶無の地上天国は出現し、人民の幸福は計り知れないものがあろう事は、大地を打つ槌は外れてもこれは決して外れッこない」とみ教えいただいています。

 家族一人ひとりが、先ず家庭の中で善事を尽くし、さらに他人の幸福を願い、明るい社会づくりに向かって、積極的に取り組んでいくのであれば、心からの喜びを語り合える家庭、感謝と喜びに満ち溢れた幸福な家庭が実現できるはずです。



                          

                     『信仰教育に果たす大人の役割』         発行日:平成18年3月3日

 信仰心というものは、決して大人の一方的な説教や押しつけで、子どもたちの心に根づき、育っていくものではありません。そのような行為は、むしろ逆の結果を招く可能性が高いかもしれません。

 明主様は、「子供の不良化」の中で「我等は先ず霊的方面から解剖してみよう。いつも言う通り、親と子は霊線によって繋がれている。故に親の霊が曇っていれば霊線を通じて子の霊も曇る。これが子供の不良化の原因である。この理によって子の霊を曇らせないようにするのが不良化防止の方法であるから、何よりも親の霊を曇らせないようにする事である。処がその理を知らないから親は間違った考えを抱き、意識するとせざるとに拘わらず罪を犯すので、それが曇りとなり子に写すので、どうしても親たる者は常に善を想い、正を行い、自己品性の陶冶に充分心掛くべきであって、それ以外決して効果ある方法はないのである」と説かれています。

 生活を共にする大人の言動や心の動きが、そのまま子どもたちに計り知れない影響を与えるものであり、その意味では、大人の役割は大変重要だと言えます。特に信仰を口にしながら、その言動が相反するものであった時の悪影響は、お互いに再認識したいものであります。
 
B−P卿は、「宗教とは「教えられる」ものではなく、「とらえられる」ものだと言える」「少年たちの目には、大人が口にすることよりも、することの方が疑いもなく、ずっと重大に映るものである」とも述べられており、「スカウトは真似ることが大好きで、得意であること」を強調し、大人の言動の計り知れない影響力を強調しています。