愛 執
、広子への未練を振り切って福岡の教会に戻って来たまことだった が、新たな環境は見知らぬ人間が集まっていた。慣れない集団の中でまことは心の窓を閉ざしていた。周りがまことを冷たい視線で見つめていた。
忘れていた人間関係の不器用さに悩み、言い知れぬ寂しさに襲われていた。広子と暮らした日々が頭に甦ってきては、あの頃の心地よいぬくもりが、自分にとって如何に大切な安らぎの場所だったのかを今更ながら思い出していた。まことは選んだ道の過ちと後悔の念とで、急に泣きだしそうになってしまった
冷酷人間
その後の様子を心配して、広子からの小包が送られて来た。お菓子の中に手紙があった。「自分で選んだ道だから、できるところまで最後まで頑張りなさい。」とあった。すぐお礼の電話をすると、懐かしい、広子の声が聞こえてきた。その後も、広子からの電話が時々何度かかかってきた。、だがある日、「未練と情が残るから、東京の人とは決別宣言をして、早く切ってしまうように…。」と組織から厳しい忠告を受けた。 その時のまことは、人の情をあだで返す、恩知らずの冷酷な人間にならなければならなかった。組織の絶対的命令に忠実に従うしか、もはや道が無かった。
愚かにもまことは、その冷酷な道を選んでしまった。「、広子さん、苦しいからもう電話をかけて来ないで…。」 (人間的な情を切って行くしか、救われる道がない。)まことは、この時、本気でそう思っていた。、広子は、まことの口から冷たい言葉を聞くとは思わなかったのか、一瞬、言葉を失った。僅かの沈黙が過ぎた後、「…判ったよ!。もう二度と電話かけてあげないからねー。」、広子は泣きそうな声でやっと言い返してそのまま電話を切った。(広子さん、ごめんよ。ひどい仕打ちをする僕を許してくれ…。)心の中で謝ったが、広子の悲しむ姿が浮かぶと、涙が流れて止まらなくなった
再 会
東京への思いを捨てる決意をしたまことに、第二、第三の新たな出会いが準備されていた。 まことは、直子の所在を聞き出し、「放浪の果てに、また福岡に戻って来ました。」と、報告の手紙を出した。 やがて、喜びの返事が直子から来た。電話の声は、喜びに溢れていた。こうして、宿命の二人は、再び姉弟の関係になった
ある日、直子は高知から、わざわざ逢いに来てくれた。亀戸での裏切りを清算し、長い間背負っていた重荷が取れたような気がした。
以前に比べて、直子が心優しくなっているのが嬉しかった。 (苦しい犠牲を払って帰って来て良かった…。)まことは心からそう思った。
直子からの手紙が来る度に、(今からは、彼女の支えになって行こう…。)と決意をするのだった。 いつの間にか、広子を忘れる代償として、直子に強い絆を求めていた。、広子の愛に代わる、母親のような優しさを直子に求めていた。 だが、後で判ることだが、まことを本当に解放してくれる女性は、広子でも直子でもなかった。表面的なものに惑わされるまことは、まだまだ青く幼かったのだ。
直子からの手紙が来る度、まことは自分が誰よりも愛されている錯覚に陥った。「人前でどうしても祈れないんです。」と悩みを相談すると、直子は「祈りと信仰生活。」の本を送ってくれた。まことはその本を何回も読んで、祈りの練習を続けた。(正しい信仰のあり方を教えて貰った。)と感謝するのだった。
、広子を捨てて来た、後ろめたさから逃れるために、神秘的な直子の美しさに惑わされながらも、一時的にもその苦しさを忘れることが出来たのかも知れない。しばらくは、落ち込むごとに直子からの手紙に励まされながら頑張っていた
父の死
まことは時々、聖書の物語の本を持って、父の正喜が入院する病室に見舞いに行った。正喜は、まことがまだ信仰を持ち続けているのを確認した。「もう、ほどほどにせないかんばい…。」 諦めたように力無く言った。父はもう、息子を大声で叱る元気も無かった。それきり何も言わず、息子の差し出す本を横目で見ていた。外は日差しの暖かい午後だった。窓の花が鮮やかにはかなく揺れていた。この時もう父の命は余り残されてはいなかった。
正喜は、長い入院生活を嫌がり、家に帰りたがっていた。「そんなら、正月の間だけ、自宅療養してもいいですよ。」と先生から特別の許しが出ると、うれしそうに、チカに連れられて家に帰っていった。 だがそのまま、正月が過ぎても、正喜は病院には決して戻らなかった。 こうして正喜は自分の家で最後のささやかな、わがままを通し続け、ある朝、眠るように静かに亡くなった。
長男の紀生は、父の死を弟に知らせるために教会に何度も連絡したが、対応が悪く、行方を教えてくれず、仲々音信が取れずにいた。その頃、まことは開拓の地に派遣され、あちこちを彷徨っていた。ようやく知らせを聞いて家に帰った時、既に父の息は切れ、白い布が掛かっていた。(僕は祖母の命だけでなく、父の命も心労をかけどうしで奪ってしまった。…父ちゃん…ごめんよ、ごめんよ…。)
まことは、やつれた父の亡骸を見るのに堪え兼ねて、静かに目を閉じた。父の霊が何処にいるのか必死に捜し求めた。 その時、ふっと父の顔と祖母のゼンの顔が並んで浮かんで来た。ゼンの霊と父の霊が一つに重なって自分を包み込んだような気がした。(まこと!、俺のことはいいから、自分の道を貫いて行け!。)(まこと、がんばれー!。)父と祖母は二人とも、まことを許して励ますように笑顔でまことの心に浮かんで現われ、やがてまことの背中の方に消えていった。
葬儀が終わって、親族たちが集まっていた。まことは自分を見つめるみんなの目が敵対している感情を読み取った。まことは最低の人間に写っていた。紀生もみんなの前で、弟によそよそしく対応した。父の「死に目。」に間に合わなかった弟を、もはやかばってやる何の条件も無かった。従兄弟たちも寄ってたかって、まことの顔を軽蔑の眼差しで冷ややかに睨んでいた。
かつて、まことの上司だった従兄弟の信行が、親族の前で大声でなじった。信行は、かつて問題を起こしたまことをチカから預かり、左翼から立ち直らせる為に、まことを「宗教の道。」に関わせることは良い機会に成るかも知れない…。)と、二ヶ月という約束をさせて送り出したはずだった。
だがまことは、人が今か今かと待っていたのに、平気で約束を破ったまま、教会に行ったきりで、音信不通になっていた。その事で信行は完全に面目をつぶされていた。
まことは、何をさて置いても、真っ先に信行に謝るべきだったが、この道が本当に正しいのかさえの結論がまだ出せず、曖昧な状態のまま、依然として明快な返事をしていなかった。
まことは、人の道さえも見失っていた。この道を行くために、実に数多くの人々の心をズタズタに切り裂き、受けて来た愛情と恩を、ことごとくあだで返して裏切って来たのだった
「何やー、お前は!、どうしようもない奴だ!。」 人生の落伍者を見るような、軽べつと憎しみを込めた眼差しで、口汚くけなした。 だが、まことは何も言い返せなかった。
親族達の囲む前で、痛烈に批判され、恥ずかしさと屈辱で、ただ涙をこらえてうつむいた。(言われなくても判っているよ…。) 心の中でつぶやいていた。 かつて体を張ってまことを必死にかばってくれたゼンの姿はもうそこにはなかった。
だが、信行は更にまことを追いつめ、存在そのものを否定する言葉を罵倒して浴びせた。遂に、何かが壊れたように、まことの目から大粒の涙が溢れるように流れ落ちた。あまりにもひどい屈辱の言葉のために、気が変になり、苦しくて死んでしまいたい気持になった。
その時、まことの脳裏に何かの映像がふっと浮かんだ。祖母のゼンのタンスの引き出しの中の記念写真が見えた。二見が浦を背に写った義勇兵たちが大きく脳裏に広がった。微笑む兵士たちの真ん中に、ゼンの姿が突然現われたかと思うと、ゼンの顔だけが急に大きく近づいて来た。(まこと!、頑張れー!。) ゼンは叫びながら、まことの体を包みこむように消えた。
(何だろう…?。) まことはあふれる涙を拭きながらも不思議に思った。従兄弟たちの大勢いる中で、まことはタンスの傍でうずくまったまま、長い耐え切れないほどの沈黙の時間が流れていた。 しばらく経って、姉の信子がやって来た。「あんた、もう泣かないで、涙を拭いて寝なさい。」と優しく毛布をかけた。
そのまま、寝てしまったまことは、翌日目が覚めたが、気まずさで身の置き所が無く、全く起きあがれなかった。(昨夜、頭によぎったものは何だったのだろうか…?。)目を閉じて考えていた時、従兄弟の一人が馬鹿にするように、何かを投げつけた。
まことは、あざけりの言葉以上に、その行為が許せなかった。大切な妄想を邪魔する人間に対して、激しい憎しみを感じた。投げつけられた物は小さな物だったが、まことの誇りの全てを打ちのめしていた。
(「目的のためには、親の命を犠牲にしても構わない。」という自分の「闇夜の誓い。」など、どう逆立ちしても、到底この世の人達には受け入れられないんだ…。) この日、今井家の親族の誰も悟れない自分だけの「特殊な使命。」を悟っていった。
子 犬
まことは、この日を境に、自分の中に別のものが入り込んだような感覚になった。まことは、再び教会に戻っていたが、今までの生き方ではない、新しい宿命の道を歩み出そうとしていた。 (一体、この教義の、どこが間違っていて、世間に受け入れられないのだろうか…?。)
本格的に、教義に隠された矛盾点を調べ始めていた。(これからの自分の生き方をしっかりと考え直し、この道を進むか、捨てるか、きちんと結論をださなければならない…。) まことは、洋服がたくさん掛かっている、更衣室の奥に小さな座り机を置いて、自分だけの仕切られた空間を作って、教義の本を深く調べるようになった。
みんなが、寝静まったある夜、まことが更衣室で考えごとをしていると、入口の外に、何か「ゴソゴソ」する気配を感じた。振り向くと、カーテンから子犬が顔を出して覗いていた。(あ、、おいで!。)子犬は声をかけられると、嬉しそうに尻尾を振って中に入って来た。
まことは、その日から、ご飯の残りをあげたり、夜には子犬と一緒に寝袋に入って寝るようになった。人間よりも、犬を大事にするまことを見て、みんなが「良くない。」と言い出した。ある日、誰かが、子犬を車に乗せて、どこかへ捨ててしまった。 この捨てられた筈の子犬は、その後、長い月日が過ぎて、すっかり大人になって再び再会する日が来る。
そのころ、組織に「かずよ。」という小柄の女性がいた。かずよは、まことが子犬を可愛がる様子を、微笑ましく見ていた。いつも周りから孤立して、寂しそうにしているまことが気になり、微笑みを忘れたまことに「笑顔を取り戻してあげよう。」と、まことの顔をじっと追うのだった。
ある日、まことは、かずよと目が合った。ニッコリと笑って心の底から、まことを受け入れていた。まことは、この小さな女の子が、自分のことを心配しながら見つめ、体を張って受け入れてくれていることに気がつき、心臓が「ドキン。」とした。
彼女は当時、組織の経済を一人で支えて働いていた。毎日、相当な売り上げを上げていたが、どのくらい稼いでるのか聞いても、教えても貰えず、渡されるひと月のお小遣いは、ほんの僅かだった。
「かずよちゃん、いつもよくやってくれるねー。」 上司に褒められる度に、嬉しくなって、尚一層頑張っていた。だが実のところ、彼女は組織におだてられて、いいように利用されていく存在でしかないことを、薄々感じ始めていた。
かずよは、教理の内容が全然判らないのに、強く勧められるまま、教会に入るはめになってしまっていた。組織の活動を大切なものと教えられて、(たとえ無報酬でも、みんなの為に支えよう。)と、ただただ、真心を尽くして頑張れる女性だった。かずよは理論的なものは全く苦手で、忠誠心と心情の世界だけで生きていた。
かずよは少し前、自分に対する人の陰口を偶然に聞いて以来、大変気になることがあった。「かずよちゃんは、教理も何も全然判ってないのに、ただ訳も判らず、忠誠心だけで働いてるのよ。神の摂理が判らない人は、本来ここに居る必要はないのに…。」 その陰口の言葉は、かずよの頭の中を何度も駆け回った。
(私は、この組織にはふさわしくない、利用されるだけの存在なんだわ…。もし、機会さえあれば、何とかしてここから抜け出したい…。)と、ずっと考えるようになっていた。だが、一人で離れる勇気も無く、心細い不安を感じながら、仕方なく、その機会が来るのをじっと待っていた
逃避行
まことは、親族からの憎しみを受けてから、(この道は、間違いかも知れない…。)と思い始めていた。そのような時に、まことは、かずよに出会った。
かずよは、まことより二つ年下だったが、人が嫌がることをあえて進んで引き受けたり、時々突飛な行動をする事があった。 まことの目には、そのむちゃくちゃなところが、摩可不思議な存在として写っていた。
(二度と神様を裏切れない…。)と自分に言い聞かせながらも、東京の人の面影を追い求めて、(帰ろう…。)と考えている、まことの本心を見抜いたのか、かずよは次第に近づいて来た。
ある日、まことは、かずよと二人でペアを組んで、町を訪問する仕事を任じられた。何軒か家を廻る内に、何となく心地よい感覚を覚えていた。 お互いの心の背後で、「歓喜の霊。」が湧いて来るのを感じた。
互いに自分を解放してくれる「運命の相手。」に出会った喜びを直感的に感じていた。 大勢の兄弟姉妹の中で、彼女はただ一人、「天衣無縫。」と言うべき、特殊な心を持つ、不思議な女性だった
車の中で、二人きりになった時、まことは、かずよの手を無言で握った。お互いの心が求め合っていることを悟った。恋愛の情というよりも、彼女の「純真な心。」が、まことにはどうしても手に入れたい「宝物。」に思えた。
やがて、周りの者が二人を、「恋愛を禁ずる組織の教えに背いた者。」と見るようになった時、二人は密かに示し合わせて脱会する手はずを決めた。
ある日、まことは、かずよを連れて汽車に乗り、実家に向かっていた。まことは、窓から海を見ながら、暗かった学生時代のことをかずよに聞かせてあげた。 旅の気分になったのは久しぶりだった。かずよは、まことの実家に連れていかれるのが嬉しかった。
だが、海辺の街を見たとき、かずよはこの地域全体に何か言い知れない、切ない淋しさが漂うものを感じた。車内に貼ってある地図が、(何かの動物の形をしている…。)と思ってぼんやりと見上げていた。
まことは、母のいる実家に帰り、かずよを引き合わせ、今までのいきさつと事情を簡単に話した。母のチカは、かずよのおかげで、息子が教会から離れることになった事を喜び、密かに感謝した。
まことは、母に借りたお金で、小さな部屋を借りた。夜になると、みんなに気付かれないように、かずよの荷物を少しずつ、何回も運んだ。 その途中、ふと直子の顔が浮かんだ。(直子さん、すみません。また裏切ることになりました。) だが何故か、それほど大きな負債を感じなかった。天が備えられた宿命の出会いとして、自然に受け入れていた。
ある夜、二人は脱出を決行した。闇夜の逃避行のスリルを感じながら、あてもない未来の世界に向かって、雑踏の中に消えていった
―――――――、 おわり ――――――――
その後、二人は束の間の幸せな時を過ごすが、皮肉な運命の糸に操られ、別々の道に引き離されてしまう。やがて、「二人の出会い。」が何を意味していたのかを悟っていく時、再び犠牲を払いながら、互いに失った全ての条件を取り戻して行くようになる。
それは、「正しき主人と、ポチの使命。」というテーマで演じられる、日本歴史の謎解きのために選ばれた「雛型の出会い。」であった。…抜粋。
これにて物語の前編は終わる。続きの後編は現在、執筆編集中です。
「最上級編」では、青年期・中年期・壮年期までを紹介していく予定です。
まことは、何歳になろうとも、少年の心を決して無くさず、持ち続けていくことで、いつか大切な「閃きの世界。」を創作して道を進んでいく。
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