かなる冬雷

 

第四章  述懐

 

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 それにしても、母様(かかさま)は、本当に気持の穏やかな人だった。ものごとのけじめというものには厳しい人だったが、声を荒(あら)らげるというのは聞いたことが無かった。新松でも、富助でも、父様には話しにくいことは、母様に話していた。

 母様は、聞いたことを、すぐそのまま父様に伝える、という人ではなかった。自分の中でそれをよく考えて、父様に伝える時には、それに対する自分の賛否の意見をすでにしっかりと持っていた。だから、父様が反対されても、自分の意見を添えてきっちりと、だけど、静かに言いなさる。父様の折れることも多かった。

 それでも、いつでも、母様は、それを自分の手柄のようには決してしないで、父様が許して下さった、とみんなに言っていた。父様、母様、お互いに持っている信頼も、愛情もそれだけ深かったんだね。

 でも、おかしいの。母様が、あんまり穏やかな顔をしておられると、父様が八ツ当たりするのね。お前は、俺が腹を立てているのがわからんか、って言うの。すると母様がわかりますとも、って言う。じゃあ何でお前は一緒に怒った顔をしないんだ、この馬鹿もんが、と言いなさるが、母様は、くすくす笑いなさる。それが悪いと言って、また父様が、何がおかしい、とからむんだけれど、これはもう、父様の負けだ。言っていることが、理屈にも何にもなっていない。

 そうだねえ、いつでも表向きは父様が勝っていたが、内実では、結局母様が勝っていたのかもしれないね。笑顔で、にこにこしながら勝つ、っていうのは、大変なことではあるよね。

 

 ところで、室蘭から、岐阜へ召集になった時に、あの人の給料は、百円ちょっとになっていて、現職で召集されたので、この給料は家族に支給された。私はその時になっても、まだ戸籍上は松井の妻ではなかったから、岐阜の先妻の、しま子さんという人の方へ行きかけたのを渋谷校長の計らいで、私の方に引き続いて支給されるようにして下さった。

 そうしたら、あの人が、その金で岐阜に家を借りろ、そうすれば、外出でも外泊でもした時は、一緒に過ごせる、って矢の催促で言ってくる。

 父様は亡くなられたばかりだし、お前は生まれたものの母子で脚気になってようやくに良くなりかけたばかりだし、母様は、この頃から痩せだして、糖尿病だとわかって養生を始めたばかりだ、修一郎や修二郎も、いつ出征になるかわからない、桂子の教育はどうしよう、っていろいろ考えて苦しんでいたんだけれど、母様が、行っておやり、夫婦は一緒にいなければいけないよ、って言って下さったので、わがままだと思いながらも、決心して岐阜へ、お前たち三人の子を連れて出ていった。

 けれども、送り出してくれた母様の気持も、決心して行った私の気持も、みんな踏みにじって、あの人は、外出も外泊もままならんと言いながら、隠れて先妻の所へ行って関係を持ち続けていた。そして一方では、私をせっついては、上官の所へ金品を運ばせて、自分の命乞いをさせ続けたんだよ。それらのものは、全部、佐々木の家の、苦しくなってていた内情(ないじょう)の中から出していただいたものなんだ。

 初めに借りた家は、岐阜駅近くの加納(かのう)という町だった。毎日のように、大勢の方々が応召されて見送られて出ていくし、また、戦地に向かわれるのであろう、大勢の兵隊さんがまとまって輸送されていくのも見える。ああ、この方々のどなたもが、みんな、親、きょうだいもあろうし、どのおひとりにも死んでもらいたくは無いが、身勝手な私は、金の力で生命を買っている、申し訳ないことだ、って心に詫びながら見送っていたねえ。 そうやって、自分の生命を私の家の金で買いながら、私たちの家へ帰って来るのは、仕方のない義理みたいなもので、せっせと先妻の方へ通っている。そうして、たまに帰ってくれば、いや演習に行って、松茸狩りをしてきたの何のって、……自分の身代わりのように毎日戦地に向かわれる方々のことなどこれっぼっちも考えないような、ふぬけた話ばかりだ。

 私にしたって、修一郎ら三人の子供を、いわばもう一度捨て直して岐阜に来ているようなものなのに、修一郎らはどうしているんだろう、母様は元気か、なんて話は、一言半句も出ない。

 それでもねえ、夫婦の関係があれば、子供も出来る。昭和十七年の暮れに、祥子が生まれた。もう大晦日だったので、昭和十八年一月一日生まれで届けたんだけどね。その後、あの人は一旦召集解除になって、私たちは、水原へ引き上げてきた。

 この前に、上官の准尉(じゅんい)の勧めであの人の本籍を岐阜から水原に移しておいたから、その年のうちに来た二度目の召集の時は、今度は、新発田の連隊だった。

 新発田に入ってからも、小隊長や、中隊長に味噌やらお金やらを、どれだけ届けさせたかわからないね。でも、母様は、何も言わずに出してくれなさった。

 

 岐阜にいる時に、室蘭からわざわざ渋谷校長が訪ねてこられてね、何とか私があいだに入って、松井の戸籍のことを見通しをつけてやりたいと思って来たと言いなさって、先妻の所へ訪ねていかれた。そうして、あなたもいろいろ口惜しかろうけれども、佐々木の方でももう三人もの子供が生まれ、男の子もいる、もうあなたも松井と別れて何年にもなるのだし、何とか戸籍を放してやってはくれまいか、と言いなさったら、その先妻の、しま子さんと言う人から、何を言う、私は松井となんか一度も別れたことなんか無い、夫婦の関係は、ずうっと続いている、今現在だって、これこれこうだ、って言われて、渋谷校長は赤恥(あかはじ)をかかされてしまった。私に、もう松井という男の面倒は見切れない、とてもまともな人間とは思えない、もうまっぴらだ、ってかんかんになって怒っておられた。

 そう言って怒って帰られたんだが、室蘭で生まれた英夫のことを可愛いと思い続けて下されて、のちにまた訪ねておいでになり、英夫をおんぶして、長良川の橋を渡って、金華山なども見せて下さったりして、亡くなられるまで、私たちのことを気にかけて下さっていた。

 本当に、考えて見ると、房子は満州からやっと日本に帰りついて小見川で生まれ、英夫は室蘭の深い雪の中で生まれ、お前は父様と入れ代わりのように水原で生まれ、祥子はあの人の裏切りにも負けないようにして岐阜で生まれた。ひとりひとりがみんな、私の生命て来た道の曲がり角、曲がり角で生まれている。お前たちの生命のひとつひとつが、私の一所懸命に生きてきた証しでもあるが、また、私の女としての業の証しでもある。どの子もみんな、一度ならず死にかけた。ぐれても仕方のないような悲しい月日もあった。けれども、みんなそれぞれに、懸命に生きてきてくれた。お前たちの一人でも、何かで生きられなくなれば、私はそれを自分の業、自分の罪のためとして、身代わりになって死んでやるしかなかった。

 けれども、みんなこうして、あの人の生き方に汚されないで生きてきてくれて、子供の生命をもって、私の業を洗ってくれている。

 なるほど、お前たちを生んだのは、私だ。しかし、私を生かしてきてくれたのは、お前たち子供だ。

 母親というものはね、そういうものなんだよ。母親だって女だ。女としての欲も迷いも、汚さも持っている。子供には語れない性(さが)というものも持っている。その哀しさを、洗ってくれるものがあるとしたら、それは、子供の生命でしかない。その子供が、母さん、私を生んでくれてありがとう、って言って、まっすぐに生きていってくれたら、そのことによって女の業というものは洗われるものなんだよ。

 世の中には、子供を生まない女の人もいる、生みたくても、子供にめぐまれぬ女の人もいる。子供を生んで、ああ、この子がいなければ、どんなに身軽に自由に生きられるだろうにと思う女の人もいるかもしれない。みんなそれぞれに、孤独や葛藤に苦しむことはあろうけれども、子供を遂に持ちえなかった女の人の淋しさの深さというものは、どんなものであるか、男にはわかりえぬことかもしれない。

 また、たとえば、もし、たった一人の子供しかいない人が、その子に、逆縁(ぎゃくえん)となって先立たれた、その時の絶望の深さというものを考えてみた時に、ようくわかってくることがある。子供に死なれるということは、親にとっては、特に母親にとっては、自分の生命の根が絶たれたように思われることであり、自分の生命の意味が否定されたように思われることなんだ。

 自分が子供の根であり、自分が、子供を生んだのだと思っている親は多い。けれども、ただの一度でも、ただの一人でも、子供を亡くしてみれば、すぐにわかるんだよ、ああ、子供こそが、私の生命の根だったのだってね。

 知っていたかどうか、修一郎の前に生まれた一人の子供があった。男の子だったが、生後一ケ月足らずで、肺炎のようなもので死んでしまった。名前を付けるまもないような早い死だった。その子の名は、正芳(まさよし)と言う。わずか一ケ月、……何のためにこの子は生まれてきたのだろうか、と私は泣きながら考えた。その時は、ただただ空しく思えた。けれども、修一郎が生まれ、修二郎が、そして桂子が生まれて、育ってきた時に、ああ、あの正芳という子は、何もわからぬ未熟な女であった私に、「母」というものが何であるかを、……何ゆえに子供というものを大切にしなければならないのかを、身をもって教えるために生まれ、そして死んでいったんだ、ということがわかってきた。それをわからせるために、あの子は、愚かな私に、死をもって教えるしかなかったんだ、ってね。

「母性」というものは、本能だと言う人もいよう。しかし、本能だけだろうかね。どんな母親だって、長い人生の中では、疲れ果てもし、子供を厭(いと)い、時には、悩むことだって無いとは言えない。でも、その時に、その人を「母」たるものに引き戻すものは、決して、本能というようなものではなく、もっと人間的な「哲学」のようなもの、そう言って生意気に聞こえるなら、生命とか、絆とかいったものに対する「責任の気持」だと言ってもいい。私は、あの小さな、正芳の生と死によって、それを教えられたんだと思う。

 時代は変わる。物の考え方も変わる。佳代子さんなどを見ていても、ああ、こんなにも考え方が違うものかと思ってしまう。けれども、生命が生命を生み継いていくことに変わりはない。

 子供は、授かりものだ、男の子、女の子、その一つだって、みごもる時に選択することはできない。まして自分の生んだ子が、どんな生命を生み継いでいく定めを持っているのかなど、なおわかりはしない。自分の子、と言うけれど、それは、自分の持ち物ということではない。自分に託された生命ということだ。託されたその喜びと、重さを担って、女は生きる。それを取り上げられるということは、お前は託すに足る人間ではなかった、女ではなかった、と何かに宣告されるようなものだ。子供というものを通して、女は女であることを天から認められ、人問であることを認められるんだ、というような気持を持ちながら、私は生きてきた。

 どんなに生活が苦しくとも、時には、その重さに泣いても、でも、子供は、私にとってはいつでも、生きるための根だった。生きるための理由だった。子供にめぐまれない方たちは、どんなに苦しんで、その自分の根、自分の生きている理由を考えておられるだろう。私は、それを考えれば、幸せな女だったと思う。その幸せを与えられながら、本当に、供たちを大切にしてきたと言い切れるかと言われれば、私は、うなだれるしかないところも多々あるけれども……。

 男にとっては、幸福と不幸、義務と権利、罪と徳、というようなものは、いつでも何かしら対立し、区別されるべきもののようにしてある。けれども、女にとっては、それらはいつでも紙一重の裏と表であって、わかちがたく融けあっている。

 女にとって、罪と徳というものは、ほとんど一つのようなものだ。女の業、女の性、というものは、女の役割、女に課せられた使命というものとほとんど一つだ。だからこそ、女の迷いは深いものになる。

 女は、論理的でないと言われてしまうが、それは私もそう思う。その通りで、女はとかく論理とは少し違ったもので考えてしまう。それで男に責められるんだけれど、これは甘んじて認めるしかない。でもそれは、正しいとか、正しくないとかいうこととは違うのだよ。

 この、女の、もやもやした所をも含めて、大きく包んで受け止めてくれてこそ、男なんだ、と思うけれども、それは女のやはり甘えかもしれない。女は女を生きるしかなく、男は男を生きるしかない。ただお互いに、わかった気にならないで、尊敬しあって、信じあって、生きていくだけでいいのかもしれない。それをむずかしくし、男と女の距離を引き離すものは、いったい何なのだろうね。……

 

 修一郎も、修二郎も、毅然とした態度で出征していったけれど、母親としては、あの人の命乞いのためにしている百分の一でも、子供らのためにもしてやりたかった。しかし、それができなかった。任地が次々に変わっていくが、軍の作戦上の機密で言えないこともある。親への手紙一本だって、検閲(けんえつ)を受ける時代だった。

 修一郎は、幸い中支への軍馬の輸送からは無事に戻ってきたが、終戦まぎわには、千島だった。小樽(おたる)に一旦集結して部隊を編成して、三隻の小さい輸送船で津軽海峡を抜けて根室(ねむろ)へ向かう途中で、釧路沖で潜水艦に攻撃され、二隻が沈み、あの子の乗った一隻だけが何とか釧路の港に逃げ込んで、そこで何日間とか隠れていて、すきを見て海岸ぞいにやっと根室に入り、それから千島に渡った、って言っていた。

 それも、国後((くなしり)とか択捉(えとろふ)とか今言っている大きい島でなくて、もっと北の小さい島、何と言ったかねえ……。

 行く前には、その島は、完全要塞化されているから、艦砲射撃を受けようが、爆弾を落とされようが、びくともしないんだって言われていたのに、島に着いたら、どこにも船を着ける場所さえも無い。それで、はしけに乗り移って、何とか浅瀬まで行って、あとは、海に飛び降りろって言う。真冬の千島の海にだよ。仕方なく飛び降りて、ずぶぬれになって浜へ上がったが、どこにも要塞なんて無くて、山の麓に隠れるようにしてテントを張って、着る物を乾かしたりしたんだそうだ。そうしたら、その晩に、沖合に艦隊が現れて一斉に艦砲射撃が始まって、幸い、島の片側だけから撃ってくるから、山の反対側の斜面にへばりついて隠れていたそうだが、この時も、朝になって点呼したら何人とか死んでいたと言っていたねえ。

 司令官は、さっさと本部のある隣りの島へ帰ってしまって、兵隊たちだけが残され、亡くなった人や何かのあと片付けをして、やっと隣りの島へ引き上げるために、小さい漁船三隻に分乗して向かっていたら、途中でまた潜水艦が浮き上がってきたんだって。それがこっちは小銃と軽機関銃とかしか無い、向こうは潜水艦だ、いくら撃ったって、当たりはしないし、まして穴もあきはしない。魚雷一発で終わりだって思っていたら、向こうはこちらを馬鹿にしたように浮上してきて、ハッチを開けて、二、三人の水兵が機関銃を引っ張り出して撃ち始めて、木造の船だから船縁(ふなべり)に伏せていても弾は貫通してくるし、甲板の上のあちこちの金物(かなもの)に当たっては跳ね反ってくる弾で死ぬ者もいる、結局、二隻が冬の海に沈められて、修一郎らの乗った船も、もうこれまでだと思って、みんなで銃剣を付けて、せめて体当たりして死のうって、突撃のラッパを吹きながら潜水艦に向かっていったら、潜水艦があわててハッチをしめてもぐっていったんだって。……おじけづいたかと思ってたら、何のことはない、日本の偵察機が飛んできたんで急いで潜航したんだ、と言っていたねえ。

 それでも、九死に一生を得て、やっと目的の島に着いたが、露営だって言うので、また山麓に散らばってテントを張って眠っていたら、斥候(せっこう)が尾根をスキーで走っていった。その時、落としたわずかの雪で、表層なだれを起こして、修一郎たちの小隊が全部、生き埋めになってしまった。

 爆弾の被害を小さくするために、一ケ所に固まらないで、小隊ごとに距離をあけて野営していた真夜中のことで、斥候も自分の落とした雪が下でそんな惨事を引き起こしているなんてことは夢にも思わない。結局、朝の点呼になって初めて、修一郎たちがいないというので来てみたら、部隊が埋まっている、それで、総がかりで掘り起こしたんだが、また沢山の人が死んだって言っていたねえ。助かった人でも、ストーブが足に食い込んで骨まで焼けた人とか、顔半分が焼けただれた人とか、ともかくみんな埋められた上に、中で火事になって、やけどをしたり、空気が無くなって窒息したりしたんだって。

 修一郎たちのテントも、ストーブが倒れて火が出て、やけどはしなかったものの、いっぺんに空気が無くなってしまって、気が遠くなっていく、その時に、隣りの兵隊が、飯盒(はんごう)だ、飯盒だ、って言うから、ああ、空の飯台皿の中に空気があるって思って、何とか腰の飯盒を引っ張り上げて蓋を開けたら、ふうっと、ひと息、ふた息の空気が吸えた、それで一瞬正気になって、これはテントの布を切り裂かなくてはならんと思って、また腰の銃剣を何とか引き抜いて、テントを顔の所で切り裂いたのが最後の力で、それっきり意識が無くなって、気が付いたのは、ぐいっと腕を引っ張り上げられて空が見えた時だったって言っていた。本当に、運命としか言いようが無い。あの子はいつでも、数少ない生き残る者の側に入っていた。神仏や御先祖様の霊が守って下さったんだと言えば、亡くなられた方々は、そういうものから見放されていたっていうことになる。そんなはずは無い。ただただ、運命としか言いようが無いんだよ。……

 

 八月十五日の昼に、終戦のラジオ放送を聞いてから、まず私の中にあったのは、
「修二郎!死ぬなよ!」
 と言う思いだった。あの子は、まじめで、潔癖な子だ。捕虜の辱(はずかし)めを受けるくらいなら、自決せよ、って言う教育を受けた時代でもあった。前線に行けば、他人は生きのびても自分は玉砕する、敗戦の報でも聞けば、割腹でもしかねない、そういう子だ。 

 さあ、修二郎のことが気になりだしたら、その晩は寝られない。どこで、どんな思いでいるのかと考えながら、夜が更(ふ)けるとともに、いっそう胸さわぎが強くなるばかりだ。何度も起き出しては、神棚に祈り、仏壇に祈りしていた。

 そして、明け方に、少しとろとろと浅く眠った時に、修二郎が、月の浜辺で、切腹しようとして、腹を出している夢を見て、やめておくれ!って叫んで目を覚ました。目は開いても、まだそこに姿が見えるようだ。私は、震えながら、仏間に入って、一心不乱に、修二郎を助けて、修二郎を助けて、と祈り続けた。 

 あとになって帰ってきて聞いたら、本当にその日のその時刻に、伊豆大島の浜辺で、割腹しようとして、仲間と一緒に座って、短剣を出して、腹をさすっていたんだって。

 それを、日頃から、佐々木という男は、こうなった時は、割腹をしかねない一途な男だ、と思って注意して見ておられた上官の方が、虫の知らせというのか、はっとして目が覚めて浜へ走り出したら、そこで二人並んで腹をさすっている。思わず、馬鹿者!って怒鳴りつけて、二人にビンタを食らわせて短剣を取り上げ、兵舎に連れ帰って、短慮を起こしてはならん、なるほど日本は負けたが、国が無くなったわけではない、山河も残り、人々も残っている、この国をこれから建て直すのがお前たちの仕事だ、それを若い者がやらなくて誰がやるのか、と言って、こんこんと説(と)いて下さったのだと言う。正夢と言うが、本当にあるものなんだよ。夢というより、目の前に、まざまざとあの子が見えた。

 あの頃は、そういう話はいくらでもあった。一億の人間が、みんな、必死の思いで生きていたし、思い合っていたんだよ。

 修二郎たち若い者の生命をそうして救って、励まして、みんなそれぞれに親元へ送り帰されたあと、その上官の方は、一人、静かに、自決をされたんだよ。そういう精神の方々がどれだけ、あの戦争のために亡くなられたことだろうね。

 

 道文先生にしてもそうだ。あの方も、紙一重の運命で生き残った方だ。

 あの方は、学徒動員で出られて、呉(くれ)の近くで、特攻潜水艇の「回天」というのに乗せられて、訓練を受けておられたんだという。

「人間魚雷、回天」というのは、何か大きな魚雷そのものの中に人間一人がやっと這いこめる隙間を作って、そこにもぐり込んで、敵艦めがけて操縦していって体当たりするんだって。

 飛行機の「神風」も、潜水艇の「回天」も、みんな、二度と帰らぬ片道燃料の、自爆のための出撃だったんだ。そしてそれに乗っていたのは、みんな、二十歳にもなるかならぬかの若い人々だった。

 どの方もみんな、天皇陛下万歳、と言って死んでいったというけれども、私はそうは思わない。親を呼んだり、好きな人の名を呼んだりしながら死んでいったと思う。そうして、その呼び声を聞いて、みんな私のように、胸を衝(つ)かれて、とび起きていたんだと思うんだよ。

 どちらの国の言い分が正しいの、正しくないのなんて言っても始まらない。戦争というものだけは、二度とあってはならないと、それだけは思っている。

 道文先生も、いよいよ明日は出撃が、というところに、八月十五日の終戦になった。

 八月十四日に玉砕された方もあれば、八月十五日を過ぎてもなお戦争の終わったことを知らないで戦い続けて死んだ方々も大勢いると聞く。何ということだろう。

 

 お前が、大学に入ってから読んで送ってくれた『きけわだつみのこえ』という本を、私も読ませてもらった。すべての人々が、修一郎に、修二郎に、道文先生に、重なりあって見える。そして、そのいわば遺書を、その時、あるいは、ずうっとあとになって受けとられた方々の気持というものが、私自身の気持に重なって思われて、涙が出てならなかった。 

 逝く人、残る人、みんな自分の意志では無くて、もう運命としか言いようのないもので振り分けられた。しかし、もっと上の大人たち、偉い政治家たちは、議論しながら意志としてそれを決めていったんだ。そして、そういう人たちを指導者として認めていた私たち、すべてが責任を逃れることができない。

 なるほど、戦争裁判というものはあったし、多くの人たちが処刑され、処罰された。言いたいことは多々あっても、黙ってそれに服していった方々もおられれば、納得できぬとして恨みを残した方も、その御家族たちもあるだろう。たしかに、あの戦争裁判というものには、どこか裁きの「象徴」のようなところがあって、本当に裁かれなければならないものは沢山に残っていて、聞こえぬ人々からの裁きの声は、今なお続いている気がする。

 でも、それに目をふさぎ、耳をふさいで、私たちは生きてきてしまったのかもしれない。 ただ、それであっても、せめて、生き残った者たちに、裁きと一緒に託された、多くの人々の夢というものを大切に思って、心を正し正ししながら生きていかなければ、申し訳がないと私は思うんだよ。でも、それを投げ捨て、自分がどんなものの犠牲の上に今あるのかということなど、なるべく考えないようにして生きている人たちが大勢いるね。偉い政治家たちにもいるし、私たちの町のような小さい町の中ででも、特高というものの手先になって動き、戦後の一時、小さくなっていたのが、今では大きい顔をしてのさばっているのもいる。

 若い人たちがそうやって、生死の境をさまようている時に、あの人は、佐々木の家の物で自分の生命をあがないながら、ずうっと内地の連隊で事務の仕事をしていた。岐阜では、演習のあいまに松茸狩りをし、女狩りをし、新発田に入ってからは、休みに帰ってきては、修一郎がいないから、自分が主(ぬし)になったような気分で、父様(ととさま)の頃からの親方や何かをあごで使っていた。

 

 しかしまあ、父様が亡くなってからというもの、本当にあの人は、いい気になっていたよ。修一郎らのことを案じてくれるでも無し、母様のことを案じてくれるでも無し、ただもう考えていることは、自分のことだけだった。

 あの人は、自分では、いや俺は一所懸命に留守を守って苦労していたんだ、なんて言うよ。けれども、私はそうは思わないし、世間様もそうは思わなかった。……

 今、初めて私はお前にだけ言うが、あの頃、佐々木の家に、一通の、無名の葉書が来たんだよ。「佐々木修一郎様方、松井史郎」となっていてね、修一郎には「様」が付いているが、松井史郎には、何にも付いていない。そして、書いであったのが、たったの一行。……

「やどかりや……」って。……やどかり、っていうのがあるでしょう、あの他人の貝殻に住みつくの、あれだね。

「やどかりやおのれは貝のつもりかや」

 その一行だけ……。

 誰だろう、こんな悪口を言うのは、と思ったけれど、勿論わからない。しかしまあ、本当にそうだわなあ、と私も思った。でも、誰にも見せずに、私は、それを焼いた。

 今、初めて、お前にだけ言うの。

「やどかりや……」って、はっきり覚えている。四十年以上たった今でも、はっきりとね。人間って、変なことをよく覚えているもんだねえ。

 

 修一郎が復員してきたのが一番遅くてね。、終戦の年の大晦日の晩、と言うより、もう夜中を過ぎていたから、元日に入っていたことになるね。

 玄関に入って、うす暗い電球の下で、もっそり立っているの。俺だ、俺だ、修一郎だ、と言えばいいものを、ごめんください、なんて言っている。自分の家に帰ってきて、ごめんください、なんて言う者がどこにあろ、ってうれしいやら腹が立つやらだったね。修一郎にしてみると、玄関には入ってみたものの、あんまり森閑としているものだから、一瞬わけがわからなくなって、みんなどこかへ疎開でもしたのか、家が人手にでも渡ったのかと、うろたえてしまって、思わず、ごめんください、って言ってしまったと言う。

 それがまた、母様(かかさま)がまず出ていきなさったので、明かりを背にして立っている修一郎の顔がよく見えなくて、はい、どちらさまでしょう、なんて言っている。修一郎は、修一郎で、その時、母様は丹毒(たんどく)にかかられて髪がみんな抜けてしまっていなさったから、母様と思えないで、もごもご言っている。でも私が出ていけばお互いにすぐわかる。まあ、母様が、喜んで喜んで、小さい身体で背のびするみたいにして、修一郎のことをなでまわしていなさった。

 それから後は、お互いに、言い合いしているの。ごめんください、っていうのは何だ、そんなこと言ったって、その頭に毛が無いのが悪いんだ、なんてね。でも、ひとりも欠けることなく揃って正月を迎えられてねえ、何は無くとも、本当にうれしく、ありがたかったよ。

 あとで修一郎に、どうしてこんなに帰ってくるのが遅れたんだって聞いたら、輜重隊(しちょうたい)かだったので、武器やら馬やら物資やらの戦後処理があって、札幌や小樽に長々といて、やっと片付いて帰れることになって函館まで来たんだけれど、青函(せいかん)連絡船がともかくもう、内地へ引き上げる民間人やら、樺太から脱出してきた朝鮮や中国の人で超満員で、民間人が優先だ、兵隊はあとだ、って言われて、港で何日も足止めされて、やっと渡ってきたんだ、って言っていたね。

 でも、これも後で修二郎がからかって言っていたが、違うよ、兄さんは、本当は、小樽にいい女性(ひと)がいて、居心地がよくて帰ってこなかったんだ、なんてね。

 いい女性(ひと)なんて作っているひまがどこにあろ、死ぬか生きるかで追いまくられている時に、って思ったんだけれど、何か、千島の前線に送られてきた慰問袋に手紙が入っていて、それが優しい手紙で、修一郎もうれしくて返事を書き、それにまた返事が来たりして、顔も見ぬままの文通みたいなものがあって、よもや生きて会うことはあるまいと思っていたのだけれど、思わぬ終戦ということになって、修一郎がその女性(ひと)を訪ねていったんだって。

 その女性(ひと)が小樽の人で、修一郎より四つとか歳上のひとり身の、ともかく心根の優しい人で、その方の所に長々とお世話にはなったらしい。いい女性(ひと)、なんて言う関係だったのかどうかは知らないけれど、生死の境にあった修一郎に、そんなふうにあたたかいものを与えて下さっていた方があったのかと思って、私は、本当にうれしかった。その方には、札幌に嫁いで産婆さんをしておられるお姉さんがおられて、その方がたしか、播磨(はりま)房枝さん、小樽の色内町(いろないちょう)の妹さんが、太田久子さんと言われたねえ。お名前はよく覚えている。

 家にこられたことは無いけど、修二郎から聞いて、遅ればせながらの礼状を書いて送り、私もお手紙をいただいたことがあった。

 私は、お礼に伺うこともできぬままに終わったが、修二郎が、のちに札幌支店勤務になった時に、お礼に行ってくれたらしい。よく気が付いて行ってくれた、と私もうれしかったよ。 

 

 

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