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【10】団塊の世代  

パワーの源は何?

 今、様々な企業がマーケティングで照準を合わせているのが団塊の世代だ。かく言う私もその世代の真っ只中。だから自分で言うと恥ずかしいが、この世代のパワーはとに角凄いと思っている。 

その源はどこにあるのかと言えば、やはり圧倒的な数の力と、生まれてからずっとその数の中で揉まれてきたことだ。そして、団塊の世代が生きてきた時代が、まさに戦後の高度成長のパワーあふれる古きよき昭和からバブルを経た低成長の時代と、すべての戦後の日本の歴史と重なっていることにあるだろう。

私が過ごした中学校は、名古屋市立城山中学という。当時何故か日本一のマンモス校だった。クラスの名前が、一組二組と呼ばれる小学校から、中学へ上がるとA組、B組と変わるのが、当時は格好いいなぁ、と中学へ入学するのがちょっと大人になるような気がして楽しみだった。

所が中学へ入学したら、クラス名は私たちの学年から一組二組という呼び名になってしまった。理由は簡単。ABC26文字では足らないほどのクラス編成になったからだった。一年生だけでクラスの数は32クラスあった!(少し後に独立したが、その当時は分校もあったので合わせるとそんな莫大な数だったのだ。)

小学校でも一時期校舎が足りなくて、午前、午後に分かれて登校する二部授業などという経験もしていたが、中学では校庭の外にある公園の隅に建てたプレハブの校舎へ入れられた。トタン屋根のその教室は、夏とても暑く冬寒かった。

狭い校庭での放課後のクラブ活動は、男子の野球部と女子のソフトボール部と、陸上部、バレーボール部などが入り乱れて練習をしていた。可哀相なテニス部は、年中陽の当らない校舎と校舎の間でやっていた。今ならよそから飛んでくるボールに当って怪我をするから、即刻やめになるようなひどい状況だった。私はそこで毎日ソフトボールをやっていた。

一クラス50人か55人もいる生徒を束ねる先生も、さぞかし大変だったろうと思うが、その先生も、全校で100人以上いた筈だ。毎年クラス写真を撮る時に先生たちも記念写真を撮るが、先生が多すぎるから、一枚の写真に納まった先生たちは豆粒みたいだった。そのマンモスさが今では懐かしい。とに角、活気に溢れていた。

中学3年の時の担任が、「お前たちは死ぬまで数が多いから、競争に勝たないと高校入試どころか結婚も、墓に入るのにも苦労するぞ。」と言ったのが、今でも忘れられない。

でも、そんな悪条件の中で生きてきたことに、困るどころか勇気付けられることの方が多かったように感じている。戦後のベビーブーマーである団塊の世代はパワー溢れる世代なのだ。この世代が大定年時代を迎える。

これからの、一見恐ろしいように見える高齢化社会にも、私は少しも悲観的にはならない。この団塊の世代の元気なパワーが柔軟に支えていくような気がするからだ。(2004/07/07)

【11】つもりの十ケ条

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