資料6:日本語の表記

 あまりにもあたりまえすぎる日本語の表記について、次のようなことをちょっと考えておきます。

A.日本では日本語(の各地の方言)が話され、共通語が書かれている。
B.その表記は漢字かなまじりでおこなわれている。
C.漢字かなまじりでの表記法には正書法も、また公的な規制もない。
D.表記するときの漢字とかな(ひらがな・カタカナ)にはその優劣はきまっていない。

 いま上に書いたことは日本人にとってあたりまえすぎることですが、以下順に少し補足しておきます。
 Aに書いたように日本語が日本のなかでただ唯一といってよい独占状態で公的にも私的にもつかわれていることは誰もがみとめることと思います。そしてこのような独占はたとえば昭和
2092日東京湾上の米国戦艦ミズーリ号で行われた降伏文書調印式の降伏文書ひとつをみてもあきらかでしょう。しかしこの日本語による独占を憲法で規定しているわけではありません。ただひとつといってよいと思いますが、法律的規定としては裁判所法第74条に「裁判所では、日本語を用いる。」とあることでしょう。そしてこの規定から通訳人の問題などが派生するのですが、現実の司法・行政の実務でどうような問題がでているのか興味あるところです。(興味ある方は、たとえばその1
 つぎにBの漢字かなまじり表記はいまの若い世代の人々にとってはあたりまえのことです。じじつずっと以前から漢字かなまじり表記はおこなわれていたのですが、公的に承認されたのはそう古いことではないのです。もちろん公的に承認されたといってもそれは
国語審議会での会長宣言においてであるのですが、その当時おこなわれていた漢字かなまじり表記を公的な場で追認した意味はおおきいでしょう。(詳しくは「資料3:漢字かなまじり文について」)
 Cの「漢字かなまじりには正書法はない」という事実も、また誰もがなっとくするはずです。じっさい「
漢字はきたないかのなかで木下氏が「約言すれば私は,<適当な白さ>を目安としてその場,その場の記法をきめるのある。」といってるように、私たちはある文章のなかの単語を漢字にしたり、かなにかえたりしていることは日常茶飯事でしょう。そしてその表記のちがいが文章のあやであるという考えも一面の真理ではあるでしょう。
 またDの表記にもちいる
漢字とかなに優劣があるという法律的な規定もないようです。しかし法律や内規といったものに漢字とかなの優劣についての規定がないからといって、漢字とかなに優劣がないといってしまうのは少し現実をみていないといえるでしょう。じっさい私たちは漢字かなまじり表記において「漢字は実質的意味を表す部分に使い,仮名は語形変化を表す部分や助詞・助動詞の類」に使っていて、あきらかに漢字優先となっているのがわかります。なぜならもし漢字かなまじり表記においてひらがなでなく漢字で書かれているその漢字を削除してしまえば、その文章の意味はほとんど読みとることができないからです。そしてこの漢字優先は少しまえにをあげた「日向市(ひゅうがし)と日向市(ひなたし)」は不可、仙台市(せんだいし)とせんだいしは可」という自治事務次官通達によくあらわれていて、この規定から「漢字優先」の思想をみてとることができるでしょう。もうひとつふしぎな(?)公用文における漢字使用の規定をあげておきます。(文化庁 平成13 p253-5:Web版はこちら

「1 漢字使用について
  2 「常用漢字表」の本表に掲げる音訓によつて語を書き表すに当たっては,次の事項に留意する。
   ア 次のような代名詞は,原則として,漢字で書く。
      例 彼 何 僕 私 我々
   (イウエは省略)
   オ 次のような接続詞は,原則として,仮名で書く。
      例 おって かつ したがって ただし ついては ところが ところで また ゆえに
    ただし、次の4語は,原則として,漢字で書く。
         及び 並びに 又は 若しくは
   (カキは省略)
 2 送り仮名の付け方について(省略)」

 上のような例をあげるまでもなく、私たちのこころには漢字崇拝の精神が住みついているのはまちがいないでしょう。そしてこの漢字崇拝はかたちをかえ、現代では英語借用語のためのカタカナ語になってきたのはまちがいないでしょう。この問題もまた考えることにしましょう。(漢字かなまじり文についてはこちら。アイヌ語表記の問題はこちら

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