《聖書研究 Private Note》
 
心に引っかかった御言葉について、聖書研究をするための途上的ノートです。
現時点で整理できるところまでを記しました。
お時間があったら、お読みください。
 
@Tペテロ書3:18-20に関して
 
3:18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
3:19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
3:20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。(以上、新共同訳)
 
1:捕らわれていた霊(3:19)とは何か?。
これを悪霊と解する立場もあるようだが、ギリシャ語の文法構造からして無理ではないか。教理から聖書を解釈するという逆の構図になってはいないか?。この「霊(たち)」は、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」である。
 
2:それでは、死者に宣教することがありうるのか?。
「宣教する」の原語は kerussow。これが主題テーマになる。つまり、人間は死して後も福音によって救われうるのか、という問題である。教理や組織神学では否定されている問題である。
 
3:その前に、なぜ、大洪水が起こったときの「霊」たちだけなのか?。
 
創世記6:5-22(口語訳)
6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。
6:8 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。
6:9 ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
6:10 ノアはセム、ハム、ヤペテの三人の子を生んだ。
6:11 時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。
6:12 神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。
6:13 そこで神はノアに言われた、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。−すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。新改訳−彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう。
6:14 あなたは、いとすぎの木で箱舟を造り、箱舟の中にへやを設け、アスファルトでそのうちそとを塗りなさい。
6:15 その造り方は次のとおりである。すなわち箱舟の長さは三百キュビト、幅は五十キュビト、高さは三十キュビトとし、
6:16 箱舟に屋根を造り、上へ一キュビトにそれを仕上げ、また箱舟の戸口をその横に設けて、一階と二階と三階のある箱舟を造りなさい。
6:17 わたしは地の上に洪水を送って、命の息のある肉なるものを、みな天の下から滅ぼし去る。地にあるものは、みな死に絶えるであろう。
6:18 ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。あなたは子らと、妻と、子らの妻たちと共に箱舟にはいりなさい。
6:19 またすべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二つずつを箱舟に入れて、あなたと共にその命を保たせなさい。それらは雄と雌とでなければならない。
6:20 すなわち、鳥はその種類にしたがい獣はその種類にしたがい、また地のすべての這うものも、その種類にしたがって、それぞれ二つずつ、あなたのところに入れて、命を保たせなさい。
6:21 また、すべての食物となるものをとって、あなたのところにたくわえ、あなたとこれらのものとの食物としなさい」。
6:22 ノアはすべて神の命じられたようにした。
 
実は、このとき、悔い改めを説く宣教の記録がない(これとは反対に、ヨナは、異邦の民、暴虐の限りを尽くすニネベに対して宣教し、悔い改めを説いた。ヨナ書参照)。それ故か?。しかし、
 
Uペテロ書2:4-9(新改訳)
2:4 神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。
2:5 また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。
2:6 また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。
2:7 また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。
2:8 というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。
2:9 これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。
 
ここでノアは「義を宣べ伝えた」とある。原語は keruz であり、kerussow と親戚関係にある言葉である。
 
ここでペテロは、偽預言者たちが「滅ぼされないままでいることはありません」(Uペテロ書2:3b)として、例を挙げる。一つが「罪を犯した御使いたち」。黙示録20:1-2にも、同様の記事がある。一つが「ソドムとゴモラの町」。灰でおおって破滅という「罪に定めた(=katakrinow)」。もう一つがノア、いや「昔の世界」。世界は一度滅ぼされている。
 
Uペテロ書3:4-7(新改訳)
3:4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」
3:5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
3:6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
 
不義・不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、彼らは懲罰のもとにおかれ、世は火に焼かれるためリザーブされている(2:9と3:7とは文法的に類似している)。つまり、彼ら=昔の世界の住人は、滅ぼされた者と考えられる。ヘブル書11:7に書いている。
 
11:7 信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、−これが、katakrinow−信仰による義を相続する者となりました。
 
katakrinow は、イエスに対する「死刑宣告」をあらわす。また、南の女王やニネベの人々が今の世=「この時代の人々」を罪に定めるとも記されいる(ルカ伝11:31-2)。さらに、マルコ伝16:16では、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」と記している。さらに、イエス様も、マタイ伝25:31-46で、終わりの日のさばきについて述べ、「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。」と宣告し、また、「こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」ともおっしゃられた。ここで基準となっているのは生前の「行ない」であるが、それはまさに「イエス・キリストに対する態度・応答」を問題としている。
 
Tペテロ書3:19で「捕らわれの霊」というとき、英語ならば「spirits in prison」である。では、なぜキリストは「霊の牢獄」に行く必要があったのか?。ルカ伝4:18-19で、イエス様がイザヤ書61:1-2を引用したことが記録されている。「捕らわれ人には赦免を」ということを「spirits in prison」に伝えようとしたのか?。そうかも知れない。しかし、ルカ伝に引用されなかったイザヤ書61:2の部分、すなわち「われわれの神の復讐」を告げたと見る方が自然であるとも言える(なお、ここでの「告知」もまた、kerussow である)。
 
後者を支持する聖句がルカ伝16:19-31にある。その16:26で、イエス様(アブラハム)が次のように言う。「そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです」。この「渡る」と「越えて来る」のニュアンスは若干異なる。「渡る」は、使徒伝16:9でパウロが見た幻で、あるマケドニヤ人が「渡って来て」くださいと懇願する箇所である。また、ヘブル書11:29で「信仰によって、彼らは、かわいた陸地を行くのと同様に紅海を渡りました。エジプト人は、同じようにしようとしましたが、のみこまれてしまいました」と記されてある箇所である。これに対して、「越えて来る」は、主としてガリラヤ湖を巡る「向こう岸」へ渡るというニュアンスがある。普通は舟=船で渡る。しかし、死にたる金持ちにとって、ましてや「昔の世界」の人々にとって、船はもはやない。船=箱船は、ノアが家族8人とすべての動物とを乗せて出帆してしまったのである。
 
しかし、なぜ、アブラハムの側からも「渡る」ことができなかった「大きな淵」をイエス・キリストは渡ることが出来たのか?。アブラハムの側は、現在も(死して後も)生きている者(つまり、神にあって霊として生きいている者)が入る paradise である。イエスが十字架につけられたとき、隣りの、同じく十字架についていた強盗に対して言われた言葉、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう(永遠の現在、つまり、この瞬間に既に、というニュアンスが込められている)、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ伝23:40-43)と言われた paradise である。ところが、この金持ちがいたのはハデス(ルカ伝16:23)である。神学上、ハデスは「よみ(黄泉・陰府)」をあらわす言葉で、「死後の世界、肉体的死とさばきの間の中間状態」と定義される(山口昇監修「エッセンシャル聖書辞典」(1998年・いのちのことば社)468頁以下)。「人が死して後、さばきの日まで存在するところ」といってもよい。すると、どうなるか?。アブラハムやラザロがいたのはハデスではないのだろうか?。神学的な議論はさておき、イエスの言葉の端々から受け取られることは、paradise は生ける者の世界であり、ハデスは死にたる者(死ねる者)、あるいは霊的に死すべき者の世界である。もし、ハデスがそのような世界であるならば、まさに死人の牢獄=死者の prison である。しかし、キリストは、その「大きな淵」を渡られた。そして帰ってこられたのである。つまり、キリストにとっては、アブラハムが「行くことも帰ることもできない」と言ったところに、道が開かれているのだ!。このことは、どう考えるべきなのであろうか?。「生かされた霊」(Tペテロ書3:18)としてキリストは、「捕らわれの霊」(新改訳)たちを「神のもとへ導くため」に「神の福音」と「神の復讐」とを説いたのであろうか?。もしそうであるなら、教理は崩壊してしまう。
 
死者の牢獄に来たキリストは、「生かされた霊」であると同時に、まばゆいばかりの光であり、また「いのち」そのものであった(ヨハネ伝1:4)。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)のであるから、死者の prison もまた光に、いのちに満たされいたはずである。しかし、ヨハネ伝3:18-21は以下のように言う。
 
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
3:19 そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。
3:20 悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。
3:21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
 
これらのことから、こう言うことが出来るのではないだろうか?。死者の prison に射したまばゆいばかりの光。多くの霊(死者)たちは、この光に怖じ惑い、闇を求めて東奔西走する。これらの者は、すでに裁かれている。罪に定められ、後は終わりの日に臨む火を待つのみである。この点で、教理は全く正しい。「神の復讐」が宣べ伝えられるのである。だが、光の中に立ち止まる、いや光の中で(自分の犯してきた罪を、罪の行いを思って)ただ泣き崩れるようにしてとどまる霊がいたとしたらどうなるのか?。義なるキリストは、罪を認めて光の中にとどまった魂に問いかけないであろうか。「あなたは、わたしに信頼しないか?」。「捕らわれ人には赦免を」宣べ伝えられるのではないだろうか。
 
福音を聞かずして逝った家族や友人について、私たちは「彼らは滅んだのか?」と問いたくなる。あるいは、信仰の告白に今一歩という時に逝った者についてはどうか。神は、正しく、善なるお方ゆえに、その人の処遇についても正しく、公平に扱われると言うよりほかはない。しかしながら、その処遇の一つとして、「彼にも救いの道を開いているのだよ」ということを、神=キリストの側で宣言することはありえないことではないし、もしあったとして、人間の側で教理という切り捨ての手段で切り捨てることが出来るものではない。教理は、切り捨てのための手段ではなく、異端からの防衛手段であり、区別の手段である。しかし、反対に、「死者も救われる」と主張することもできない。死者のおるべきところ、死後の世界について、また、死者が救われるための要件など、死者に関することは、終わりの日のさばきを除いて、聖書は沈黙しているからである。聖書は、今現在、肉体的に生きている私たちに語りかけているのであって、死者に対してではない。本来、人間は肉体をもって造られ、そのうちに神の霊を吹き込まれて初めて存在する。Tペテロ書の言う「捕らわれの霊」は、霊においてすでに死んだ者がノアの洪水によって肉体においても死に渡された、俗っぽく言えば「幽霊」である。「幽霊」には神の御心に従う応答をする手段がない。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」(ローマ書10:10)。この御言葉の適用があるのは、肉体において生きることを許されている間の人間であって、「幽霊」にその適用はない。もちろん、死の重病が突然襲い、口で告白しようと思ってもできなかった人について「救われない」という趣旨ではない。かつて肉体をもつことを許されておきながら神に応答することをせず、死して裁きを待つ霊という存在になった者に、この条文の援用は許されないのではないか。「あなたは、わたしに信頼しないか?」という声が聞こえたとしても、もはや如何ともしがたいのではないか。換言すれば、「死者が救われるから、私は生きている間はキリストを信じない」ということはできない。それは、ある意味で、「死んでからでも救われるのだから、生きている間はせいぜい好き勝手をさせてもらいたい」という自己中心を選び取っているからである。そのような生き方をしていて、果たして、まばゆい光が射すときに、そこにとどまりえるのであろうか?。キリストへの信仰をもとうとする決断を延期するのを正当化するために「死者も救われる」と言うのであれば、全くの異端であり、教理によって区別され、切り捨てられる。ヘブル書3:13-15に書いているとおりである。
 
3:13 「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。
3:14 もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。
3:15 「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」と言われているからです。
 
なお、解釈をするうえで非常に注意と慎重さを要する黙示録には、「第2の死」について4箇所言及がある。
 
2:11 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」』
 
20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。
 
20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
 
21:8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」
 
これによれば、第1の復活(ということは第2の復活があるということだ)に与る者、すなわち、勝利を得る聖なる者には第2の死(第1の死は肉体的な死)は効力をもたない、つまり第2の死によって死ぬことはないとされている。逆に、第2の復活は、臆病の者、不信仰の者等々にとって決定的な意味をもっており、死とハデスという悪魔の支配下にあったところと一緒に「火と硫黄の燃える池」に投げ込まれ、そこで報いを受ける。この違いは何だろうか?。それは「いのちの書」に名前が記されているかどうかの違いである。イエス様もまた言われた。「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と(ルカ伝10:20b)。この言葉の背後には、神ご自身の権威がある。「神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。』と言われました」(ローマ9:15)。その基礎に流れるものは信頼(信仰)である。誰が信頼をもって神に仕えてきたかを判断するのは神であって人間ではない。このような意味においてのみ、私たちは「救い」ということに「バッファ」を認めなければならない。
 
以上
 
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