3 石水時代
3 石水時代


2 骸骨時代
   
(京都府立校長就任から結核発病まで)
  ( 清沢満之 略年表も参考にどうぞ。)

 当時、財政難から存続が危ぶまれていた京都府立尋常中学校を、府の要請により真宗大谷
派(東本願寺)が引きうけることとなった。
 そこで、満之に白羽の矢が当たり、本山の要請を受ける形で、1888年(明治26)の7月、
満之は京都中学校の校長に赴任した。
 また、8月には渥美契縁の仲介により、清沢ヤスと結婚、三河大浜の西方寺に入る。

 満之は校長赴任当時、時代のエリートを象徴するように、人力車で学校に通い、新式な洋服
を着て、山高帽をかぶり、ステッキを片手に西洋タバコをくゆらしたという。当時の新聞で京都
の学者三傑を投票でつのったところ、その一人にさえ数えられたという。
  
 ところが、1890年(明治23年)28歳の7月校長を稲葉昌丸にゆずり(一部の授業は引き続き受
け持つ)禁欲主義(ミニマムポッシブル)の実験的生活を始める。
 洋服はすっかり人にあたえ、白の綿服に黒の麻衣と黒の輪袈裟をつけ、木綿鼻緒の下駄履
きで、毎朝本山の晨朝(朝の勤行)に参拝してから学校へ出たという。
   (なお、このころ仮名聖教、特に『歎異抄』に親しむ。)
 さらに、翌年、母タキが49歳で亡くなると、禁欲主義はいよいよ厳しさを増すこととなる。菜食
主義を徹底し、ついには、塩による煮炊きを絶ち、そば粉を水に溶かして食い、松脂をなめる
という徹底であった。
 
 また、1892年(明治25)30歳の時には、代表作の一つである『宗教哲学骸骨』を刊行す
る。これは英訳もされ、シカゴ万国宗教大会でも好評を得る。

 (なお、行者的ともいえるこの実験生活は、親鸞が『教行信証』で「雑行を棄てて本願に帰す」あるいは、『歎異抄』
に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし・・」と記される内容とは、相反するものに思われ
る。何故、満之はこれを承知の上で禁欲生活を行ったか、『宗教哲学骸』を踏まえた上で十分検討が必要であろう。)

 さて、1894年(明治27)1月29日に法主厳如の葬儀が行われた。
 寒さの中、葬儀に参列した僧侶は、午前2時から午後5時まで剃りたての頭で立ち続け、感
冒にかかるものが続出した。(あまりの流行に人々は「大谷風」と呼んだという。)
 ただでさえ、十分な栄養を採っていない満之は、この葬儀に参列し体調を崩してしまう。
 しかし、満之は体調にかまうことなく禁欲主義を続ける。
 そして、ようやく4月、友人に半ば強要されて京都府立病院の診断を受け、当時不治の病で
ある「結核」と診断されるのである。

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