4 臘扇時代

(西方寺にて『臘扇記』起稿、そして東京に真宗大学建設へ・・・途中まで)
  ( 清沢満之 略年表も参考にどうぞ。)

 明けて、1898年(明治31)4月、満之の除名処分は解かれ、五月には父を西方寺に引き寄
せている。

 しかし、満之にとって西方寺とて落ち着けるところではなかった。

 西方寺はいわゆる大坊であったが、子どもが女ばかりということで養子を欲しがっていた。
そこで本山に、これはという人物を紹介するよう依頼した。
 ここで、満之に白羽の矢が立った。結婚は前述のとおり京都中学校に赴任してすぐの1888
年(明治21)8月7日に、後に衝突することとなる渥美契縁を仲介にして行われている。(なんと
いう縁)
 しかし、満之は養子に入るつもりはなかった。入寺後も徳永姓を名告ることと考えていたよう
である。特に、武士であった実父永則は頑固であったという。
 ちなみに、父の永則が折れるのは、垂水療養を引き上げる直前であり、満之は、結婚後7年
を経てはじめて「清沢」姓を名告のである。

 このような経緯に加えて、満之は不治の病「結核」である。西方寺檀家総代会ではいっその
こと離縁と言う話さえ出たと言う。
 加えて、外見は貧弱で、色ばかり黒く、五尺(150cm程度)に足らず十貫(38kg程度)に満
たなかった。さらに、説教をすれば難しかく、法要にいって追い返されることさえあったという。

 特に、改革失敗の後に帰って来たときは、義父厳照は健在であり、改革運動で京都にいる
満之に代わって寺務を助けるため婿に入った藤分法賢もいた。
 こんな状況で、満之自身のみならず、実父永則の面倒まで見てもらうのである。

 責任感の強い満之は、悶々とした日々を送ったのではなかろうか。
このころ、満之は『阿含経』を熱心に読み。抜書きを作った。
 そして、自らを無用な者という意味から「臘扇」(臘は年末を表し、冬の扇=無用者)を名告
り、日記『臘扇記』を同年の8月から起稿する。


 ところが、本山の大事件が満之をほっておかなかった。
同じ8月、新法主光演(句仏)が本山を脱出し、東京に出たのである。
(影には渥美勢力に対抗する石川の策略があったといわれる)
 満之はこれを「随分壮快なる一挙」と大いに喜び、法主の要請があると、9月には早速二週
間ほど東京にでている。このとき、世話になった沢柳政太郎の書架で『エピクテタス語録』と出
会う。(満之は『歎異抄』・『阿含経』・『エピクテタス語録』を自分の三部経として尊重することとなる。)
 そして、新法主からの直筆要請を受けるという形で、1899年(明治32)法主の補導役として
上京することとなる。

 更には、本山からの要請に次ぎの厳しい条件をつけて「真宗大学」(後の大谷大学)の運営
に乗り出すこととなる。
    一.真宗大学を東京に移すこと。
    二.毎年一ヵ年間の大学の経費として二万五千円を支出すること。尚ほ当初三ヵ年間 
       の経費を銀行に別預けとして、此の金は本山内に他日如何様(いかよう)なること
       あるも、其の変動には一切関係なきこととす。
    三.教育上の方針、学課の編成等、教育に関する全体を一任して更に容喙(ようかい)
       せざる事。 (容喙=くちばしをいれること。横から口をだすこと)

 本山はこの条件を呑み、1901年(明治34)東京巣鴨に校舎を落成し、10月13日には満
之を学監、関根仁応を主管として真宗大学移転開校の式が行われている。
 
 そして、開校の辞で次ぎのように大学の精神を述べる。

   本学は他の大学とは異なりまして宗教学校なること、殊に仏教の中に於いて浄土真宗の
  学場であります。即ち、我々が信奉する本願他力の宗義に基づきまして、我々に於いて最
  大事件なる自己の信念の確立の上に、其の信仰を他に伝へる、即ち自信教人信の誠を尽
  くすべき人物を養成するのが本学の特質であります。
あくまでも、純粋に真宗の仏教の大学を願ったのである。

 しかし、また、純粋すぎたのかもしれない。

中途半端に以下工事中


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