東中野「写真検証本」批判の各論 

                                                                    2018/12/31 upload

 
1.明らかな検証の誤り
2.斬首と生き埋め
3.外国人が記録した写真
4.陵辱写真
5.日本の雑誌からの転載



1.明らかな検証の誤り



A1 南 京爆撃 ×広東の写真 南京である 冬ではない 爆 撃

東中野主張 : 『日寇暴行実録』に「南京」と説明されているが、「歴史写真」昭和十三(一九三八)年十月号(一九頁)や、「支那事変 聖戦史」昭和十三年一二月号(八一頁)に広東爆撃 とあるから、広東である。

写真B 写真1
検証本写真B
検証本写真1

「検証本」 の写真1 『歴史写真』305号(13.10.1発行)であり、キャプションは「広東なる天河飛行場附近東山なる軍事拠点 が、我が海の荒鷲に依て爆撃されたる有様」となっている(19頁)。
写真1 『日寇暴行実録』に「南京」と説明され、それが今も踏襲されている。しかし、、これは日本の「歴史写真」や「支那事変聖戦史」に出た広東の写真を使っていた。

(本文より)
日本軍の広東作戦決定は昭和十三年六月十五日であり、広東占領は十月二十一日である。なる検証本」 の写真B 『実録』の写真ほど写真の人びとの服装は夏服で あり、帽子姿も見える。南京陥落時の冬の写真では決してなかったのである。
(写真1の説明文より)
・・・しかし、これは日本の「歴史写真」や「支那事変聖戦史」に出た広東の写真を使っていた


「南京以外の写真をもさも南京の事件のことのように取り扱っている」という主張は本書に一貫している。しかし、事実、南京の写真であるという例が非常に多いのである。この写真はその第一例目である。市民が夏服を着ているから南京ではない、というが南京爆撃は1937年8月15日に始まっているので、夏服は否定の理由にならない。

この写真が日本の雑誌に載っていて、広東爆撃の写真と紹介されているから、広東の爆撃というのが正しく、南京の爆撃ではない、というのが第二の理由。しかし、日本での雑誌の初出は昭和13年10月.1日であり、『実録』の発行は1938年7月 。時間的に日本の雑誌からのコピーはできない。雑誌からのコピーではない証拠に『実録』所載の写真1には写真Bにない部分がある。

南京であれ、広東であれ、日本軍爆撃の前から日本人記者は退去しており、この写真は日本人カメラマンが撮ったものではない。一方、中 国メディアは南京あれ広東であれ爆撃後の 写真を自由に撮ることができた。だから、広東の爆撃写真を南京のものとして発表する理由はない。日本メディアは中国に写真を提供を受けることはないので、この写真は海外メディアに発表されたものを二次使用 したものとしか考えられず、キャプションの誤りは二次使用の際に正しい写真情報が伝わらなかったと考えられる。


 

A2 遭難後の父子 ×宣伝のための演出写真     爆撃

上海南駅の爆撃の写真である。宣伝のための演出写真という主張は別ページ、妄 想的解釈が支える「やらせ写真」判定 で完全に反駁している。
 

A3 パネー号 ×パネー号でない     爆撃

 東中野は『日寇暴行実録』にパネー号としてある写真はパネー号ではないという。「検証」本のパネー号の写真A−Dは小さく、不鮮明であり、これでは同じか違うか 判定のしようがない。写真3には岸辺の家屋、樹木が重なりあって、どこまでが船かわかりにくいところがある。参考写真と較べ、写真3の背景の重なりを頭の中で除去すれば、マスト、煙突、ボート、窓などの配置などの特徴は同じであることがわかる。
 

『実録』の中の写真は背景が重なって見にくい。 実は同じ船である。

A5 パネー号 ×パネー号でない     爆撃


2.斬首と生き埋め

A6
A7
日本兵の斬首 ×演出と合成の写真 CWR は南京の写真とする 可能性あり イ エス

すでにニセ写真 攻撃−斬首解決編で検証ずみである。
『日寇暴行実録』では写真撮影の現場を特定する情報を得られてないようだ。初出であるChiana Weekly Review誌(1938.10.11)では南京の写真としている。写真の入手経路の詳細までは記していないもの の、「女性を提供するよう強要されて断った僧侶が処刑された」というキャプションにはそれなりの真実性があったことを否定できない。キャプションの内容は常に正しいとは限らないが、日本兵が女性を出すよう市民に強要した事例は多数を数え、キャプションの内容のみからはそういった事実を否定できない。

東中野は写真に9項目の「疑問」を提示しているが、いずれも馬鹿げた内容で反論に値しない。「演出」と「合成」という判定も非常に奇妙である。写真の合成は非常に難しいので、演出する手間を 厭わないのであれば、写真の合成など必要ない。
 

A8
A9
陸戦隊の斬首 × 日本兵ではない?修正写真? 南京で海軍兵士の斬首はあった 可能性あり イエス

これもすでに検証済みである。(ニセ写真攻撃-斬首解決編
「 襟が白いから海軍の制服でない」という点についてだけ反論しておくと、この制服は第一種軍装の水兵服で、東中野が襟と見たのは水兵服の上着の一部ではな く、中着と呼ばれる衣服の一部であり、上着の紺青色よりはやや明るい青色をしている。この写真は接写によってコピーを繰り返したものであり、上着の紺青色 の中でもかなり白っぽく写っているから、明るい青の中着と日光の角度によっては白同然に写っても不思議はない。
また、昭和12年ないし13年において、この紺の略帽を着用するのは、艦内勤務者では士官のみ、下士官、兵では陸戦隊配備に付くものである。写真の兵士は 鉄帽も被っておらず、正規の陸戦隊装備である肩バンドや脚絆を欠いているので、陸戦目的の上陸者ではない。

「1億人の昭和史 日本の戦史 2満州事変」 毎日新聞社 P62
陸戦隊の斬首の初出写真(Ken誌1938.8.11)渡辺さん提供1931年 の天津暴動の際、租界を警備する海軍陸戦隊員の写真 『1億人の昭和史 日本の戦史 2満州事変』 毎日新聞社 pp62より

写真の初出までの時期で、海軍陸戦隊が上陸したのは上海戦の初期と陥落後の南京だけである。上海戦は寸土を争う激戦で悠長に捕虜の斬首をするよう な 余裕はなかった。この写真の兵士は陸戦隊員が着用するベルトなどを付けておらず、陥落後に下関から上陸してきた士官などではないかと考えられる。海軍士官 が 上陸して捕虜などを斬らせてくれと頼んで斬首したことは記録にあり、南京事件の写真である可能性は非常に高い。後の書物で南京事件の写真と紹介されるのに 違和感のない写真資料である。

 

こ の水兵服の襟は上着の一部ではなく、下に着る「中着」と呼ばれる衣服の一部である。通常は第一種軍装の水兵服(上着)の紺青色よりやや明るい青色をしてい る。写真によっては、かなり明るい色に写りますので、トーンの飛んだ写真でほとんど白に写っていたとしても、日本海軍の制服ではないという証拠にはなりま せん。

上の写真は、1931年の天津暴動の際、租界を警備する海軍陸戦隊員の写真ですが、襟の色はかなり明るいことが見て取れます。
(「1億人の昭和史 日本の戦史 2満州事変」 毎日新聞社 P62下段の写真の右半分)

なお、KEN誌所載の「兵士」の写真ですが、紺色の略帽を被っています。
昭和12年ないし13年の段階では、この紺の略帽を支給されているのは、艦内勤務者では士官のみ、下士官、兵では陸戦隊配備に付くもののみです。

写真の兵士は鉄帽も被っておらず、正規の陸戦隊装備である肩バンドや脚絆を欠いているようですので、正規の陸戦を命じられて上陸したものではありません。
これが実際に日本兵であるとすれば、阿羅氏の「南京事件 日本人48人の証言」に登場するエピソードのように、斬首を目的に上陸したものという可能性があ ります

A10
A11
生き埋め ×合成写真 南京で事件は報告あり 可能性あり イ エス

『Look』1938年11月22日号にも掲載

『実録』説明 : 南京の冦軍が我が同胞を生き埋めにする惨状
東中野主張 : こう見てくると、穴を掘ったあとの盛り土の写真と、@からEまでの六人の男たち(タラリ注 生き埋めにされる男たちのこと)の写真と、背 後の兵士など複数の写真をひとつにした「合成 写真」のように考えられる。写真に矛盾点や疑問点があっては、その写真は真実とは受け入れられない。


Pictorial Review誌 『日寇暴行実録』
"Pictorial Review "誌1943年1月 『日寇暴行 実録』写真A10

三つの写真から合成したという推測は松尾一郎から引き継い だものだ。さすがに雑誌のページの切れ目を合成の根拠とする愚までは引き継がなかった。しかし、写真を観察すれば、A10は対象から引いて、A11は近接 して撮影されている。A11ではカメラと兵士たち、カメラと中央の人物群の距離、兵士たちと中央の人物群の距離感は少しの違和感もなく表現され、光の方向 もぴったり一致している。また、A10とA11を較べても位置関係、光の方向、写真の明るさなどに矛盾はまったくない。これだけの写真を合成で作るのは当 時はもちろん不可能であり、現代でも難しい。

『日寇暴行 実録』写真A11 犠牲者はタバコをもらい、若者は穴に入ってきているので、 写真A10のあとのことだとわかる。

写真の建物の屋根には雪が溶けかけで残っている。兵士の一人は外套を着ており、兵士の二人はポケットに手を突っ込んでいる。南京事件の時期と考えても問題 はない。 また、南京攻略以前は各師団が南京一番乗りを目指して争って競争する状態であり、捕虜を生き埋めにする余裕はなかっただろう。南京では長期進駐して余裕が あった。また、 南京で日本軍兵士が生き埋めを行っていたとする記録が多数存在する。したがって南京の写真であると解釈して無理のない写真である。

第六師団歩兵二三連隊の兵士の日記、十二月十五日
近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような 惨殺を敢へて喜んでいるのが流行しだした様子。

 

苗学標、男、78歳の証言
日本軍が南京を占領した時、わたしは三回に亘って日本軍に捕まり、日本軍の殺し焼き犯し掠めた凶暴な行為を目撃しました。(中略)
三度目に捕まった:12月17日の午前十時前後で、わたしと同時に捕まった人夫が二十人余りいました。日本兵たがわたしたちを捕まえ中華門外に連れていっ たのは、又もや屍を抱えせようとしてでした。わたしたちは死人を凡そ数十人運び、それを一緒に山の麓に埋めたのです。日本兵は又わたしたちに雨花台の道の 脇に、深さ一メートル余りくらいの、穴を掘らせました。穴が掘り終わってから、日本兵が一人わたしたちの同胞の一人に無理強いして穴の中に 降りさせ、日本兵の何人かが自ら土を抛り込んで生き埋めにしたのです。わたしたち目を見張って見ているしかなく、何とも凄まじく、何ともたまらない気持ち でした!

さて、この写真に関しては重要な発展があった。2008年9月14日の朝日新聞特集記事に新 発見の生き埋め写真が掲載された。この写真は写真10Aの撮影地点から右に回りこんだ地点から撮られており、5人の犠牲者が前後に並ぶ穴の全景を撮ってい る

生き埋め3
新発見の生 き埋め写真

犠牲者は穴の先にまで入り込み、頭の 位置は土より低くなった。いずれも観念してうつむいている。写真10Aでは写真兵士たちの視線がバラバラだと評されていたが、いずれも興味津々で見つめ、 あるものは薄笑いをしながらこの見物を見ている。生き埋めがいままさに始まるので兵士たちが注目していることがわかる。

笑う兵士(左)
背後・左の 兵士 生き埋めが始まると視線は一致した。はっきりと笑ってみている兵士もいる。

 

背後の兵士(右)
背後・右の 兵士 右から二人目の兵士の驚きの表情

3.外国人が記録した写真

A17 南 京で日本軍に銃殺された三歳児 ■ 撮影者不明 可能性あり イエス

東中野の反論は「誰が撮ったのかわからない。マギーフィルムではない」というもの。どう見ても反論のていをなしていない。

この写真は、南京郊外の棲霞山のセメント工場で難民の救援にあたっていたデンマーク人シンバーグのアルバ ムに含まれていた。そのアルバムには「この子供は故意に撃たれ、その母親 は怪我を負わされた」と説明されている。シンバーグは十二月二十三日か二十四日に南京に来て途中で見た日本軍の暴行写真を撮影したという記録がある。シン バーグのアルバムにはA20、A21の写真も貼ってあ る。

 シンバーグのアルバムに貼ってあるので撮影者はシンバーグ自身である可能性が高い。あるいはシンバーグの同僚である、ギュ ンターであろう。写真のキャプションは撮影者によるものと考えてよい。また、シンバーグは1938年3月に中国を離れているから、これらの 写真は南京大虐殺の時期に撮られたと考えて間違いない。



 

 



A18 日 本軍機の爆撃により南京の評事街で死亡した3人の幼児 ■  記録にない 南京 9月  爆撃

Rabeより
TEH GOOD MAN OF NANKING J.Rabe pp116  BELOW


A18 George C.Bruce, "Shanghai's Undeclared War",Mercury Press, Shangahi(1937年刊行)の写真頁p.62では「9月の南京地域の空襲の犠牲者の遺体」というキャプションがついている。撮影者などの詳細は ないものの、早い時期の記録がある以上否定する理由もない。

A19 南 京の日本軍が刀で殺戮した7歳の児童 ×修正した写真 南京 イエス

東中野いわく、「後ろにいる人物が黒く塗られて消されている」。

「人物が消された」というクレームでいったい何を否定し たいのか不明である。これは マギー撮影のムービー・フィルムであり、子どものそばに人がいるシーンと人がいないシーンがある。東中野はマギーのフィルムであることを認ているので、そ の解説を受け入れるほかはないだろう。
マギーの解説:「これは、大学病院(伝道団施設)〔鼓楼病院〕に入院して三日後に亡くなった七歳ぐらいの少年の死体である。かれは腹部に銃剣で五か所の傷 を負い、そのうちのひとつが胃を貫通した」。 

別の写真 中国918愛国網


 

A20 南 京城外の池 △半袖だから、草が枯れていないから、 南京城郊外ではない 可能性高い 可能性高い イエス

 

『実録』説明 :  南京城郊外で戦闘力を失った中国軍は、日本軍に両腕を縛られ、銃殺の後投げ入れられた。池の中の死体は三百体あまりに達した。
東中野反論 :  半袖だから冬でない、草が生えているから冬でない。冬でないから南京陥落の十二月でない。死体は三百 体も写っていない。

これら3枚 の写真がシンバーグのアルバムにあった。左上と左下の写真はほぼ同じ場面を違った立ち位置から撮った写真であるとすぐにわかる。

シンドバーグは1938年3月には中国を去ったので、この写真は冬に撮られたことは明らかである。


南京と日本の気温はほぼ同じである。草の中には冬も枯れずに青いままのものもあるし、枯れて黄色くなっても茂ったままのものも多い。死体の何人かは半袖の 下着のシャツを着ている。冬でも半袖の 下着のシャツを着ていることはよくある。したがって、画像情報のみからは冬である可能性は否定できない。決定的なことはシンドバーグのアルバムにあること であり、1938年3月までに撮られた写真である。
 

A21 南 京近郊農民 ■日本軍という証拠がない 可能性高い
可能性高い イ エス

『実録』説明 : 「南京郊外で日本軍に殺害された農民」

シンバーグのアルバムの説明 : 「日本兵はこの農民の金銭を奪った後、殺害した」 シンバーグの説明は『実録』よりも時期的に早く、また具体性がある。金銭を奪ったことは何らかの情報を得ていたと思われる。

日軍

シンバーグのオリジナルは『実録』写真より撮影範囲が広く、精細画像で死んだ顔色がよくわかる。



A24 南京近郊農民 ■日本軍という証拠がない 可能性あり 可能性あり イエス

『実録』では「南京郊外で殺された農民』と説明されている。南京で多数の市民が殺害されたのは事実であり、特に疑う理由もない。東中野 の側にはそれを否定する具体的な証拠を持っているわけでもない。

東中野本より




A26 南 京輪姦少女 ■ウィルソン医師の説明がない イエス イエス イエス

東中野はマギー牧師撮影の写真(フィルムの一部)であることは認めている。マギー牧師はすべての被写体の説明を残しているわけではない。ウィルソン医師も数百人いた患者のすべての記録を書き残しているわけではない。説明がないから、『実録』の説明がウソ であるとは言えない。マギーは多数の強姦を受けた女性のことを報告しており、この少女の表情からして、輪姦を受けたという説明は首肯できるもので ある。


強姦された少女

 

A27 南 京で撃たれた ■戦闘によるものではないか 可能性あり 可能性あり イエス

 

『実録』説明 : 南京で日本軍に右腿を撃たれて傷ついた十四歳の児童が、鼓楼病院で医師の治療を受けている光景
東中野主張 : この男性は二十歳前後の青年と見受けられないだろうか。ウィ ルソン医師の日記風の手紙を見ると、彼は、12月11日に片足を吹き飛ばされ た男性に、「足の下部を切断」する手術を、十五日に施している。この男性がそれに該当するとすれば、陥落二日前に、戦闘中に片足を吹き飛ばされたのであろ う。

二十歳前後の青年にしては手足が細い。右足は台の上に水平にすえられ、写真ではわかりにくいがよく見ると右足もちゃんと写っている。右膝はやや屈曲し、右足関節は足背側に屈曲させた状態で器具を使って牽引している。脚の変形を残さない ために良肢位で固定して回復を待っているのである。東中野がわざわざ持ち出 した「戦闘による負傷男性」には該当しない。

膝関節のところを針金を通して45度上方に牽引。
右足は黒い三角形の陰の部分である。
右足は膝関節を牽引するのと直角方向に上方に牽引している。
牽引の索条は白くXの字に交差している。
右下腿を視認しにくいのは布で覆っているからである。

ところで、中国の写真集では医師をウィルソンとしているが、ウィルソンは頭に毛がない。トリマー医師かも知れない。


A28 農 夫火傷 ■日本軍という証拠がない 南京 イ エス
イエス


東中野主張 : それは三通りに受け取れる。戦闘による負傷なのか、日本軍の悪行による負傷なのか、日本軍に傷つけられたと言えば治療費が免除されていた から、そう申告したのか、それはわからない

国際安全区委員会の不法事例の報告でこの事件を説明している。

『ドイツ外交官 の見た 南京事件』pp234より
461 3月4日。莫林崗の54歳の農夫が、2月13日に日本兵から数頭の雌牛とロバ、それに少女たちを求められた。隣人たちはみな逃げてしまった。兵士たちその農夫を縛り、体を広げた状態で、地上三フィートの高さにつるした。それから農夫の体の下に火を点け、下腹部、性器、胸部を強く焼き、顔と頭の毛髪を焼き焦げにした。兵士たちのひとりが、農夫の高齢を慮って抗議をおこない、火を消して、農夫のまだ火がついていた衣服を引き裂いた。兵士たちは去り、およそ一時間後にかれの家族が 戻ってきて、かれを救い出した。(ウィルソン)

註 莫林崗は音訳したもの。英語表記では”Molinkwan”であり、元の中国語表記は秣陵関である。

東中野が紹介する「実録」の説明には南京と書いていないが、中国ではこの農夫をきちんと特定し、姓を確かめたらしい。『南京大屠殺図証』による説明では「 南京秣陵関の何姓の老農夫が日本軍に下腹部を焼かれ、病院で治療を受けている様子」となっている。姓は下記の国際委員会文書にも書いていないので、中国で はこの文書を参考にして書いたのではないことがわかる。地名、姓が記され、具体性があるので信憑性の高い情報である。『南京大屠殺史料集28歴史図像』で はマギー撮影フィルムであるとしている

これも病院のベッドの写真であるが、光の加減が写真19、写真26にも似ている。当時、このような外傷患者を受け入れていた病院は鼓楼病院以外にはなかった。東中野は「日本軍に傷つけられたと言えば治療費が免除されていたから、そう申告したのか、それはわからない」などと言ってい る。これは他書で鼓楼病 院にかかった被害者に対して東中野がいつも投げかけている悪罵であるが、逆に、この発言によって東中野が鼓楼病院であること知っていたことがわかる。しかし、下腹 部の火傷だけをもたらす、という「戦闘による負傷」は考え にくい。一方、日本兵が中国人をしばしば火あぶりにして喜んでいたという資料は多数ある。


4.陵辱写真

A29 強 姦された女性 ■遊郭ではないのか 情報なし 可能性あり イ エス

東中野主張 写真29に写された男女は、そのポーズからして遊郭の女性と客ではないだろうか。そう考えれば、壁の黒い部分に遊郭の屋号か何かが書いてあっ たとも思える。

日寇暴行実録』では「強姦された我が同胞の女 性」と説明されている。

『鉄証如山』では「強姦の後、下半身をむき出しにして獣兵と写真を撮らせる」とある。

この写真は秦郁彦『現代史の争点』所載の写真よりさらに右方向に拡がっており、右端の男性がうつむきながら去っていく様子に見える。
二書では強姦の後と書くが、このような写真はまず、陵辱の前に撮るものではないかと思う。強姦を終えてしまえば、性的興味のエネルギーが霧消するからだ。

女性の緊張して、悲痛な表情と兵士の笑顔の対比が残酷さを表現する。あとに続く輪姦された女性の写真と同様、撮影したのもおそらく日本兵だろう。






東中野の「ではないだろうか。そう考えれば・・とも思える」という妄想に付き合う必要はないが、この写真については秦郁彦も面白いことを書いている。「つ いでに中央の兵士をしけしげ眺めると、服装が民間人のジャンパー風で帽子も顔も日本人には見えない」そうだ。この写真で見る限りはチーフのようなものを首に巻いているように見える。帽子も顔も、あるいは兵士の姿勢もこの写真の解像度、精細度ではどうなっているのか、よくわからない程度だと思う。なのに、 「日本人には見えない」という文章であたかも「日本人ではないものが日本兵を装って写真を撮らせている」という含意さえ感じられる文章を書く。秦郁彦とも あろうものがなにごとか、と思う。



A30 輪 姦された女性 ■エロ写真ではないのか 情報なし 可能性あり イ エス
A32 輪 姦された女性 ■エロ写真ではないのか 情報なし 可能性あり イ エス
A33 輪姦された女性 ■エロ写真ではないのか 情報なし 可能性あり イ エス

東中野は事実を否定する材料がないと「・・・・ではないのか」と書くのだが、「・・・ではないのか」では否定にならない。否定しようと するのなら具 体的な根拠を示さないと駄目だ。「いずれも寒い冬であるにもかかわらず(恐れだけでなく)寒さに震える表情が見えない」と書くが、そもそもどの写真のキャ プションにも「冬」とのコメントはない。

  エロ写真として流通させるには女性の媚態が示され見るものの心をひきつけることが必要だ。そのためには題材も構図も考え抜かれたものが必要だろう。構 図も素人のスナップ写真レベルで、ポーズもないに等しい。衣服は写真用に選んだものではなく普段着のようであるのにある種の迫真性がある。それはどこから 来るのか。

泣く女 放心する女 三人の女
写真30の別ソース写真31の別ソース写真32

写真30の女性は泣いており、写真31の女性は放心状態、写真33は椅子に縛り付け られ陰部を丸出しにし、もはや失神状態である。
写 真32 には明らかな男の影が手前に映っている。その頭部は軍帽のようにも見える。
   
椅子に縛られた女 老婆
写真33の別ソース写真34の別ソース
写真33でも「検証本」では下半分が切れているが、原画では手前に影が映ってい る。頚部のふ くらみはあるいはカメラを持つ手であろうか 普通は撮影者の影が映るようなプロの「エロ写真」はありえない。なにものかが、女性を脅迫して服を脱がせて写 真を撮っていることは明白であろう。
写真34に至っては老婆である。こんな老婆でわざわざエロ写真を撮って売ろうとするものがいるだろうか。も ちろん、女性の陰部さえ晒せば男性にとってはある用途に使える。しかし、これらの写真に見て取れるのは明らかなサディストの嗜好である。

5.日本の雑誌からの転載


 A35、 36、37の写真はいずれも日本の雑誌所載のものである。東中野の非難は「写真の説明を改竄」である。改竄とはオリジナルの説明を知った上でないとできない。
A35 の画像を見ると女性とこどもばかりの農民が橋を渡っている。銃を肩にした日本兵二人が同行している。農民も兵士ものんびりした様子で歩いている。写真は対象からやや引いたところから捕られてり、安定感がある。しかし、この画像だけでは何のために兵士・農民が一緒に歩いているかはわからない。
原典であるアサヒグラフでは組み写真とそのキャプションで兵士が農民を護っているということが書かれている。
雑誌では「我が兵士らに護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群」とある。いったいだれから護っているのだろう。上 海・南京戦で日本軍がようやく攻勢に出て各地でしのぎを削りながら戦っているときにこの兵士たちはなにをのんびりしていたのか。村ごとに毎日毎日日本兵数 名を貼り付けて「護っている」とすれば戦闘要員に不足をきたす。とすれば、この写真はめったにないことであるけれど、なにかのために撮影されたのだ。それ は日本軍が中国人をいじめてはいない、仲良しなんだ、というプロパガンダの目的しかない。

しかし、それでもなお疑問なのはこの村に男性がいれば
兵士が女性子供を護る必要もなかったのではないか。男性たちはいったいどこでなにをしているのだろう。男性たちがいないのは、兵士たちがわざわざ村にいて護っているということとなにが関連あるのだろうとしか考えられない。写真の本当の意味は男性たちが日本軍のもとで何をしていたか、させられていたかがわかったときにわかるはずだ。

ところで、アサヒグラフと『実録』の写真A35から37のいずれを見ても、オリジナルの写真とは画像の精細度が格段に劣るのである。A35ではオリジナル写真にはないところの橋げたの石積み模様がはっきり出てくるのである。当時は 雑誌の写真の複製は写真を再び写真撮影するしかなかったのであるが、この精細度の違いはかなり複製を続けないと出てこない。中国軍では日本軍の暴行写真を 収集したが、日軍暴行実録の写真のほとんどは何次にも及ぶ複製を経たものである。その理由は当時、手札版の写真が今日の写真雑誌のような役割を果たしてい たことにある。
   この写真のキャプションが『実録』に伝わらなかったとしても不思議ではない。写真の絵像を仔細に観察すれば、上述のような感触を得るのだが、戦争当時の 中国人にしてみれば、日本軍が婦女を連行する図とみなしても不思議はない図柄である。中国人編集者がアサヒグラフから直にこの写真を抜き取ってキャプショ ンを読んでいたという証拠がないことには、「捏造」は言うにおよばず、「説明を変えた」と言うこともできないのである。

原図実録36


A36
【撮影者】 小川特派員 【撮影場所】 京漢線豊楽鎮 【撮影時期】 1937年10月29日 【正確な出典】 『支那事変画報』第9輯(朝日新聞社・昭和12年12月5日発行)

こ の写真の精細度も『実録』は下がっている。朝日版支那事変画報の文字部分はトリミングされている。よく、コピー元を『実録』編集部が隠したに違いないとい う指摘がされるが、コピーを売る業者にしてもこのような文字はないほうが売れると判断するた゜ろう。オリジナルのキャプションは支那民家で買い込んだ鶏と あるので、記者が確認しているのかも知れないが、この画像だけでは支払いの有無はわからない。
「日本軍の行くところ、略奪されて鶏も犬もいなく なった」という説明文はこの画像についてだけ説明しているのではないことは明らかである。そのような編著者の認識を述べてその一例としてこの写真を表示し ているのは明らかだ。写真につけられる説明は写真に何が撮られているか、誰が撮ったか、日付は、時刻はという写真データだけを付けるとは限らず、著者の認 識を補強する一例として表示する場合も多い。

山羊山羊2


こ の写真でもA36とほぼ同様なことが言える。図像的には日本兵が民家近くの山羊を捕まえている。日本軍がせめてくれば、農民が逃げるのは当然で、『毎日版 支那事変画報』のキャプション「飼い主に棄てられた山羊二頭」は不適切だろう。第一山羊は民家近くにいるのであってこの民家の所有物であるのは明らかであ り、兵士がしているのは持ち主がいないのをいいことに略奪をしているというのが至当だろう。『実録』の説明の方が普通である。