読者のぶりぶり通信〔MAIL&FORMDECORD篇〕【No.037】

◆ お返事ありがとうございました - しの BACK

1998/06/15/13:27
こんにちは。さっそくお返事を頂きまして、ありがとうございました。
前回「ポイントを明確に」とのアドバイスを受けて、自分なりにいろいろ考えてみました。説明することがあまり得意でないので、わかりずらい点が多くあると思いますが、その時はまたご指摘いただけるとありがたいです。

まずここまでの経緯をお話しましょう。ゼミでは、「教育」をテーマに個人研究中心の授業をしていまして、私は以前から興味のあった「国語教育」について調べ始めたのですが、膨大な量の文献の中から自身の疑問や興味にこたえてくれる本を見つけることは難しく、インターネットで検索していたところ、運良くこちらのホームページに出会ったというわけなのです。今回、このテーマを決めた時に考えていたことを、自身の頭の中の整理をかねてあげてみたいと思います。

1.国語の授業のあり方について
「国語においては答えは一つではない」といわれているのに、なぜ授業では先生の板書をただひたすら写さなければいけないのか。なぜもっと授業中に生徒間の意見交換のための時間が無いのか。教科書は必要なのか・・・など今まで国語の授業中ずっと感じていたことについて、現役の先生方に聞いてみたいと思った。

2.国語の試験について
記述問題では、どういう基準で点数をつけるのか。板書や授業で使っている参考書の解答丸暗記が、完答とされたときもあった。

3.国語が不得意な生徒に必要な教育について
私は、国語に関して特別勉強をしたことがなかったが試験では困らなかった。だから、国語が不得意な友人から助言を求められても、何も言えなかった。しかし、国語は「天性の才能だから・・・」 という意見には賛成できない。どんな教育が必要なのか、また先生方はどのように考えているのか聞いてみたいと思った。

このほか、国語教育のあゆみや理念、社会背景については文献で調べたいと思っています。と、今のところこんな感じなのですがどうでしょうか。「他にこんなことも考えた方がいいんじゃない?」ということがありましたら、是非教えてください。まとまりのない文章を,長々と書いてしまいすみませんでした。では、このへんで失礼します。



★ たまぶり ★

私自身の国語の授業に対する考え方と実践については、ホームページにアップした授業実践記録と、著書『《読み》のたちあがる場をめざして』(国語教育叢書50/教育出版センター刊)に収めた「山田詠美『風葬の教室』の授業」あたりを参照していただけると有り難く存じます。『風葬』の授業は指導案・提出された全生徒の感想(部分引用も含む)・定期考査問題まで入れたため、長すぎてホームページにはアップしなかったものです。ご足労ながら、図書館かどこかでご覧下さい。(ただ、私の実践は、ホームページの「鎌田敏夫『会いたい』を読む」に掲載した教員アンケートにも窺えると思いますが、オーソドックスな代物とは到底呼べない「変なもの」であるのかも知れません。)とりあえず、ここでは、しのさんの書いてこられた項目に即しつつ述べておくことにします。

1.国語の授業のあり方について
この項は、私自身も疑問に感じ、そうでない授業作りをしようと心がけてきた点なのですが、実際の現場では、そう思ってもなかなかうまくいかない状況があるようです。やる気のある若手も、そうした空気の中で徐々に染めかえられていくのかも知れません。
とりあえず、「なぜか?」と問われると、「そのほうが楽だから」じゃないですかねえ。雑務が異様に多く、惰性に流れてしまっている現場においては…。教科書のみを用いて「指導書」通りにやっていれば教材研究にも時間をとられないで済むし、少なくとも間違って恥をかくこともない。なにせ指導書というお墨付きがバックについているわけです。それに最近では、定期考査問題までフロッピーとして添付されてきます。もちろん「模範解答」付きです。
ここでは、私の知っている範囲で、マイナスの事例をあげておきます。ただし、私の経験・見聞したかぎりではプラスの事例は圧倒的に少ないです。

(A)私の担当した当該学年の教員には、指導書のない自主教材を嫌がる人のほうが多かったですね。30歳で就業した私は在職中の5年間ずっと国語科では最年少でしたが。(つまり、ほとんどが教員歴20年以上の方々なわけです。)私は4年間、現代文のチーフをやりました。結局、非常勤でなおかつ実力のある先生方をも巻き込んで、自主教材を適宜さしはさんでいくという年度の教材編成をした際、専任の某教諭が年度中途に遠慮がちに私へ語った言葉…「やっぱプリントでやるよりも、教科書の方が生徒たちも手に持ってシックリくるみたいやしなあ」。(ホームページの1996年度の教材リストをご覧いただければわかるように、当時、教科書も併用していたわけです。それに、少なくとも私の担当した生徒たちからはそうした声は出ていません。わが校は学校の教室に私物を置いて帰ってはならないことになっていましたから、重量の軽いプリントによる自主教材テキストは歓迎されていたとも言えます。)

(B)高2で漱石の「こころ」に取り組んでいた折、初出が新聞小説ということで、連載1回分にあたる分量を1時間の授業ごとに読み進めていた私は、ベテランである某教諭が最初の4〜5時間は漢字練習のみに費やしていると生徒たちから聞いていました。こちらがようやくKの自殺の場面にさしかかった頃、「わしとこは、もうK、死んだで!」と某教諭。どうしたらわずか2時間ほどの読解でKの自殺にたどり着くのでしょうか。一部抜粋とはいえ、あの長い教材を2時間でラストまで持っていくのは力わざとしか言いようがありませんし、はたして彼の国語教室で読解の過程が存在したのかどうか、私は今でも疑っています。

(C)私の後輩が赴任した某私立進学校(中・高併設)で、私の実践に倣って自主教材による授業を展開したところ、生徒たちの好評とは裏腹に、某ベテラン教師から次のような言葉をなげかけられたということです。「教科書は文部省が決めてるもんやし、大学の試験もここから出るんやから…」。ここまでくると、入試は定期考査と違うのよ!と教えてあげるか、黙って愕然とするしかありませんが、塾で2年、予備校で4年仕事をしてきた私としては、こんな感覚の人がその地域でトップの進学校の教員として務まってきたのは、優秀な生徒たち自身の努力と予備校のデータを利用できるおかげだろうと思えてきます。

(D)京都の国語教育サークルでご一緒している某私立高校のベテラン教諭の教え子が非常勤講師(今年が1年目)として出向した別の某私立高校での話。彼女は、読みや表現を楽しむといった自身の母校での学習体験とは全く隔たる、一問一答式の授業展開に直面しました。生徒たちもそうした授業形態に馴らされていて、たった一つの「正解」を求めてくるため、国語の先生ってこんなにつまらない仕事だったのだろうかと悩んだ末、私たちのサークルに顔を出したのでした。

(A)・(B)に関しては、おそらく私の主観に彩られることから免れていないと思います。(C)・(D)についてもそれを語った当人の主観の彩りが添えられていることは不可避であること同様です。当事者双方の言い分を示し得ない以上、ある程度割り引いてお考え下さい。要するに、こうした聞き取り資料は、何かを論じる際の第一級の論拠としては使用できないということです。長くなりましたので、「2.国語の試験について」と「3.国語が不得意な生徒に必要な教育について」は、日を改めて別便にて。

追伸1/大河原忠蔵氏『状況認識の文学教育』(有精堂選書/有精堂刊)は、一読の価値ありだと私は思います。同著に示された生徒たちをめぐる状況把握は、いまなお一定程度、有効だろうし、さらに付言すれば、同著の執筆時に氏が直面した若者たちが親の世代となっているのが、「いま」という時代なわけです。

追伸2/ゼミの仲間やあなたの所属学部学科の学生の協力を得る形で、あなたが問題と感じている国語教育に関するアンケートを行ってみるというのはどうでしょうか。学習者の抱いている国語教育あるいは国語の授業のイメージについて整理するには、100〜200ほど集計できれば統計的なデータとして、論の一つの出発点とすることができるように思いますが。「私一人の実感ではなく、多くの学習者が抱いてきた国語授業の問題点」という具合に。



◆ 【No.037-2】お返事ありがとうございました。 - しの
1998/06/17/14:02

こんにちは。毎回、丁寧なお返事ありがとうございます。
朝メールを見て、さっそくゼミの友人達に話してみたところ、いろいろな意見や事実(というとちょっとおおげさなんですが)がでてきて、自分の考えの甘さを痛感しました。もっといろいろな人の意見を聞いて、多面的にこのテーマをとらえていけたらと思っています。
学生の身分で随分失礼な質問をしてしまい、本当にすみません。でも、自分なりに真面目に考えている疑問なので、どうかごかんべんを。第2、第3のご回答もお待ちしています。



★ たまぶり ★

第1項に関してはマイナスの事例を書き連ねましたが、おそらく現在のこうした授業形式もその出発点の段階では、国語の教育を(文学教育をも含めて)科学的なもの(教育科学)にしようという意図(つまり、一定の学問的真理を教えるのだから、どこで授業が為されても、その内容は不変・普遍的でなければならない)も働いているだろうし、このことと相俟〔あいま〕って、担当者によって教えている内容が違うのでは、平等な教育が提供されているとは言えないのではないかといった重要な視点があったのかも知れません。

2.国語の試験について
「板書や授業で使っている参考書の解答丸暗記が、完答」というケースはありがちでしょうね。だからこそ、国語を暗記科目にしてはならない!という思いに至るわけですが。
某予備校の模試の記述式問題の採点基準では、ある単語が入っているか、ある一節が解答中に含まれているかで可否が決まっていました。しかも、極端な言い方をすれば、この一節は一字一句違っていてはならない。でも、こんな文をなんで高校生が書けるねんというような模範解答が随分ありました。
論述式解答というのとは直接関係ないのですが、こんなこともありました。
「弛緩」という語の読みを問う問題。国語辞書的には「しかん」「ちかん」いずれでも可なわけですが、「ちかん」にも○を付けた私の採点分は、全て再チェックをさせられました。事務局の弁(発言元は出題者ですが)によると「池」からの連想で「ち」とした解答を排除するためとのことでした。しかし、学生を振り落とすための入試を模した試験とはいえ、やはり理不尽ですよねえ。
中・高の現場における定期考査ではもっと基準はゆるやかでしょうが、教師が提示した「正解」以外は認めないという状況ははっきりしているように思います。教師から一方的に押し付けられた「正解」ではなく、生徒たちが納得した上での「正解」、つまり国語教室という読者共同体の『読み』に裏付けられた「正解」でありたいものです。
私の定期考査問題の例は、先のメールにて触れた「山田詠美『風葬の教室』の授業」に解答例とともに掲載してあります。これまた、ある程度の揺れは孕〔はら〕んでいるとは思います。

3.国語が不得意な生徒に必要な教育について
私自身は高校時代にボロボロに落ちこぼれていましたが、他教科同様国語も全く勉強などしていなかったものの、とりあえず出来てましたねえ。ですから、国語の勉強法ということに関しては、しのさんと同じような実感を持っています。
何度もホームページにアップしていないものを引き合いに出して申し訳ないのですが、太宰治『富岳百景』を高1のある学期の中間考査、『風葬の教室』を高1の同学期の期末考査で出題したところ(難易度はほぼ同程度に作ってあります。これは予備校で模試を作成してきた経験上、一定可能な作業です。)、両者の平均点には10点ほどの差が出ました。もちろん、高得点だったのは後者でしたが、生徒たちが楽しんで(はまり込んで)取り組めた作品の方がディテールを問う問題であっても正答率が高いということだと思っています。無論、データとしては不十分なので、私の思い込みの域を出ませんが。
私は国語の苦手な生徒にはまず「物語の展開などを楽しめること」、ある程度読書経験を積んでいる生徒には「作品に埋め込まれたカラクリを読み解くことで主題に迫る醍醐味を味わってもらうこと」という二重の指導目標を準備することで対応してきました。上と下をフォローアップできれば、いわゆる中程度(こういう言い方もイヤですが)の生徒たちはいずれかで接点を持てると考えます。
ただ、とりわけ現代国語に関する定番参考書が存在しないことにも見てとれるように、「誰でもこの方法でやれば国語力が上がる」というパターン化された学習メソッドが今のところ存在しないことも事実だと思っています。

いちおう、今回いただいたメールへの返信は、これで一段落ということで……。
その後の個人研究の経過や新たな疑問点など、また何かあればお知らせ下さい。



BACK


アクセス解析&SEM/SEO講座&ブログ for オンラインショップ開業