ことばのお祭り
教育のツボ
きっと彼は「こいびつぉ」のことで「あつぁま」がいっぱいなのだ…
 皆さんは次のような日本語の文をどう感じられるだろうか。ご存知の方もあると思うが、これはメロディに乗せて歌われた言葉であって、日常の会話言語や読まれるために用意された言語ではない。ただし、それでもなお、言語メッセージの伝達性という点で考える時、どうなのであろうか。
  • 「昨日の夢から逃げまわっつぇる/あつぁまの中ではわかりきっちぇる/右むきゃ右なんちぇもうたくさんで…」
  • 「かづぁらねえばかりが寄りついてくる/心のなきゃではきゃみ殺してる/無様なきゃい犬になり下がりそう/自分の名前も言えないような…」
  • 「つぉおい昔おとぎ話で聞いてた/君がもしも事実存在するのなら…(中略)…いたずらなこつぁえにつぉまどう僕が見えるよ」
 ちなみに、正しくは次の通りだそうである。
  • 「昨日の夢から逃げまわってる/頭の中ではわかりきってる/右むけ右なんてもうたくさんで…」
  • 「かざらねえばかりが寄りついてくる/心の中ではかみ殺してる/無様な飼い犬になり下がりそう/自分の名前も言えないような…」
  • 「遠い昔おとぎ話で聞いてた/君がもしも事実存在するのなら…(中略)…いたずらな答えにとまどう僕が見えるよ」
 歌の中で、「た・ち・つ・て・と」が「つぁ・ち・つ・つぇ・つぉ」に、「か・き・く・け・こ」が「きゃ・き・く・きぇ・こ」に転訛〔てんか〕されるのにも、随分と馴れてきた。馴れというのは不思議なものである。こうした歌詞に出会ったのは、サザンがデビューした頃あたりだっただろうか。
 
 それ以後は、中村雅俊が「こいびつぉも濡れるまちかづぉお〜♪」(正しくは「恋人も濡れる街角」やね)なんて歌い上げるのを聞いて、「何じゃ、そりゃ?」と違和感を感じたぐらいだったかと思う。
 私は書斎にいる時、ずっとFM大阪(FM東京系?)を流しっぱなしなのだが、本当に久々に感じた違和感であった。付言しておくと、上記は黒夢の歌う「MARIA」の一節である。
 
 いまの若い世代にとっては、最初からそういう言葉として出会うわけだから違和感はないのかも知れない。実際のところ、多くのミュージシャンがこうした転訛を当然のごとく歌詞の中でおこなっている。しかも、この転訛はすべて法則的にというよりは気分的な要素に左右されているように見える。
 
 まあ、すべて適用してしまうと上記の歌詞は次のようになってしまう。こうなると名古屋弁を知らない人間の不細工な名古屋弁みたいなものだ。歌う側もここまでメッセージ性を壊してしまうことはしないようである。あるいは、ここまでいくと単に「カッコ悪い」せいか?
  • 「昨日の夢きゃら逃げまわっつぇる/あつぁまのなきゃづぇはわきゃりきっちぇる/右むきゃ右なんちぇもうつぁくさんづぇ…」
  • 「きゃづぁらねえばきゃりぎゃ寄りついつぇくる/心のなきゃづぇはきゃみ殺しつぇる/無様なきゃい犬になり下ぎゃりそう/自分の名前も言えないような…」
  • 「つぉおい昔おつぉぎ話づぇ聞いつぇつぁ/君ぎゃもしも事実存在するのなら…(中略)…いたずらなこつぁえにつぉまづぉう僕ぎゃ見えるよ」
 
 何と言っているのか気になった私は、黒夢のファンのサイトを覗いてみた。そこでの記述によると、現在発売中の「MARIA」のシングルCDには歌詞が添付されていないとのことだった。(上記の「正しい」歌詞もそのサイトで紹介されていたものである。ご教示感謝!)。
 
 ある意味ではこのグループに心惹かれ、彼らの曲を愛好している者しか歌にこめられたメッセージを受け取らないということになりそうな気もする。しかし、逆に言えば万人ウケする音楽というものもなかなかないわけで、だとすれば初めから発信者の側から八方美人的な態度が排されていると見ることもできよう。何となく現代らしいという気もする。
 
 ただし、わかる者だけがわかればいいというそのスタイル自体が、既にステレオタイプとなった言葉でしか語られないところにもまた私は現代を感じてしまう。
 
 最後に断っておくが、私はこのグループやこの曲を非難したいわけではない。単純に耳から入ってきた言葉の違和感について書き記してみただけのことである。まあ、いずれにせよ、時代遅れのオジンの戯言(たわごと)に過ぎないことは言うまでもないだろうが…。若者諸君、軽く読み流してくれ給え。
執筆日時:
1998/06/08

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