山村暮鳥
「風は草木にささやいた」



  
 朝朝のスープ


 
其頃の自分はよほど衰弱してゐた
 
なにをするのも物倦く
 
なにをしてもたのしくなく
 
家の内の日日に重苦しい空気は子どもの顔色をまで憂鬱にしてきた
 
何時もの貧しい食卓に
 
或る朝、珍しいスープがでた
 
それをはこぶ妻の手もとは震へてゐたが
 
その朝を自分はわすれない
 
その日は朝から空もからりと晴れ
 
匙まで銀色にあたらしく
 
その匙ですくはれる小さい脂肪の粒粒は生きてきらきら光つてゐた
 
それを啜るのである
 
それを啜らうと瀬戸皿に手をかけて
 
瘻れてゐる妻をみあげた
 
其処に妻は自分を見まもつてゐた
 
目と目とが何か語つた
 
そして傍にさみしさうに坐つてゐる子どもの上に
 
言ひあはせたやうな視線を落した
 
共の時である
 
自分は曽て自分の経験したことのない
 
大きな強いなにかの此の身に沁みわたるのを感じた
 
終日、地上の万物を温めてゐた太陽が山のかなたにはいつて
 
空が夕焼で赤くなると
 
妻はまた祈願でもこめに行くやうなうしろすがたをして街にでかけた
                               のぼ
食卓にはさうして朝毎にスープが上つた
 
自分は日に日に伸びるともなく伸びるやうな草木の健康を
 
妻と子どもと朝朝のスープの愛によつて取り返した
 
長い冬の日もすぎさつて
 
家の内はふたたび青青とした野のやうに明るく
         ひばり
子どもは雲雀のやうに囀りはじめた