石川啄木

呼子と口笛

  
  激論

一九一一・六・一六・TOKYO


 
われはかの夜の激論を忘るること能はず、
 
新らしき社会に於ける‘権力’の処置に就きて、
 
はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと
           ひ
我との間に惹き起されたる激論を、
 
かの五時間に亘れる激論を。

 
‘君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり。’
 
かれは遂にかく言ひ放ちき。
                 ほ
その声はさながら咆ゆるごとくなりき。
             テエブル
若しその間に卓子のなかりせば、
 
かれの手は恐らくわが頭を撃ちたるならむ。
 
われはその浅黒き、大いなる顔の
             みなぎ
男らしき怒りに漲れるを見たり。

 
五月の夜はすでに一時なりき。
 
或る一人の立ちて窓を明けたるとき、
 
Nとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。
 
病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、
 
雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。

 
さてわれは、また、かの夜の、
 
われらの会合に常にただ一人の婦人なる
 
Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。
 
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
            しん   き
また、蝋燭の心を截るとき、
 
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
              げ
しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。
 
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
 
かの女は初めよりわが味方なりき。



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