『草木塔』


種田山頭火


旅から旅へ


 
 
わかれてきた道がまつすぐ


 
 
月も水底に旅空がある


 
 
柳があつて柳屋といふ涼しい風


 
 
みんなたつしやでかぼちやの花も


 
 
タ立晴れるより山蟹の出てきてあそぶ


 
 
そこから青田のよい湯かげん


 
 
昼寝さめてどちらを見ても山


 
 
旅はいつしか秋めく山に霧のかかるさへ


 
 
よい宿でどちらも山で前は酒屋で


 
 
すわれば風がある秋の雑草


 
 
ここで寝るとする草の実のこぼれる


 
 
萩がすすきがけふのみち


   白船居
 
うらに木が四五本あればつくつくぼうし


 
 
道がなくなり落葉しようとしてゐる


 
 
木の葉ふるふる鉢の子へも


 
 
柳ちるそこから乞ひはじめる


 
 
よい道がよい建物へ、焼場です


   長門峡
 
いま写します紅葉が散ります


 
 
あるけば草の実すわれば草の実


 
 
春が来た水音の行けるところまで


 
 
梅もどき赤くて機嫌のよい目白頬白


 
 
春寒のをなごやのをなごが一銭持つて出てくれた


 
 
さて、どちらへ行かう風がふく


 
 
この道しかない春の雪ふる


 
 
けふはここまでの草鞋をぬぐ


   石鴨荘
 
草山のしたしさは鶯も啼く


 
 
いつとなくさくらが咲いて逢うてはわかれる


   橋畔亭
 
先生のあのころのことも楓の芽


 
 
樹が倒れてゐる腰をかける


   津島同人に
 
おわかれの水鳥がういたりしづんだり


 
 
燕とびかふ旅から旅へ草鞋を穿く


   名古屋同人に
 
もう逢へますまい木の芽のくもり


 
 
乞ひあるく水音のどこまでも


   木曾路 三句
 
飲みたい水が音たててゐた


 
 
山ふかく蕗のとうなら咲いてゐる


 
 
山しづかなれば笠をぬぐ


   飯田にて病む 二句
 
まこと山国の、山ばかりなる月の


 
 
あすはかへらうさくらちるちつてくる


 ヽ ヽ ヽ ヽ
 山行水行はサンコウスイコウとも或はまたサンギヨウスイギヨウ
 
とも読まれてかまはない。私にあつては、行くことが修することで
 
あり、歩くことが行ずることに外ならないからである。

 
 昨年の八月から今年の十月までの間に吐き捨てた句数は二千に近
 
いであらう。その中から拾ひあげたのが三百句あまり、それをさら
 
に選り分けて纏めたのが以上の百四十一句である。うたふもののよ
 
ろこびは力いつぱいに自分の真実をうたふことである。この意味に
 
於て、私は恥ぢることなしにそのよろこびをよろこびたいと思ふ。

 
    あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ
 
    あるけば草の実すわれば草の実
 
 この二句は同型同曲である。どちらも行乞途上に於ける私の真実
 
をうたつた作であるが、現在の私としては前句を捨てて後句を残す
 
ことにする。

 
 私はやうやく『存在の世界』にかへつて来て帰家穏坐とでもいひ
 
たいここちがする。私は長い間さまようてゐた。からだがさまよう
 
てゐたばかりでなく、こころもさまようてゐた。在るべきものに苦
 
しみ、在らずにはゐないものに悩まされてゐた。そしてやうやくに
 
して、在るものにおちつくことができた。そこに私自身を見出した
 
のである。
 
 在るべきものも在らずにはゐないものもすべてが在るものの中に
 
蔵されてゐる。在るものを知るときすべてを知るのである。私は在
 
るべきものを捨てようとするのではない、在らずにはゐないものか
 
ら逃れようとするのではない。
 
『存在の世界』を再認識して再出発したい私の心がまへである。
 
 うたふものの第一義はうたふことそのことでなければならない。
 
私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつと
 
めであり同時に私のねがひである。
 
(昭和九年の秋、其中庵にて、頭火)


つづく
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