寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
  曙町より(二十七)

                                       もめん   ふとん
 子供のときから夜具といえば手織り木綿の蒲団にあまり柔らかく
 
ない綿のはいったのに馴らされて来たせいか今でもあまり上等の絹
                                                               つむぎ
夜具はどうもからだに適しない、それでなるべくごつごつした紬か
 
何かに少し堅く綿をつめたのを掛け蒲団にしている。
                                  がしょう
 今度からだが痛む病気になって臥床したまま来客に接するのにあ
 
まり不体裁だというので絹の柔らかいのを用いることにした。とこ
 
ろがこの柔らかい絹蒲団というやつはいくら下からはね上げておい
              あめ  もち
てもちょうど飴か餅かのようにじりじりと垂れ落ちて来て、すっか
 
りからだを押えつけあらゆるすさまを埋めてしまう。それでちょっ
 
とでも身動きしようとするとこの飴が痛むからだには無限の抵抗と
 
なって運動を阻止する。蠅取り紙にかかった蠅の気持ちはこんなも
 
のかという気がする。
 
 天網のごとく、夢魔のごとく、運命の神のごとく恐ろしいものは
 
絹蒲団である。
 
(昭和十年十一月、渋柿)


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