寺田寅彦『柿の種』
短章 その一




 
  曙町より(二十六)

   ふ ろ おけ
 風呂桶から出て胸のあたりを流していたら左の腕に何かしら細長
 
いものがかすかにさわるようなかゆみを感じた。女の髪の毛が一本
 
からみついているらしい。右の手の指でつまんで棄てようとすると
                                                 くらげ
それが右の腕にへばりつく。へばりついた所が海月の糸にでもさわ
 
ったように痛がゆくなる。浴室の弱い電燈の光に眼鏡なしの老眼で
 
は毛筋がよく見えないだけにいっそう始末が悪い。あせればあせる
 
ほど執念深くからだのどこかにへばりついて離れない。そうしてそ
 
れがさわった所がみんなかゆくなる。ようやく観れたあとでもから
 
だじゅうがかゆいような気がした。
 
 風呂の中の女の髪は運命よりも恐ろしい。
 
(昭和十年九月、渋柿)


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