寺田寅彦『柿の種』
短章 その一



 
 先ごろ警視庁で東京市のギャング狩りを行なったときに検挙され
 
た「街の紳士」たちの中に、杯やコップを噛み砕いてくちびるから
 
赤い血を出して相手を縮みあがらせるというのがいた。この新開記
 
事を読んだとき私は子供の時分に見た「ガラスを食う山男」の見世
 
物のことを思い出した。
         ほんまち  ほりづめざ
 高知の本町に堀詰座という劇場があった。そこの木戸口の内側に
      むしろがこ
小さな蓆囲いの小屋をこしらえて、その中にわずかな木戸銭で入り
 
込んだせいぜい十人かそこいらの見物のためにこの超人的演技を見
 
せていたいわゆる山男というのはまだ三十にもならないくらいの小
     あか  がお
柄な赭ら顔の男であったが、白木綿の鉢巻でまっ黒に伸びた頭髪を
ほうき                                 しま                 ばかま  わらじ
箒のように縛り上げて、よれよれの縞の着物とたっつけ袴に草鞋が
                                              しごき                たすき
けといういでたちで、それにまっかな木綿の扱帯のようなもので襷
                           こっけい       さっそう
がけをした、実に悲しくも滑稽にして颯爽たる風ぼうは今でも記憶
 
に新たである。
 
 なんでも蛇をかじって見せたり、うさぎの毛皮を一片食いちぎっ
 
て見せたりした。それからおしまいには大きなランプのホヤのこわ
                                                              はやし
れたのを取り出して、どんどんじゃんじゃんという物すごい囃子に
 
合わせてそれを見物の前に振り回して見せたあとで、そのホヤのガ
 
ラスの一片を前歯で噛み折りそれをくちびるの間に含んで前につき
 
出して両手を広げて目をむき出し物すごいみえをきった。かけらが
                                        し こ
くちびるからひっこんだと見ると急に四股を踏むようなおおぎょう
 
な身振りをしながらばりばりとそのガラスを噛み砕く音を立て始め
 
た。赭ら顔がいっそう朱を注いだように赭くなって、むき出した眼
 
玉が今にも飛び出すかと思われた。
 
 噛み砕く音がだんだんに弱く細かくなって行った。やがて噛み砕
 
いたものを呑み下したと思うと、大きな口をかっと開いて見物席の
 
右から左へと顔をふり向けながら、口中にもはや何にも無いという
 
証拠を見せるのであった。その時に山男の口中がほんとうに血のよ
 
うにまっかであったように記憶している。
 
 この幼時に見た珍しい見世物の記憶が、それから三十余年後に自
 
分が胃潰瘍にかかって床についていたときに、ふいと忘却の聞から
 
浮かび上がって来た。
 
 あの哀れな山男は、おそらくあれから一、二年とはたたない問に
 
消化器の潰瘍にかかってみじめな最期を遂げたに違いない。言わば、
 
生きるためにガラスを食って自殺をとげたようなものである。
 
 街の紳士の場合もいくらかこれと似たところがあるかもしれない。
 
(昭和十年十月十六日)


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