島崎藤村 「落梅集」より 　　 　壮年の歌 　 わかものゝかたりていへる 　 人の身にやどれる冬の 　 暮れてゆく命を見れば 　 雪白く髪に流れて 　 日にあたる花も香もなし 　 枯草をすがたに刻み 　 食ひ飲みて衰ふばかり 　 おのづから眠にかへる 　 老こそは奇しきものなれ 　 ある翁こたへていへる 　 われとても君にさながら 　 身にさかる夏は経にけり 　 稲妻はこゝろにさわぎ 　 白雨はむねにそゝぎぬ 　 わればかり朽木といふや 　 きみばかり青葉といふや 　 小夜嵐やがて襲はゞ 　 君もまた老の餌なる

其一　埋木 つばさ　　　　　　　　　つな 羽翼なければ繋がれて  く 朽ちはつべしとかねてしる ひかり　　　　　　　うづ 光なければ埋もれて  お 老いゆくべしとかねてしる 　 　 知る人もなき山蔭に  く　　　　　　　　　　　　いと 朽ちゆくことを厭はねば うしか　　　 の　べ　　 さび 牛飼ふ野辺の寂しさを 　　　　　　　　　　　　　 たの かくれがとこそ頼むなれ 　 うも 埋もるゝ花もありやとて ひと　　と　　　よ　　なが 独り戸に倚り眺むれば 　　　　　　 むな ゆふべ空しく日は暮れて まきば　　　くさ　　はるさめ 牧場の草に春雨のふる

其二　告別 つみびと　 な　　　　 よ 罪人と名にも呼ばれむ つみびと　 な　　　　 よ 罪人と名にも呼ばれむ かへ 帰らじとかねて思へば 　　　　なみだ　　　　 ふるさと 嗚呼涙さらば故郷 　 　　　　　　　　みち　　こかげ 駒とめて路の樹蔭に 　 あまたゝびかへりみすれば かがや　　 た　　　　 しらかべ 輝きて立てる白壁 　　　　　　　　　　 み さやかにも見えにけるかな 　 たてがみ　　　　　ふ  鬣 は風に吹かれて わがこま　 あゆ　　　 おそ 吾駒の歩みも遅し うれ　　　　　ひづめ 愁ひつゝ蹄をあげて くもとほ 雲遠き都にむかふ 　 たたか 戦ひの世にしあなれば 　　　　　　　　　　　　　 し 野の草の露と知れゝど 　　　　　　　 い　　 や　　　た 吾父の射る矢に立ちて  き 消えむとは思ひかけずよ 　  す 捨てよとや紙にもあらず 　 吾心焼くよしもなし  す 捨てよとや筆にもあらず 　 吾心折るよしもなし 　 　　　　　　　　　　　　　　　　ふ そのねがひ親や古りたる 　 このおもひ子や新しき 　 つく／゛＼と父を思へば 　　　　　　　あか　　ち 吾袖は紅き血となる 　 やすみ　　　　た　　　　 むね 静息なく激ぎつ胸には しがらみ  柵 もなにかとゞめん おほみづ　 あふ 洪水の溢るゝごとく 　　　　　　　　　い 海にまで入らではやまじ 　 　　　　　　　　　　　　　　　　ふるさと はらからやさらば故郷  い　　　　　 い　　　　　 い　　　　わかごま 去ねよ去ねよ去ねよ吾駒 もろとも　　くら　 さび 諸共に暗く寂しく むかし その 故の園を捨てゝ行かまし

其三　佯狂 　　　　　　　　　　　ひと　　 み 蝴蝶の夢の人の身を 　 旅といふこそうれしけれ とこよ　　　なが　 あめつち 常世に長き天地を やど 宿といふこそをかしけれ 　 　　　　やまべ　　わがまくら 青き山辺は吾枕 　　　　　 の　べ　　わがしとね 花さく野辺は吾衾 ほしぬ　　　　　　わがとばり 星縫ふ空は吾帳 　　　　　　　　　　　　わがをごと さかまく海は吾緒琴 　 　 　いづこよりとは告げがたし 　 　いづこまでとは言ひがたし 　 　　　　 ひ　 ひかり　　　 あらし いま日の光いま嵐 きた　 たのしみかなしみ 来る歓楽哀傷の 　 人のさかりをかりそめに 　 夏といはんもおもしろや 　 　　　　　　　　　　　　　　　し　　　　　ま あゝわれひとの知らぬ間に 　　　　いろ　　　あ　　　や 心の色は褪せ易し むね　　 おほ　　みどりば 胸うち掩ふ緑葉の 　 若き命もいくばくぞ 　 　　　　　　　　　　　　 はなあか　　こ 　かんばせの花紅き子も 　　　　　　　　　　はや おきながほ 　あはれや早く翁顔 　 　　　　　　　　　　　　　う あるひは高く撃てれども つばさくだ　　　　やへむぐら  翅 砕けて八重葎 　 あるひは遠く舞へれども のぞみ　お　　　　 ちりあくた 望 は落ちて塵埃 　 ほまれ　こゑ　　 う  誉 も声も浮ける雲 　　　　　　　　さえ すぐれし才はいづこぞや なみだ　ゆめ　　くさ　　あめ  涙 も夢も草の雨 なが　　　　さら　　おと　　な 流れて更に音も無し 　 　 おも　　　　たれ　　いた 　思ふて誰か傷まざる 　 あゆ　　　　たれ　　まよ 　歩みて誰か迷はざる 　 ひと　いのち　わらはべ 人の命を児童の たはれ　　 い　　　　　 た　　　 ことば 嬉戯と言ふは誰が言葉 しづ　ひじり　ますらを 賤も聖も丈夫も わらはべ 児童ならぬものやある 　 ひる　　　　ひる 昼には昼に遊ぶべし ゆる　　　　よる 夜には夜に遊ぶべし やぶ　　　　　　　　　　 よ 破りはつべき世ならねば  み　　　くる　　　　　　かな 身は狂ふこそ悲しけれ 　 　　す　　　　ひろ　　　　　　　　いのち 　捨てつ拾ひつこの命 　　ゆ　　　　 めぐ　　　　　　　たまき 　行きつ運りつこの環

其四　草枕 か　ら まつ　　 き 落葉松の樹はありとても しやくなぎ 石南花の花さくとても ふるさととほ　 くさまくら 故郷 遠き草枕 おもひ　　　　　　　　なぐさ  思 はなにか慰まむ 　 たびね　　 むね　　や 旅寝は胸も病むばかり しづ　 うれひ　 ゑ 沈む憂は酔ふがごと ひと　　　　　　よ 独りぬる夜の夢にのみ 　　　　　　　　　　　　　やまじ　　 くだ たゞ夢にのみ山路を下る

其五　幻境 　　　　 め　　　さ　　　　　いつ ふと目は覚めぬ五とせの 　　　　ゑひ　 おどろ 心の酔に驚きて わか　 このみ 若き是身をながむれば 　　　　わがはる　　お はや吾春は老いにけり 　 ゆめ　　ここち　　 うま 夢の心地も甘かりし むかし なに　　 し 昔は何を知れとてか すず　　　　　　　 み　　 のろ 清しき星も身を咒ふ 　　　　 なに　　　　おも 今は何をか思へとや 　 かたくな　　　　　われ 剛愎なりし吾さへも  お　　　　　な 折れて泣きしは恋なりき 　　　　むね　　　　いちりん 荒き胸にも一輪の 　 花をかざすは恋なりき 　 いさ　　　　　　　　　くる 勇める馬の狂ひいで たてがみなが　いな 　鬣　長く嘶なきて 　　　　　　　　　　　　あをぐさ 風こゝちよき青草の  の　べ　 ひづめ　 ふ 野辺を蹄に履むがごと 　 　　　 まなこ 又は眼も紫に 　　　　　　あつ　　ひ　　　ふ 胸より熱き火を吹きて  く　　　　　 つ　　　　　　　 ま　し みづ 汲めど尽きせぬ真清水の 　　　　あへ 泉に喘ぎよるがごと 　 　　　 こころ　 をど 若き心の踴りては くびき つな　　す 軛も綱も捨てけりな 　　　　　　　　　ゑ　　　　　ふでふ こがれつ酔ひつ筆振れば ふでかみ　　　　 おも 筆神ありと思ひてき 　 　　　　　　　　　　　　はなぐさ あゝうつくしき花草は  さ　　 ま　　　ま　　　　 しぼ 咲く間を待たで萎むらん  き 消えはてにけり吾恋は たくみもろともき 芸術諸共消えにけり 　 　　　　なにゆゑ そは何故のうき世にて ひと　 まこと 人に誠はありながら 　 恋路の末はとこしへの 　　　　 いのち　　 きざ 冬を性命に刻むらむ 　 くろかみ　　　　　　おほ 黒髪われを覆ふとも ちしほ　　　　　　　　　　そ 血潮はわれを染むるとも はなくちびる　かざ 花口唇を飾るとも おもひ　　　　　いた 思は胸を傷ましむ 　 ゑふで　　　　　　　　わがゆび 絵筆うちふる吾指は なげ　　　　　　　　　　ふる 歎きのために震ふかな なみだ　ぬ　　　 わがかみ 涙に濡るゝ吾紙は かたちむな　　　き  象 空しく消ゆるかな 　 　　　　　　　　　　　　　　わがいのち かはりはてたる吾命 　　　　　　　　　　　　　　わがおもひ かはりはてたる吾思 　　　　　　　　　　　　　　 わがこひじ かはりはてたる吾恋路 　　　　　　　　　　　　　　 わがたくみ かはりはてたる吾芸術 　 　　　　　　　　　　　　　　　み この世はあまり実にすぎて 　　　　　　わがみ あたら吾身は夢ばかり 　　　　　　　　　　　　 まぼろし なぐさめもなき幻の さかひ 境に泣てさまよふわれは

其六　邂逅  ぬ　　　　　　　　　 ぬ 縫ひかへせ縫ひかへせ あぶら　そ　　　　そのたもと 膩に染みし其袂 なみだ　ぬ　　　　そのたもと 涙に濡れし其袂 すす　　　　　　　　　 なげ 濯げよさらば嘆かずもがな 　  ぬ　　　　　　　　　 ぬ 縫ひかへせ縫ひかへせ 　　　　ころも　 ぬ 君が衣を縫ひかへせ うれひ　　　　　　　　　　せ 愁は水に汗は瀬に すす　　　　　　　　　 なげ 濯げよさらば嘆かずもがな 　  ぬ　　　　　　　　　 ぬ 縫ひかへせ縫ひかへせ 　　　　　　　　　　ゆめ　　あか 捨てよ昔の夢の垢 　　　　　　　か　ひ　　　 ものおもひ やめよ甲斐なき物思 すす　　　　　　　　　 なげ 濯けよさらば嘆かずもがな 　  ぬ　　　　　　　　　 ぬ 縫ひかへせ縫ひかへせ くさ　　　　なに　　そで 腐れて何の袖かある つか　　　 なに　　みち 労れて何の道かある すす　　　　　　　　　 なげ 濯げよさらば嘆かずもがな 　  ぬ　　　　　　　　　 ぬ 縫ひかへせ縫ひかへせ うす　　はそで　　せみ 薄き羽袖の蝉すらも うた　　　　から　　 い　　　　　よ 歌ふて殻を出づる世に すす　　　　　　　　　 なげ 濯げよさらば嘆かずもがな 　  ぬ　　　　　　　　　 ぬ 縫ひかへせ縫ひかへせ 　　　　　　　　　　　　　 ふ 君がなげきは古りたりや 　　 あたら　　　よ　　　か とく新しき世に帰れ すす　　　　　　　　　 なげ 濯げよさらは嘆かずもがな