上田敏「海潮音」

 
 大饑餓

ルコント・ドゥ・リイル




   まどか  わだのはら なみ  うねり   たゆたひ
 夢円なる滄溟、濤の巻曲の揺蕩に
  やてん                  をじま
 夜天の星の影見えて、小島の群と輝きぬ。
  し ま おうごん  あたらよ   じやくまく
 紫摩黄金の良夜は、寂寞としてまた幽に
   く    おそれ
 奇しき畏の満ちわたる海と空との原の上。
 

                      そこ          しんえん
 無辺の天や無量海、底ひも知らぬ深淵は
                         たと       げんようきよう
 憂愁の国、寂光土、また譬ふべし、※耀郷。
  おくつき            がらん  かくやく
 墳塋にして、はた伽藍、赫灼として幽遠の
  だいこうげん  たてよこ        まんがん  うろくづ
 大荒原の縦横を、あら、万眼の魚鱗や。
 

  せいくう              だいすい    かみさ
 青空かくも荘厳に、大水更に神寂びて
          へんじよう  こうだいむへんかいちゆう
 大光明の遍照に、宏大無辺界中に、
                     ぼんのうかい  しよくげん
 うつらうつらの夢枕、煩悩界の諸苦患も、
 
 こゝに通はぬその夢の限も知らず大いなる。
 

               あらはだ ふくだみがは
 かゝりし程に、粗膚の蓬起皮のしなやかに
  うゑ                    ふかうみぞこ        うを
 飢にや狂ふ、おどろしき深海底のわたり魚、
                もとほり
 あふさきるさの徘徊に、身の鬱憂を紛れむと、
  なんばんてつ あぎと
 南蛮鉄の腮をぞ、くわつとばかりに開いたる。
 

  もと
 素より無辺天空を仰ぐにはあらぬ魚の身の、
からすき しゆく     ぼし   さんかくせい てんかつきゆう
 参の宿、みつ星や、三角星や天蝎宮、
         ひ    こうぼう          おもひは
 無限に曳ける光芒のゆくてに思馳するなく、
  ほくとせいぜん よこた   だいゆうせい
 北斗星前、横はる大熊星もなにかあらむ。
 

                 せいにく                   さ
 唯、ひとすぢに、生肉を噛まむ、砕かむ、割かばやと、
            あけ                      たた
 常の心は、朱に染み、血の気に欲を湛へつゝ、
 
 影暗うして水重き潮の底の荒原を、
        まなこ             せいさん
 曇れる眼、きらめかし、悽惨として遅々たりや。
 

     うつろ   むせいきよう
 こゝ虚なる無声境、浮べる物や、泳ぐもの、
                              くうばく   あらぬ
 生きたる物も、死したるも、此空漠の荒野には、
  おとづれ                    みづさき  こばんざめ
 音信も無し、影も無し。たゞ水先の小判鮫、
  まくろ   ひれ
 真黒の鰭のひたうへに、沈々として眠るのみ。
 

        あやかし            にんげんどう
 行きね妖怪、なれが身も人間道に異ならず、
  しゆうお  どうもう  ぼうれい
 醜悪、獰猛、暴戻のたえて異なるふしも無し。
            ふか        あ す
 心安かれ、鱶ざめよ、明日や食らはむ人間を、
                なれ
 又さはいへど、汝が身も、明日や食はれむ、人間に。
 

        うゑ  しようほう            せつしようごう
 聖なる飢は正法の永くつゞける殺生業、
      ふかうみ        あま
 かげ深海も光明の天つみそらもけぢめなし。
              ふかざめ   ざんがい        ゑじき
 それ人間も、鱶鮫も、残害の徒も、餌食等も、
 
 見よ、死の神の前にして、二つながらに罪ぞ無き。



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