上田敏「海潮音」

 
 人と海

シャルル・ボドレエル




        ま ま                    め
 こゝろ自由なる人間は、とはに賞づらむ大海を。
                     なだ  おほなみ
 海こそ人の鏡なれ。灘の大波はてしなく、
     そら
 水や天なるゆらゆらは、うつし心の姿にて、
              ふかうみ       にがみ
 底ひも知らぬ深海の潮の苦味も世といづれ。
 

                   うつ                い
 さればぞ人は身を映す鏡の胸に飛び入りて、
 まなこ                              むらぎも
 眼に抱き腕にいだき、またある時は村肝の
                         しほざゐ
 心もともに、はためきて、潮騒高く湧くならむ、
                      おと              なげかひ
 寄せてはかへす波の音の、物狂ほしき歎息に。
 

     いまし
 海も爾もひとしなみ、不思議をつゝむ陰なりや。
       いまし しんちゆう      さぐ
 人よ、爾が心中の深淵探りしものやある。
       いまし みなぞこ
 海よ、爾が水底の富を数へしものやある。
       ねた    ひめごと
 かくも妬げに秘事のさはにもあるか、海と人。
 

       ごうしよ
 かくて劫初の昔より、かくて無数の歳月を、
            ゆるみ     しゆら  たたかひたけなは
 慈悲悔恨の弛無く、修羅の 戦 酣 に、
              さつりく                   この
 げにも非命と殺戮と、なじかは、さまで好もしき、
  ああ                       おんねん
 噫、永遠のすまうどよ、噫、怨念のはらからよ。



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