上田敏「海潮音」

 
 心も空に

ダンテ・アリギエリ




 
 心も空に奪はれて物のあはれをしる人よ、
                            かたへ
 今わが述ぶる言の葉の君の傍に近づかば
                   いら
 心に思ひ給ふこと応へ給ひね、洩れなくと、
  あや  かし   おほみかみ        み な
 綾に畏こき大御神「愛」の御名もて告げまつる。
 

                        ふ      よる
 さても星影きらゝかに、更け行く夜も三つ一つ
                                 よ も
 ほとほと過ぎし折しもあれ、忽ち四方は照渡り、
        みすがた
 「愛」の御姿うつそ身に現はれいでし不思議さよ。
                      さが           あらがみ
 おしはかるだに、その性の恐しときく荒神も
 

  み けしき             いま
 御気色いとゞ麗はしく在すが如くおもほえて、
  み て            しん  ぞう おんかひな   あて
 御手にはわれが心の臓、御腕には貴やかに
              ねすがた   きぬ                いだ
 あえかの君の寝姿を、衣うちかけて、かい抱き、
 

                まどろみ   さ              しん  ぞう
 やをら動かし、交睫の醒めたるほどに心の臓、
                                     きこ
 さゝげ進むれば、かの君も恐る恐るに聞しけり。
       すなは  は   さ
 「愛」は乃ち馳せ去りつ、馳せ走りながら打泣きぬ。



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