上田敏「海潮音」

かぞへうた
 賦

ジァン・モレアス




       め       こうそうび
 色に賞でにし紅薔薇、日にけに花は散りはてゝ、
  は ね ずいろ    わかだち   とき
 唐棣花色よき若立も、季ことごとくしめあへず、
               たまくら         ひかず へ
 そよそよ風の手枕に、はや日数経しけふの日や、
 
 つれなき北の木枯に、河氷るべきながめかな。
 

  ああ
 噫、歓楽よ、今さらに、なじかは、せめて争はむ、
                  をたけび         たぐひ  を こ
 知らずや、かゝる雄誥の、世に類無く烏滸なるを、
                いたづら  し
 ゆゑだもなくて、徒 に痴れたる思、去りもあへず、
           きん       を        あん       むやく
 「悲哀」の琴の糸の緒を、ゆし按ずるぞ無益なる。
 

 
          *
 

                         よろこび      うたげ
 ゆめ、な語りそ、人の世は 悦 おほき宴ぞと。
                                    し
 そは愚かしきあだ心、はたや卑しき癡れごこち。
               うつしよ  かぎり        くがい
 ことに歎くな、現世を涯も知らぬ苦界よと。
  よう    ゆう  はやりぎ
 益無き勇の逸気は、たゞいち早く悔いぬらむ。
 

  はるひ         よしあし           ごと
 春日霞みて、葦蘆のさゞめくが如、笑みわたれ。
  いそはま
 磯浜かけて風騒ぎ波おとなふがごと、泣けよ。
         けらく                くげん
 一切の快楽を尽し、一切の苦患に堪へて、
  とよ   よ  たた                    かん
 豊の世と称ふるもよし、夢の世と観ずるもよし。
 

 
          *
 

                            おく つ きどころ      すみか
 死者のみ、ひとり吾に聴く、奥津城処、わが栖家。
     をふ
 世の終るまで、吾はしも己が心のあだがたき。
                      さとがらすはた
 亡恩に栄華は尽きむ、里鴉 畠をあらさむ、
 とりいれどき たのみ                           ま
 収穫時の頼なきも、吾はいそしみて種を播かむ。
 

       みづか
 ゆめ、自らは悲まじ。世の木枯もなにかあらむ。
         ふべつ     ひぼう      おほまがごと  せまり
 あはれ侮蔑や、誹謗をや、大凶事の迫害をや。
                 く ご                          がく
 たゞ、詩の神の箜篌の上、指をふるれば、わが楽の
                       れいみようおん
 日毎に清く澄みわたり、霊妙音の鳴るが楽しさ。
 

 
          *
 

          はて
 長雨空の喪過ぎて、さすや忽ち薄日影、
 かみり  はなば
 冠の花葉ふりおとす栗の林の枝の上に、
               おそばな
 水のおもてに、遅花の花壇の上に、わが眼にも、
                            ひあし
 照り添ふ匂なつかしき秋の日脚の白みたる。
 

                なつはな
 日よ何の意ぞ、夏花のこぼれて散るも惜からじ、
      とど        らくよう                    か
 はた禁めえじ、落葉の風のまにまに吹き交ふも。
                 に
 水や曇れ、空も鈍びよ、たゞ悲のわれに在らば、
 おもひ                           ゆう
 想はこれに養はれ、心はために勇をえむ。
 

 
          *
 

               そうかい  そら      あはれ
 われは夢む、滄海の天の色、哀深き入日の影を、
             なだ                     いたぶ
 わだつみの灘は荒れて、風を痛み、甚振る波を、
                  あ ま         いはあな  かぐ    かに
 また思ふ釣船の海人の子を、巌穴に隠ろふ蟹を、
 せいがん
 青眼のネアイラを、グラウコス、プロオティウスを。
 

               べ           ものごひ  さすらひびと
 又思ふ、路の辺をあさりゆく物乞の漂浪人を、
  す                       いこ      しづ  おきな
 栖み慣れし軒端がもとに、休ひゐる賤が翁を
  おの   え   たにぎ                  そま  たくみ
 斧の柄を手握りもちて、肩かゞむ杣の工を、
                なるかみ       さやぎ  むらぎも       きず
 げに思ひいづ、鳴神の都の騒擾、村肝の心の痍を。
 

 
          *
 

             むやく         わづらひ
 この一切の無益なる世の煩累を振りすてゝ、
 
 もの恐ろしく汚れたる都の憂あとにして、
  つひ                 すず    やどり
 終に分け入る森蔭の清しき宿求めえなば、
 
 光も澄める湖の静けき岸にわれは悟らむ。
 

 あらず むしろ
 否、寧われはおほわだの波うちぎはに夢みむ。
                   だいようらん
 幼年の日を養ひし大揺籃のわだつみよ、
             かもめどり
 ほだしも波の鴎鳥、呼びかふ声を耳にして、
            いはまくら     まなこ
 磯根に近き岩枕汚れし眼、洗はばや。
 

 
          *
 

  ああ
 噫《いち早く襲ひ来る冬の日、なにか恐るべき。
      うづき
 春の卯月の贈物、われはや、既に尽し果て、
                          ぶどう          にひむぎ
 秋のみのりのえびかづら葡萄も摘まず、新麦の
  とよ   たりほ    あだ  びと  か                     ま
 豊の足穂も、他し人、刈り干しにけむ、いつの間に。
 

 
          *
 

        てるひ  はえばえ      たかむぎ
 けふは照日の映々と青葉高麦生ひ茂る
                    な           はたぐも
 大野が上に空高く靡びかひ浮ぶ旗雲よ。
  な                        あけ   そ ほふね
 和ぎたる海を白帆あげて、朱の曾保船走るごと、
  へんげ      あをぞら
 変化乏しき青天をすべりゆくなる白雲よ。
 

               なれ          あ れ   さきがけ
 時ならずして、汝も亦近づく暴風の先駆と、
                    しか        かけ
 みだれ姿の影黒み蹙める空を翔りゆかむ、
  あ あ        はせづかひ
 嗚咽、大空の馳使、添はゞや、なれにわが心、
      なれ
 心は汝に通へども、世の人たえて汲む者もなし。
 



BACK戻る 次にNEXT
[上田敏] [文車目次]