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清沢満之 略年表

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西暦
和暦
清沢満之時暦 参考 年齢
1863年
文久3年
 6月26日 名古屋黒門町にて誕生
  父は徳永 永則 母はタキ
 1864年
 元治元年
 
7月 蛤御門の変 
 本山堂宇焼失
 1868年
 明治元年
3月28日 神仏判然令
  廃仏毀釈はじまる
 1878年
 明治11年
 真宗大谷派の僧侶になる 
  東本願寺育英教校に入学
 仏教各派、肉食妻帯
許 される
15
1881年
明治14年
 東京留学を命じられ、翌15年東京大学予備
門に入学
 東本願寺は大谷派、
西本願寺は本願寺派と
改称
19
1888年
明治21年
 京都府尋常中学校長となる。
 愛知県三河大浜西方寺へ、やす子と結婚
25
1890年
明治23年
 中学校長を辞職。この頃より禁欲生活。
 仮名聖教を読み『歎異抄』に親しむ
 第1回帝国議会開催 27
1891年
明治24年
 岡崎御学館主任となる 
母タキ死亡。禁欲生活ますます厳しくなる
 内村鑑三不敬事件 28
1892年
明治25年
『宗教哲学骸骨』出版  本山本堂上棟式 29
1894年
明治27年
 結核のため教職を辞し、兵庫県須磨西垂水
に転地療養
 現如遷化
 日清戦争勃発
31
1895年
明治28年
 村上宣精・南条文雄らと寺務改正の建言書
を提出。清沢姓をなのる。
32
1896年
明治29年
 京都白川村にて「教界時言社」を設立
「教界時言」を発刊し宗門改革を唱える。
33
1897年
明治30年
 大谷派革新全国同盟結成。渥美契縁を執事
更迭さす。首謀者として除名処分を受ける。
 このころ阿含経に触れる。
 足尾鉱毒事件 34
1898年
明治31年
 「教界時言」廃刊。除名とかれる。
 家族をあげて西方寺へ。
 「エピクタス語録」に親しむ
35
1899年
明治32年
 新法主彰如の命により東京本郷森川町の近
角常観の宿舎へ。以後法主補導職につく
36
1900年
明治33年
真宗大学建築掛に任命される。近角が洋行の
ため留守を任され、やがて「浩々洞」となる。
 治安警察公布 37
1901年
明治34年
「精神界」発刊。真宗大学東京移転に伴い、学
監に任命される。
38
1902年
明治35年
 長男信一、妻やす子相次いで死亡。
大学学監を辞し、大浜に帰る。
 『絶対他力の大道』他多発表
39
1903年
明治36年
 耆宿会議のため上洛。『他力の救済』『宗教
的道徳と普通道徳の交渉』発表。『我が信念
が』絶筆となる。
 6月6日死亡。法名信力釈現誠
39


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