清沢満之って!!(其の参)

=生涯を追って=
 清沢満之 略年表も参考にどうぞ。)
―概略―
   文久3年1863〜明治36年1903(かぞえ)41歳)の短い?が熱く厚い生涯です。

   それは、苦闘・苦悶の連続といえます。
    ある先生(安田理深)は、「十字架を荷負わされた存在というより他に適切な語を見
  出すことは出来ない」とさえ語ります。

   明治という変革の時代の中で、清沢満之は、本当に必要なのは親鸞聖人の教えである
と訴え続けました。自らが親鸞聖人の教えにうなずくまで(頭が下がるまで)、自らの身をも
  って実験をつづけ、ついには当時のエリートとして身にまとった、近代自我を打ち破る立脚
  地(よりどころ)を発見します。

   また、平行して当時不治の病であった結核の体をおして、財政問題に奔走する教団(宗 
  門)の改革運動、あるいは真宗大学(現大谷大学)建設などに尽力します。結果的に改
  革運動は失敗し、大学建設も成功したとはいいがたいのですが、徳川封建体質から脱却し
  た仏教復興のするどい視点は現在の真宗大谷派(東本願寺)の礎となっていきます。

―雅号を頼りにー
  清沢満之の生涯を訪ねるとき、雅号の推移を手がかりにすることが多いようです。
 確かに、雅号とは自己の名告りですから、名告りの推移を手がかりにすることは意味あるこ
 とに思えます。
  そこで、雅号の推移を中心として、簡単に纏めてみました。 

          建峯時代 (誕生から少年時代、そして東京大学在学時代)
          骸骨時代 (京都府立校長就任から結核発病まで)
          石水時代 (垂水での療養から本山改革運動へ、そして運動の座礁)
          臘扇時代 (西方寺にて『臘扇記』起稿、そして真宗大学建設へ)
          浜風時代 (工事中)



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