ここまで私は、“能動過小傾向”がみられる男性達のジャンルと適応の在り方について紹介してきた(→1→2→3)。“動物化した第三世代以降のオタク達”“自称モテない男”“引きこもり”といったカテゴリーに所属する男性達は、文化ニッチや性別などの異なる他者に対して能動的に働きかけることが出来ず、狭い文化ニッチに限定された人間関係しか構築出来ないという共通点を持っていることは、先に述べたとおりだ。また、自らの有り様に劣等感を感じつつもその価値観から脱却することが無いという点でも彼らは共通している。こういった男性というのは、おそらくとしても世代ごとに蓄積し続けていて、増え続けているというのが私の推測である。

 では、何故こうした現象が起こっているのだろうか?ミクロレベルでは、能動性過小傾向に当てはまらない十代・二十代も沢山存在しているが、マクロレベルでそうした傾向が少なからぬ男性グループに見受けられるのは何故なのか?このテキストでは、能動過小傾向が社会全体に広くみられる要因について考察してみる。社会全体に焦点をあてるため、ここではあくまでマクロの要因について議論を絞ることにしよう。(ミクロのレベルで、個々人が能動過小傾向になりやすい要因を論じるのはまたの機会に譲る)




 【1970年代以降の世代に能動過小現象がみられやすくなった、マクロレベルの要因群】

 若年男性において、能動過小現象が今日のような広がりを持つに至った要因について考えてみよう。このマクロレベルの変化は、幾つもの要因が多元的に重なって起こったものに違いない。ここで、多元的な要因のなかから私が主要なものとして目星をつけているものを挙げてみる。


 1.大人や年上との付き合いから関係構築を学ぶ機会が減少している

 まず指摘しておきたいのは、「現代の都市部で育つ子ども達は、数十年前に比べて、年上や大人との関係構築を学ぶ手段・機会が減少している」点である。以前こちらで述べたように、現代都市空間に育つ子ども達は、過去の子ども達に比べて突っ込んだ関係構築を学ぶ機会が少ない(あくまで相対的な、確率的なものだが)。過去の地域社会では、近所の他人は「幾らか迷惑をかける余地があるような、関係構築の練習教材」となり得たが、人の流れが速く、全く未知の他人が溢れた現代都市空間では、「とにかく迷惑はかけてはいけない」。かつての地域社会では、怒られながらも喧嘩しながらも、年上の人達を相手に関係構築※1の練習をする場面が豊富に存在していたが、隣りに誰が住んでいるのかすら不明瞭な現代都市空間ではこれは容易な事ではない。確かに都会には沢山の他者がいるけれども、それらは全くunknownな接近不能の他者であって、子ども達が成長途上に経験値を稼げる相手ではない。例えば悪戯なんかしたら、どんな目に遭うかわかったものではない。現代都市空間において、関係構築の教材として出会う事の出来る他者(特に年上)の数と頻度は、かつての地域社会のソレに比べれば著しく少ない事に私は注目する。管理化・隔離化され、「とにかく他人に迷惑をかけてはならない」という不文律が蔓延したコンクリートジャングルにおいては、子ども達は過去のいかなる社会よりも大人や年長者を関係構築の教材として利用出来ないのではないか?また、大人達が近所の子と関係構築を誘導するインセンティブが減少していることにも注意しなければならない。いつまでも付き合いが続く世界では、近所の子どもにも利口になって貰わなければ困ってしまうが、流動性の高い都会ではそんな事は無いのだ。

 このように、都市空間では、悪戯したり喧嘩したりして間合いを測る練習場面は決定的に少なくなっており、とにかく怒られないようにする為の黙りと過剰なまでの顔色伺いの局面ばかりが氾濫している


 2.子ども同士の付き合いから関係構築を学ぶ機会も減少している

 子ども達自身の付き合いについても似たようなことが言えるのではないか?子ども同士の付き合い――所謂子ども社会――が関係構築と成長に重要な影響を与えるのは言うまでもない。子どもは小さい頃から近所の子達と遊び、学校で喧嘩し、互いの間合い・立場を規定していく。そのうえ、集団遊びは関係構築の練習だけではなく、子ども達同士の共通理解なり共通基盤なりの形成の場としても機能している。こうした子ども時代の集団経験は、思春期以降さらに複雑化していく対人関係のいわば基礎練習にあたると思われ、伸び盛りの子どもに必須だと私は考えているが、昨今はこうした時間が食い荒らされていると推測される。

 例えば、お受験の存在・塾通い・コンピュータゲームなどは、単純に子ども達が群れて遊ぶ時間を減少させる。都市圏では、幼稚園〜小学校の頃から習い事やお受験をさせられる子どもが少なくないわけで、かつて子ども達が路地裏で缶蹴りしていた時間は、対お受験メソッドなどをインストールする為の時間にとって替わられがちである。なお、「塾でも子ども達は群れているじゃないか」という指摘は退けよう。なぜなら、子ども達が群れ遊ぶ場面では子ども同士の人間関係が常に問われ続けるが、塾では子ども同士の間の人間関係は問われない(あるいは特定の局面しか発生しない)からである。サッカーやバスケを習っている子なら、まだしも関係構築や互いの思惑を読むことを問われ続けるかもしれないが、小さい頃に子ども同士の人間関係をマスターしにくい稽古事やお受験をしていた子は、同世代の子との間合いの取り方や関係構築などの練習を(相対的にだが)喪失しており、より少ない練習数でマスターせよと問われている事になる※2。既に何年も前から、都市部においては小さい頃から子どもに英才教育を施すのが流行っているようだが、机の前に向かう時間が増加するほど対人関係構築を練習する機会・時間が減少していくという問題は教育業界によって巧みに隠蔽されているようにさえみえる。

 比較的高学歴の男性のなかに、能動過小傾向の強いオタクやモテない男が多いという事実を踏まえると、こうした“お受験”“家庭用ゲーム”などの影響は無視できないものではないかと疑いたくなる。子ども時代に勉強やテレビ・ゲームばかりに偏った学習を積み、(数十年前の殆どの子どもに比べて)対人関係構築の練習をあまり経験出来なかった子は、受験や学問に特化して高学歴を手にする可能性と引き替えに、人間関係についてのノウハウを不十分にしか蓄積せずに思春期に臨む可能性も高い。余程才能やリソースがある子以外は、思春期以降に四苦八苦するのも無理はない。受験勉強せずに様々な子と遊び回ってきた子と一緒になった時、彼らの練習不足な関係構築能力では苦戦を強いられるのは殆ど不可避だろう。クラス内社会適応において不利な立場に置かれるのは避けがたく(参考:スクールカースト)、コミュニケーションの質・量の差は開き続ける――そこまで追いつめられて劣等感を一層醸成された彼らが、なおも(自分とは異なる立場・文化の人間との)コミュニケーションにポジティブになれるとは、とても思えない。異性との交際もスクールカーストで這い上がる事も諦めて、自身の長所(勉学・学歴・オタク趣味など)を磨くストラテジーに出ることは出来るにせよ。


 3.男の子が多人数で遊ぶ場所が減っている

 昔は路地裏だろうが廃材置き場だろうが、男の子達は色々な場所を遊び場にしていたものである。それらは確かに危険で、怪我をする子も少なくなかったが、多種多様な遊び場を提供してくれたし、大人数で遊び回るには格好の場所と好奇心を提供してくれた。しかし現在、大勢の子どもがグループで遊ぶに相応しい場所というのは極めて制限されている。鍵っ子が増え、変質者対策が進み、独り遊び向けの玩具が発達し続ける現在、多人数で色んな遊びを展開できる(そしてそのなかで喧嘩などをしながら人間関係を学んでいく)場所そのものが失われている。廃材置き場も、用水池も、危機管理・責任問題などによって子ども達から遠ざけられてしまった。代わりに小さな公園だけがあてがわれたわけだが、公園だけでは遊び方のレパートリーが減少するのも仕方ないし、創意工夫の余地も小さくなってしまう。かつて町内じゅうを遊び場にしていた私の世代と同程度の好奇心を、たかだか公園ひとつだけで牽引出来る筈が無い。グループ遊びの場がこうして減少しているという傾向は、「それぐらいならテレビゲームやってたほうがいいや」、と思う子どもが増加する確率をあげてしまうと推測する。もちろんこれはあくまで小さな小さな傾向に過ぎないわけだが、マクロ視点では無視できまい。


 4.文化ニッチのポストモダン的細分化

 ポストモダン的な文化細切れ状態もまた、対人関係の能動性を減ずるうえでちょっとした役割を担っていると私は考える。かつては誰もが同じ番組をみて同じレコードを聴いていたわけだが、そんな時代は過去のものになってしまった。松田聖子にせよドリフターズにせよ、同時代の思春期者に共通基盤・共通言語を与えるツールとしても機能していたし、そのような機能を背負ったシンボルはドリフターズ以外にも幾らでも存在していた。あの頃は誰もがテレビを見ていたし、紅白歌合戦の視聴率も未だ高かった。だからこそ、テレビに関する話題は所属文化や出身地に関わらず利用可能な貴重な資源だったと言える。

 しかし、時代を経るにつれて、タレントや歌番組は共通基盤・共通言語を与える事が出来なくなってきた。確かにミリオンセラーは現在も存在し続けはいるが、歌番組の消滅とテレビ離れによって誰もが必ず耳にするほどのものではなくなってしまった。特に、さっさとテレビを離れてテレビゲームに移行した男性達は、こうした共通基盤・共通言語獲得から決定的に隔離されてしまう事となった(しかもそういう音楽が流れている場所にも彼らは疎遠である)。2006年現在、文化ニッチの細分化はますます進行し続けており、流行歌やタレント談義を共通基盤・共通言語として流通する可能性はますます困難になると予測される。この現象は、より若い世代の思春期コミュニケーションシーンに微弱だが確実な影響を与えることだろう。「とりあえずドリフの話がネタになる」「ドラゴンボールなら誰だって知っている」時代はもう戻れない。ポストモダン的な文化細切れが今後も続くならば、今後さらにこうした傾向が強まっていき、文化ニッチに閉じこめられた者同士がコミュニケートの具材に出来るようなテレビタレントや国民的歌手は滅多に現れるまい。コミュニケーションへのインセンティブが比較的低い者やコミュニケーションスキル/スペックが比較的低い者が“文化越境”する際に、長さん(いかりや長介)はもう助けてくれない!

 なお、当然といえば当然だが、同様の傾向は音楽以外の若者向けカルチャー(とサブカルチャー)でもみられる事を付記しておく。漫画でも、アニメでも、芸能でも、各若者向けカルチャーにおいて、全ての若者に価値が通用するようなジョーカー的存在は絶えて久しく、文化細分化は今も進行中のようにみえる。漫画の世界では週刊少年ジャンプを誰もが読む時代が終わり、週刊誌を毎週買うよりは好みの単行本を購入する傾向が強まりつつある。男の子なら誰もが視聴していた野球放送にも昔日の面影は無く、共通基盤・共通言語としての価値を完全に失うに至った。ファッションの世界でも、80年代のようなな明確さや一律さが失われて久しいという(参考:大手小町の記事より)。音楽以外の各方面でも、共通基盤・共通言語として利用出来るような目立ったコンテンツは少なくなっているように私には思える。唯一の例外は、ワールドカップなどの国際試合だろうか。あと、小学校低学年のような、思春期以前の文化シーンか。


 5.地域社会の崩壊

 上の項目1.2.と重なるが、“地域社会の崩壊”と呼称され得るべき減少が、子ども達のコミュニケーション習熟機会とモチベーションを減らしていることも間違いない。地域社会は、他者との距離の取り方を子ども達に提供するゆりかごのような役割を担っていたと私は考えている。互恵的または寛容な近所付き合いは、(それに伴うしがらみを大人達に強要させつつも)共通基盤・共通理解を醸成し、その保護された空間で子ども達は比較的自由にコミュニケーションを試行する事が出来た。誰に何をしたらまずいのか、どんな人にどんな事をすれば喜ばれるのかを、時間をかけて学ぶことが出来た。だが、現代都市空間においてはそのような試行錯誤の場が子ども達に与えられることは無い。全き他人だけがウヨウヨしているなか、「とにかく他人に迷惑をかけない」事を子ども達は強要されている※3

 また、かつての地域社会においては、年長者(主として引退した年寄り達)から子どもに地域固有の共通理解・共通理解が伝達され、世代を超えて地域固有の知恵や文化が継承されていた。若い世代に継承された文化は地域の内側におけるコミュニケーションを容易にし、結びつけやすくする機能を担っていたと思われるが、現代都市空間に生まれ育った世代は、こうした継承文化という共通理解・共通基盤を持つことなしにコミュニケーションを試みなければならない。

 そういえば、村人総出で参加する祭りや盆踊りは、単に住民に慰安をもたらすだけでなく、こうした地域社会の機能を維持するうえでも機能していた筈で、世代やわだかまりを超えて感情や文化を共有する大切な場だった筈だ。地域社会の崩壊とともに、こうした“機能的な村祭り”は簡素化の果てに消滅しつつあるが、この事もまた、子ども達のコミュニケーション習得に幾ばくかの影響を与えていることだろう。地域社会という共通基盤が無くても誰とでも話せる子はともかく、地域社会のサポートによって何とか他者と向き合うことが可能になっていた子や、長期的な付き合いのなかで強みを発揮していく子は地域社会崩壊によってコミュニケーション習得の機会とモチベーションを奪われやすくなり、コミュニケーションスキル/スペックを蓄積させる事も、能動性を手にする事も困難になりやすいと推測する。


 6.性差(マクロレベルの話。あと、今回はジェンダーだけ触れておく)

 性差(ここではジェンダー)についても一応触れておこう。少なくとも、“期待されるべき男の子像”と“期待されるべき女の子像”には大きな男女間格差が存在する筈で、こうしたジェンダーに関連した圧力格差が、何らかの影響を与えている可能性は否定できない。日本においては、男の子よりも女の子のほうが、他者の視線を気にするように育てられる傾向があるかもしれず、その傾向によって男性のほうが他者に対する能動性を獲得しにくい可能性はある…かもしれない、少しぐらいは。

 尤も、私自身はジェンダーというマクロレベルの圧力よりも、むしろ生物学的性差というミクロの相違のほうが、男女の適応形態の相違を生み出す要因として大きいのではないかと私は予感している。発達・形態・機能・行動などのあらゆる面で、男性の脳と女性の脳ははっきりと異なっている。仮にジェンダーによる男女間格差が限りなくゼロに近づいても、同一状況に対する男女の振るまいには幾つかの決定的相違が残存し続けるだろう。これは絶対に間違いない。ここから先はマクロではなくミクロレベルの話になるのでこれ以上触れないが、いつか触れてみたいと思う。


 7.葛藤を防衛する手段の充実

 こちらで紹介したとおり、能動性がそれぞれの方面で欠如した男性達は、それはそれで適応バランスが崩れないような均衡を一応保っている。逆に言えば、そうした防衛機制を介した葛藤回避を可能にするようなリソースが存在するからこそ、そのような均衡が保ち得るという事も出来る。現在の日本は、能動過小傾向のみられる各カテゴリーの男性達の葛藤を和らげるアイテムに充ち満ちている。アニメ、ゲーム、MMO、2ch、インターネットetc…いずれのメディアも、様々な分野の様々な男性の(対人関係上の)葛藤を緩和するバッファとして必要十分な機能を保有している。また、引きこもりやニートも、無理して働く必要は無い。両親の蓄えにぶら下がるか生活保護を受ければ良いし、回線一本あれば、2chやMMOなどの疑似自己実現にアクセスすることも出来る。

 要するに、現在の日本は、彼らが葛藤に直面化しなくてもそこそこやっていける程度には豊か過ぎると言いたいわけだ――金銭的にも、文化的にも。現在の彼らは、金銭的にも精神的にも自らの葛藤の直接的解決を迫られるほどには窮乏していないし、直接的解決こそが最適解だと断定しづらい状況が続いている(特に、異性にまつわるモテない男のソリューションや、オタク達の適応形式に関しては尚更に)。葛藤を緩和しやり過ごす適切な手法やアイテムが揃っているなら、それを最大限に利用した適応スタイルを成立させる者が出てくるのはむしろ当然だし、そういう適応スタイルを含んだ多様性は、やはり尊重されて然るべきだというのが私の意見である。ただし、その道は決して平坦ではないし、将来日本が没落した暁には練炭への道かもしれない事は覚え置くとしても。

 いずれにせよ、これらの葛藤回避に有用な手法・アイテムが充実している事によって、葛藤への直面化回避が容易になっている可能性がある点には留意しておいたほうが良いと思われる。その是非や功罪はともかくとして。


 8.共通基盤・共通理解としての、日常空間における宗教の不在

 戦後の日本では、宗教は教育とも政治とも結びつかなくなってしまった。その帰結として、現代都市空間に住む日本人の日常には、仏教も神道も介在しない。一方、欧米では(それが良いことかどうかはともかく)宗教は教育・政治と強い関わりを持っており、都市部においてさえ、各宗教・各宗派の聖堂や寺院は未だに日常との結びつきを維持している。こうした日常宗教の存在もまた、共通基盤・共通理解・共通文化の保有に役立っていると考えられるわけだだが、日本の現代都市空間にはこれがそっくり欠落している。地域社会の崩壊と並んで、日常宗教が存在しない事もまた、ささやかながらも無視出来ない影響を与えていると考えられ、日本の現代都市空間の特徴のひとつ(そして日本のポストモダンの特徴のひとつ)になっていると推測する。

 なお、昭和50年代の私の郷里では、宗教は生活にまだまだ密着していたと思う。特に、“祖父母と思春期前の孫達”で流れる時間のなかでは濃密だったと思う。当時の私達は、寺院を遊び場にしながらしばしばお経を教わった。また、先祖の月命日には御坊様(ごぼうさま)が家にやってきて、お経と法話を聞かせてくれたものだった。神道も十分に身近な存在だった。祭りの季節になると、私達は村祭りの獅子舞や山車に参加するべく練習を積み、村祭りの日には学校を休んで祭りに参加したものである。私の郷里にこれらの習慣が今でも残っているのかは不明だが、少なくとも20年前の郷里には“日常宗教”が確かにあったと思う。多分、ここや四国の田舎などにはまだ“日常宗教”としての仏教や神道が残存しているだろうけれど、いわゆる現代都市空間、ことに日本の現代都市空間からは“日常宗教”は払拭されているようにみえる。このこともまた、子ども達同士および世代間の共通基盤・共通理解の醸成が(昭和五十年代の世代よりも)困難になっている一要因として着目したい。




 【まとめ】

 これら様々な“現代的”“都市的”趨勢が重なって、新たに思春期/青年期を迎える男性達に大きな影響を与えているのだろうと私は推測する※4乱暴な表現をするなら、全部をひっくるめて「ジャパニーズポストモダンの影響」、と言ってしまえばいいのかもしれない。ともかくも、社会的要因によって男性の適応シーンと成長シーンは甚大な影響を被っているのは間違いなく、これからもこうした影響を男性達は受け続けるだろう。もし、幼少期〜思春期の対人関係においてノウハウを獲得・蓄積する機会が今後も減り続け、人間の流動性が益々早くなってしまうなら(参考:「一瞬で勝負が決まる」社会)、現在の趨勢が進行することこそあれ、昭和の状況に逆戻りすることはあるまい。このような状況下、幼少期からあまりコミュニケーションのノウハウを蓄積させず、文化的にも細切れにされ、そのうえ学校内で侮蔑的地位に甘んじる一連の男性達※5はいつまでたってもそのままであり続ける。自殺するほど適応が破綻する人は稀なので、鬱々としつつも、彼らは世代を追う事に拡大し、増え続けるのだろう。今回挙げた種々の要因の帰結として、能動過小傾向の強い男性達はこれからもますます蓄積し続けるというのが私の推測である。


 →能動過小傾向がみられることは『悪』か?








【※1関係構築】

 もちろん、「距離をとる」というのも関係構築のひとつである事を覚えておいて欲しい。近所に危険人物や危険区域があった時に、それをなんとかマスターするのも人間関係の一形式を学ぶうえで貴重な経験である。



【※2より少ない練習数でマスターせよと問われている事になる。】

 お受験に熱をあげる親達は、子どもの将来を思って小学校受験に熱をあげたり、本を買い与えたりする。それにしても不思議なのは、こうした教育熱心な親御さんが、対人関係の時間やリソースを削ることを躊躇わないケースがしばしばあることである。受験勉強の知識をマスターするには、も練習や勉強や好奇心などが必要なわけだが、コミュニケーションは放っておいてもマスター出来るかのように誤解しているor忘れてしまっている人は少なくない。

 勉強をろくにしないで東大に行くには相当な素養を必要とするのと同様、対人関係もまた少ないトライアンドエラーで上手くやる人間は相当な天性のセンスを持った人間だけということになる。この視点を失ってしまうことの怖さったら!



 【※3「とにかく他人に迷惑をかけない」事を子ども達は強要されている。

 もちろん、子ども達がそれを強要されている=親御さん達全てがそう望んでいる ではない点に注意。こうした問題点に鋭く気付く親御さんは決して少なくはないように見受けられる。だが、幾ら親御さんが子どもを伸び伸びと育てたいからと言って、都会のショッピングモールで「大集団鬼ごっこ」「ケードロ」「缶蹴り」を許容するわけにはいかないのが現状だ。親御さん達の望む望まないにかかわらず、都市空間では子どもを野放しにするわけにはいかない。迷惑をかけるだけならまだしも、相当危ない目に遭うかもしれない。





 【※4男性達に大きな影響を与えているのだろうと私は推測する

 影響を受けているのは男性だけでないことは一応断っておこう。女性達の過剰適応に伴う摂食障害や、若年女性のパワーアップ化、境界性人格障害のような現代型で厄介な神経症の勃興などなども現代社会の大きな影響下にあると推測出来る。しかし、今回のdiscussionはあくまで男性の能動過小傾向にスポットライトをあてるので、ここでは追求しない。ついでに言えば、女性の適応に関する諸問題を考えるのに相応な経験と記録が私には無いので、誰か上手な人にやってもらいたいなぁと思っている。




【※5学校内で侮蔑的地位に甘んじる一連の男性達】

 侮蔑される者がいるということは、侮蔑する者がいて、優越する者もいるというわけだ。

 まず、女性達は、こうした若年男性達を尻目に、過剰適応による転覆者を幾らかは含みつつも躍進する。生物学的に、プリミティブな非言語コミュニケーションや共感レーダーに優れた女性達は昨今のポストモダン的状況では活躍しやすい。勉強についても比較的つめこまれ過ぎず、もともと少ない練習量でも最低限のコミュニケーションスキル/スペックを確保しやすく、余程のことがない限りは「男性から声はかけて貰える」女性は、文化的に細切れで、対人関係の構築を極短期間に迫られる情勢においてはしなやかに適応しやすい傾向にあると私は思っている。ジェンダー由来の圧力差と生物学的相違によって、女性は現代都市空間におけるコミュニケーションシーンにおいてちょっとしたアドバンテージを持っているのではないだろうか。尤も、そうは言っても摂食障害の如き「適応戦争への過剰な投資による破綻」が女性のほうが多いのも事実だが…。

 さらに、その女性達をも統括しながら闊達に異文化コミュニケーションをこなす少数の男性達は益々活躍しそうである。異文化ニッチを行き来し、女性とのやりとりも可能な者達は、能動性の足りない男性の増加に伴い、これまで以上に異性や機会を独占しやすくなる。少なくともマクロレベルではそういう傾向に傾くだろう。コミュニケーションシーンにおいて素早く的確に対人関係を構築する能力が求められる現代の状況が続く限り、コミュニケーションシーンにおいて彼らは絶対的優位を保ち続ける。このテキストに書いたようなジャパニーズポストモダンな状況においては、そんな男性というのはそれなりに希少性を持った人種には違いないだろうし、まして社会的ステータス・専門知識・スタミナを併せ持つとなると途方もないパワーを持った選りすぐりという事になるだろうけど、もしも可能ならばとてつもなく優位に適応競争をすすめられるだろう。

 余談だが、DQN男性のような生き方は、専門性・教養・社会的ステータスや金銭の確保という点で幾らか不利なところもあるかもしれないが、コミュニケーションシーンにおいては思春期以後に「負けにくい戦い」を続けられるという点では現代社会に合致した適応巧者と言えるのかもしれない。DQN男性達は、“異文化越境が可能なコミュニケーション能力と能動性を持ち、金も文化もスタミナも有したエリート”のようなバカ勝ちはしないかもしれないが、少なくとも思春期における異性獲得競争や自意識を巡る葛藤においては楽観的な結果が得やすいだろうし、異文化コミュニケーションシーンにおいても相手の文化・コンテキストを理解しなくともDQN的メソッドと“俺様最強的視点”を相手に強要することで葛藤を回避出来る。DQN達は、それ故にオタク・非モテ・引きこもりのような葛藤状況は少なく、誰かに抑圧されることもあまりない(少なくとも思春期が終わるぐらいまでは)。防衛機制もあまり要請されることがなく、ただただ屈託の無い生活と繁殖を続けている。DQN達の適応スタイルもまた、ポストモダン的状況における有効かつお手軽なもののひとつといえるし、だからこそ決して絶えることは無い。