前のテキストでは、1970年以降に生まれた男性に特徴的な、“能動性の欠如”と、それにまつわる幾つかの性質について挙げてみた。オタク・引きこもり・自称モテない男達は共通した心的傾向を持っている――特定の次元の、他者・他文化に対する能動性過小とコミュニケーションリソースの不足、劣等感を持ちつつも価値観の転換を図れないetc――。彼らは、現段階において葛藤無くアクセス出来る領域の外にはアプローチしないか、アプローチ出来ない。

 こちらのテキストでは、“能動過小”と密接な関係にある、彼らの社会適応・心理的適応について解説を試みたい。彼らは“能動過小”ゆえに、葛藤の対象となり得る幾つかの社会的課題をダイレクトに解決することが出来ない。しかしだからと言って社会適応出来ていないわけでもなければ心理的に破綻しているわけでもない(引きこもりのように、葛藤を何とかする手段が残されていないケースの場合は、破綻してしまう確率が高くなるだろうけど)。彼らは心的傾向・葛藤、他者との接点などに即した形で社会と折り合いをつけており(つまり適応に成功しており)、その適応戦略は精神病的ではなくあくまで健康的である。彼らの適応の在り方を通覧する事で、能動過小傾向の強い男性達の適応の在り方と心的傾向について理解を深めていきたい。






 ・“能動欠如現象”の色濃いオタクにみられる固有の適応形式

 まず、能動性が欠如したオタクについて。1970年以降に生まれた世代のオタク達は、現在のオタクコンテンツ消費を数のうえで支える人達であり、オタク趣味世界の敷居が下がったこともあって後発世代ほどオタク趣味参入に対して能動性を求められなかった世代である。東浩紀氏の分類でいけば、第三世代オタク以降のオタクが該当するだろうか。彼らの大半は、思春期以降、半ば消極的にオタク趣味を手にとって己のものとしていった経緯を持っており、なおかつ“オタク趣味““オタクである事”を劣等と位置づける価値体系を持ちながらもオタクをやっている(岡田氏が提唱した“おたく”とはここが異なる)。自らの趣味・立ち位置を劣等とみなしつつも、その価値体系から脱却することも、価値体系のなかで這い上がることもない。

 だが、彼らはそうした葛藤と劣等感に日々苦しめられて地獄の日々を送っているかというと決してそんな事は無い。むしろ、結構上手くやっているとさえ言えるかもしれない。彼らの社会適応の形式は“げんしけん”的または“究極超人あ〜る”的と呼ぶべき暖かいヌルさに満ちており、表だって葛藤を経験する契機がそう多くないように出来ている。確かに、自分達を劣等とする価値体系のなかで“優等”とされる人物に直面した時・自分達が憧れながらも手が届かない存在に直面した時、彼らとて葛藤に陥ることはあるだろうが、秋葉原・ネット空間・コミケ・ゲーセンなどをホームグラウンドにしたオタク的生活をしている限り、そうした葛藤を惹起する出会いも数が少ない※1。これらオタクのホームグラウンドでは、彼らは同族に出会う事こそあれど、葛藤を生み出しそうな非オタクや異性と出会う確率を最小限に抑えることが出来る。空間と文化の双方で活動範囲を絞ることは、オタク達の能動性の育成や外部文化へのアクセス可能性を妨げる一方、彼らを葛藤から守る役割も果たしていると言えるだろう。

 加えて、オタクが消費するコンテンツそのものも、彼らの葛藤を軽減するうえで重要な役割を果たしている。例えば“萌え”は、異性にまつわる葛藤を減弱するバッファとして機能しており、なおかつ彼らの恋愛に能動性が欠如していても問題がないよう、異性キャラクターのほうでプレイヤーの願望を察知して全面的に叶えてくれるような構造に仕上がっている(参照:脳内補完における、萌えキャラとオタクとの一方向的関係)。オタク達が望んで脳内妄想するだけで、恋愛にまつわる感情が補償されるというのが昨今の萌えコンテンツの大きな特徴であり、異性にまつわる願望を最小限の労力と葛藤で回避出来るという点で、テレビドラマなどよりも効率的・効果的なメディアと言える。こうした二次元美少女コンテンツ、萌えオタ達はこぞって消費する。

 また、美少女萌えメディア以外の多くのオタクコンテンツもまた、彼らの葛藤を補償するうえで重要なツールとして機能する。スーパーロボット大戦、ミリタリー、鉄道、ロボットアニメ、ライトノベルなどは、肉体的トレーニングや修行の類を殆ど伴わずに劣等感を補償してくれる(最近は男の子じゃなくて女の子のヒーローも引き合いが多い)。そのうえ、昨今は最小限の労力・能動性で秀逸なオタクコンテンツにありつく事が可能になっている(関連:→こちら)ため、オタクコンテンツ消費による補償はますます敷居が低くなっていると言えるし、だから一層低い能動性しか要請されなくなっている。マシン語も、哲学概念も、身体的トレーニングも、断崖絶壁に咲く花を摘む勇気も、昨今のオタクコンテンツ獲得には必要ではない。僅かな金銭と労力で入手できるこれらオタクコンテンツ群は、彼らの心的傾向や経済力でも容易に消費が可能であり、葛藤を和らげるバッファとしてしっかり機能し得るため、オタクの心的適応を支えるうえで無視できない存在だと私は考える。彼らが自分達自身に劣等感を抱えたオタクであり続けながらも普段心的葛藤にそれほど苦しまずに済んでいる理由のひとつに、彼らの心的傾向にフィットしたオタクコンテンツが膨大に存在していて、それらコンテンツを幾らでも消費出来るという要素がある事を強調しておこう。

 また、げんしけん的なぬるオタコミュニティ・ぬるオタ仲間の存在も彼らの葛藤を減じるうえで重要な役割を演じていることも付け加えておきたい。やはり、持つべきものは友。オタクコミュニティには似たような心的傾向を持つ者が集まりやすい。オタクコミュニティのなかでは、オタク趣味に関する話題を共有し居場所を確保出来る出来るばかりでなく、(心的傾向が似た者が多いため)異性の話は自ずとオブラートに包まれることになり、オタクを劣等とみなす言説はネタとして処理される。オタクコミュニティのなかでは、“彼女がいるか否か”などの無粋な話題で神経を刺激されるリスクは極めて低いし、そんな事を気にしなくても良いような日々を過ごすことが出来る。“げんしけん的オタクコミュニティ”は、色々な面でヌルいところもあるかもしれないが、逆にそのヌルさ故にオタク達の葛藤を最小化しやすく、彼らにフィットしたコミュニティであると言えるだろう。考えようによっては、あれほど洗練された適応形態は無いと言えるかもしれない――コミュニティ成員の現在の葛藤を、最小化するという点では――。昨今では2chやネットゲーム、SNSなどの登場により、リアルのオタクコミュニティをかなりのところまで代替出来るようになってきた。よって、オタク友達すらいない人でも“ネットで繋がる”ことによってオタクコミュニティ的適応を代替出来るようになってきている。もちろん、2ch・ネットゲーム・SNSなどの空間では、彼らは大した葛藤に直面することなく日々のお喋りを愉しむことが出来る(葛藤に直面しても、ネタとして簡単に受け流せるぐらいには、それらの空間はヌルヌルになっている)。ストイックなオタクである必要も、技能に秀でたオタクである必要も、オタク同士でオフラインで会う必要すらなくなった。オタクコンテンツやオタク的適応だけを獲得するのは、2006年においてはきわめて容易になっている。




2.“能動過小傾向”の色濃い、自称非モテにみられる固有の適応形式

 次に、自称非モテの心理的適応・葛藤について述べてみる。自称非モテ・自称モテない男というのはオタクや引きこもりなどとの合併も多い集団だが、言葉そのものは異性・男女交際という次元のみに限定された定義と考えてほぼ差し支えないだろう(オタクとしての葛藤など、他の葛藤の有無に関わらず)。なんだかんだ言っても、彼らが異性・男女交際・モテるモテないへの言及をやめない事からも解るとおり(或いはルサンチマンを滲み出している者などはより分かり易い)、彼らは異性願望に強く囚われており、しかも“異性と交際出来ない事”を劣等と位置づける価値体系に居続けたままモテない男を主張し続けている。少なくとも、言及を続けている人達に関してはこれがあてはまる。本来、このままの状態では葛藤さぞかし多く、不適応やメンタルヘルス的変調を来してもおかしくないわけだが、自称非モテ達は様々な行動や思考を通して葛藤を防衛し、適応を維持する事に成功している


 ・知性化や合理化による葛藤の解消

 非モテ達・モテない男達は、モテない事についての論理的考察を行ったり、社会現象としての非モテ・男女交際を語る事によって、情動・欲求との距離をとりやすくし、なおかつある程度の代理満足を得る事が出来る。自分自身の問題としてではなく、社会的問題として議論を進めるのも、自分自身の葛藤から距離を取るにはなかなか好都合な戦略といえる。ネット上における非モテ議論の多くは、これらに該当していたように思う。なかには鋭い論考を含んだ生産性の高いdiscussionも多く含まれており、その意味合いは「葛藤の解消だけ」には留まらない(勿論、留まる議論も多いのは言うまでもないが)。そのうえ、“異性と交際するのは当たり前”という価値観をストレートにぶつけてくる人達※2に対して異議を呈示する性質を併せ持っている議論は、自分自身の内面に存在する葛藤を外在化する(投影)する事が出来るので、二重の意味で内面の葛藤から逃れることが出来る。よって、葛藤に対する防衛機制という視点で捉えると、この手続きは非常に優れているといえる。

 この葛藤解消の手続きは、一連の自称非モテ達――ネット上で非モテ議論に参加しつつも非モテである自分をネガティブに捉え、且つ異性に対する能動的アプローチがみられない人達――に多かれ少なかれ観察出来るものである。非モテを自称する人達の異性関連の葛藤を緩和する機制として、適応上重要な営為の一つとして重視したい。もちろん、自らに潜むこうした防衛機制のメカニズムを自覚している者もあれば、全く無自覚な者もいる


 ・キャラクターとしての非モテ

 現在では比較的少数派になりつつあるが、2000年前後の自称非モテは、キャラクターとして自分自身の境遇をネタとして提示する向きがあった。この姿勢は、モテない事に伴う自分自身の葛藤を、客観視したりネタ化したりする効果を併せ持ち、葛藤から一定の距離を保つうえでやはり有用と考えられる。勿論、このような選択は半ば無意識のうちに選択されるけれども、病的でないケースならばある程度意識的に選択され得る。伊集院光や大槻ケンヂは、かつて存在していた自らの葛藤をこのような機制を通して芸に昇華させたのではないかと私は感じているが如何だろうか?

 しかも、キャラクターとしての非モテを提示する事にはそれ以外にも良い事がある。上記の“知性化や合理化”に関連した議論でもしばしば該当するが、ネタを通して自らの感情を閲覧者と共有出来るかもしれないという点である。同性同年代の、似たような悩みを抱えた者達と共感しあえるならば、葛藤は更に減じられ、“癒し”すら生み出されるかもしれない。そのうえ人気サイトや人気コテハンの保有に成功すれば、ささやかながらも自身の行為に“エンターテイナー”としてのレゾンデートルを見出す事も出来るだろうし、自らの行動にクリエイティビティを感じる機会に恵まれるかもしれない。勿論、このような“創造性の自覚”は、自分自身の葛藤を減じるにも好都合だし、本人の心的適応の健康性を保つうえで有用なものだろう。2chの一部の板では、自称モテない男達が共感しあうのに適した様々なスレッドが存在しており、彼らの心的葛藤を和らげ適応を維持するうえで重要な役割を担っていると考えられる。

 このように、自称非モテ達もまた、様々な行動を通して自分自身の葛藤と適切な距離を置き、心的適応の破綻を上手く回避している。確かに、彼らのコーピングは異性や恋愛に対する能動性を欠くが故に、性にまつわる葛藤の源をダイレクトに解消する事は不可能に近い。が、自称非モテとしての営みの数々は葛藤を軽減するうえで重要な役割を担っており、彼らの適応を維持することに貢献している。オタクにとってオタクコミュニティやコンテンツ消費が心的適応を支える重要な手段となっているのと同様、自称非モテ達の様々なアクションの一つ一つもまた、彼らの葛藤を減じ適応の破綻を防ぐうえで無視できない手続きとなっている事を確認しておこう。

 なお、オタク趣味を持っている者は、前述のオタクとしての適応維持が選択肢に加わり、ますます葛藤から遠ざかる事が可能なのは言うまでもない。

 参考:非モテ進化論(from Welcome to Madchesterさま)



3.“能動過小傾向”の色濃い引きこもりにみられる固有の適応形式

 引きこもりは能動欠如が広い次元にわたって観察され、能動性獲得を助けるコミュニケーションスキル・スペックの欠如が最も著しい一群と考えられる。社会適応の範囲も(一般に)最も狭く、場合によってはオタク趣味や家族サポートすら手に届かないほど追いつめられている者もある。彼らの殆どもまた、範疇的価値体系に基づいて自らを劣等の極みとみなしながらも問題解決への能動性を失っているため、葛藤はいつ終わるともなく続く。しかも彼らの退却と行き詰まりはあらゆる分野に渡る深刻なものなので、葛藤や苦悩も強い。よって、あまりの葛藤の強さ故に遂に適応バランスを崩し、実際に精神症状を呈するに至る者すら存在する※3。少なくとも、能動性欠如のみられる一群のなかで最も葛藤が多く、最も緩和の選択肢に乏しい一群なのは間違いあるまい。

 これまで挙げた1.消極的オタクや2.自称非モテとしてのソリューションを保有しているならともかく、そうでない引きこもりには、葛藤を緩和する効果的な防衛機制が少ない。唯一、引きこもるという逃避によって彼らは葛藤への直面化を回避するわけだが、防衛機制というバッファが単層でしかないが故に効果の点で恵まれていないと言える。さらに、家族との対面すら葛藤の源になってしまって自室だけが居場所なってしまうと、事態は一層苦しげなものになる。そして引きこもり続け、齢を重ねていくという行動は、短期的には防衛として役立ちはすれど、中期〜長期的には彼らの葛藤と絶望感をより一層高いものにする。しかも、引きこもり達はそのことを知っている。

 引きこもりは能動過小傾向に伴う葛藤が極めて強いのみならず、その葛藤を緩和する為の防衛機制の展開すら枯渇気味なので、もし緩和に役立つ防衛の手段を手に入れれば即座に飛びつき、徹底的に傾倒する可能性が高い。故に、2chでもネットゲームでも脱法ドラッグでもセミナーでも、なにか彼らの葛藤を緩和・防衛するのに適した媒体に接することがあれば、彼らは一般消費者よりも遙かにのめり込みやすく、高確率でaddiction(依存)を形成しやすいと考えられる。葛藤が極端に強く、防衛機制の手段すら不十分な者が、僅かばかりでも葛藤を和らげる方法を手に入れた時、それを最大限に利用しようとするのは自然且つ自明のことと考えられる。少なくとも私は、彼らがaddictionを形成した時、そこに適応的意義を見出そう。彼らは不適応を促進する為に○○廃人になるのではなく、心理的適応を促進させる有効且つ希少な手段として○○廃人になる、というのが私の考えである。廃人化は、防衛機制で言えば逃避にあたるかもしれないし補償にあたるかもしれないし…まぁ防衛機制の分類なんて何でもいいが、ともかくも、彼らの心理的適応を促進させる、健康的ではあっても崖っぷちの営みであると睨んでいる。





 ・能動性の欠如に伴う葛藤は、防衛機制を通して最適化され、心的適応が維持される

 このように、能動欠如現象がみられる各カテゴリの成員は、それぞれのカテゴリに相応な防衛形式をもって葛藤から心身を守っている。葛藤の程度・確率は、カテゴリや個別の事例ごとに様々だろう。しかしながら、能動欠如の男性に典型的な、『範疇的な価値体系のなかで自らを劣等と位置づけつつも、その価値体系のなかで能動的になる事が出来ず、かと言って価値体系を脱却する事も出来ない』という事態は、多かれ少なかれの葛藤を当事者にもたらすのは間違いなく、葛藤を緩和する為に何らかの適応行動※4が要請されるだろう。このとき個人の行動のうちに防衛機制が見いだせることは不健康なことではなく、むしろ健康的で適応促進的なものとみなすことができるだろう。オタクが萌えキャラと脳内で一方向的関係を構築するのも、引きこもりが引きこもるのも、自分自身を苦しめる為でもなく自分自身を病的にするためでもない。彼らの防衛機制を通した適応的選択は、おそらく現在の心的葛藤を緩和する為の最良の(=最もマシな)一手であり、運が良ければ未来にわたっても心的葛藤すら緩和する妙手となるかもしれない。さらには、その瞬間瞬間を知的論考や芸として昇華させることによって、葛藤を持つ者ならではの収穫物すら生み出せるかもしれない。

 ただし、防衛機制は目前の葛藤だけを緩和する為に働きがちであり、将来の葛藤をどうするかまでは考えてくれないで発現するため、防衛機制が発現しっぱなしの状態というのは現在の葛藤に対する最適化である事が殆どである。よって、個人の未来における適応がどうなるのかは定かではないし、事実、引きこもりのように、未来における葛藤をさらに増大させ、未来における適応の可能性を一層すりつぶしていくような形式も存在する。神経症者の如く防衛機制が過剰に発現しまくった場合(しかし過剰に発現する状況というのは、葛藤そのものが強いか、葛藤に耐える個人的素養が弱いか、おそらくその両方だろう)には、いつしか個人の適応を維持しきれなくなってしまう袋小路に到達する可能性が高い、とは予測できそうだ。もちろん今回挙げた能動欠如現象の男性達の多く(特にオタクや自称非モテ)は、そのようなカタストロフィを迎えることなく、適切な防衛機制と適切な心的適応を最期まで維持出来るに違いなかろう。だが、1.葛藤が強く防衛機制の要請が強い個人2.防衛機制を展開させるに好適な条件が乏しい個人3.防衛の隙間風が及ぼす葛藤に耐えきれない個人 といった条件を兼ね備えている事例では、精神症状の発現や自殺関連行動などの、大破綻を迎える可能性すらあるかもしれない。特に、様々な意味でリソースが不足している長期引きこもりの場合には、上記三つの条件は良くないだろうし、自称非モテや消極型オタクなどと比べて適応維持に失敗するリスクが高そうにみえる。




 ・まとめ

 以上、能動欠如現象がみられる男性達の防衛機制の在り方と適応維持の在り方を、カテゴリー別に紹介してみた。確かに彼らはいかにも葛藤しそうな状態にあり、その葛藤持続の姿は神経症的と言えるかもしれない。だが、彼らはそのような葛藤持続の状態に対して適切な防衛機制を展開する事を通して、心的適応が破綻することを上手に防いでいる。discussionや芸などにみらされるように、その営みは時に生産的であり、恥じるものもなければ貶められるものでもない。引きこもりのような極端な例も含め、彼らは彼らなりに最善の一手としてそれらの言動を選択しており、(防衛機制という視点で了解可能である事からもわかる通り、それは葛藤に対するreactionには違いないにせよ)自分自身の心的ホメオスタシスを維持しようと試みている。この試み方(=葛藤を防衛するという行動選択様式)は、能動過小傾向が顕著ではない男性や女性、年代の異なる人間にも共通したものであって、異常なものでもなければ病的なものでもない。

 よって、短期的適応だけに焦点を向けるならば、彼らの防衛機制に関連した行動は適応促進的と考えるのが妥当であり、無碍にこれをやめさせるのは非生産的であるばかりでなく、彼らの心的適応を崩してしまうリスクを孕んでいるとすら考えられる。彼らの適応を見て、少なからぬ人が“ひどいもんだなぁ、こりゃ不適応だよ”と言うかもしれないが、それは多分間違っている。彼らは目下最善の適応を選択していて、それでそのような状態なのだという事を私達は心得るべきだろう。防衛機制という名の自己欺瞞を剥いだとき、彼らは葛藤への直面化を余儀なくされ、それは現在の心的適応を(防衛が要請される度合いに従って)多少なりとも揺るがすものだという事実には十分な注意を払う必要があるだろうし、最早防衛機制をひっぺがしてもどうにもならないような人達はそっとしておいたほうが彼らの(特に現在の)適応を守る上で有利かもしれない点には注意を心がけたいものである。事実や葛藤への直面化は、果たして彼らに有益または必要なものだろうか?もちろんそういう個人も(特に若い人には)多いには違いないだろうが、そうでない個人もいるかもしれないし、そもそも強い防衛機制が働いていればいるほど、つまり葛藤が強くてどうにもならないものであればあるほど、抵抗(否認や投影などの防衛機制上書き含む)は強力なものとならざるを得まい。むやみやたらで将来性の無い直面化は、彼らの適応を阻害したり葛藤をひどくするだけだし、直面化を促す側も抵抗に遭って疲弊するだけである。能動過小傾向を共通の特徴とする男性達にみられる適応状況と防衛機制は、彼らの持続的葛藤と表裏一体の呈を為している。もちろん、彼らの葛藤を理解するうえで、彼らの適応や防衛について研究するのは意義深いことと私は考えているし、彼らの適応の有り様や防衛機制の発露に今後も注意を払っていきたいと思う。読者の皆さんも、そういった視点で彼らの適応状況と葛藤について、さらなる理解と配慮を試みてみてはいかがだろうか。


 →動過小傾向が、比較的若い世代に認められやすい要因




 
【※1葛藤を惹起する出会いも数が少ない。】

 ところが、“電車男”“萌えブーム”などを通して、秋葉原などのオタク的ホームグラウンドに“オタクならざる者”が侵入してくるようになってきた。秋葉原は現在、オタクやメイド喫茶を物見遊山に来る人達の侵襲に晒されている。ドンキホーテの進出や非オタク文化に根ざした飲食店の進出も相まって、オタク達はもはや秋葉原を独占することが出来ない。この事は、秋葉原を非オタク文化から隔絶されたシェルターとして利用し、葛藤を回避し安らぎを得る場として利用していたオタク達にとってはさぞかし不快な事だろう。異文化が侵入してくるという事は、そもそも摩擦や不快感を倦みやすい出来事だが、他文化ニッチへのアプローチが困難なオタク達で、心理的葛藤の防衛に役立つ場として秋葉原を利用しているふしのある人達にとっては殊更に不快感に満ちた出来事として体感されるだろう。隠蔽された葛藤が、所謂「一般人」のいる所では顕わになってしまうのだ。





【※2価値観をストレートにぶつけてくる人達】

 しかし前述している通り、“年頃の男性が女の子と交際出来ないのはおかしい”という価値観をぶつけてくるのは、実は非モテ外部の人達だけではない。むしろ非モテ外部の人達の指摘に対して、彼らの心の中の葛藤が反応・共鳴していると考えることも出来るのではないだろうか。彼らは“異性と交際出来ない事は劣等である”という価値観にむしろ頑ななまでに拘っており、他人の何気ない一言や何気ない振る舞いも、普段は防衛されている劣等感を強烈に再認識させる契機となって彼らに葛藤を強いるのだろう。これまで私が非モテを自称する人達の言説を黙って観察し続けてきた限り、彼らほど“恋愛資本主義”だの“モテは優等、非モテは劣等”だのといった価値観に忠実な人種もいない。彼らが猛然と「非モテ」問題について燃え上がる時、“年頃の男性が女の子と交際出来ないのはおかしい”という価値観が彼の外部だけでなく内部でも炎を上げている。







 【※3実際に精神症状を呈するに至る者すら存在する】

 何気なくこう書いてみたが、この表現が本当に妥当なのか、実は私には自信がない。確かに、引きこもりが幻覚・妄想・強迫症状などを呈する確率は、それらの症状を呈する同年代全体の確率よりもどうやら高そうである。だが、だからといって症状を有するが故に引きこもりが多いのか、引きこもりだから症状が出やすいのかははっきりしていないので、相関はあるかもしれないにせよ、 引きこもり⇒有病率が高い という因果関係を導けるとは必ずしも言えないように思える。

 精神科界隈で今も生き残っている“病態水準”という表現をもってすれば、「統合失調症圏を除外した神経症圏(=普通)だけの幻覚・妄想も、確かに引きこもりには多くみられるし、彼らの葛藤と閉じた空間を考えれば出てもいかしくない」という事になるので私は上記のように書いてみたが、本当にこのような考え方で構わないのか、私自身迷いを感じることがある。病体水準という考え方は、確かに現在でも有用な臨床的概念・尺度だが、精神医学の孕む恣意性を含みやすい部分でもあり、アメリカ精神医学会のDSM-IVも病態水準という概念の取り扱いに極めて慎重になっていることは付け加えておこう。

 そもそもこの手のdiscussionは、“幻覚や妄想とは何か?”“精神症状とは何か?”“統合失調症という症候群は何か?”という問題に直結するものであり、こんな場所で私が論じられる代物では到底あり得ないのでこれ以上深入りするのはよしておく。





 【※4葛藤を緩和する為の何らかの適応行動】

  ここでいう適応行動は、その殆どが心理学用語で言うところの“防衛機制”という単語に回収され得ると私は考えている。なお、防衛機制という心的メカニズムに各種適応行動由来する事は全くいけない事ではないし、誰もが程度の差こそあれ行っている適応促進的で重要な営みと理解されなければならない。呼び方はともかく、現在心理用語で“防衛機制”と呼称される一連の心的メカニズムは、疾病を生み出すための異常なものではなく、ときにはcreativeに働くことすらある事をここでも強調しておこう。そして誤作動・過剰作動でない大半の防衛機制は、過剰に葛藤するストレスや面倒から、私達を守ってくれている。それは、能動欠如の男性達に限ったものではない。ただ、能動欠如の男性達においては、それに伴う葛藤が恒常化していてこれからも続く可能性が高いため、質・量・時間の面において防衛が顕著かつ恒常的にみられるという点には注目せざるを得ないけど。なお、当人の動機が防衛機制という文脈で解釈を許すものだからといって、知性化や昇華の産物の評価が不当に貶められる事がないように留意していただきたい。『精神分析入門』も、『NHKにようこそ』も、『筋肉少女帯』も、それが防衛機制の産物か否かに関わらず佳いものには違いない。

 あるいは、防衛機制は白血球のようなものと喩えるとわかりやすいかもしれない。白血球同様、防衛機制は“メンタルや情報の次元で”外部からの侵襲を食い止めている。白血球同様、私達はそれがなければ侵襲に晒されまくって(心的)ホメオスタシスを維持できずに崩れてしまう。確かに白血球同様、防衛機制もまた働きすぎると自分自身を蝕んでしまう事があり得るし、誤作動してしまった場合も有害な結果をもたらすわけだが、だからと言ってどちらもも無しで済ませるわけにはいかない。白血球が人体維持に必要不可欠なのと同様、防衛機制もまたメンタルを維持するうえで必要不可欠なメカニズムであると言える。さらにまた、白血球やCRPの発動をみることで感染症の存在を予期出来る如く、防衛機制の発動をみることで葛藤の存在を予期することも可能だろう。

 防衛機制という言葉に対してアレルギーを持つ人も多いかもしれないが、ここは勘違いしないで欲しい。そりゃ、こじれてひねて自分自身の命をも脅かすほどに防衛機制が展開してしまった人もいなくもない(例:神経症水準の摂食障害でも衰弱死のリスクがある、など)が、あくまでそれは過剰に防衛機制が展開されてしまった場合の問題であって、そこまでいかない大半の人達にとって神経症水準(≒普通の水準の、と読み替えてやってください)の防衛機制は、一応は適応促進的である事を再確認しておきたい。防衛機制そのものを病的なものと捉えるのは、白血球による免疫反応そのものを病的反応と捉えるのと同じぐらいズレている。






 【※5唯一にして最大のウィークポイントとなっている】

 この、防衛機制を通した