前のテキストにおいて私は、導入として、“自称非モテ”“自称喪男”なる人々にみられる一つの心的傾向について紹介してみた。彼らの言動に一定の制限を課しているものは、知性や腕力や二重瞼などではない。彼らの場合、にっちもさっちも行かなくなっている最たる要因は、“異性・社会・環境などに働きかける能動性”ではないかと私は考えている次第である。

 しかし、このような能動過小の傾向は、自称非モテ達だけに固有の傾向と断言して良いものだろうか?結論から言うと、能動過小傾向は同世代の他の幾つものカテゴリーにおいても認められるものだと私は疑っている。前のテキストはその一例として“自称非モテ”というカテゴリーにフォーカスをあててみたが、他の幾つかのカテゴリーにおいても、それぞれの程度・場面特異性をもった“能動欠如現象”を見出すことが出来る。以下のテキストでは、図解を交えながら“他者への能動性欠如”がみられる幾つかのカテゴリーを順次紹介していこう。



 ・1.第三世代以降のオタク達(とは言っても二十代前半より若い世代は不明)

 ここで指し示したいオタクとは、“オタク趣味がやりたくてやったというより、他に選択肢がなかったから仕方なくオタクになったオタク達”であり、“消費はするけど消費しかしない&出来ないオタク”であり、“なんとなく不満足だけどなんとなく面白い事もあるなぁ”と感じているオタク達である。“1970年代以降生まれのオタク、現代型オタ、第三世代オタク”などと呼ばれそうな一群は、少なからぬパーセンテージで含まれている。なお、ジャンク街だった頃の秋葉原を彷徨き回っていた一昔前のおたく(とそれに近い傾向を持ったオタク)や、コンテンツクリエイター側(同人含む)のオタク達はこのカテゴリからほぼ外れることを前もって断っておく。

 『エロゲー・MMO・自作PC・模型・フィギュアなど、自分の所属し所有するオタク文化ニッチ内のコンテンツ消費には十分能動的だが、多くの局面、特に異文化ニッチに対して働きかけることは非常に少ない』という傾向が彼らの典型である。そんな彼らがオタク趣味を選んだ所以は、複数の選択肢のなかのひとつとしてオタク趣味を選んだわけではなく、思春期前半〜中盤においてオタク趣味以外に選択肢が無かったというケースが多い。第三世代オタク以降(1970年生〜)の全員が必ずしも当てはまるわけではないにせよ、少なくとも同世代のオタクのなかにこうした傾向の強い独身男性が多数存在していることは確認している※1。そんな彼らは、PC・コミック・ゲーム・同人・ミリタリー・鉄道etcの決まったオタク分野に偏ったリソースを割り当てているので、、異性をはじめとする他文化ニッチの人間と交流するリソースとチャンスに乏しい。超然としているごく僅かな人間を除いた大多数は、異性との接触が無い事を“なんとなく”寂しく思っている

 彼らの中核群は、思春期前期以降にスクールカーストで不利を強いられて仕方なくオタク趣味に流れた経緯を持っており(参考:脱オタ症例)、しかもオタク趣味に闘士が偏倚している彼らは異性との距離が遠い。しかも、オタク以外と交流していくノウハウの蓄積が遅いので(そりゃまぁ、思春期以降オタクとしか付き合わなければ当然か)異文化との交流は困難であり続ける。コミュニケーションスペックと思春期初期のポジショニングが原因なのか?それともオタク界隈への埋没が原因なのか?原因については後続テキストに譲るとして、ともかくも、彼らは異性に関してそれなりの願望と欲求は持っているにも関わらず、能動的選択をとる事が無い&出来ない点をここでは強調しておきたい。ときどき、思春期中盤以降に総力を挙げて異性や他文化ニッチに対峙するオタクもいなくはないが(所謂脱オタ者達である)、異性や他文化へのアプローチを推進するオタクは、第三世代オタクのなかでは少数の部類に属する。自分の趣味に矜持や誇りを持つが故にオタクコンテンツに傾倒しているわけでもなく、女の子達のいる世界を“いいなぁ”と羨み、自分や仲間を劣等とすらみなしているオタク達。しつこいようだが第三世代オタク全員がそうだといいたいわけではない。が、少なくともそういった類型に該当する若いオタクがどっさりいる事は繰り返しておく

 なお、オタク達は二次元美少女のようなオタクメディアを消費する事によって、異性に対する能動性を獲得しなければならない必然性を減らせるという特徴を持っている。オタク達の(特に)性を巡る葛藤は二次元セックスメディアによって大いに弱められており、適応の均衡を保つ上で重要な役割を担っている。本田透『電波男』の方法論などは、こうした葛藤減弱を極限まで応用したものとして捉える事も出来るだろう。二次元美少女メディア以外のオタク趣味・界隈への没頭もまた、異性にまつわる葛藤やコミュニケーションスキル/スペックを要しそうな局面に際しての葛藤を減弱することが出来る。異性などへの能動性が欠如していたとて、オタクな彼らは願望が叶えられない事の補償の手段(オタク趣味)を大量に保有しているため、そう簡単には不適応状態には至らない。

 最後にもう一点付け加えたい。この手のオタク達は、能動的にオタク趣味以外に手をつけないだけでなく、そんな自分達のオタク的在り方を劣等と位置づけている。オタク趣味を能動的に選択したわけではないせいか、彼らは自分達の趣味文化ニッチ――即ちオタク趣味を――劣った趣味分野とみなしている。マジョリティによるオタク叩きに対してうめき声をあげるオタクがいないわけでもないにせよ、自分がオタクであることに(例えばカウンターカルチャーとしての)誇りを持っているオタクはあまりいない。にも関わらず、オタク趣味に金銭や時間を費やし続けるというのはとても風変わりな現象にみえるかもしれないが、オタク趣味へののめり込みは心的葛藤を回避する個人システムに組み込まれているため、今更手を引くわけにもいかず、オタクコンテンツを消費し続ける。マジョリティの価値体系の命ずるままに自らを劣等に配置しつつも、彼らは他の文化ニッチを能動的に開拓することも出来ず、オタク趣味に属する自分に劣等感すら抱きながらもそこに留まるというのが彼らの在り方のもう一つの特徴である。



・2.ネット上で散見される非モテ達、様々なタイプ

 ネット上においてみられる非モテ・喪・毒男についても、もう一度説明をしておこう。

 基本的な構図は1.のオタク達とそう変わらない。実際、自称非モテ・モテない男板住人・毒男板用語集の対象男性はかなりのところまでオタクと重複している。非モテなる人々もまた、オタク趣味の有無に関わらず、比較的遠い異性との距離と比較的低めのコミュニケーションスキル/スペックを特徴とする。思春期前期におけるコミュニケーション競争の敗者であったりスクールカーストで抑圧される側であった傾向も共通している。故に彼らもまた、異性に対して接近する手段が元々乏しい&成功への期待を失っているわけだが、その乏しさを、手段獲得や場の選択などを通して能動的に獲得していこうとすることは稀である。

 彼らの多くは恋愛や女性に対してむしろ立派すぎる理想像を持っており、現実の女性達の振る舞いと自己内部の理想女性像の乖離に苛立つことこそ多いものの、基本的には素敵な恋愛や素敵な女性への願望は有し続けている(よって理想的な女性の描かれた二次元美少女に接近する者も多い)自称非モテ達・自称モテない男達は、異性願望そのものから自由になったわけではなく、むしろ飢えてさえいながらも、解決のために異性に対して働きかけたりコミュニケーションスキル/スペックを強化しようとはしない者でほぼ占められている。しかも、こうした自分の立ち位置を快く思っているわけでもなく、殆どの者は自分が異性と交際出来ない事を劣等と位置づけ、(彼らが批判する事もある)“モテが優れて非モテが劣等”という範疇的な価値観のうちに自らを配置し、自分自身をダメ人間とみなす形式が観察される。こうしたマジョリティの価値観に自らを置く限り、いつまでも劣等感と自己不全感に苛まれるにも関わらず、彼らはその価値観を飛び出して己の道に走るでもなく、かといってそのルール下で(脱オタ者の如く)這い上がって異性に対して能動的にアプローチする事を試みるでもなく、現在の座標に留まりながら呻いている。

 ただし、非モテ達もこうした手厳しい葛藤から丸裸でいるというわけではない。彼らは能動的に異性と対峙こそしないものの、様々な方法で不適応を回避出来る。例えば彼らは、異性や恋愛からの逃走に遂に成功する場合がある。逃走を可能にするものは、何らかの学問・職業への没頭かもしれないし、二次元美少女との“接続”かもしれない。異性や恋愛は本能に強く影響されるため、それを上手くやり過ごすのは容易なことではないが、見事それに成功した男性も稀にはいるし、それを目指して努力している男性も存在する。これはこれで上手い適応形式であり、恋愛や異性にまつわる葛藤を対処する方法として注目するに値する。特に、コミュニケーションスキル/スペックや異性との距離の問題が挽回不可能なレベルに達してしまった、比較的高齢且つ条件の悪い非モテ達にとっては、このような逃走・超克が最も実現可能性が高い方法だと私個人は思っている※2。ただしこの方法で問題を解決し尽くした者は、最早自分がモテるか否かに拘泥しなくなるため、非モテやモテない男という言葉に拘らなくなり、恋愛・異性からの離脱と同時に、自称非モテからも離脱することになる。

 そのほか、二次元美少女メディアや趣味分野による補償、ディスカッションという形式に依った知性化合理化、ネットの発達に伴うモテない男同士によるコミュニティや連帯感の形成、などなど様々な対処行動が観察されている。これらの防衛機制的効果を含んだ行動は、自称非モテ達を決定的な不適応・破綻・acting outから遠ざけるうえで重要な役割を担っている。尤も、防衛機制の常として、現在の葛藤を消去する為の最短最高のソリューションを享受出来るかもしれないにしても、中〜長期的展望においても最短最高の方法なのかどうかは誰にもわからない。



 3.社会的引きこもり

 社会的引きこもりに関しても、能動性欠如という現象がみられる。というよりも社会的引きこもりにおいては、能動性欠如という心的傾向はありとあらゆる分野に渡って激しくみられる。

 消極的オタクでは他文化ニッチの人達が、自称非モテにおいては異性が、それぞれ能動的働きかけのみられない対象だったが、引きこもりにおいては(基本的に)ありとあらゆる分野において接点が失われ、能動性も失われている。また、引きこもりが長期にわたればわたるほど、外部・他者との接点は希薄になりコミュニケーションスキル/スペックは弱体化していく。彼らにおいては、コミュニケーション技能による接着剤機能はほぼ完全に停止している。前述のオタクなどとも共通しているが、引きこもりの多くもまた、マジョリティの価値体系どおりに自分を“劣等”に位置づけている※3。さらに、外部・他者への能動性が無いが故に、そこから離脱する事も適わないまま強い葛藤に晒される事になる。質・量こそ異なれど、この心的傾向・構造自体は前述のオタク・非モテと共通している事に注目して頂きたい。

 しかし、前述の自称非モテや第三世代オタク達に比べると、引きこもりは圧倒的に葛藤が強く、行き詰まり感も深刻である。自称非モテには仕事や学業が残されている場合が多く、仮に休職や退職していても就労可能性はある程度保たれている場合が多い。第三世代オタクに関しても、引きこもりやニートを兼ねている少数者を除けばこうした問題は相対的に軽い。しかしヒッキー達にはそれらを期待できないし、ぬるいオタク共同体(ここのヌルさは褒め言葉のつもり)に所属してオタクなりの立ち位置を確保する事も困難である。皆とコミケのような祭りに参加する事も適わない。これらの第三世代オタクや自称非モテ達が葛藤を回避・解消するために保有している諸手段は、純然たる引きこもりには欠けており、葛藤を解決するカードは極端に少ない

 自宅でも可能なインターネット・2ch・MMOなどはかろうじて可能かもしれないが、それすら困難な引きこもりも存在し、家族とも断絶した完全なる孤立状態のケースでは、能動性の欠如はおろか防衛による不安・葛藤の解消すらままならない事も多い。逆に言えば、彼らの手元にインターネット・2ch・MMOなどがある場合、葛藤を防衛するほぼ唯一の手段となるため、彼らがそれらに対してaddictionを起こしやすいのは自明とも言える(加えて、時間的にも彼らは無限の時間を持っている、いやむしろ潰さなければならない無限の時間を背負っている)。このように、彼らは絶望的なほど葛藤に対して剥きだしの状況ゆえに、その適応状況は危機に瀕しやすく、また苦しいものと考えられる。引きこもりは今回の議論において最も極端な部類に属し、もはや能動性の欠如以前に葛藤への防衛すらままならない悲惨な状況を生きている。何らかの葛藤対抗手段があれば彼らの有り様も適応的とみることが出来るかもしれないが、上記のオタクや非モテなどに比べれば適応の均衡を失いやすい、危うい適応形態であるのは間違いないだろう。



 ・能動性欠如という心的傾向は、同時代の少なからぬ男性達の特徴的現象に共通している

 以上、第三世代オタクや引きこもりなどの21世紀男性に比較的高頻度でみられる諸現象を記述してみた。これら一連の群はそれぞれの質・量こそ異なれど、能動性の欠如という心的傾向において共通しており、今日の日本の社会病理を反映した連続的スペクトラムを形成しているのではないかと私は考えている。彼らはそれぞれの懸案・葛藤の源・願望となっている“他者”に対して能動的ソリューションを試行できない傾向を有し、彼ら自身のコミュニケーションスキル/スペックの不十分さや文化ニッチのポストモダン的細分化は、これらの傾向の改善を妨げることこそあれ、チャンスを与えることが少ない。そのうえ彼らは、価値観が多様化した時代にもかかわらず(モテるモテないとか、オタクが侮蔑されるか否かといった)範疇的評価軸・価値観から脱却することも出来ず、それら既存の評価軸・価値観に基づいてcannotな自分達自身を劣ったものとみなし、葛藤を抱え続ける。

 だが、一見すると葛藤の多そうな状況にも関わらず、彼らは様々な葛藤回避の方法(防衛機制)を実行することで現在の適応を維持できるため、精神的に決定的破綻に至る確率は案外と低い。例えば自称非モテは合理化・知性化などを通して、オタクは萌えや趣味没頭を通してといった具合に葛藤の源に対する直面化こそ困難ではあっても、彼らは様々なコーピングを通して現在の適応バランスを維持することが出来る。長期的予後はいざ知らず、今この場においては彼らの適応は一定の均衡のうえに成立していると言えるだろう。これら防衛機制に依った処世は、彼らのメンタルヘルスを維持する上で機能的・効果的であり、だからこそこれを取り払う・変更するには多大な労力が要されるし、無理強いした時の抵抗が強いのも無理ならぬことである――彼らにとって、そういった防衛機制は必要なものなのだから。彼らは、願望が発生しやすい諸分野における能動性が欠如しているが故に、終わりのみえない葛藤をそれぞれの状況に即した最善の適応行動で対処し続けている。

 次のテキストでは、そんな彼らが葛藤をどのように防衛して適応を維持しているのかについて私見を述べてみようと思う。能動性が欠如しているが故に残存し続ける葛藤を、彼らはどのようにやり過ごし、メンタルの均衡を維持しているのだろうか?


→『現状の観察3:能動過小傾向が該当する男性達の、(防衛機制を介した)適応形式について』に進む





[補足]:空気を読み合うその他の人達

 上記の典型的な幾つかと同じではないにしても、似た特徴を持った一カテゴリーを補足しておこう。昨今ありとあらゆる文化ニッチに多々みられる、「場の雰囲気を壊さないことだけに器用な男達」もまた、他者に対して能動的・積極的に働きかけることができない。もともと日本は、ハイコンテキストな社会(この言い回しはこちらから拝借しました)で、お互いがお互いの顔色を通して利害を推量しあいながら行動選択する傾向が強いが、昨今では思春期真っ最中の男性においてすらこの傾向が拡大している可能性が高いと私はみている。こちらで書かれている“けづくろいコミュニケーション”(元々は斉藤先生の発言)のような、互い拳を突き合わせないようやりとりが、種々のコミュニケーションシーンで増えているのではないだろうか?

 彼らは、A.互いの表情や発言から互いの嫌がる事を敏感に察知するアンテナは異様なまでに発達している という点と、B.自分達の置かれている状況に劣等感を必ずしも抱いていない という点で上述の三グループとは異なっている。また、C.他者の利害や感情に敏感 という点でも、オタクや引きこもりに多い空気読め無さ加減とは真逆に位置している。だが、今回紹介したカテゴリーも“空気は読んでも互いに踏み込まない人達”も、「他者との深い関わりを避ける&他者との深い関わりに耐えられない」という心的傾向は共通しており、思春期における冒険を極めて限定しているという点でも共通している。

 よって、実際は「空気読みまくって空気に同化する思春期男性」と今回紹介した「能動過小」の諸カテゴリーは、全く別物というよりはコインの裏表の関係にあるのではないかと私は推測している。どちらの場合であれ、思春期において自分の限界と可能性を規定するにはあまりにも他人に踏み込む&踏み込まれる機会と意志を欠いており、リスク回避と不快回避に特化した適応と考えられないだろうか。そしてコインの表であれ裏であれ、モラトリアムな年頃におけるこうした傾向は、E.H.エリクソンの発達課題という視点からみれば、おそらくは好ましくない停滞として捉える事が可能ではないだろうか。具体的には、思春期〜青年期において、「自分はこんな塩梅」であるという規定の困難やアイデンティティの拡散が起こりやすくなり、相手の意志を尊重した男女交際に進む代わりに所有・支配の男女交際に向きやすくもなると私は想像するのだが。実際、現実の彼らの男女交際や“萌え”“モテ”からは、そういった特徴が読み取れはしないだろうか※5。もちろんそうした発達課題を解決することが「たったひとつの生き方」ではないし、多様な適応形態は文化的に尊重されなければならないわけだけど、『個人の葛藤の多寡』や『個人的適応の容易さ加減』という視点に基づいた時、“発達段階の不履行は葛藤多き生に繋がるだろう”とは言えると思う。もう少し丁寧に表現するなら、“防衛機制に依らなければ心的適応が維持しにくくなる”、と書くべきか。そしてオタクメディアや非モテ談義・電子デバイスなどは、こうした防衛機制に依った現代的心的適応に大いに役立っている、と考える次第である。

 オタク達であれ、自称非モテであれ、空気を読みあう顔色マスターであれ、現在の多くの思春期男性は、能動的でときに侵襲的でさえあるやりとりから遠い位置に存在している※6。そのようなやりとりに「我慢ならない」。こうした傾向は、目下日本の思春期男性においてみられる“若者の新しいステロタイプ”ということになるのだろうし、そんななかでなおも能動的にコミュニケーションの「剣」を振るえる若者は(比較的少なく、また同時に)猛威を振るう存在となるだろう。斉藤環先生が『博士の奇妙な思春期』で書いている若者の二極化と違う意味で(斉藤先生の二極化は、このテキストで言うコインの裏表に該当する)能動性を維持している比較的少ない狼達と、空気を読んで合わせるばかりor空気から退却する羊達によって、思春期男性は二極化しつつあるのではないだろうか






 【※1多数存在していることは確認している。】

 というより、20代〜30代の独身男性オタクにはこのような人物像が該当する者があまりにも多い。彼らは消費者として現在の同人市場や各種オタクニッチ市場を経済的に支えており、この点では現代オタクシーンの担い手として無視できない存在である。彼らは自分のオタク趣味分野の消費コンテンツ選びに関しては(逆に)驚くほど能動的な場合も多い。なかには消費コンテンツすら自分で選べないような人もいるが、基本的には各分野のオタク達は専攻分野のコンテンツ選択に一家言持つ&豊富な知識や技術を蓄積させているケースが多い。なかにはコンテンツクリエイターと呼称するに相応な同人作者との連続的位置づけが可能なクリエイターも多く、侮ることのできない蓄積と意見を持った人が多く存在している。

 また、同じオタク文化ニッチ内における交流に関する限り、しばしば彼らは無口というよりも活発な交流を意図している&成功している場合が多い。ただし、これらのオタク文化内の交流は(オタク知識やオタクとしての体験などの)濃厚な共通理解・共通基盤が支えになって成立しているものであり、オタク作品がコミュニケーションの“かすがい”になっている点に注意。こうした“かすがい”を失った状況下においては、オタク同士の間であってもしばしば驚くほど無言だったりする事も。




 【※2高い方法だと私個人は思っている。】

 能動性如何以前の問題として、もてない男のなかには異性にはねつけられるしかない深刻さを有しているケースがある場合がある事を私は認めなければならない。問題を能動性の過小に求める事を許さないような、積極的だけどてんでダメっていう男性も必ず混入している。否、少なからず混入している。これは消極的なオタクや引きこもりにも言えることなのだが、能動性がどうと言う以前の、もっと深刻な基盤不足の人が存在していることには十分留意しておかなければならない。

 一方、そのような深刻さがどの辺りからでどの辺りまでなのかを評価することはなかなか難しい。特に主観的にこの深刻さを適正に評価するのは至難の業である。自称もてない男達は、主観的には「深刻すぎ。恋愛不能」と自身を評価しているし、全員が既に手遅れだと判断しているとは思う。だが、この事実は必ずしも「彼ら全員が本当に手遅れであるか否か」を判断する材料とはならず、「彼ら全員が本当に手遅れと思っているか否か」までの判断材料にしかならない。

 彼ら全員が真に“異性と未来永劫接近する可能性零”なのかは、正直よくわからない。自称もてない男と一言で言っても、年齢・スキル・スペック・生活歴はまちまちであり、実際は恋愛可能性の高低も決して均一ではなく、よって“客観的恋愛スペックの低さ”だけを彼らの共通点としてしまうのは多分間違っている。むしろ、(心的傾向以外の)キャパシティや可能性の多寡に関わらず、心的傾向の類似性――即ち、“異性に対する能動過小現象”がみられてそのまんまであること――こそが、自称非モテ・自称モテない男という雑多な集団の最大公約数として、私がかろうじて見いだせる特徴となっている。

 関連:毒男板用語集 毒男類イケメン科参照

 毒男類イケメン科の人間も、毒男類キモメン科の人間も、毒男類フツメン科の人間も、自分の性格・外見に欠点があるという思いこんでさえいれば「モテない男」を自称する事ができる。この場合、彼本人の顔面の審美性や潜在的キャパシティ、体重、年齢などは「自称非モテ」「自称喪男」か否かと関係が無い。





【※3マジョリティの価値体系どおりに自分を“劣等”に位置づけている】

 ひょっとすると、マジョリティや外部の価値体系に最も敏感なのは、むしろ彼らかもしれない。それらマジョリティや外部の価値体系において過去に(あるいは現在)実際に劣等とみなされた過去があってこそ、このような位置づけを行うんだろうとは推測している。脱却できないまま、マジョリティの呪縛に縛られ続ける男達。(しかしマジョリティが単なる多数派ならまだ救いがあるのだが、もしマジョリティと私が呼んでいるものが娑婆だったり道理だったりしたら、どうしよう??)

 いずれにせよ、そのような敏感さを持ちながら同じ立場に居続け、自らの価値体系や判断体系を変更せずにマジョリティの価値体系に留まり続けるのは、葛藤多き道であろう。この葛藤を繁栄してか、彼らの言動は防衛機制としての機能と意義を含んでいる(か、その為にしか機能していないほど追いつめられている事もある)。この、葛藤多き状況においてもあくまで防衛機制の展開に終始し、(まだ二十代前半とかでも)立ち上がって戦うでもなく異なる価値体系に移行するでもない。これもまた、今回紹介している“能動性欠如”に該当する各カテゴリーの男性にみられる大きな特徴の一つである。





【※4声優専門学校やゲーム専門学校などの門を叩いて】

 これらの“教育機関”は、経営者の営利追究に基づいて運営されている事は言うまでもない。学校としてのこれら“教育機関”の役割は比較的限られており、ごくごく一握りの将来の卵の抽出、幾割かの使い捨て短期就労者、の確保ぐらいにしか機能していない。これらの専門学校に入った人間のなかで、実際に“その道で十年後も食っていける”者の割合は極めて少なく、おそらくは十年後に他の仕事に就くかニートに甘んじなければならないこととなる。よって、今回の議論の視点からみると、これらのオタク系専門学校群は、本人と家族の夢を一次的に引き受けてしばらくの間牽引することしか彼らに対して為していない。尤も、本来ならニートになるしかない人&就職や就学への能動性のない人の一時的受け皿としては優秀で、そのニーズに的確に応えつづけているからこそ商売として成立しているのだろうけれど。

 念のため付け加えるが、こうした“教育機関”には本気で必死な学生さんも入ってくるもののその割合はあまり多くないようである。“他に選ぶべき選択肢も選ぶべき意志もなく、唯一興味があった&興味を持てたのがソレだけだったから”入った人が少なくない。そんなわけだから、入学してからの能動性も推して知るべし、である。“教育機関”側も、遊びたい人はどんどん遊ばせて放っておくし。





 【※5そういった特徴が読み取れはしないだろうか】

 なお、斉藤環先生は、E.H.エリクソン的な、「旧来の発達段階に依る“大人への移行”に拘泥する事は時代にそぐわない」、というようなニュアンスの事を何かの著書で言っていたような気がする(現在確認中)。確かに、時代時代によって、大人への階段は文化的に変化するに違いないし、モダンな世界とポストモダンな世界では求められるものも異なってくるだろう。とはいえ、現生人類の遺伝子は数千年程度でそうそう変わるものでもなく、私達の遺伝子はサバンナを彷徨き回っていた祖先とそう変わらない。思春期男性に通文化的に認められる(特に原始採集社会でも認められる)、男性による勇気の提示・能動的な開拓に関連した部分については、文化的変化にかかわらず思春期男性に常に試練として降りかかってくるものではないかと私は推測している。E.H.エリクソンの発達段階に関する議論のなかには、時代によって変化する発達段階の在り方だけでなく、時代や文化にかかわらず通文化的に認められる行動遺伝学的特徴を掬い取った部分があると私は考えている。





 【※6能動的でときに侵襲的でさえあるやりとりから遠い位置に存在している】

 勿論、それらを問うたり強化するような“通過儀礼”“男の祭り”も都市空間から一掃されて久しい。今、そうした能動性や侵襲性に都会で接続し、そこで何かを掴める思春期男性というのは、DQN(いわゆる不良文化のちょっといびつな末裔達)ぐらいなものかもしれない。実際、案外DQN達のほうが低い年齢で結婚し、しかも親としての立場を屈託無く引き受けていることが多いような気さえする。勿論彼らは彼らで、しばしば親としての立場よりも自らの欲望を優先させることがあるわけだし、DQNにはDQNの別の問題が提起されて然るべきだろうけど