メッセージ @

詳細

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さん 詳細@ ()

さん」と言えば、我々は幼い頃から
絵本を見たり、誰かに読んで貰ったりして、
その話の粗筋は、日本人ならば、
ほとんどの人が誰でも知っていると思う。
「うーらの畑でポチが鳴くー、正直爺さん掘ったならー、大判小判がザーックザーックザックザク。」・・・・・・・・・と、こんな出足で始まる童謡だが、子供の頃よく口ずさんだ記憶は残っている。 この歌は3番まであるが、全部覚えていて歌える人は少ないと思うので、一応紹介しておこう。

さんの唄を 3番まで詠んでみると

@ ○うーらの畑でポチが鳴くー、正直爺さん掘ったればー、
    おおーばん 小判がザークザークザックザク

   ●
意地悪爺さんポチ借りてー、うーらの畑を掘ったればー、
    瓦や貝殻ガーラガーラガッラガラ
A ○正直爺さんウス彫ってー、そーれでモチをついたればー、
    まーたぞろ 小判がザークザークザックザク

   ●
意地悪爺さんウス借りてー、そーれでモチをついたればー、
    まーたぞろ 貝殻ガーラガーラガッラガラ
B ○正直爺さん灰まけばー、はーなは咲いた枯れ枝にー、
    褒美はたくさんお蔵にいっぱい

   ●
意地悪爺さん灰まけばー、殿様の目にそれが入りー、
    とーうとう 牢屋につーながーれまっした


 

以上…。 この歌の中に秘められたストーリーを要約すれば、二つの相反する存在の生き方と運命を、三段階であらわしていることが判る。
 この「花咲か爺さん」のおとぎ話は、ほとんどの人が桃太郎や浦島太郎などと並んで、よく幼稚園の学芸会などで、一度は演じたり見たことが有ると思う。
 だから、このストーリーについては、園児や子供の時からしっかり覚えているはずだから、全く知らないと言う人はあまりいないと思う。
 だが、大人に成った今の我々には、もう関係の無い、ただ単に子供の為に聞かせる童話と考えてやり過ごし、その中身について、真剣に考えた人は居ないのではないだろうか?
この作者不明の物語は、
誰が、いつ、どのような意図で造ったのであろうか?
 この世に存在するものは、全て、目的を持って造られているものだと思うが、未だに、そのおとぎ話が、子供に対して何を教えようとしたものなのか、謎めいた話ばかりでよく判らない。又、とことん突き詰めて、調べて見ようとした人も
いないのも不思議な処である。

 もし これらの、誰でも知っている物語りの中に、深い「謎と奥義」が隠されていて、将来の日本人が辿らなければならないという「何らかの運命」を暗示した、未来に対する預言の物語だとしたら、この昔話は、もう 単なる幼児の読み物 では済まされなくなる。
 この物語を、幼い頃から聞かされて来た子供達が、やがて大人に成って自分の人生を振り返る時、大切な
警告と戒めが含まれていた事を、初めて気が付く様に与えられた物語、だとしたらどうだろうか。 世の終わりの時に、この昔話の真意が、明らかにされる時、全ての人がこの物語によって裁かれることにもなるかも知れない。
 
 この物語の隠された奥義の、真の意味を知ることが、この世紀末と言われる現代に 生きている、全ての人に今、何よりも求められている。そしてこれは、日本人自身が、まず真っ先に知らなければならない、
最重要課題)なのではないだろうか・・・?。

 世の終わりの時代、と言われる こんにち、幼児から戦争を体験した老人に至るまで、又、文盲から博士に至るまで、この例外なく、全ての人が知っている「昔話の奥義」を解くことが許される時、隠されて来たあらゆる真理が明かされ、日本人の正体が何なのか、はっきりと理解できる内容が伝えられるであろう。

イラスト

 絵本より
 
  
 古い昔話の絵本を探しています。心当たりの方は、ご連絡を下さい。
 

@段階 犬
 

A段階 ウス
 

B段階 
 
 

 ところで、この「花咲か爺さん」の話と よく似た内容が、実は聖書のイエスキリストの預言の言葉の中にある。おとぎ話の謎を解く前に、より理解を助けるために聖書の話を少しすることにしよう。おとぎ話の謎を解くためには、ある一つの通過点がいるので、少し我慢して読んで頂きたい。

 二千年前に現われたイエスキリストも、群衆の前では何事も、比喩と、たとえでしか話されなかった。それは、「私はこれらの事を比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父、神)のことをあなた方に聞かせる時が来るであろう」。(ヨハネ十六章二五節)と言われることによって、世の終わりが来る時、全てを明らかにする事を、はっきりと約束されている。おとぎ話がたとえ話であるなら、聖書のイエスの言葉の謎もひょっとすると、世の終わりにそれと同時に明らかにされるのかも知れない。
 
 二千年前のユダヤにメシア(救世主)としてイエスは現われたが、「メシアを偽証する者だ。」という烙印を押され、十字架の刑にかかり亡くなられた。だがその十字架にかかる直前のキリストは、
「私は一度は死ぬが、世の終わりに再び戻って来る。」と、弟子たちに約束をされていた。聖書マタイ二四章三節に、その終末時代に起こる徴候が詳しく書いてあるので見てみよう。
 
その時、弟子達が「あなたが、又 おいでになる時や、世の終わりにはどんな前兆が有りますか?」と聞いた時、「あなた方は、惑わされない様に気を付けなさい。多くの者が、私の名を名のって現われ、「自分がキリストだ」と言って、多くの人を惑わすであろう。
又、戦争と戦争の噂とを聞くであろう。注意していなさい、慌ててはいけない。それは、起こらねばならないが、まだ終わりではない。民は 民に、国は 国に敵対して立ち上がるであろう。
……とある。                ここまでを(第一の艱難)として見てみる。

 続いて、又、あちこちに飢饉が起こり、又 地震があるであろう。しかし、全てこれらは産みの苦しみの初めである。・・又 多くの にせ預言者が起こって、多くの人を惑わすであろう。又 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。……とある。
           これを(第二の艱難)と見る。 さらに
、.
 
しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこのみ国の福音は、全ての民に対して証しをする為に、世界にのべ伝えられるであろう。 (真理の到来)そしてそれから最後が来るのである。」…とある。
           これが最後の(第三の艱難)

 このように、イエスの予言を、筆者は三段階に分けてみた。 そして、その時に起こることが詳しく書いてある。

 

 

  
 
 

預言者
 
 

預言書
 
 
 

 マタイ24章23節に、「その時、誰かが、あなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリスト達や、にせ預言者達が起こって、大いなるしるし、(贖罪儀式)と、奇跡、(世界的伝道)とを行ない、出来れば、選民。をも、 惑わそうとするであろう。
あなたがたに前もって言っておく。人々が『見よ、彼は荒野にいる』。又、『見よ、部屋の中にいる』。と言っても、
信じるな。ちょうど、稲妻、(電気通信)。が、東から西に、(東洋から西洋に)。閃き渡るように、人の子、(キリスト)も現われるであろう。死体のある所には、ハゲタカが集まるものである。(自分を見失った人間の集まるところには、むさぼる 強欲な狼のような、幹部や教祖が集まる。)」・・ここで、カッコ内は、著者の解釈であるので、一応ことわっておく。

 イエスキリストが、これほど、くどいくらい 何度も何度も、惑わす者の出現を警告されているのは、余程の大きな心配があったのだろうか。?。
 もし、すべてを捨てて「主体」に従う、ある一つの忠節の民族を「選民」として備えてあるとするならば、
「偽りの主人」がそのごとくに 現われたときも、一部の選民たちは命がけで、その「偽りの主人」を「真の主人」と信じこんで、最後まで灰になるまで従って行き、その結果、一度しか無い貴重な人生を台無しにしてしまう、危険性があることを承知しての、言葉だったのかも知れない。

二千年前のイエス様が、現代に生きている我々に対して、かくも重大な警告の言葉を残しておいてくれていたのだった。 
「先に醜く 忌まわしいもの、(ニセ預言者)が現われて 多くの者を惑わすであろう。また、不法がはびこるので 多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、このみ国の福音、(希望の光としての良いたより、・救世主の出現)が、世界にのべ伝えられるであろう。と云うところに注意して頂きたい。

 「荒す憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば、(読者よ、悟れ)、そのとき、山へ逃げよ、屋上にいる者は、.....下におりるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへ戻るな。.......その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく、今後もないような大きな艱難が起こるからである。もしその期間が縮められないなら、救われる者は ひとりもないであろう。しかし、「選民」のためには、その期間が縮められるであろう。」とある。 (何か恐ろしい大艱難が待ち受けていることを予感させる。)

私はこの預言の中に出てくる、惑わされる「選民」とは、もしかして「日本民族」を指しているのではないか?と、直感的に閃いたのである。(「選民」とは、メシア、つまり救世主)を迎えて、他民族を導くとされる民族のことを指す。)

 今、太平洋プレートの上に乗っている火山国日本は、土台から揺さぶられ、普賢岳の火山噴火、奥尻島の地震と津波、台風、異常気象、冷夏などによる大飢饉の前兆、そして最後に、世界的基盤 を持って現われた偽キリストの出現?…と、全ての現在の現象が、キリストが再び来る時の前兆と一致している。まさにイエスの預言をことごとく成就するかの様に、近代の日本の歴史に次々と起って来ている。

日本人は、自分達が何者であるか知らず、未だに眠り続けている。だが、ここに来て、日本民族を目覚めさせる為の、最後の試練が始まった。

ここで、近代日本の歴史を 三段階に分けて見ていこう。
 黒船の到来を機会に、西欧列強国の植民地化の危機が訪れた時、日本の国を憂れう、幕末の志士たちが現われた。たちまち倒幕の勢力が広がり、江戸幕藩体制が崩れ、やがて、天皇を立てて 明治の日本政府を造っていった。
       
 これが明治維新による(第一の立て直し)である。

 以来、日本は急速に西欧に対抗して、植民地政策を取り、大国を向こうにまわして、領土を拡大して行った。世界大戦では、無謀な戦いをして多大な犠牲者を出していった。神風が吹くと言われていた、不滅の神国であった軍国主義の大日本帝国は、ついに壊滅した。
軍閥の亡霊から開放されて、自由と民主主義の戦後の日本として生まれ変わった。
        
これが戦後復興の(第二の立て直し)となっていく。

 だが、焼け野原になった廃墟の中から、瞬く間にビルが生えてくるように立ち並び、急激な経済復興を果たし終えた今。異常な株投資の財テクブームに踊らされ、本来の大和魂を忘れた経済偏重主義の歪みで、バブルが弾けるや、全てが行き詰まり、借金大国と成り果てた時、再び「立て直し」という、リストラの時代が始まった。
         
ここに最後の(第三の立て直し)が始まる。

 このように日本の近代における三つの節目の歴史が、聖書の選民に襲いかかる三度にわたる艱難の預言と、奇妙に一致するのに気が付く。
西欧列強の台頭によって、鎖国日本は急激に目覚め始めていった。明治維新による日本政府樹立から第二次世界大戦まで、一挙に進んでいった。まさしく国民の全てが、戦争と戦争の うわさを聞いたのである。そして、大東亜共栄圏の夢果たせずして敗戦を迎えた。
何かにつけ、
「恐れ多くも天皇陛下におかれては・・・」と、口癖のように言った、軍閥たちは、偽の主人の仮面を被った、「にせキリスト」を演じきったのかも知れない。そして、惑わされて死んでいった多くの英霊たちは、戦後の急激な経済復興の中で、次の第三の立て直しの時まで、どんな思いで見守って来たのだろうか。?。

 そして現在、再び同じようなことが繰り返されて起こって来た。一つの例として言えば、マスコミを巻き込んで話題となった、あの世界的教団の信者達は、日本の若者達が実に多く、教祖を人類の待ち望んだメシア、(救世主)と信じ、彼の基盤の為に日々、経済復帰に励んで来たが、今やマスコミ、ワイドショーによって、悪名高き、不法を働く(反社会的団体)の烙印を押されてしまった。
 彼等は、自分達を、メシアを支える為に選ばれた「聖徒、神の選民」と信じている。
教祖が「世界の王の王」として立つ為には、
(日本の経済的な支えと償いが要るのだ・・・。)と、心から信じ、到底不可能な莫大な金額目標でも、不法な商法卑劣な手段を使ってでも、全ての力を完全投入して捧げてきた。
何と、けなげで忠実な、悲しいほどに哀れな盲目の群れであろうか・・・。

 隣の「仮の主人」に従って、茨の道を走って行った純真だった青年達の心が、豊かなぶどうの実をならす木ではなく、いつしかトゲトゲした茨の心に変わっていったのである。
 
「茨に至る道」「救いの道」と自ら信じ、(茨の神。?)に出会った喜びと感謝の気持ちを、多くの友人や知人に伝え、街頭で出会った見ず知らずの青年たちを、次々と引き入れて来た。
 ところが、入信 した人たちの青春と人生を、立ち直れないほど破壊しては、廃人同様にしていく結果をもたらしていった。正義感に燃え、良心、信仰心、愛情を持って生きて行こうとしていく心の一方で、それらを握りつぶしてでも、大儀のためと称して、平然としていられる、 おそるべき天情に立ちきる、非情で冷徹な、悪魔のような心が育っていくとは・・・。

 マタイ七/十五に、偽 預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたの所に来るが、その内側は強欲な狼である。あなた方は、そのによって彼らを見分けるであろう。 茨やあざみからイチジクやブドウを集める者があろうか。その様に、全て良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。・・良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。この様に、あなた方は、そのによって彼らを見分けるのである。・・ 私に向かって『主よ、主よ、私達はあなたの名によって預言し、悪霊を追い出し、多くの力あるわざを行なったでは有りませんか。』と、言うであろう。その時、私は彼らに はっきり、こう言おう、『不法を働く者どもよ、行ってしまえ!』この警告と呪いの言葉は、皮肉にも、キリスト教徒を自称し、聖書を良く読んでいる筈の、彼等たちに振り掛かり、完全に成就してしまったのだ。

 東洋から、人の子 (メシア、救世主、キリスト)も、又、はげたか(エリア、預言者、にせキリストになる可能性含む存在。)も、両方現われると書いてある。 もし、二つの国のうちの一つの国が、夜明けの朝を鮮やかに告げる、まだ、月と朝露の残った、ひんやりとした「朝の国」を表わすとするならば、もう一つの国は、心地よい暖かい日差しを無条件で投げかけてくれる、「真昼の太陽の国」として、少し遅れて輝き出して来る、(本物の、日のもとの国)があらわれて来る可能性があると言えないだろうか。?。
 確かに、どちらも、輝く曙を表わしてはいるが、本来の、
「日、出ずる国」としてふさわしい完全な国は一体、どちらを指しているのだろうか?。ここで、冷静になって考えて見よう。

 歴史的にも、日本の武士たちは不思議にも、朝廷(天皇)の位置を犯さず、絶対的と言えるほど大事に立てて来た。 神国日本はやがて来られるメシア(救世主)を迎えるために、文化の中に信仰条件を立てて備えられてきた国ではないかと、素朴な気持ちで直感するのである。
 数ある世界の国旗の中で、これほど単純なのに目立つ存在は まれである。 そして、日本と韓国がなぜ、隣合わせに
太陽シンボルマークとして、大きく目立っているのだろうか?
それは、
国の象徴として与えられた、使命と目的を果たすための、必然的な宿命だともいえる。夜の国を表わす星と月、聖書を見ると、闇から光への摂理を計画されていることに気付く。月も星も、闇夜を照らす光としては貴重ではあるが、しかし、満月であっても月の夜は、モノトーンの世界である。 朝になり、太陽の光が射して来た時には、その輝きは次第に色あせていく。
 
朝の国の、青と赤で描かれた太極旗は、海から半分、太陽が顔を出しているようにも見える。 これは、朝の到来を告げる使命があり、確かに半分の「真理の光」を掲げてやってくる人物が現われることを示している。
 だが、あと
半分が問題である。 秀吉の朝鮮征伐、日韓併合、日帝支配、強制連行、慰安婦問題、言語と氏名剥奪など.....日本が韓国に対して、これまでやって来たことが災いしてか、残りの半分の真理が、恨みを晴らすための仕返しと、日本民族の償いを強いる、こじつけの理論にすり変わっていく。 日本人に特に苛酷な犠牲を強いる、原理原則の重苦しい教えをもって、エリアという(旧約時代の預言者)の使命を持つ人物が、あたかも究極と思われるほどの、巧みな言葉を駆使して、真理の光のように現われ、いつしか「仮の主人」を演じながらも、そのままメシア(救世主)を自称して現われて来る可能性がある。 この組織が掲げる理論は、実に人間を 不幸に落としいれる、恐ろしい暗闇の思想が隠されているのかも知れない。
 この教えに染まった者には、もはや いっときの心の休息も得られない。メシアのための地上天国建設の基盤づくりのためと称した、万物)復帰理論、=経済)復帰条件のノルマの達成に、日々追われていく。

 はるか、二千年前より、(本物の主人が現われる前に、偽の主人が現われて、選民を惑わすであろう・・。)と、いうイエスの預言が、日本の若者達に向かって警告されていたのだ。 マスコミは連日、この不思議な教団の話題を提供した。ここに、イエスが再び来られる前に現われる、最大の条件を満たす、世を惑わす巨大な龍悪魔とかサタンと呼ばれる、年を経たが地に投げ落とされ、「仮の主人」の使命を持つ者が 、「キリストの再臨主」を自称して地上に現われて来た。(黙示録十二/九)。なんと、イエスの預言の言葉は、日本において完全に成就したのである。

 ここに来て、かつてのメシア思想の使命を持っていたユダヤ王国が、はるか二千年の時代差を隔てて、日本の国に、同時性をもって現われて来たのだ。イエスは、ユダヤの地に、すい星のように現われたが、ほんの一瞬だけ、希望の光をはなって消えていった。だが、キリストは、主体である天皇を主人として、絶対的に奉る歴史的条件を立てて来た忠孝の民族、「神国日本」が、ユダヤの背負った課題と試練を全て乗り越えて、メシアのための基盤を完全に築いた時、再びもう一度現われるかも知れない。

 キリストの、選民に対する警告の部分は、あたかも予知していたかの如く、近代日本の歴史が、その預言を成就するかの如く流れて来ている。という、不思議な同時性と共通性があるのだ。

 
 ユダヤに現われたイエスキリストは、
三十三歳半ばで 十字架の極刑になった。茨の冠をかぶらされ、手足を釘で打ち付けられ、「ユダヤ人の王、イエス」と書かれた「罪状書き」を、十字架の上に打ち付けられた。真昼の十二時になると、たちまち太陽が光りを失い、全地が暗くなった。そして三時になって息を引き取られた時、神殿の幕が上から下まで、まっ二つに裂けたとある。

 一方、日本の皇太子は、三十三歳半ばまで独身を通され、ここに来て、やっとお妃を迎えられるようになった。婚礼パレードの時は、十字架のイエスとは正反対に、朝からシトシトと降っていた雨は、やがて清めの雨となり、晴れ舞台にふさわしい、鮮やかな緑の街路樹を整えて、ピタリと止んだ。やがて雲の間から、天然のスポットライトが当たり、花嫁の顔が群衆の前にひときわ輝いて浮き上がった。車が動き出してからパレードが終わり、停止するまで、三三分過ぎた時にピタリと終着点で止まった。不思議な超自然の演出が重なった。(これは、著者の妄想的閃きではない・・)

 結婚に至るまでのプロセスから、婚礼のパレードまで、何かの印を思い起こさせる様な、示唆に富んだ深い内容が秘められているようである。 そして、道路の両脇で、手や旗を振り続ける、群衆の行列の帯が延々と続く様子を見ていた時、むかし幼い頃に読んだおとぎ話「花咲か爺さん」の物語が、私の脳裏にふっと浮かんで来たのだった。 

 この作者不明の「むかし話」の中に、日本民族の運命を暗示した、預言と奥義とが隠されている予感が、まるで、稲妻が閃きわたるように、頭に飛び込んで来たのである。 
 本題に入るまでに、少々、回りくどいことを書いたが、ここまで読んで、筆者が何を言おうとしているか、感のいい人は、既にピンと来たのではないかと思う。
あなたの感が当たっているかどうか、予感をしながら読んで頂きたい。
   それでは、この「花咲か爺さん」の話を、始めの部分から解説していくことにしよう。

日本を発つ直前のイエス像

戦後復興の
日本の姿

竹内文書による来日記録
 

 皇祖皇太神宮に伝わる、来日当時のイエスの肖像画。まだあどけなさが残っている。
 
 

日本を発つ直前のイエス像

天皇から授かったユダヤ王の紋章(菊の紋章)を身につけている。当時の皇室画家・彦太人形図文命の作
 
 
 
 

明治憲法 
 日本政府
 
 

日本軍 進軍ラッパ
 
 

日本軍 行進
 
 

 
 
 
 

 
 
 
 
 

戦時の兵隊の行進
 
 

長崎の原爆
 
 

戦後 廃墟

戦後復興の
日本の姿
 

英霊の塔の写真
 
 

サギ師の祝福
 

ダビデの星
夜 カゴメ
 

 

主体の星と○ 

 夜明けの曙
 朝 ○と×
 

真昼の太陽
○のみ
 
 
 「神の選民」の使命は、イスラエル民族)と日本)国に託されている。

 
 

昭和天皇
手を振られる時、
前に軽く押す
ように
振られた

 
 

錦の御旗
「菊の紋」太陽
世界をあまねく
優しく包むという
穏やかな
「太陽の光」
の特性と
形を表わす
 放射状に丸く輝く

 
 

孫の皇太子も
癖が乗り移り、
灰をまく仕草
前に押すように
手を振られる。
 
 
 
 

「花咲か爺さん」の、はじまり、はじまりー

 
昔、あるところに、お爺さんとお婆さんがいました。
 お爺さんは、山へしば刈りに、お婆さんは川へ洗濯にいきました。お婆さんが、川で洗濯をしてると、川上から、
「チャップリ、チャップリ」と小箱がたくさん流れて来ました。お婆さんは、それらを見ると「中身の有るもの、こっちへ来い!中身の無いもの、あっちへ行けー!」と、叫びました。すると、やがて 一つの小箱が、お婆さんの近くに流れてやって来ました。お婆さんは、その小箱を拾って家へ持って帰り、棚の上に乗せておきました。

 この最初の始まりの部分は、なんだか、桃太郎の話によく似ている。だが、川上から流れて来たのは「大きな桃」ではなく、たくさんの「小箱」だった。おとぎ話に出て来る「川」は、しばしば時代の流れを表わす。
 川上から流れてきた、たくさんの箱というのは、古代の悠久なる時代の流れをくむ、たくさんの家系を表わしているように思える。その中から、内容のある一つの忠実な条件をたててきたある存在が、突然老人夫婦のもとに迎えられることになるのだ。
 お婆さんは、このたくさん流れて来る小箱の中で、たった一つ、中身の有るものを選んだのだ。そして、この
小箱を家に持って帰り、棚の上に乗せて置いたとあるのは、時が来るまで、ある一定の時間の経過があり、その間、しばらく箱の中身は、伏せられることを示している。
 それは、日本選民として代々、祭りや神事などの条件をたててきた、部落や地域をも表わしているようにも思える。
神輿が担がれて群衆によって運ばれて行くように、この箱は はるか昔から続いて来た、「時代の波」に流されてやって来たのだ。

 夕方になると、しば刈りに行っていたお爺さんが山から帰って来ました。「お爺さん!、めずらしい箱を、川から拾って来ましたよ」と、お婆さんは言いました。
 お爺さんは
「中に何が入っているのだろう?」と、その小さな小箱の蓋を、おそるおそる開けて見ました。すると、中から、てのひら)に乗るほどの「ちっぽけな犬」が出て来ました。
 二人は、
「うちには子供がいないから、この犬を可愛がって、育てよう」そう言って、その犬に「ポチ」という名前を付けてあげました。
 それからは、二人は、自分たちの食べる分のご飯やら、魚やらを分けてやって、大事に、だーいじーに、育てました。犬は、一杯食べれば一杯だけ、二杯食べれば二杯だけ、ぐん、 ぐーん と、 大きくなっていきました。

 このお爺さんが帰って来た「夕方」というのは、歴史の終わりが近づいた時の、今まで見えなかった主人が突然現われた、「近代」の時代を表わしているように思える。
 その時、この小さな箱の中に眠っていた存在は、まだちっぽけな子犬だった。優しい主人は、時代という川から引き上げられた、この未熟な子犬を育て、まるで、親と子のように、共に生きようとする。ポチは、優しい主人のもとで、実の子供のように可愛がられ、すくすくと育っている様子が伺える。 そして、主人と同じご飯と魚を食べて、賢く逞しい犬になったポチは、やがて主人のために、
忠誠を尽くす「力ある存在」になっていくのだ。

 さて、ある日のこと、ポチは、お爺さんに言いました。「ワンッ、 ワン!、おいらの背中に、鞍を付けてください!」(鞍とは、馬の背中に付けて人が乗る、あの鞍です。)お爺さんは、「そんなこと、できないよ。」と、何か 他のことをしていました。するとポチは、自分で、鞍をくわえて来ました。「ワン 、ワン!、いいから付けてください。それから、袋と、クワも、付けてください。」と、かますとクワも くわえて来ました。「ポチ、そんな重いもの、なんにするー」「ワン 、ワン、いいから、いいから、みんな付けて、おいらに乗ってください!」お爺さんは、「そんなことしたら、お前、つぶれるぞ!」と、心配して言うと「ワン、ワン!、いいから、乗ってください!」と、ポチは、どうしても行かなければならないかのように、お爺さんを促しました。お爺さんはとうとう、ポチの望みどうりに、その背中に鞍を付けてあげ、そして、袋とクワも付けてあげると、仕方なく、おそるおそる犬にまたがりました。

 ここで、実際に人間と言葉で会話をする犬がいる訳はない。この逞しくなったポチは、実際の動物ではなく、犬のような忠誠心を持つ、他の何かを表わしている。自分を、川から拾って可愛がってくれる主人に、恩義を感じ、自分から進んで何か尽くそうとする、けなげな存在を表わしている。今まで歴史という川が、「小さな箱」を運んで来たように、この「小さな犬」も大きくなると、自分の背中に鞍を付けさせ、主人を担ぎたがる、悲しい習性を持っている様だ。この時代という川は、担いできた箱を、お婆さんの家に導いた。そして、その中から出て来たポチは、まるで神輿のようにお爺さんを担ぎ、その家を豊かにし、富み栄えさせるために、宝を捜しに近くの山に行こうと立ち上がるのだ。

明治憲法  日本政府

 ポチは、お爺さんを背中に乗せると「タッタッタッー!」と元気良く走り出しました。そして、裏の山へ力強くかけ登って行きました。しばらく歩いてちょっと曲がった処に来ると、「クンクン。」と、地面を臭うと、ポチは、土を前足で 掘るしぐさをして、「ここ掘れ、ワン、ワン!。」と、お爺さんの顔を見て鳴きました。
 お爺さんは、
(はて?、土の中に一体何が有るのかなー?)と、不思議に思いながら、クワで掘ってみました。しばらく掘っていると、「チャリーン!」と、音がしました。「あれれー、なんだろうー?」クワを掘り起こす度に、後からあとから金色に輝く大判小判の宝物が、「ザクザク、チャラチャラ、ピカッ!」と、出て来ました。お爺さんはたいそう驚きました。そして大変喜んで、宝を見つけてくれたポチを褒めて、お礼を言いました。

 「ここ掘れ、ワン ワン!」と鳴いて、大判小判の宝のありかを教えようとする、このけなげな「ポチ」は、いつも自分を可愛がってくれる主人の為に、自ら何か奉仕しようとする、忠実なしもべを表わしているのではないだろうか。

日本軍 進軍ラッパ

 お爺さんは、その宝物を袋に入れて、ポチの背中に乗せて再び家に帰って来ました。「お婆さん!、お婆さんや、見てごらん!ポチが宝を見つけてくれたよ」と、大判小判や宝物を座敷に広げました。お婆さんは、「あーれー、まーあ、ポチがー?、ありがとうよ、ポチ!」と、ポチの頭を撫でてあげ、ご褒美に、特別に豪華なご飯をあげました。
 するとそこへ、
「隣の欲張り婆さん」「火を貸してくれやー!」と 顔を出しました。
 座敷に広げられた、「まばゆいばかりの宝物」を見ると、目をむいて驚いて、
「その小判、どうしたんだね?」と、聞きました。お爺さんが訳を話してやると、「じゃあ、おらにも、その犬を貸してくれや!」欲張り婆さんは、火を借りずに、いやがるポチを無理矢理、引っ張って帰っていきました。
 やがて、隣の爺さんも、婆さんの話を聞いて、いやがって むずかる、ポチの尻を鞭で叩きながら、力まかせに引っ張って、山に登っていきました。 ポチが、嫌がってなかなか言うことを聞かないので、意地悪爺さんは、ポチの体を、さんざん何度も叩きながら、宝の埋まっていそうな場所を捜させました。やがて、傷つき疲れてしまったポチは、山の上に着くと、しかたなく土を掘るまねをしていたが、そのまま、
「バッタリ!」と、疲れて倒れてしまいました。意地悪爺さんは、そこの地面を、クワで掘ってみると、中から、糞や、がれきなどの、がらくたが、ゴロゴロと たくさん出て来ました。おまけに化け物やら、蜂の大群が現われて襲いかかりました。

日本軍 行進

 この部分は、日本民族の忠実性を、主人にちゃっかりとなりすました隣の偽の主人、(軍閥、?)が利用し、お国の為と称して、遠い他国に連れて行った、大東亜共栄圏の軍国主義時代の日本を、表わしているのではないだろうか?。さあ、その後の、展開を見てみよう。

 隣の意地悪爺さんは、近くの地面をいくら掘っても、糞や がれきしか出さず、おまけに 中から出て来た、蜂の大群に刺されたり、化け物に追われたりで、さんざんな目にあいました。ついに怒りが頂点に達した意地悪爺さんは、やっと起き上がったポチを見ると、腹を立てて「カッー」となってクワを振り上げ、ポチの背中をめがけて、「ボカッーン!」と 一撃しました。「キャイイーーイイーーンー」山の中でポチの最後の泣き声が響きました。とうとう、ポチは殴り殺されてしまいました。意地悪爺さんは、死んでしまったポチを、掘った穴にほうり投げて埋めると、何故かその上に、一本の「松の枝」を立てておきました。

 この殺されたポチは、いくら戦っても、悲惨な戦況しか生み出さず、大東亜戦争の犠牲となって異国の地で死んでいった、「無念の兵士達」を表わしていたのではないだろうか。
 机上だけの無謀な作戦計画で、多くの戦死者を出したインパール作戦など、視野の狭い軍人たちが、日本の裏の畑に相当する、満州、アジア、ビルマなどに、忠実な若き日本兵たちを引っ張って行った。後方兵たんも補兵も十分考えずに、ただ「皇軍精神」だけで進ませた結果、わずかな食料、弾薬、燃料も尽きて、たちまち飢えと病に倒れていった。雨期には、マラリアや赤痢にかかり、何万という戦死者や傷病兵を出していった。この
裏の畑というべきアジアの植民地は、「主人」が天皇から「軍閥という偽の主人」になり変わった時、いくら掘っても、いつしか美しい宝は、出さなくなってしまっていったのだ。

戦時の兵隊の行進

 ポチの主人であるお爺さんは、隣の爺じが、なかなかポチを返しに来ないので、心配になって訪ねて行きました。すると、蜂に刺されたブツブツの腫れた顔で現われた爺は、「あんな、いまいましい犬、殺して埋めて来てやったわ!」と、吐き捨てるように言った。「おー、かわいそうに、その場所はどこじゃ」「松の枝を立ててあらあ!」
 ポチを可愛がっていた主人は、悲しみながらその山に行ってみました。すると、土を高く盛った上に、確かに一本の「松の枝」が立っていました。翌日、お爺さんは、お婆さんと一緒に墓参りに行ってみると、いつのまにか小さかった松の枝が、みごとな「巨大な松の木」に成長していました。二人が驚いて見上げていると、その大きな木の上から、
(お爺さーん、ウスにして、ウスにしてー・・・)と、いう ポチの悲しそうな声が聞こえて来ました。 
 
 この死んでいったポチの恨みと悔しさは
「英霊」となって、戦後の急激な経済復興を表わす、「巨大な松の木」で作ったウスに託されていった。そして そのウスには、第二、第三の立て直しの為に、日本を導き見守る霊界からの、全ての願望がかかっていた。

長崎の原爆

 お爺さんとお婆さんは、この松の木の幹を切って、家まで運んで行きました。そして、お爺さんは、何日も、なーんにちも、時間をかけて、ウスとキネをこしらえました。
 すると、お婆さんが、
「お爺さん、ポチが好きだった、モチを ついてあげましょうかね?」と、言って「もち米」を炊き始めました。 やがて、炊き上がったもち米を、ウスの中にいれました。それを お爺さんがキネでつき、お婆さんが水を着けた手で、モチをひっくり返していると、白いモチが突然、金色に輝きだしました。不思議に思いながら それを丸めながら並べていくと、次から次へとモチが大判小判に変っていきました。ちぎろうとするモチの中からも、「ザクザク!、チャリーン」と、小判が次々と出てきました。

戦後 廃墟  戦後復興の日本の姿


 正直爺さんが、真心を込め、時間をかけて造ったウスとキネは、正しい教育で立派な人間を育てる、学校や社会という教育の場、(修練の道場)を表わしているのではないだろうか?。
 つけばつく程、鍛えれば鍛える程、豊かな宝やお金を生み出す、正しい修行をしている様子が伺える。 すると、ウスに入れられてキネでつかれる
モチ米たちは、人間たちを表わしていることになる。
 
粘り強い忍耐力を身に付けた、人間が生み出すものは、豊さと繁栄をもたらしていった。そして、その大判や小判になって輝き出したものは、戦後の日本を優秀な技術大国に導き、経済復興のために集団就職していった、若き企業戦士の金の卵のようなモチであった。そして、そのモチは、正月に供えられる鏡モチ、神に捧げられる犠牲の供え物としても暗示されている。

英霊の塔の写真

 そのようすを、障子の破れ目から、隣の意地悪な爺さんと婆さんの二人が、覗いていました。(イーヒーッヒッヒッ、こりゃあーいいものを見た・・!)今度も、火も借りずに、「そのウスを、おらたちにも貸してくれや!」と、有無を言わせず、二人で、ウスをかついで帰っていきました。

 昔は、火をおこすにも一苦労で、大切な妻の仕事であった。それを、自分で火をおこすこともせず、安易に隣に借りにくる、不精な生き方をしている存在が、利用できるものを目ざとく見つけて、近寄ってくることを意味している。
 又もや、大切なウスを
「言葉巧みな隣人」に奪われてしまった。同じ様な事を二度繰り返してしまう。 この松の木を切って造られたウスは、正しき主人のもとで、しばらくは小判を出していたのに、それを横から来た、なまけものの老夫婦に奪われてしまう。この奪われたウスは、一体、何を表わしているのだろうか?。 これは、本来の主人の為に備えられた、戦後世代の若者達の内のある一部が、所有権を主張する何者かによって、奪われて行くという事を示している。汗もかきもせず、口先だけで巧妙に惑わしては奪い取る存在である。
 だが、その松の枝は、もともと隣の意地悪爺さんが植えたものだったので、所有権を半分持つ、
隣の意地悪爺さんが、強引に借りていっても仕方なかった、と言える。 ところが、この奪われていったウスは、あくまでもポチの無念の願いとともに大きくなった、松の木で作ったものであり、正直爺さんが、自分自身で汗を流しながら彫って造った、大切な道具だった。
 

ポプラ社
 絵本より

 現在、最も普及している絵本よりイラスト採用(一部合成)
 絵 高橋信也 氏
文章は詳細文献より編集
  
 小箱がたくさん流れて来ました。

  
 

小箱の中身は実際には見えない

 
 

中身の有るもの、こっちへ来い!

 
 
その犬に「ポチ」と名前つけました。

 

一杯食べれば 一杯だけ

 

二杯食べれば 二杯だけ、

 

ぐん、 ぐーん と、日々

  

大きくなっていきました。

  

僕の背中に鞍をつけて下さい!

  

お爺さんの顔を見て鳴きました

  

「ここ掘れ、ワン、ワン!」

 

「ザクザク、チャラチャラ、ピカッ!」

 

金色に輝く大判小判が出てきた

 

家に持ち帰って座敷に広げると

 

 そこへ「その小判どうしたね?」「おらにも犬を貸してくれや!」

絵では隣の爺だが→文は隣の婆

 

 ポチの体を何度も叩きながら、無理やり宝を捜させました。

 

糞 瓦礫、蜂、化物、ガラクタばかり

 

隣の爺はクワでポチを殴り殺し、穴に埋め、一本の松の枝を立てた

翌日小さかった
松の枝が、見事な「巨大な松の木」に成長していた
 

(お爺さん…ウスにしてウスにして…)ポチの悲しい声が聞こえてきた

 

松の幹を切って家まで運び何日もかけてウスとキネをこしらえた。

 

 炊いた「もち米」をウスの中に入れて キネでつきはじめると…

  

モチが金色に
輝き、大判
小判に変って
いった

 

「ザクザク!、
チャリーン」

「ウスを貸してくれや!」
またしても二人でウスを担いで帰っていった。

つづく・・・ (詳細編)前編
お読み頂き、ありがとうございました。

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