かなる冬雷

 

第五章  落葉

 

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 うららかな、小春日和だった。

 寝坊をして、昼近くに起きると、母は、荷物に入れてきたのだろうか、割烹着(かっぽうぎ)を着て、ソファーに横になっていた。私を見ると、にこりとして、お早う、と言った。

 テーブルの上には、二人で食べるように、茶碗(ちゃわん)や箸(はし)が並べられ、豆腐と油揚げの味噌汁、ワカメの酢の物、そして目玉焼きが作ってあった。冷蔵庫の中の、わずかな残り物で作ってくれたのであろう。 

 母の割烹着は、着古しであり、真っ白と言うわけではなかったが、私には、ひどく懐かしく、まぶしく見えた。昔から、母はいつも着物姿で、家の中では割烹着を着ていた。

 もう長い間、台所に立つこと、特に料理をする、といったことは無かったはずである。できなくなっていたとも言えるし、させてもらえなくなっていたとも言える。それが、私の所に来るのに、割烹着をまた引っ張り出して荷物に入れてきた、という心を考えて、昨夜の余韻(よいん)のようなものが、私の胸に、じんと来た。

 私たちは、何ということもなく、お天気の話などをしながら、遅い朝食をとった。私が一杯で箸(はし)を置くと、
「おや、もう終わりかえ」
 と母は言った。また一瞬、私の胸がつまった。確かに、昨夜の余韻だった。昔、飯櫃(めしびつ)の底を気にしながら、麦の方が多い食事をしていた頃、満たされぬ食欲に耐えながら箸(はし)を置く私に、母は悲しそうな表情を漂わせながら、いつも、
「おや、もう終わりかえ」
 と言ったものだった。今の母に、あの悲しみの表情は無かった。飯も、麦の一粒だに入らない、真っ白な飯だった。電気釜の中には、底がまだ見えぬほどに、沢山の飯があまっていた。それなのに、その一瞬、あの頃の感情が蘇り、私の胸がつまったのだった。

「そうだね、じゃあ、もう少し……」
 と言って、私はお代わりの茶碗を出した。朝、昼、一緒なのだもの、沢山、お食べ、と母は、ふっくらとした声で言った。

「今朝、まもがどこへ行ったのだろう、朝御飯も食べていないが、と思って、縁先から裏の空き地をのぞいたら、バラの花が咲いていたから、一輪だけ切って、コップに差して置いたよ、と母が言うので見ると、テレビの脇に、一輪の赤いバラが差してあった。

 もう冬も近いのに、よくバラなんか咲くものだねえ。何か、特別の種類なのかしら、と母が言った。

 さあ、どうなんでしょう。阿貴子が植えてくれたんだけど、夏から咲き始めて、この時期まで息長く咲き続けているよ、と私は答えた。

 阿貴子さん、って、このあいだ、訪ねてこられたあの人かえ。あの人は、どういう人なの。……それは、さらりとした聞き方だった。私は、そのさらりとした聞き方に誘われて、身構えもなく答えた。――相模原に来る前の病院で知り合った看護婦であること、中学校を出て、准看護婦になっていたのだが、今は、正看護婦になるための学校に行っており、来春に卒業する予定であること、山の中の貧しい農家で育ったので、いわゆる教養とか知識とかには乏しいものがあるし、感情の表現に無器用な所があって、何となく、とっつきが悪いのだが、心根は優しい、いい人だと思っていること、などを私は話した。

「そう、そういう人だったの」
 と母は言い、すこし思いにふけっていたが、
「心根(こころね)が優しいということは一番なんだよ。良かったね、そういう人にめぐり会えて」
 と言った。

 それは、阿貴子という人を、すでに私の伴侶とみなしての、認知の言葉のように聞こえた。私は、別にまだそう思い定めているわけでは無い、とはあえて言わなかった。ただ、私はこの数年、迷い続けてきた、本当にもう一度人を愛し切れるだろうか、という思いになにかしらふわりと、ふっ切れるもののあったことを感じていた。

 流しへ食器を運ぶと、母は、私が洗いましょう、と言って立ってきた。私は、素直に、洗ってもらった。

 そのあいだに、私は、エレクトiンのおおいを取り、電源を差し込み、キーの上を拭いた。ひとり、東京へ戻ってきて何年かして、ある日、ふと衝動的に、お茶の水駅近くの楽器店で、買い求めたものだった。

 一本指で、というわけではなかったが、自己流でしか弾けもせず、多少の和音ぐらい入れることはできても、人の前で弾くようなものでもなく、この地に来てからは、ほとんど、おおいを取ることもなく過ぎていた。

「おや、弾いてくれるかえ」
と言う母のうれしそうな声に促(うなが)されて、私は素直にキーに手を触れた。

 初めは「とんび」の歌だった。

 

  《とべとべとんび空たかく

   なけなけとんび青空に

   ピーヒョロピーヒョロ

   ピーヒョロピーヒョロ

   たのしげに輪をかいて》

 

 母は、ソファーに腰かけて、小さな声で歌っていた。

 

 私が小学校に入ってまもなくの頃、若い音楽の女教師が私の声に耳をとめ、ある日の放課後、私を音楽室に呼んで、この歌を教えてくれた。それからは、ほとんど毎日のように、この歌のレッスンが続いた。

 私は、ボーイ・ソプラノの、透明な声をしていた。たしかに声は良かったのかもしれなかったが、だからと言って、毎日、私ひとりが、同じ曲を繰り返し練習させられるわけはわからなかった。彼女は優しくもあり、また、ひどく厳しくもあった。

「あなたは、ただ、きれいに歌っているだけです。歌は、心を歌うものです。だから、歌の心を、わかって歌わなければなりません。いいですか、青空を軽やかに自由に舞っている、とんびの心、そして、それを見上げているうちに、いつかしら自分もとんびになって、一緒に舞い上がっていく、そんなあこがれの心、それを考えなさい」
と彼女は言った。

 私には、わかるようでもあり、わからないようでもあった。しかし、きれいに歌っているだけ、と言われて少し傷ついた私は、わからないということを、素直に言いたくなくて、とんびが飛ぶのは見たことがあるが、鳴くのを聞いたことは無い、と理屈を言った。

「そうですか、聞いたことがありませんか。……そう言えば、私も聞いたことはまだないですね。でもね、いいですか、どんなことについてでも、見たことが無く、聞いたことが無いからわからない、と言うのでは、人の心はとっても小さいままで終わってしまいます。思い描いて、心に感じられるようにならなければ、決して、広い、大きな心にはなれませんよ」
 と彼女は言った。歌の話をしているようでもあり、違う何かの話をしているようでもあった。それでも私は、何とか青い空や、風に乗って舞うとんびの、心を思い描こうと努力した。そして、ちょっぴり見えるように思ったとんびの心は、なぜか、あまり楽しげではなく、少し淋しがっていて、遠い誰かを求めて呼んでいる、そんな心のように思えた。

 私が、いよいよ疲れ、倦(う)んできたのを感じると、彼女は、さあ、今日はおしまい、と言って、ジャン、ジャン、ジャーンと、礼をする時のピアノを弾いた。私はいつも、つられてぺこりとおじぎをし、そして、二人で顔を見合わせて、吹き出して笑い合った。

 十日ほど練習したのち、ある日の朝、彼女は私を音楽室に呼んで、今日は、町の反対側にある、もうひとつの小学校に招かれて、行って歌うことになった、と言った。私は、驚いて、いやだ、行かない、歌えない、と言ったが、彼女は引かなかった。彼女はひざを落として、私の顔を両手で挟み、私の目をのぞき込むようにして言った。

「大丈夫、あなたは歌える、何も考えなくていい、何も見ないでいい、ただ、青い空に舞う、とんびの心だけを思って歌えばいいの」……

 彼女の手は、柔らかく、あたたかかった。そして、彼女は、母の匂いに似た、なにかしら甘い匂いがした。私は、うん、とうなずいた。

 その日、私は、彼女の自転車のうしろの荷台に乗せられて、町の反対側にある大きな小学校に連れて行かれた。学芸会か何かだったのだろうか、私の学校のそれの倍ぐらいはある大きな体育館に、大勢(おおぜい)の生徒たちと、和服姿の母親たちが座っていた。

 私は、彼女が溶かして作ってくれた砂糖湯を飲んで、壇上に立った。

 幕が引かれると、私は、何百という視線に射ぬかれて縮み上がった。もう駄目だ、歌えない、と助けを求めるようにピアノの彼女を見ると、彼女は、あふれるように微笑しながら、大丈夫よ、と言うようにうなずき、そしてピアノを弾き始めた。もう、歌うしかなかった。……私は、歌った。

 

 《とべとべとんび空たかく……》

 

 いつのまにか、ざわめきは消え、広い体育館の中には、ピアノの音と、私の声だけが、響いていた。私は、一番うしろの窓の向こうに広がる空を見ていた。他には何も見えなかた。私は、なぜか心が切なくて、その窓を抜けて、その空へ舞い上がり、遠く遠く、どこまでも飛んでいきたいという思いに、胸を熱くしていた。……

 気がつくと、歌は終わっていた。人々の姿が見え、拍手の音が聞こえてきた。私は、どうしていいかわからず、立っていた。すると彼女は、ピアノを離れてやってきて、私の頭をうしろから押さえて、ペコリと頭を下げさせた。どっと笑い声が湧いたが、それは、あたたかい笑い声だった。

 その年の春、私は、近くの村々の小学校へ、まるで、巡業のように連れていかれ、この「とんび」の歌を歌った。

 しかし、学芸会の季節が過ぎ、私の、巡業が終わっても、彼女は、放課後になると、私の行くのを待っているように、音楽室でピアノを弾いていて、私が行くと、いろいろの歌を教えてくれた。彼女は、非常勤の講師だったのだろうか、週に二度ほどしか出校しなかったが、この日の放課後の音楽室は、彼女と私の専用だった。あとの日は、コーラス部の人たちが使っていた。私はこのコーラスの仲間には遂に誘われることが無かった。あなたの声と歌い方は、コーラスには向かないの、と彼女は言った。

 昭和十五年に生まれて、戦時に育った私の頭の中は、いつもラジオから流れていた軍歌や、戦意高揚のための御用歌、そして妙にもの悲しい、海行かば……とか「支那の夜」とかの歌で満たされていた。しかし、彼女は、一緒の時間の中で、沢山の童謡や歌曲を教えてくれ、私の頭の中の軍歌は、消えはしなかったものの、その音量はだんだんに小さくなっていった。

 秋になると、訓練用のテキストを与えられ、音階と発声の練習を徹底的に始めさせられた。その、「後遺症」は今でも残っていて、どんなメロディーを聞いても、それを「ドレミファ」の音階に頭の中で置きかえてしまうし、メロディーを覚えれば、楽譜は無くても鍵盤で音は誤りなく探せる。……それを「後遺症」と言うのは、なまじっか楽譜が無くても弾けるかわりに、楽譜を見ながらでは弾けない、という変な頭になってしまったということである。歌については、習ったどの歌ひとつも、楽譜をまともに見せられたことは無く、与えられたのは、ただ歌詞カードだけだった。耳で聞いて覚える、絶対的な音階を耳と脳に刻み込む、そして、心で歌う、…それが、彼女の教育だった。 

 母は、母なりに、いろいろのことを教えてくれた。自分が女学校で独唱させられていた頃に知ったことを、私にひとつひとつ話してくれた。声は、マイクなしで、どんなに広い講堂でも隅々まで届かなくてはならない。それには、声に、染み通っていく透明さと「力」が必要だ。この「力」とは、声の大きさのことではない。いくら大きくても、通らない声というものもある。声の、力とは、喉や肺からではなく、腹から汲みだすものだ。

 そして、歌うときには、一番後ろの誰かある人を心に認めて、その人に届けという思いで歌うのだ、と母は言った。私はもう、歌えないけれどもね、と母は淋しそうに付け加えた。

 日本語は、柔らかく美しい言葉だ、歌の練習をすると良くわかるでしょう、とも母は言った。「が」と「ぐわ」は違うのだよ、わかるかえ、と言った。勿論、私には、耳でもわかっていたし、頭でもわかっていた。なにしろ、もの心が付いてからは、私が叱られて閉じ込められるのは土蔵と決まっており、この土蔵こそ、私の、図書館でもあったから、私は旧仮名使いの、古い本ばかりを読んでいた。私の宗教観は、ここの暗がりの中に沢山あった僧侶たちの遊行の記録や、講話類、そして仏壇の、修証義によって形造られた、と言っていいし、私の「歴史観もまたこの土蔵の中で形造られたと言っていい。私の「歴史」は、過去の時代を精一杯生きた、人々の「点」によって彩(いろど)られている。そしてその「点」たる人の人間像は、この土蔵の中に山のようにあった講談本によって、「生々しく」刻み込まれたものだった。私の、「日本史」の中では、「猿飛び佐助」や「霧隠れ才蔵や、「曾我兄弟」、「天一坊」、そして「鞍馬天狗」などは、とせんな大将軍よりも生き生きとして、「生きて」いる。虚実の区別など、どうでもいいのである。正史の歴史の主人公たちは、私の「主人公」たちの、ほんの「脇役」にすぎないのである。これが、私が早くに字を覚えて、わが」図書館」の古い蔵書を読み過ぎた「後遺症」である。……それはともかく、母の教育もまた、私に「後遺症」を残した。「が」と「ぐわ」はは違うと言い、濁音は固く汚く発してはいけない、心もち鼻に抜くようにして柔らかく、まるく包んで発するのだ、と言われた私は、いまだに、人の濁音の発し方や「が」の音などが気になって仕方がないということになってしまった。もっとも、最近は、かなり「寛容」、つまり、いい加減に、なってきてはいるが。……

 

 音楽室に行って、彼女がまだ来ていない時は、私は、ピアノの蓋を開けて、ポーン、ポーンと指一本で叩いて遊んでいた。

 ある日、振り返ると、いつの間に来たのか、彼女がうしろに立って私を見ていた。私が椅子から降りようとすると、いいのよ、と押しとどめて、ピアノを弾きたいか、と聞いた。私は、うん、とうなずいた。

 その日から、少しずつ、彼女は私にピアノを教えてくれた。まず、どれが「ド」のキーであるかを教えてくれた。そのひとつが、始まりだった。そのひとつを土台にして、すべてのキーは展開できた。どんな歌でも、ハ長調で弾いていいとなれば、たちまちその日から、指一本でではあったが、自分で弾けた。それは驚異であり、感動であった。私には、楽譜はいらなかった、というより邪魔だった。メロディーは、頭の中にあった。

 彼女はそのの日、私に、好きなだけ、指一本で弾かせてくれた。

 次の時、彼女は、実は私に教えてくれた、「ド」のキーは絶対的なものでなく、隣りのキーも、その隣りのキーも、すべて新しい「ド」になりうることを教えてくれた。ほらね、と彼女は、ひとつ隣りから始まる新しい、「ドレミファ」を弾いてみせた。それは、今までのなじんだ「ドレミファ」と少し違った感覚を私にもたらした。妙に心にひっかかりを感じる悲しい階調だった。

 次の時、彼女は、和音というもののあることを教えてくれた。ひとつひとつの音は生命を持っているが、ふたつの音を合わせて弾いた時に、そこには、もっと深い、新しい生命が生まれる。気持ちのいい生命も、悪い生命も、と言って、ほらね、と弾いてみせた。私はたしかに、気持ちよくなり、また逃げ出したくなるほど気持ちが悪くなった。

 この和音という不思議な世界の扉をひらくことは、一本の指ではできないことは、自明のことだった。こうして彼女は、強制としてではなく、当然の帰結として、十本の指が全部使われなけれぱならないことを私に悟らせた。

 しばらくは、彼女はそれ以上言わず、好きなように私にピアノをいじらせてくれた。私はうれしかった。自分がどの音を選んでもよいこと、そして気持ちのいい音の生命の組み合わせは沢山あり、それを何度でも、何十度でも、心の求めるままに呼び出せること、そして、その呼び出し方や組み合わせによって、ほんの少しでではあっても、自分のうれしい気持ちや淋しい気持ちを「表現」できることがうれしかった。

 淋しい気持ちを、音に許せば、音はそれを、窓の外の新緑の中へ運んでいってくれた。そして、私の淋しさは、少しずつ癒されていくのだった。どんな苦しい感情も、「表現」という形で一歩自分から突き放せば、耐えられるものになるということを、幼いながらに、その時、私は知ったのだった。

 それは、芸術という名の自己表出を、なぜ人間は求めるのか、という大きな問いに対する、幼い答えの始まりだった。

 そして、音楽室とピアノが好きだった私は、加えて、彼女とともにいられることが、実は何にもましてうれしいのだった。彼女の声は、決していわゆる「いい声」ではなかった。低めの、少しくぐもった感のある、ちょっぴり「愁(うれ)い」をかんじさせる声、と今なら表現したかもしれない。しかし、それは、何かを育(はぐく)むあたたかみと、潤(うるお)いを含んでいた。

 やがて、誰もが通り過ぎなければならない教程として、バイエルの教本を与えられ、今度来るまでに、ここをやっておくのよ、と言われるようになった。それが、より奥深い音を通した「表現」の世界に踏み人っていくために不可欠な道程であることはわかっていても、教本にはどうしても気が乗らず、いつも叱られた。けれども、まじめに教本をやっていくと、ある日、彼女は褒(ほ)めてくれて、ピアノを日曜日でもいつでも弾いてよい、と言い、ふたりだけの隠し場所ね、と言って、物陰(ものかげ)にピアノの鍵を置く約束の場所を決めてくれた。それ以後、私がピアノに触(さわ)ることは学校公認となり、職員室へ立ち寄る必要も無く、私は、いつでもピアノを弾ける特権を与えられた。

 しかし、私は相変わらず教本をいい加減にやり、あとはただ気のおもむくままに、即興の「曲」を弾いていた。私は、我慢の悪い、あまりに感性的に過ぎ、それに流される子供であった。その報いは、今になって、動かぬ指を無理やりに運ぼうとしてもつれる時、やるべき努力をやるべき時にやらなかった悔いとして、如実(にょじつ)に現れてくるのである。

 

 次の年の春、彼女は、私に歌わせるために、新しい歌を与えた。

 それは、ひどく音程の微妙な曲だった。

 

  《母こそはいのちの良

   いとし子を胸にいだきて

   ほほえめり……》

 

 私は、うまく歌えなかった。うまく歌えず、そしてまた、なぜか、この歌を歌いたくなかった。この歌を歌うと、私は悲しくなるのだった。

「母」は、私と離れて暮らしていた。「胸にいだいて」、「ほほえんで」くれる母は、遠い町はずれで暮らしていた。私は、母の胸でなく、祖母の胸で育っていた。

 私が、ぎこちなく歌うと、彼女は、歌の心を思って、と言うのだった。しかし、歌の心を思えば思うほどに、私は悲しくなり、ぎこちなくなった。それでも彼女は、学芸会でどうしてもこの歌を私に歌わせたいようだった。しかし、彼女を悲しませたくないと思いながらも、私の中の何かが、この曲を拒み続けた。

 ある日、遂に彼女は、ピアノの蓋を、パタンと音を立ててしめた。そこには勿論、彼女の傷ついたやりきれぬ思いがあった。私は、ただうなだれていた。彼女は、何も言わず、黙って腰かけていた。私も黙って立っていた。気まずい時が、ゆっくりと流れていった。どれくらいの時間がだったのだろう。彼女は再び、ピアノの蓋を静かに上げ、一瞬、考えていたが、やがて、ひどく明快な曲を弾いた。

 

  《いらかの波と雲の波

   重なる波のなか空を……》

 

 私は、歌った。この歌の方が好き?と彼女は聞いた。私は、うん、とうなずいた。すると彼女は、じっと私の目を見て、そして、そうだったの、ごめんね、じゃあ今年は、この歌にしようね、と言った。

 その春の学芸会で、私はこの歌を歌った。しかし、何かしら、晴れないものが私の中に残った。彼女はあの時、私には理解できなかった何かの思いを持って、私にあの、《母こそは-…》の歌を歌わせたかったのかもしれない、と後になって私は思った。

 母と離れて暮らしている事情は、彼女も知っていた。母を恋う気持ちを彼女に向けているらしいことも、彼女は知っていた。だからこそ、学芸会には間違いなく来る私の母に、口には言えぬ母への思いを、あの歌の心として歌わせてやろうと思ったのかもしれなかった。

 そしてまた、自分のためにも……小さい子供がありながら、夫と離別して、夫の方に子供を奪われながら働いて生きている彼女の胸のうずきのためにも、歌ってもらいたかったのかもしれなかった。

 けれども、幼い私には、その時は、それらのことがよくわからぬまま、ただ何かしら彼女の願いに応えられず、彼女を失望させたのだ、という直感的な思いだけが残った。

 

 そして彼女は、今年は、この歌にしようね、と言ったのだが、「来年の歌」はもはや無かった。彼女は、私にはわからない何かの理由によって、まもなく私たちの学校を辞(や)め、どこかへ去った。

 去る、ということは言わなかった。夏の近いある日、いつものように私が行くと、彼女は黙って私をじっと見て、何か悲しげに微笑しながら、今日は練習は無い、と言った。そしてピアノの脇の椅子に私を腰かけさせて、今日は、私が何か弾いて上げましょう、と言った。

 そしてピアノに向かうと、息をととのえるようにしてから、一気にひとつの曲を弾いた。肩を揺らし、激しい呼吸で胸を波立たせながら、時々目を閉じ、また大きく見開いて、内なる何か激しいものを鍵盤に叩きつけるようにして、彼女は弾き続けた。

 私は、胸がつまって苦しくなり、なぜか涙がにじんだ。でも、やめて欲しくなかった。

 突然、それは終った。彼女はつきつめた目で鍵盤をにらんだまま、何も言わず、私も何も言わず、身じろぎもしなかった。

 ふっと、肩の力を抜いて、彼女は私を見た。そして私が涙ぐんでいるのを見ると、立ち上がって、私の頭を自分のあたたかいおなかに抱きしめてくれた。そして、私の頭をなで、肩を押すようにして言った、さあ、今日はもうお帰りなさい、と。

 

 それが、彼女との別れだった。彼女は、いずこかへ去り、二度と会うことはなかった。

 彼女は、ピアノの鍵を、「あの場所」に置いていったが、私はピアノの練習を止め、歌うことも止めた。

 新しく来た音楽の女教師が、私にまた独唱をさせようとしたが、私は頑として歌わず、彼女はすぐにあきらめた。私は、音楽の時間にも、もう決してまともには歌わず、私とあのひとの「ふたりのピアノ」に、その新しい女教師が勝手に触れるのに、憤り続けた。

 

 

 

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