かなる冬雷

 

第五章  落葉

 

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 この小春日和の日、私は更に「叱られて」を弾いて歌い、「月の砂漠」を、そして、「花」や「荒城の月」を歌った。母の声もまた、ずっと私の背で聞こえていた。三十分近くも歌っていただろうか、私は、そっと蓋をしめ、おおいをかけた。

「もう、終りかえ。楽しかったねえ。また弾いておくれ」
 と母が言った。うん、またね、と私は答えた。そして、その「またの日」は、その一年後まで無かった。……

 

 数日後、私は、勤務している病院の管理者に辞表を提出した。明年二月一杯で、院長職を辞すことを表明した。この数日の間に私は、定めかねていたいくつかのことに対する結論を次々に出していっていた。
 病院長の職を辞し、あとは一匹狼として生きると決意してみれば、生活を規制する最大の軛(くびき)はもうはずれており、あとのことは、自分の心の声に従って素直に決していけばよかった。

 病院に愛着が無かったわけではない。三年余にわたって私は、私なりの「人間の医療」を小さな場で現実化しようとして、いろいろのものと闘ってきていた。さまざまの建前は建前であって、現実には病む人々を「営利」の対象と考えてひたすらに「企業」的意識を持つように誘導し続ける、国の保険医療制度そのものが、何よりも最大の「敵」としてあった。そして、前院長の長年にわたって築いてきた、地域での「不評判」があった。病院を「再建」することを託された私の取るべき道は、ただひとつだった。我が身ひとつを挺(てい)して、真剣に、誠実な医療を提供するための、一労働者と化すことだった。

 そうやって私は、働き続け、徐々に地域の人々の信頼を得ることによって、病院は本来あるべき機能を発揮するようになってきていた。しかしそれは、必ずしも営利的な意味での病院の「経営」を改善することには直結しなかった。

 ある時、患者さんたちに、アンケートを取ったことがあった。「あなたはなぜ当院を選んで通院していますか」という問いに、「安いから」という回答が少なからずあり、私は複雑な気持ちになった。必要にして十分、と思う医療をしていて、他の病院より「安い」と言われることの意味は複雑であり、それの示唆するものは、正、負、いろいろであった。しかし私は、それを素直に良しとして、自分の方針を変えることは無かった。管理者の、目にみえぬ圧力は続いていたけれども。…… 

 しかし、私を一番苦しめ、私の最大の壁となったものは、結局は、同じ医師群であった。ともに理想をかかげて歩んで欲しい人々が、一番の高給を取りながら一番の私の躓(つまず)きの石となっていた。「高給」サラリーマンと化した彼らにとっては、患者さんの一人一人は、一回限りのかけがいのない生命ではなく、流れ過ぎていく多数の現象のひとひらに過ぎず、経験を積み、技術を磨き、医者としての自分の「付加価値」を高めるための手段、対象物、でしかなかった。その人々が、医師の名のもとに白衣を着ていた。

 この人があなたの母親だったら、どう治療するのか、この人があなたの恋人だったら、どのようにはして欲しくないのか、この子があなたの子供だったら、この状態で置いて帰るのか、……と私は問い続けたが、空しかった。
 理想が違う、という以前の部分が違っていた。人間観が違い、生命観が違っていた。人間を思う時の、情念がまるで違っていた。

 これは、医学部教育や卒後教育のあり方云々の問題でさえなかった。まさに、医者にだけはなるべきでない人々が、医者になっていた。耐えかねて、きつく言えば、報復として病院のスタッフを引き連れて辞めていくのだった。私は、孤独に立ち往生し、自ら当直しながら、その重い疲労の中で、自分が誤っていたのだろうか、と苦しんでいた。

 私は、この病院の場を去ることにした。もとよりこれは、地域の人々に対する私の責任放棄であり、疑いもなき逃亡であった。しかし、私は、生きたかった。どんな田舎の片隅でもいい、自分に正直であり続ける努力をやめず、もはやこの時代においては、「幻想」でしかないのかもしれない「人々との心の絆」を唯一の寄り所として、素直に生きていきたかった。私は、私を慕い、信頼し始めてくれていた人々に、心の中で詫びながら、別れを決意し、残る日々を、黙々と働き続けた。

 私は、母と暮らすことをも決意していた。すでに一緒に住み始めていて、今さら「決意」というのも変ではあったが、しかし今、初めて私は、母と「ともに生きていく」こともちろん決意していた。母が、また新潟へ帰りたいと言えば、勿論それはそれでよかった。しかし、母が真に私とともにいたいのであれぱ、何百日でも、何年でも、私はその母の気持に添い、母を守って生きていこう、と思っていた。当たり前のことのようで、これまでは当だり前では無かった。私は、誰に宣言するのでも無く、自分の中で「発心」し、「覚悟」したのだった。

 そして同時に、私は、阿貴子という人とともに生きようとも決心していた。それは、私の安らぎのためでもあり、母の幸福のためでもあった。そしてそれを、彼女自身も、安らぎと考え、幸福と考えてくれれぱよいのだが、と思った。彼女は同意し、どこででも、あなたの生きたい場所で、つつましく暮らしましょう、と言ってくれた。

 母に問えば、いや、お前の幸福こそが、私の幸福なのだよ、と言ったことであろう。そう、たしかに、私白身も幸福にならなければならなかった。私自身の心が、ふっくらとしない限り、他者に何かを与ええようはずもなかった。傷つき果てている自分を立て直すことが必要だった。

 老いて残り少ない日々の中で、今また、夫であった人間に置き捨てられて、しかしすべてを受け止め、むしろ自分の選び取った、実存の道筋が、否応なく他者に与えた悲しみについてより多く考えながら、残された、めぐりくる一日一日を、恩寵(おんちょう)として、また責務として、最後の瞬間まで担い続けていこうとしている八十六歳の母に、私が与えうるかすかな慰謝(いしゃ)は何であるか、と私は考えていた。

 偶然の縁(えにし)によって、私は、栃木県の日光に近い農村の、ある小さい空(あき)医院を借りることができた。

 一月の厳寒のある夜、私は車を走らせて、その地を見にいった。夜もすでに更け、杉の並木にま近いその医院は、無住で明かりもなく、近所に点在するわずかの家々の灯もすべて消えていた。県境の山なみから吹き降ろす風は、車から降り立った私の肌を突き刺した。

 ヘッドライトを消して見上げれば、満点の星空であった。そしてその中に、遠い昔、ある人が教えてくれた、オリオンの星座が、その夜と同じように、青白くまたたいていた。 私は、その星座に向かって、心の中でつぶやいた。……

  《もういいですか。あなたを忘れて生きることを、許してくれますか》と。

 星は答えず、ただ静かにまたたいていた。

 

 大晦日(おおみそか)も正月も、母はごく自然に私の所にとどまり、私と二人きりの正月を迎えていた。私は、小さな鏡餅(かがみもち)と注連縄(しめなわ)を買い求め、切餅も、鮭の切身も買った。新潟の正月の魚は、寒ブリか、鮭かに決まっている。私は、遠い昔の大晦日のことを思い起こしながら、生鮭の切身を買ったのだった。

 晦日(みそか)の夜は、母に教えてもらいながら、雑煮の汁を作った。腰と足が痛いからと、居間に座って、母は大根を刻んだ。母は、やはり割烹着を着ていた。
 この地に着任した年の晦日には、病院の栄養士が、私のために、おせち料理を届けてくれたのを、私は思い出していた。初めての地に来て、初めての正月を、そんな優しい心遣いで送らせてくれたその人は、その後、病院を去っていった。心においても、去っていった。もっともっと静かに語り合えれば、多くのものを分かち合えたかも知れない人だった。何が具体的にあったというわけではない、しかし、その人の姿の喪失は、その後、病院の中での私の心に、目に見えぬ空虚な穴をあけていた。だが、今、その私自身が、その病院を去り、この地を去ろうとしていた。今はただ、すべての軋んだものの音は忘れ、すべてのあたたかかったものの声だけを心に残して、私はこの地を去りたいと思っていた。

 ふと、心を戻して見ると、母は、まだ背を丸くして、大根を雄んでいた。思えば母は、この生涯で、どれだけの食事というものを作っできたことだろうか、と私は思った。その、一つ一つの食事に、そのたびごとに、その日ごとに、またその人生の季節ごとに、何かしらいつも悲しみをほのかに味ににじませながら、夫に食べさせ、子供らに食べさせるために、女が決して投げ捨ててはならない責任ででもあるかのように、母は、ひたすらに食べ物を作り続けてきたのだった。

 小見川(おみがわ)での、「たむばっぱ」にめぐんでもらった飯を、泣きながら餓鬼(がき)のように食べたと言う母は、しかし、あとはただひたすらに、自らの飢えには耐えながら、生きてきた。

 父、史郎も、そして、私たちも、その母の作ってくれたものを、当然のような顔をして食べてきた。しかし、それは、思い見れば、まさに母の愛と、母の生命(いのち)をむさぼり食ってきたのだった。自らを、食らわせながら、母という人は生きてきた。その愛は、盲目的であったかもしれない。しかし今、私は、そのように盲目になれる女性の生(せい)というものの深さに、頭を垂れるのみであった。

 質素で、しかし心豊かな正月だった。私は、あえて阿貴子を招かず、母と二人だけの日々を送った。阿貴子とともに暮らす歳月は長いものになるだろう、しかし、生涯で初めての、そして最後の、母と二人だけの一日一日を、私は喜びをもってかみしめていた。

 

 私は、日々、母に好きなようにさせていた。食事の支度も、後片付けも、小さな掃除も、洗濯も、お風呂をわかすことも、みんな母にやってもらった。
 洗濯物を縁先に出て干すのは、足元が危ないからと、廊下に干しておけるようにしたが、母は、お日様がもったいなくて、とやはり縁先に干し、夕方には取り込んで、一枚一枚きちんとたたんでおいてくれた。

 毎日、今日はどこまで散歩に行ってきた、と得意そうに報告した。杖をたよりの歩行で、見ていればハラハラしてつい手を貸したくなるような危なかしい歩き方だったが、私は決してやめろとは言わず、笑顔でそれを聞いていた。幸い、宿舎は、車のあまり通らない裏通りにあったので、母は、怪我をすることも無く過ごしていた。

 毎夕、帰ってドアを開けると、相変わらず、「まも」はそこに座って待っており、遅れぱせに母がよろけながら出てきて、お帰り、と言うのだった。「まも」に、いつでも、お前の帰ってきたのを教えられるんだよ、よくわかるもんだねえ、お前の足音がすると、寝ていても、パッと起きて、私の顔の所に来て、ニャア、ニャアって、帰ってきたよって告げてから、玄関に走り出していくんだよ、本当に賢い子だね、といつも言った。

 薄暗くしている電灯を全部明かるくして、足元が危ないから、夕方になったら早めに明かりをつけないといけないよ、と言うと、私は寝ているから大丈夫だよ、お前もいないのに、そんなに明かりをつけては、もったいないよ、と言った。病院長になっている息子の所で暮らしていても、母の質素な生活感覚に変わりは無かった。

 水道の蛇口を大きく開くとメーターが沢山まわるからと、お風呂の水は一日がかりでちょろちょろと溜めた。そして、湯が冷めるといけないからと、浴槽の蓋を半分以上も閉め、わずかに隙間から首だけ出していつも入っていた。そして「まも」は、必ず入っていって、その蓋の上で丸くなっていた。それは、母を見守っているようにも見えた。何か気分の悪い時は押すんだよ、と言って風呂場と母の布団の枕元に設置した非常用のブザーも、一度として鳴ることが無く、母との生活は、一日一日と過ぎていった。

 

 いよいよ勤務も終わり近い、二月のある週末に、私は、車の後ろの座席に枕と毛布を積み込み、母を乗せて、伊豆へ行った。ひたすらに走って、伊豆半島の南端、南伊豆町の大瀬の民宿に着いたのは、もう日が落ちてからだった。

 この『はまみ』という民宿に、私はもう一度泊まりたかったし、母を連れてきたかったのだ。昔、……遠い昔、私はある人と二人でこの民宿に泊まった。それは、大学での闘争の終わりの時期に、デモ中に逮捕されて留置所暮らしをして出てから、迎えにきてくれていた人とともに暮らし始めた時のことだった。初春のある日、私たちは、小さなバイクに乗って、この南伊豆へ来たのだった。丁度、この大瀬に着いた頃に、日が落ちてきていた。
 私たちは、前に蓑(みの)掛け岩の立つ海、後ろの丘に、お花畑の広がる、このドライブイン兼民宿の家に立ち寄り、一夜の宿を請うた。
 女主人とお姑さんは、快く、どうぞ、と言ってくれた。伊勢えびと、岩海苔の味噌汁や、わかめの芽株を炭火で焼いて醤油をかけたものなど、磯の香りの一杯な夕食もおいしかったが、何よりも、宿の人々の飾らぬ優しさに、二人ともに心に傷を引きずりながら生きていた私たちの心はなごんだ。
 女主人が、問い正すふうでも無く、ご夫婦ですか、と聞いた時も、私は素直に、いいえ、でも一緒に暮らし始めたんです、と答えることができた。すると、女主人は、にこりとして言った、そうですか、よかったですね、ではこれは、お二人の新婚旅行ですね、と。

 私たちは、幸せだった。お互いに、晴れないものを背負ってともに暮らし始め、そして小さな旅に出て、初めての土地で、初めて会った人に素直に祝福してもらえたのだった。
 次の日、再び小さなバイクにまたがった私たちに、女主人は、少し待ってね、と言って裏の丘に登り、やがてその手に沢山のストックの花を切ってきて、花束にして私たちに渡してくれた。そして言った、お二人のお祝いにね、と。そして、今度来る時は、赤ちゃんと三人でね、と。……

 そして、その、今度」は二十年後のこの日まで無かった。私は、再び、この民宿『はまみ』を訪れることをしたくてもできなかった。私は、あの人を連れてくることができなくなっていたからである。

 二十年ぶりの再会を、女主人は喜んでくれた。母をも、よくはるばるとおいでに、と言って迎えてくれた。しかし、今日は、奥様は?と問われた時、私は、あの日のように素直には答えられなかった。二年の月日をともに暮らし、今は別々に生きている、とは答えられなかった。今、ここに、あの人がいないのは、本当になぜなのだろうか、と私の胸はきりきりと痛んで血を流していた。
 私はただ、ええ、今回は、留守番で、と答えた。彼女は、屈託なく言った、それは残念、お会いしたかった、私は奥様のことをとてもよく覚えている、私、あの方が大好きだった、あの日、お二人でバイクで入ってこられた時のことも、花束をかかえて、いつまでも手を振って走っていかれたことも、昨日のことのように覚えている、と言った。

それは、私にとっては、つらい言葉ではあった。しかしまた、限りなくうれしい言葉でもあった。母は、黙って聞いていた。

 私たちは、与えられた部屋に入った。明かりを消すと、部屋の窓から遠い漁火(いさりび)が見えた。私は、母に、昔、あの人とここに来て泊まったことを話した。母は、そうだったの、あの人と来たの、そんな思い出の場所だったの、と一語一語をかみしめるように言い、そしてポツリと、独語のように言った、私もあの人が好きだった、と。
 そして、自分の独語に急に気がついたように、明るい声で言った、でも、お互いに、思い出を大切にしながらも、前に向かって生きていかなくてはね、あの人も、やっと幸せを見つけてくれたようだし、と言った。

 数日前、相模原の家に、その人からの一通の手紙が来たのだった。そこには、ある人と結婚をした、子供のある人の後妻になったので、急に母親になってしまった、でも、この生活を大事にして生きていきたい、昔、交わした、あなたとの約束を守って、結婚したことをあなたに告げるためにこれを書いた、しかし、私の住所は書かない、とあった。その消印は、登戸であった。近いと言えば、すぐ近くだった。しかし、私は、この距離を、もはや決して渡ってはならない距離なのだ、と心に言い聞かせた。

 栃木の星空の下で、私はすでに、あの人の星に向かって、別れを告げていた。しかし、答えは無かった。今、何かが聞こえたかのように、その人からの、最後の、別れの手紙が届いたのだった。「旧姓」と書かれたその手紙を黙って渡してくれた母に、私は、あの人がやっと結婚できたのだ、と伝えた。母は、そうなの、と静かに言っただけだった。
 よかったね、と型通りに言うには、母にも私にもあまりに重く深い感情があった。しかし、今、思い出をもう一度心の底深くに埋めて生きるために、最後の別れを、ともに見た海に向かって言うために、私は、この南伊豆に来たのだった。そして、今なお、あの人と私がともに生きていると信じて疑わない宿の女主人の言葉と、母の言葉とを、何よりの惜別(せきべつ)の言葉として、私は、明日からを生きるために心を整えることができたのだった。 

 相模原に戻ってからは、最後まで仕事をしながらの転居の準備に忙殺された。いよいよ荷を送り出す二日前、私は、小平に住む修二郎に、母を迎えにきてもらった。栃木の新しい転居先に、母の居場所が出来るまでの二週間ばかりを預かっていてもらうことにしたのだった。

 修二郎が迎えにくる日の夕方、私は、最後まで言うべきかどうかと迷い続けていたことを、母にやはり言っておこうと決心した。
 それは、母の失禁、特に便の失禁のことであった。頭も心もしっかりとしている母であったが、腰の骨の圧迫骨折の後遺症と、八十六歳という年齢とのために、失禁しやすくなっていた。
 母自身が何よりもそれを自覚していて、誰に言われるでもなく、自ら布おむつをいつも下ばきの下に当てていて、汚れると、隠れるようにして、浴室の隅で洗っていた。
 何も恥ずかしいことでは無いのだから、私が洗って上げるよ、と言うと、一番見られたくないものを見られてしまったという狼狽(ろうばい)と差恥の表情を、母はした。それからは私は、何も言わず、見て見ぬふりをしていた。
 しかし、今、修二郎の家へあずけようという時に、浴槽の中に母の失敗ゆえの固形物が浮いていたことを、やはり言っておこうと思った。私はその時は、黙って湯を捨て、シャワーだけですませたのだが、修二郎の家で、兄嫁も含め家族全員の入る風呂でその失敗をして欲しくなかった。なぜか私は、修二郎の家で母に恥をかいて欲しくなかったし、悲しい思いをして欲しくなかった。するなら、私のところでする方がまだよいのではないか、と私は思った。

 母は、私の説明を聞くと、思った通り、消え入りたそうに侘(わび)しく、切なげな表情をした。私もとうとう、そんなふうになってしまったんだねえ、修二郎の所には行きたくないねえ、でも仕方がないし……と言った。
 私は、入浴する前には、念のためもう一度用便を足し、入浴中に「おなら」をしないようにすれば大丈夫なのだから、と慰め、励ました。

 前夜、修二郎からの電話で、最近は母を連れていって何を出してもあまり食べない、連れていくのはいいが、献立を考えるのが女房の一番の気苦労だ、何か食べられるものを、リストにしておいてくれ、と言ってきていた。それを、修二郎は、持っていった。

 

 ほうれん草や春菊のおひたしは好んで食べるが、みんなの分をゆでたあと、もう一、二分ゆで、やわらかすぎるかなと思うほどにゆでて、細かく切ってやって欲しい。かつおぶしをかけたり、ごまあえにするとむしろ食べない。そのままのものに、お醤油をかけて食べるのが一番いいようだ。

 納豆は、刻み納豆を食べる。新しいものの香りを好んで食べているようで、残ったものをまた出したり、あまり買い置きしておいての古いものは風味が無くなるのか、食べなくなる。面倒でも、一個ずつ買ってくれば、いつもおいしそうに食べる。これも、ネギやからしなど何も入れず、お醤油だけかけて食べるのが好きだ。

 湯豆腐も食べるが、たらちりなどの鍋物にすると、むしろ好まない。豆腐のにがりを十分に水で抜いて、ただ昆布だけを敷いてあたためたのに、やはりお醤油だけをかけて食べるのが好きだ。

 毎朝、生卵を一個食べる。これも、あまりまとめ買いして日数がたってくると、食べなくなる。何でも、鮮度には敏感のようだ。

 茶碗蒸しも食べるが、銀杏(ぎんなん)を入れたり、鳥肉や椎茸やミツバを入れたりと、手間をかければかけるほど、食べなくなる。昆布とかつおでだしをとれぱ、何も具の入らないのが一番いいようだ。

 まぜご飯も、寿司も、あまり好かない。五目寿司なども、手間をかけても食べてくれず、結局は、やわらかめのご飯か、おかゆが一番いいということになる。おかゆも、残りご飯で作ったりすると、何も言わずに食べはするが、箸は進まない。面倒でも、お米から炊いてやると、おいしい、おいしいと言って食べてくれる。おかゆに、味つけしたり、何かまぜものをすると、食べない。

 天ぷらも、もともと野菜の天ぷらは好きなのだが、歯が悪くなって食べられなくなっている。しかし、春菊、にんじん、椎茸などを細かく切って、かき揚げふうにすると、よろこんで食べる。あまり形よくバリッと揚げると、歯ぐきが痛いのか食べにくそうにするので、少し温度を落として、しんなりと揚げてやった方が、よく食べる。これも、つけ汁に大根おろしなどで食べるより、生醤油(きじょうゆ)につけて食べる方を好む。

 何でも、生醤油で食べるのが好きなようだ。もらいものの醤油が一本残っているので、持っていって、使ってやって欲しい。

 お肉は、もともとは好きだが、歯が駄目になった。かといって、ひき肉は臭いがいやなのか、昔から食べない。ただ、薄い肉をあまり固くならないようにさっと焼いて、面倒でも千切りにして、お醤油をかけてやると、これは食べる。

 うなぎの、かば焼きは、本来は大好きだが、最近は歯が悪いので皮が苦手のようだし、私らにはおいしい油がしつこく感じられるようだ。白焼きのものを買ってきて、蒸して油を落として身を柔らかくしてから、さっとタレをつけて固くならないように焼いて、皮を外してやれば、大喜びで食べる。しかし、残ったものを次の日にあたため直したりしても食べない。

 糸こんにゃくを十分水にさらしてあく抜きをしてから、醤油、砂糖、で味つけして、油でからりとするまで妙めたのが好きで、ご飯にかけて食べる。油っぼさや水っぼさが残らぬように気長に妙めて、焦げそうな寸前で上げたのが好きだ。何も他の具は入れない方がいい。

 おからを炒めたのも好きだ。これも、油で、主に塩、砂糖、醤油を少しで、パラリとするように炒める。これも何も具は入れず、おからだけの方を好む。

 うどんや、そばよりも、ソーメンが好きだ。ただ、ソーメンのゆで上がったあとのあくぬきを十分しないと、かん水の味をいやがる。つけ汁は、薬味類は入れない方が好きだ。

 菓子や果物は、最近はほとんど食べない。カステラも昔は好きだったが、今は食べない。水羊羹(ようかん)やプリン、ゼリーなども、口当たりは良いはずと思っても、食べない。

 ジュース類も飲まず、お茶は煎茶やウーロン茶は駄目で、焙じ茶(ほうじちゃ)一本で、それも葉の多いものより、棒茶の方を好む。ただひとつ、炭酸の入らない本物のブドウジュースは好んで飲む。

 魚は小骨の多いサンマやニシンは駄目で、カレイやキンキ、キンメダイなどの煮たのは食べる。刺身はこの頃は食べない。

 筋子(すじこ)、雲丹(うに)、いくら、などは昔は好きだったのだが、今は食べない。しかし、アミの塩辛は、越後の味がするのか食べる。……

 

 疲れた身体に鞭打つようにして、私は細々と書きつづった。あまり細かく書き過ぎれば、義姉に対してかえって傷つけるものがあるかもしれないと思いながらも、何を出されても、耐えて食べて、決して不満や注文は言わない母であるだけに、私はどう思われても良く、ただ母の口に合う物を食べさせてやって欲しかった。

 小骨の多いサンマは食べない、と書いた時、私のペンは止まった。サンマ……それは、私の思い出の中で、ほろ苦い、懐かしい魚だったのだ。
 幼い頃からずっと、異常に過ぎるほど、私は常に母の表情を見続けてきた。もの心がついた頃には、生活の転落は始まっており、以後はずっと貧しい生活が続いた。

 小学校に上がる頃、私はよく腹をこわした。病み上がりには、お粥だった。母は一度、キャベツと油揚げを甘辛く軟らかく煮たのを作ってくれた。以後、私は、病み上がりに、何か食べたい物があるかえ、何でもいいよ、と母が言うと、キャベツと油揚げを煮たの、といつも答えた。
「そんなものでいいのかえ、遠慮しないでいいんだよ」
 と言いながら、母の表情にほんの少し、ホッとするものが流れるのを私はいつも見ていた。

 中学に入って、再び一緒に暮らすようになってからは、私はいっそう母の顔を見るようになった。「今年のお前の誕生日のお祝いのこ馳走は何にしようかねえ、何でもお言い」
 と母が言うと、私はいつも決まって、サンマの塩焼き、と答えた。九月下旬の私の誕生日頃は、丁度サンマの出まわり始める頃でもあった。味も良かったし、何よりも安い魚だった。私は決して、高い魚や肉類を食べたいとは言わなかった。
「またサンマでいいのかえ」
 と母が言っているのを聞いた。そう、それで良かったのだった。何かと言えば、サンマを、と私は言い、大学の合格の祝いにも、サンマを、と私は言った。私はサンマを食べ続け、サンマを嫌いにはならなかった。貧しさに苦労し続ける母の心を思いながら、私は、サンマを、と言い続けた。母の苦労を知っていることを、私はそんな形でしか表せなかった。

 いくらを、今は食べない、と書いて、また私の胸はつかえてしまった。
 秋に私の所へ来てまもなく、私は魚屋で鮭の生の子をひと腹見つけて買い求め、昔からいくらの醤油漬けの好きだった母に作って出した。母は、おやまあ、お前が作ったのかえ、とびっくりし、私が小さい頃、塩水に漬けておいた鮭の卵を、一粒一粒はがしながら母が作っていたのを思いだして、見よう見まねで作った、と言うと、いつ見ていたものか、何でもお前はよく見ていたんだね、と言い、あれ、昔の私の同じ味だこと、とうれしそうにひと匙を食べたが、なぜかあとは食べなかった。

 私は、どうしたのか、嫌いになったのか、と聞いた。母は言葉を濁していたが、何かひっかかりを感じて私は更に聞いた。すると母は、仕方なさそうに、こう言った。

 いくらはね、母様(かかさま)が作ってくれて、子供の頃からずうっと好きだった。秋も深まってくると日本海から鮭が川に上がって来る。そうすると、昔から出入りの魚屋の魚長(うおちょう)が、いい鮭(うお)の子が入りましたが、と言って持ってくる。
 貧乏になってからでも、私は、ああ、今年も秋だなあ、もうすぐ冬になるんだなあ、とその季節の思いと母様への思いがあって、年に一度のぜいたくで鮭の子を買い、いくらを作っていた。

 そして佳代子さんが台所をやるようになっても、今度は佳代子さんが、いくらを作ってくれるようになって、私は、喜んで食べていた。

 でもね、ある時から私は、いくらが嫌いになってしまったの。
 それはね、英夫と父ちゃんが年ごとに仲がわるくなって、佳代子さんまでもが、私に対して冷たくなって来た時だった。

 お茶にも呼ばず、食事にも呼ばず、自分たちだけで黙って食べて、私たちは終わりましたからどうぞ、とさえ言うのでも無く、食べるのは勝手だが、自分たちの金で食べろ、と言うような日々だった。

 でも、私は足がきかなくて買物にも行けないし、あの人はあの通りで、自分のふところをいためて私の食べられる物を買ってきてくれる人でも無かった。私は、何か、盗みでもするような、いじけた気持ちで冷蔵庫を開けて、何か食べられる物を探しては食べるしか無かった。

 天ぷらを静げていたようだなあ、と思って探せば、なるほど天ぷらはあったが、大好きな春菊も椎茸も、どれも歯の無い私には、大きくて、固くて、かみ切れなかった。

 いくらを沢山かけて食べていたようだなあ、と思って探して見たこともあったが、どんなに探しても見つからない、そしてまた自分たちはどこからか出して食べている、私に見えないように違う所にでも置いているのだろうかと、私は悲しかった。

 けれども、その自分の悲しさの中にある卑しさに気がついた時に、私は思った。ああ、食べたい、食べたい、と思うから、こうして悲しんだり、淋しがったりしなければならず、盗人のようなみじめな気持ちにならなければならないんだ。嫌いになればいい、嫌いになりさえすれば、悲しむことも無くなる、嫌いになろう、今日限り、嫌いになろうと、私は思ったの。そうしたらね、本当に、嫌いになってしまった。……そうやって私は、好きだった沢山のものを、ひとつひとつ、嫌いになってきてしまった」

 とそう言ってから、私の顔色が変わったのに気づいた母は、佳代子のことをとりなすように、
「でも本当はね、私は小さい頃からわがままで、何でもおいしいものをすき放題に食べて育ったから、その罰(ばち)が当たってね、何を食べても、もうおいしく無くなってしまったんだよ」
 と言った。それでも、この時だけは、私は、佳代子をも英夫をも、許せないと思った。

 私は、母の食べられるものを探してきた。考えては作り、母の箸(はし)のつけ方を見てはまた考え、……母の表情を見てさえいれば、母が本当に喜んで食べているのか、それとも作った者に気を使って無理に箸を進めているのかはすぐにわかった。

 なぜ、佳代子にしろ、修二郎の家の義姉にしろ、母に食べさせる物がわからないと言うのだろう。わかるには、ただ愛しさえすればよかったのだ。真実、愛しさえすれば、その人の欲するものも欲しないものも、わかるはずなのに、と私は思った。

 修二郎たち夫婦も十分に優しい人たちであった。しかし、やはり母は常にひとときの滞在人、客であって、遅かれ早かれ「帰って」いく人であって、遂に、ともに暮らす人、ともに生きる人では無かった。

 佳代子はと言えば、誰よりも長い歳月を母とともに暮らしてきていながら、怒りや惜しみによって、大切なものを見失ってきていた。怒りや憎しみは、感情をたかぶらせはしても、決して感受性を鋭くはせず、むしろ鈍麻させる。彼女は、疲労し、鈍麻した感受性のゆえに老いた母に対して自分の為していることの罪を感じないできていた。

「どんなに貧しくとも、心が寄り添ってさえいれば……」
 と言い、

「何も無くても、みんな揃って食べる御飯が一番おいしいね」
 と言い続けて来た母に、あなたたちのしてきたことは何だったのか、と私は叫びたかった。

「私の愛し方が足りなかったのだよ」
 と母が言えば言うほどに、私は切なかった。

 

 

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