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思いつきノート
第27回:『射撃感想文その3』

 思いつきノート、今回は、またも記事数を稼ぐための穴埋め(笑)。

 〈以下の文章は、胤舜が20歳ぐらいの頃に、L.A.に1年間滞在していた時に書いたものである。ほぼ原文のまま載せるが、あまりにひどい箇所は修正する。原文には、何故か註が付いているので、それも適当に載せる(笑)。ちなみに場所は、ロスのダウンタウンにあるインドアレンジ「LOS ANGELS GUN CLUB」である。〉

 『19 August
 本日は、またもこりずにLOS ANGELS GUN CLUBへ。今回はSMITH & WESON(ママ) M-29.44MAGNUMを撃って来た。前回のレッドホークで、マグナムには慣れてしまったため、新鮮な驚きはなかったが、やはり、マグナム銃はパワフルで、いい。M-29は、レッドホークよりもグリップのバランスがいい(後註:やっぱり木製グリップは、モデルガンのプラスチックより感触がいい)ので、片手でもかまえやすい。しかし、その重さは、レッドホークにおとる。そのため、片手で撃つと手の中で暴れて、やたらはずれる。なるほど、レッドホークがいい、というのは、こういうところだったのだ。つまり、レッドホークはM-29よりグリップが小さいので、手の中にしっかりおさまるのだ。それに重いから、あまり暴れず、けっこう弾が集中するのだ。しかし、両手保持で撃つ、となると、話は別だ。レッドは用心鉄(トリガーカバー)がグリップより出っぱっているので、左手にあたって痛い。が、M-29にはそんな欠点はない。気持ちいいほど弾が集まる。しかし、多少上すべりするのは、マグナム銃である以上、しかたがない(後註:やはり反動が強いので、連射するとどんどん上へ上がっていくのだ)
 全体的な撃ちやすさではレッドホーク、バランスのよさとカッコ良さではM-29.これが俺の出した二つのマグナム銃の評価だ』

 たかが感想で、なんて高飛車なのだろう(笑)。
H180729


思いつきノート
第26回:『般若心経秘鍵』

 思いつきノート、今回はまた仏教ネタ。

 本のコーナーでも紹介した通り、弘法大師空海の著作に、『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』がある。これは、『般若心経』は「大般若経」を要約した顕教の経典、というだけではなく、実は密教を説いた教典なのだ、という内容の書物である。
 空海は、この300字足らずの短い経典に、上座部から密教に至るまでの、仏教の全てのエッセンスを見出した。全体を5段に分け、さらに各段を細かく分解し、その密教的内容を説いていく。とにかく、圧倒的な知識量が無ければ、これだけの内容のものは書けない。相当な力技である。深遠な教義を説きながら文学的であり、簡潔にして的確に仏教、そして密教を解き明かしている。
 その大らかな発想を感じて頂くために、少々長くなるが、頼富師の訳文を引用させてもらう。

「(普通の者には、ただの雑草としか見えなくても)すぐれた医者の目から見れば、道ばたに生える草が、すべて薬草に見える。鉱物資源を見分けることのできる人は、貴重な鉱石を宝として見ることができる。(そのように、秘密の意味を理解しうる能力を持った人は、顕教の経典の中に、密教的な意味を読みとることができるのである。)
 理解できるか、あるいはできないかは、誰の罪でもない(のであり、人それぞれの能力や性向に依存しているのである。)
<中略>
 顕教と密教の相違は、教えを受ける側の人にあるのであって、経文中の声字に、(顕教と密教の)相違があるわけではない。しかしながら、それでもなお、顕教のなかの秘教、秘教の中の最も極秘の教えというように、浅い教えから深い教えへと、幾重にも教えが重なりあっているのである。」


 このように、自派の正統性を高らかに訴えながらも、他派をも否定しない。こういった柔軟な考え方は、今の時代に必要な物ではないだろうか。同じ神を頂きながら、喧嘩している場合ではないのである。
 最後に、私が仏教、そして密教の真髄を表していると考えている、『秘鍵』中最も好きな一文を引用させていただく。味わい深いので、特に訳さない。訳さなくても、十分意味は理解出来ると思う。

 夫(そ)れ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し。真如外(ほか)に非ず、身を棄てて何(いずく)んか求めん。迷悟我れに在れば、発心すれば即ち到る。明暗他に非ざれば信修すれば忽ちに証す。

H180623


思いつきノート
第25回:『仏教について考えてみた』

 思いつきノート、今回は、長くなるかも(笑)。

 最近、あるコミュニティサイトで、「上座仏教を知るために」というトピックあり、そこをじっくりとロムしていた。ちなみに、一度書き込みもしてみたが、あまりに稚拙と思われたか、全くのスルーであった(笑)。
 上記トピの主題は、
「実は上座部仏教こそが、仏教の確信であり、その他、特に<大乗仏教>と自称している物達は、勘違いの妄想に過ぎない」
というものである。上座部こそが、釈迦の説いた真理と修行法の真の伝道であり、
「大乗も空海さんも妄想の世界で遊んでいるだけです。(ママ)」
と、断言されている。
 特に、大乗は輪廻も来世も信じていない事、また「仏性」なる<確証を持って説明し得ない物>を声高に説く、「間違った」宗教だ、と断じている。
 あくまでも、仏教の真理は、全ての苦から離れ、涅槃に入る事。これが重要らしい。
 さらに、涅槃に入った阿羅漢は、(自我が無いため)奉仕のみの生き方か、「死ぬ」しかないらしい。
 私は、仏教を学ぶ者として、大乗仏教だけではなく、上座部仏教も学ばなければいけない、とかねがね考えていた。しかし、このトピを見るにつけ、真言密教を学ぶ限り、上座部をいちいち紐解く必要性はないのではないか?と思うようになって来た。
 インド南部から、主に海路を経て、東南アジア諸国に広まった上座部仏教は、今もその土地で深々と根付いている。深い自己の内面への思索と、多様な瞑想法を保持した、実践本意の宗教である、という感触を得ていた。しかし、このトピを見る限り、仏教の実践的瞑想法についての考察は、深く詳しくなされているとは思うけれども、特に目新しい内容は発見出来ず、せいぜい、
「ああ、真言密教で説いている事は、元々はこういう言葉で説かれていたのだな」
と、温故知新な確認をする事で納得出来る物が多かった。

 仏陀と阿羅漢は同じ境地。しかし、釈迦牟迩仏陀を尊重して、釈迦は「仏陀」、釈迦以外に悟った者は「阿羅漢」と表現する、と、上座側の書き込みにあった。しかし、「成仏」する、涅槃に入る事が目的であるのなら、むしろ「仏陀」になる事こそが肝要であり、そこをランク分けすることは、開祖の<神格化>でしかないと思うが、いかに?
 真言密教の開祖・妄想の鉄人(笑)こと空海は、
 「誰もが仏性を持っており、正しい修行を行えば、誰でも大日如来になれる」
と喝破した。自分がどうこうではなく、誰でも真理に辿り着ける可能性があると、はっきりと示した。そこには、仏陀や阿羅漢と言った区別はない。真理の元にはあらゆる存在が平等である、ということである。それこそが、釈迦が説きたかった事なのではないのか。
 件のトピ主は、
 「仏性など存在しない。妄想だ」
と決め付けておられるが、そもそも「仏性」とは、誰でも涅槃に入ることが出来る、ということを表現するための方便でしかないので、「仏性」の否定は、解脱の否定になりかねないのではないか、と思えるのである。

 個人的には、上座部が劣っているとは思わない。しかし、仏教の歴史的な思想の発展などを考慮に入れず、ただ「間違っている」の一点張りは、どうかと思う。そもそも、「魂は存在しない」と断言しておきながら、「心が輪廻の主体である」と言ってみたり、何か憑き物がついて、真言の陀羅尼では効果がなかったが、上座部の<慈悲の瞑想>のお陰で、それが収まった、など、どうにも矛盾した発言も見られる。
 個人の解脱だけではない、その先の大衆、そして世界全体の救済を考える事が不必要だとは、到底思えない。たとえ、それが実現の難しい大それた考え方だとしても、である。

 私は、真言密教の側から、そのように考えるのである。

 ただ、これはあくまで、私一個人の考え方であるので、特定の団体などを代表した意見ではないことを強調しておく。もっと広く深く柔軟な、或いは正反対の考え方もあるはずである。
H180511


思いつきノート
第24回:『能登半島は、意外と広い』

 思いつきノート、今回は、久々の遠出。

 カミさんが、以前から「能登に行きたい」と言っていた。しかし、諸般の事情で、なかなかその機会が作れないでいたのだが、今回、急に連休が取れた。
 それならば、せっかくの機会なので、
「いっちょ遠出するか!」
ということになった。
 最初の予定では、
「昼から出発。金沢泊。翌日兼六園と金沢城を見学して移動、輪島泊。翌日朝市体験して、風景を見ながら夜には帰る」
という意味不明な(笑)予定であったが、金沢泊中に、職場から、「もう一日休め」という指令があり(笑)、それならば、ということで、上記のコースに、
「能登半島一周コース」
を付け足し、さらに意味不明に(笑)。目指すは能登の突端・禄剛崎。
 とりあえずは走る。進路上の見所はなるべく押さえる。そんな感じでの行き当たりばったり旅行であった。輪島の朝市でのかにゲットから始まり、鴨が浦(冬は「波の花」の名所。時期はずれ)、千枚田(所謂棚田)、千畳敷、窓岩(共に侵食岩)、時国家(平時忠の末裔の住居。重要文化財)、禄剛崎灯台(日本で唯一菊の御紋のついた灯台)、須須神社(あまつひだかひこほににぎのみことを祀った延喜式内神社)、見付岩(軍艦岩とも。弘法大師伝説あり)などなどを見て回った。千里浜を逃したのは、ちょっと残念であったが、一回の行程としては、かなり詰め込んだ方であろうと思う。
 とりあえず、家を出てから約1.000km走った。久し振りに、充実した休暇であった。

 泊りが一日伸びたため、用意してあったご飯が底をつき、我が家の猫達は非常に不機嫌であった。しかし、朝市で買って来た「またたびの木」が功を奏し、一番すねる猫が、すぐご機嫌になってくれたので、とても助かった(笑)。

 ちなみに、輪島市観光協会に教えてもらった旅館「城兼(しろかね)」は、建物はかなりオンボロだった(失礼)が、料理は、晩ご飯、朝ご飯共に、素晴らしいものだった。

 追加情報:禄剛崎で寄った「東雲(しののめ)食堂」は、味がとうとか言う前に、食堂のじいちゃんがめっぽういい味を出していた。
(H180414)
ちなみにこの写真は、金沢での最後の食事場所(笑)


思いつきノート
第23回:『いただきます、と、ごちそうさま』

 思いつきノート、私は当たり前だと思うのですが?

 ある掲示板を見ていた時に、

 学校の給食で、手を合わせて「いただきます」と言わせる事を強制するのはおかしい。

という意見がある、ということを知った。その理由は、
 1、合掌は、仏教的な行為であり、特定の宗教を押し付けるのは、学校として正しくない。
 2、学校の給食は、お金を払っているのであり、対価を支払っている物に対し、「いただきます」という必要性を感じない。
と言うものであった。
 「必要性を感じない」?はぁっ!?(マジャ風)
 合掌が仏教風だというのなら、別にしなくてもいいとは思う。ただ、私は日本人で、仏教徒で、合掌に何ら違和感を感じない。むしろ、感謝の気持ちを表す重要なゼスチャーだと思っているので、1のような意見そのものが理解出来ない。合掌が嫌なら、キリスト教みたいに指を組むのはいいのかな?ただ、仏教の合掌の中には、そうやって指を組む物もあるが(笑)。
 2については、もっと意味不明。『喰いタン』というドラマの中で、全く同じシチュエーションの一幕があった。探偵事務所「ホームズ・エージェンシー」のアシスタント出水京子(市川実日子)が、参加することになった授業参観での、給食の時間に、2と同じ事を言う父兄に対して言う台詞、
「たとえ対価を払っても、作ってくれた人に対して”ありがとう”の気持ちを持って『いただきます』を言うことに、なにかおかしい事がありますか?(趣旨はこんな感じ)」
には、テレビに向かって思わず拍手してしまったくらい、同調します、ハイ。
 我々は、他の生き物の命を頂く事でしか生きられない存在なのである。これは宗教的な問題を全く含まない、ごく生物学的な認識である。さらに、自分で作った食材を自分で調理して食べている人も、ほとんど居ない。こんな状況で、「いただきます」「ごちそうさま」が言えない人の脳内構造が理解出来ない。
 みんな、もっと「道徳」を学ぼうよ。(H180319)


思いつきノート
第22回:『心に残る一枚』

 思いつきノート、ちょっとセンチメンタルな気分で(笑)。

 人は皆誰しも、心に残る音楽、というのがあるはずである。その曲を聞くと、当時の自分の事を思い出す、そんな歌や楽曲など。
 私の中のそんな一枚は、浜田省吾の、
 『愛の世代の前に』
というアルバムである。
 浜田省吾自身にとっても、売れ筋路線のライトポップス系から、彼の音楽の原点であるロックンロールへと回帰する、重要なポストを占めるアルバムであるが、胤舜にとっては、
 ロサンゼルスで単身生き抜くための、心の活力剤
であった。日本から出て来る時に、これと『ユーミンブランドNO.1』しか持って行かなかったので、当然、FMを聞く以外は、これらのテープがヘビーローテーションであった。特に、浜田省吾。
 今でも、このアルバムを聞く度に、あの1年間の生活が記憶に舞い戻ってくる。
 まあ、ろくでもない生活ではあったのだが(滞在期間の6割がたはシューティングレンジにいた―笑)。

 サンタモニカの防波堤の上で聞いた、『防波堤の上』という楽曲は、感涙モノであった。
 思わず、海に向かって叫んでしまった(笑)。


思いつきノート
第21回:『射撃感想文その2』

 思いつきノート、今回は、また記事数を稼ぐための穴埋め(笑)。

 〈以下の文章は、胤舜が20歳ぐらいの頃に、L.A.に1年間滞在していた時に書いたものである。ほぼ原文のまま載せるが、あまりにひどい箇所は修正する。原文には、何故か註が付いているので、それも適当に載せる(笑)。ちなみに場所は、ロスのダウンタウンにあるインドアレンジ「LOS ANGELS GUN CLUB」である。〉

 『14 August
 でもって8月14日。ロサンゼルス・ガン・クラブへまた行って来たよ。今回はスタームルガー・レッドホーク・.44マグナムを撃った。本当は、ブラックホークが撃ちたかったのだが、FIX(修理)に出している、というし、TOSHIというつとめ人が”.44マグナムならレッドホークが一番だ”とすすめるので、撃ってみることにした。
 .44マグナムの、俺の中での神話はくずれた。レッドホークが良いからかも知れんが、”銃がメチャクチャはね上がる”なんてのはなかった。はねても銃口が10cmくらいだ。しかし、やはりパワフルで、肩にまでズシーンとくる(後註:銃の反動、というのは、物理の「反作用の法則」にすぎない。銃がなりとも上を向くのは、まっすぐ伝わって来た反動を逃がそうとする腕の関節の働きでそうなるにすぎない。決して銃が上にはねるワケではない!)。ズシーンと、であって、ひっぱたくような鋭い反動ではない(後註:これはワルサーPPK/Sを撃った時の反動の感触)。片手でも、たいしてはね上がらない。余裕で片手で撃てる。しかし、めちゃくちゃ重い。それに、グリップが小さいので、ちょっとハンドルしにくい。指を少しケガしてしまった(後註:それに、煙がすごい。ダブルアクションで連発したら、ターゲットが見えなくなった)
 なお、サービスでショットガンを撃つ。マグナムの比ではない。むちゃくちゃ反動がすごい。はっきり言ってビビッた。』

 註の意図が、イマイチ判らん(笑)。


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