玉井彰の一言 2003年3月 四国の星ホーム前月翌月

[2003/03/31]  村主章枝さん

村主章枝さんが「すぐりふみえ」さんであると分かったのは2002年の冬季オリンピックでした。それまで、「むらぬしあきえ」さんだと思っていました。新聞では何度もお目に掛かった名前でしたが、振り仮名が付いていませんでした。今日の新聞では、銅メダルを取ったので、人物紹介の欄で振り仮名を付けていました。

新聞だけの情報では固有名詞が分からないままになる恐れがあります。どこかで一度振り仮名を付けると、後は分かったことにされてしまうので、読まない日があると読者の方が悪いということになるのでしょうか。基本的な概念の場合も同様です。

現在、春の甲子園、選抜高校野球大会が開催中です。花咲徳栄高校を「はなさきとくえい」高校だとばかり思っていました。「はなさきとくはる」高校でした。新聞ではなかなか分かりません。

おまえのホームページも読めない字が多いと言われます。高校2年生程度以上を想定しているのでご勘弁を。振り仮名を付けるのが面倒なんです(ひらがなで書くのも今ひとつ自分の感覚に合いません)。新聞社も面倒なのでしょうか(商売じゃないのか!)?


[2003/03/30]  読売新聞3月30日社説

読売新聞は、本日の社説で徳島県知事失職を取り上げ、「県民不在の対立」と論じています。一方で、知事のリーダーシップ欠如を指摘しつつ、他方で議会側の数の力による知事イジメ的状況を批判しています。

最後の文章に曰く、「県議選、それに続く知事選では、双方が原点に戻り、政策中心の論戦で信を問わなければならない。知事と議会は、県政の両輪だ。それがきしんでばかりでは困るのは県民である。」

マスコミの常套句と言えばそれまでですが、県民は被害者としてのみ登場するものなのでしょうか?こんな連中(失礼)を選んだのは県民です。「県民不在」とか「困るのは県民」と言っておけば無難な論評になりますが、県民の責任を不問にしてお茶を濁していいものでしょうか。

また、「どっちもどっち」と喧嘩両成敗的に両者を蹴落とすだけで「どちらがより悪いか」の判定を回避することは、無責任ではないでしょうか。

有権者に資料を提供するということなら、一般記事にとどめ、「社説」などにすべきではないと思います。


[2003/03/29]  徳島県知事失職

徳島県議会に不信任された大田正徳島県知事は、議会を解散せず、失職を選択して出直し知事選に再出馬する意向を表明しました。

長野県でも同様の事態が起こりました。徳島ではどういうことになるのか分かりませんが、知事の態度はこれでいいと思います。議会の不信任について県民の審判を仰ぐというのは筋が通っていると思います。議員の任期終了間際ということから、議会を解散することに意味がない状況ですから、長野県の場合以上に正当性があると思います。

徳島県民が試される番です。 


[2003/03/28]  大学入学資格

外国人学校修了者の大学入学資格について、文部科学省は朝鮮高級学校など民族学校の修了者にも対象を拡大する方針を発表しました。英米系に限るとした当初の方針に反対意見が殺到したためです。

同省は今月6日、英米の民間評価機関によって認定された外国人学校の修了者には、大学入学資格検定を免除する方針を示ししました。しかし、英米系のみが対象で、アジア系の学校関係者などの強い反発を招きました。同省が意見を公募したところ、はがきやメールで意見が1万3300件寄せられ、約96%がアジア系学校への拡大を求めたということです。

意見を聞き、軌道修正する姿勢は率直に評価すべきでしょう。しかし、「大学入学資格」という発想そのものが問題ではないでしょうか。誰でも自由に受験でき、適性があれば入学できるということで不都合はないと思われます。もっと頭を柔らかく持っていいのではないでしょうか。

分数が分からない大学生がいるという昨今、「入学資格」をことさら議論する意味があるとも思えません。


[2003/03/27]  「県」という単位

統一地方選挙の第一弾として、各地の知事選挙が行われています。改革派の知事の活躍で、知事の果たす役割に期待感が出て来ています。

私は、国の権限を道州に大幅に移譲(外交防衛、国内の総合調整以外の権限を移譲)することを前提とした道州制を主張しています。独自の産業政策を遂行する上では県よりも大きな単位でなければうまくいかないだろうと思います。

しかし、県にはそれなりの歴史があるだけに、消滅させるのはもったいないという気もします。小さな自治を補完することを考えると、現在の県の広さが適当であると思います。補完的な自治の単位としては存続させるべきではないかとも思います。

地勢的な見地から、現在の県をそのまま「州」とすることもあっていいと思います。例えば、長野県。


[2003/03/26]  提言型外交への転換を

小泉内閣のイラク問題への態度は、不明確な態度に終始しながら、最後になって「支持」を表明するというやり方でした。

私は、結論を異にしますが、どうせ賛成するのなら、早い段階から積極的に支持すべきです。基準を明確にして意見を言うことが信頼に繋がります。

「日本国は、このような哲学を持ち、このような判断基準で問題を考える。従って、結論はこうである。各国のリーダーは是非こういう方向で検討して欲しい。」

日本のリーダーがこのように言えば、世界は意見が違っていても一目置くでしょう。

日本の「スネ夫総理」に言っても無駄かも知れませんが。


[2003/03/25]  教員の異動

人事異動の季節です。教員の異動の発表が新聞紙面に掲載されています。最近、指導力不足教員について、研修を受けさせる等の対策を取るケースが増えています。

教師を志望した者にとって、指導力不足を認定されるということは、極めて屈辱的なことだと思います。教員としての死刑宣告に等しい話になります。真面目な方が多いだけに深刻な事態を招く可能性も否定できません。勿論、子供達が迷惑する話であり、適切な対応が必要です。

私は、全ての教員を、5年ないし10年毎に、1年程度一般職の公務員に異動させるようにすればよいと思います。その間、自分の適性を見極め、一般職に留まるか教員に戻るかの判断をしてもらうようにすればいいと思います。

名誉ある撤退の機会を与えてはどうでしょうか。


[2003/03/24]  日本の敗戦とイラクの敗戦との違い

イラクの敗戦は確実です。問題は「戦後」です。

日本国民は、「鬼畜米英」からあっと言う間に「アメリカ大好き」国民になりました。「尻軽国民」という感がなきにしもあらずですが、歴史の伏線があったことも事実です。

大正デモクラシーに代表されような自由主義・民主主義の思想の系譜、曲がりなりにも政党制の経験があったことなどから、軍国主義の時代を例外的な暗黒時代であると国民が判断できるだけの素養があったことに着目すべきでしょう。

イラクにその様な「素養」がなければ、戦後処理は大変だろうと思います。


[2003/03/23]  曇りのち晴れ

今日の五色姫復活祭は、午前中は曇りで冷え込みましたが、午後からは春の日差しになり、海と商店街を舞台にした1日が過ぎました。

テーマ性を持った参加型イベントです。数百人の方々にイベントを担っていただいています。実行委員会の幹部にとって、当日の天候が晴れだと、イベントは既に終わったような感じがします。あとは無事を祈るのみです。準備9割、当日1割というところでしょうか。

ハッピを着て主催者側の人間として参加する人が50人。それに商工会議所の職員さんが十数名。行政の方々、五色浜神社の世話役の方々、安全協会の方々、学校関係の方々、企業関係の方々・・・・・。私は最終責任者ではありません。最終責任者は数ヶ月間大変です。お疲れ様とねぎらいたいところですが、明日は借り受け物品を返す作業と挨拶回り。日を置いて反省・慰労会。これで終了です。

10年前は1日、2日だけのお手伝いでした。それでも大変だなと思っていました。


[2003/03/22]  第15回五色姫復活祭

明日は、平成元年から始まった伊予市・春のイベント、「五色姫復活祭」です。準備に追われています。

由来は、以下で。
http://www.shikokunohoshi.jp/ocn/goshiki.htm


[2003/03/21]  徳島議会の知事不信任決議

徳島県議会は、「独善的に県政運営を進め、混乱を招いた」として野党三会派が共同提出した大田正知事に対する不信任動議を賛成多数で可決しました。

知事は10日以内に議会を解散するか、解散せずに辞職、失職するかを迫られます。

県議会議員の任期満了を控えての「最後っぺ」ではないでしょうか。任期半ばで解散されることの恐怖心は相当のものでしょう。そういうリスクを負わない任期満了間際の不信任決議というのはやり方がいささか卑怯な気がします。選挙で知事不信任を叫んで当選した後に行うのであれば理解できますが。

二元代表制の難しい面が出たと思います。議員はしがらみで選ばれるため有力議員は落選させることが困難です。不信任決議に賛成したことの当否を県民が判断する選挙にはなりにくい構図があります。それが分かっていて「最後っぺ」を放った臭い連中を「処分」することが難しいのです。


[2003/03/20]  ハル・ノート

昭和16年11月26日、アメリカ国務長官コーデル・ハルから日本に送られた文書、所謂ハル・ノートは、日本軍が中国大陸およびフランス領インドシナから無条件撤退すること、日独伊三国同盟を解消すること等を内容とするものであり、大日本帝国政府はこれをアメリカによる最後通牒とみなし、12月8日未明、ハワイ真珠湾を攻撃するに至りました。

戦後、東京裁判でインドのパール判事は、「アメリカが送ったのと同一の文書を他国に送れば、非力なモナコ王国やルクセンブルク公国でさえ必ずアメリカに対して武力をもって立ち上がったであろう」と述べました。このことが、日本がアメリカと戦争をしたことを正当化する理由の1つとして長らく主張されてきました。

今回のイラク攻撃に際しては、武力による威嚇が継続される中で、ハル・ノートを遙かに上回る要求が突きつけられました。しかも、攻撃を開始したのはアメリカでした。

このことを深く銘記しておくべきでしょう。


[2003/03/19]  住民基本台帳で自治体が破綻する

総務省のホームページを見ても、住民基本台帳ネットワークシステムに関する調査会の議事録の中に、損害賠償責任についての議論がないことが気になります。伊予市に対して質問しても要領を得ません。

例えば、ある自治体の職員が3000万人分のデータを盗んだとします。自治体が使用者責任を負うとして、1人に1万円の賠償金を支払うとすれば3000億円必要になります。10万円だと3兆円です。即、財政破綻です。国が支払ってくれればいいのですが、今度は国家財政の危機です。仮に将来扱うデータの質・量が増えた場合は、桁違いの損害額になる恐れがあります。保険の制度は考えているのでしょうか。

そんなことはあり得ないから議論しなくてもいいのでしょうか?職員が情報の漏洩をすれば処罰されるから大丈夫なのでしょうか?処罰されるということと、損害賠償の問題とは分けて考えておくべきでしょう。

殺人罪の規定があるから皆さんの生命は絶対安心ですという議論は通用するのでしょうか?


[2003/03/18]  おしん

NHKの特別番組「おしん・少女編」をみました。100年前の貧しい東北を舞台にしたドラマに惹きつけられてしまいました。戦前戦後の我が国を支えてきたのは、この貧しさからの脱却への執念だったのかも知れません。

このドラマが、日本国民だけではなくアジア諸国でも多くの人々に感銘を与えたのは、貧しさに耐え、ひたむきに生きる日本女性の典型としての「おしん」への共感があったからでしょう。

現在、これとは異質の貧しさが我が国に蔓延していると感じるのは少し飛躍があるでしょうか。何も変えられない、何も変えようとしない政治に無気力に従うしか選択肢を持てなくなっている国民の精神の貧困に寒々としたものを感じる昨今です。

イラク問題での「平和万歳」的反戦論が、何も変えたくない病の一環でなければいいのですが・・・


[2003/03/17]  多選の公職者の年金額減額を

中曽根元総理に代表される辞めたがらない多選の公職者への対策が必要です。表彰制度により多選を奨励することが不当であることは言うまでもありませんが、より積極的に多選が金銭的には不利になる制度を導入すべきでしょう。

多選により、有為の人材の登用が妨げられます。自分は取り分け優れていると考えること自体が問題でしょう。ある種の思考硬直化と言っていいと思います。

70歳以上、または、公選による公職歴30年を超える場合は、年金額を徐々に減額すべきです。真の情熱により公職に留まりたい者は、不満を述べることはないと思います。 


[2003/03/16]  理念と基準のない国の危うさ

小泉首相は、野党党首との会談で、新たな国連決議のないままアメリカがイラク攻撃に踏み切った場合の対応について、「その時点で考える」などと語り、明確な方針を示さなかったと報じられています。

要するに、出たとこ勝負ということになります。そのような国家が真に尊敬されることはないと思います。

あの人物は(国家は)こういう場合にはこのような態度を取るであろう、このような発言をするであろう、ということへの予測が明確に出来ることが信頼に繋がります。予測可能な理念と明確な基準とが必要ではないでしょうか。

国家の行動が予測可能であれば、他国は必要以上の防衛をする必要がありません。その逆だと、何をしでかすか分からないという不安から、必要以上の防衛措置を取らざるを得ず、そのことが緊張を生む原因になります。

出たとこ勝負で、その場の雰囲気で決めるというのならば、「ドラえもん」に出てくるガキ大将ジャイアンの子分、スネ夫君と同じではないでしょうか。

「スネ夫総理」に国政を委ねている国民は哀れなものだと思います。


[2003/03/15]  先制攻撃が許される場合

平和憲法を遵守する限り、先制攻撃はどの様な場合でも許されないのでしょうか?

(1)核兵器ないし生物化学兵器等、通常の戦争手段とは言い難い手段で我が国に対して攻撃を加える現実的な危険があること
(2)国連の安全保障理事会において、極めて危険が切迫しており、自営の権利を行使することが妥当であるとの決議がなされていること
((2)の決議を得る時間的余裕がなくても、事後的に決議を得られる見込みが極めて高い場合)

の要件を充たす場合には、攻撃手段を有する相手国の軍事施設への専制攻撃を加えることは自衛の為の行動であると考えます。この場合、集団的な自衛権行使も許容されると考えます。

さらに、相手国の政治体制が国民の自由な意思でコントロールできていないと認められる客観的な証拠がある場合には、武力による威嚇(今回のアメリカのこれまでの行動)は許容されるものと考えます。

もし、以上の条件での先制攻撃も許されないとしたら、核攻撃を浴びてから議論をするということにもなりかねません。この場合には、国内が大混乱し、議論のしようもなくなる恐れがあります。


[2003/03/14]  イラク攻撃(5)

日本とアメリカとの友好関係は、日本が目下の同盟者として振る舞い続けなければ維持できないほど脆弱なものではないと思います。日米経済の相互依存関係は緊密です。しかも、アメリカには安全保障条約による義務があります。

日本が独自の主張を貫いたからといって日本の安全保障に支障を来すことはありません。この点に自信を持つべきであるし、もっとアメリカを信頼すべきだと思います。

我が国が世界に重きをなし、しかも日米間の真の友好関係を築くためには、唯一の被爆国であり、平和憲法を持つ国としての理念を語り続けるべきだと思います。

イラクは、国連の査察を受け入れています。現在、イラクが核兵器や生物兵器を使用する現実的な危険はありません。この状況下で、先制攻撃をする大義名分はないと思われます。

この結論を導くためには、明確な判断基準が必要です。「基準」については、日を改めます。


[2003/03/13]  イラク攻撃(4)

日英同盟が長く続かなかったのは、イギリスが日本を信頼できなかったからだと思います。第一次世界大戦時に日本は火事場泥棒的な行為をし、イギリスを助けようとしませんでした。

では、そのことの反省を込めて、今回はアメリカを支持し続けるべきなのでしょうか?

私は、真の友情を同盟関係にあるアメリカに示すべきであると考えます。真摯な助言をする人(国)に対して軽蔑することはないと思います。むしろ、長い目で見れば、あのときよく言ってくれたと感謝する可能性が高いと思います。(続く)


[2003/03/12]  イラク攻撃(3)

そのような状況を前提として、日本政府は日米軍事同盟堅持を最優先の命題と考え、アメリカのイラク攻撃を実質的に支持する立場を貫いています。アメリカの軍事力抜きに北朝鮮の脅威から日本国民の安全を守ることは不可能であるとの立場です。

この立場をとらせるのは、日英同盟を堅持できなかった戦前の歴史的な教訓があるからです。日英同盟がなくなった後の日本は、孤立への道を辿り、太平洋戦争への道をひた走ることになります。

私は、このような日本政府の立場を単純に否定することは出来ないと考えます。しかし、もう一つの筋道からこの問題を分析する必要があると考えます。(続く)


[2003/03/11]  イラク攻撃(2)

日本は北朝鮮によって自国の国民を拉致されています。現在帰国した人達には限られないという証拠が数多くあり、主権の侵害が継続していると考えられます。

加えて、最近の北朝鮮の動向を見ると、日本への核攻撃の危険を無視することは出来ません。現実的な危険が迫っているといっても過言ではないと思います。(続く)


[2003/03/10]  イラク攻撃

アメリカによるイラク攻撃をどう見るか。この問題については、各自がキチンとした意見を持つべきだと思います。

「人権」「国家主権」「平和」「戦争」「北朝鮮の脅威」「日米軍事同盟」といったキーワードが複雑に絡み合います。多元方程式を解くような感じです。

イラクの国民が正常な手段で自由を獲得できる可能性が小さいことをどう見るのか。どの様な非民主的国家、残虐な政治を行う国家でも「国家」としての最高独立性即ち「主権」持つと解するのか。平和を守る戦争を認めるのか。如何なる戦争も認めないのか。正当防衛の戦争に限るのか。北朝鮮の核攻撃の危険をどの程度のものと考えるのか。日米軍事同盟(日米安全保障条約)と日本の安全保障との関係をどう考えるのか。

私の結論は次回にします。なかなかまとまりません。


[2003/03/09]  全体利益が部分利益(地区利益)になる

私は、1つの自治体(伊予市)の全体の利益を代表する議員であると自負してきました。議員は、地区の期待を担っているという実態があっても、部分利益こだわるべきではなく、全体利益を考えるべきであると考えてきました。

しかし、合併により、従来「全体」であったものが「部分」になります。現在進行形の合併協議では、地区と地区の綱引きが展開されるでしょう。地域バランスを優先した妥協的な合併になると、政治的には「手打ち」が出来ても、新しい自治体の(外から見た)魅力はなくなります。

全体という視点での発想が定着するのは相当先のことになると思われます。現在でも「地区」を超えた発想が出来ない議員が多いのですから、先が思いやられます。


[2003/03/08]  議員永年表彰の廃止を

何時までも辞めようとしない議員が国会や地方議会にいます。後進に道を譲るなどという感覚がないのでしょうが、議会活性化の阻害要因になっています。

それにもかかわらず、長きをもって尊しとする陋習が改まらず、議員を長く勤めると表彰されるシステムがあります。

無駄を省くことが市町村合併の本旨なのだとしたら、これこそが最大の無駄です。永年表彰廃止を主張するつもりです。

ついでに、各種の表彰制度廃止にまで踏み込みたいところです。

なお、国会では永年表彰に付随する特典が昨年から廃止されてきており、表彰を辞退する動きもあります。


[2003/03/07]  ボランティアと地方自治の可能性

ボランティアが人間の極自然の生き方として承認されるようになれば、地方自治には大きな可能性が開けてきます。

自治を維持する上で必要とされる仕事の大半をボランティアで支えることが出来れば、合併など必要ありません。ボランティア市長、町長、村長。ボランティア議員。ボランティア職員。労働時間短縮と相俟って、様々な生き方の一つとして自治を担うことを考えてもいいのではないでしょうか。

他方、能力ある「プロ」も必要です。首長はボランティアでもいいでしょうが、数名のプロ議員は必要でしょう。プロの職員も少数必要になります。

自治についての専門的なサービスを提供し、多数の「顧客」を持つ会社も成立するでしょう。

住民がサービスを求めすぎないこと。ここがポイントです。住民サービスを低下させたくない。これが合併を推進する自治体関係者の動機です。サービスが低下しては本当にいけないのか?自分で出来ることは何か?ここから問い直さないと本物の自治には到達しないと思います。


[2003/03/06]  ボランティアの義務化(2)

生活保護についても「貸し付け」にすべきではないでしょうか。経済的に失敗することは誰にでもあり得ることです。自分が生活保護を受ける立場になって考えた場合、これは社会に対する「借り」と考えるでしょう。「借り」と考えることが個人の誇りを保つ上で必要です。その代わり、借りやすい仕組みにすべきです。

人生の貸借対照表に社会からの借り入れの項目を設けておき、いつかは借りを返そう、そのために頑張ろうというのでなければ張りのある人生を送れないのではないでしょうか。

子供の頃から社会には「借り」があります。人生の途中で「借り」が出来ることもあるでしょう。それをいつか返そうとする姿勢で生きていくことが個人の生き方として必要ではないでしょうか。

返済の仕方の一つとしてボランティアを位置付けるべきだと思います。見る角度をを変えると、ボランティアは義務だとも言えます。

ボランティアの総量が増えると、社会全体としての「富」が増えます。従来のお金を媒介とした経済とは異質の心豊かな世界が成立するでしょう。

ボランティアでの「返済」が終わり、結果として社会に対する「貸し」が出来たとしても、これから先にまた借りが出来るかも知れないという位の感覚で生きていけばいいと思います。その過程で極自然の生き方としてボランティア精神(あるいは助け合いの精神)が身に付くことが望ましいと思います。

私の人生の貸借対照表では、「借り」の項目が沢山残っています。何とか「返済」し、「貸し」の項目を残して人生を終えたいと思っています。


[2003/03/05]  ボランティアの義務化

森内閣の頃、総理の私的諮問機関である教育改革国民会議がボランティアの義務化ということを打ち出し、極めて不評でした。

しかし、ボランティア精神のなさが我が国の政治の貧困に繋がっているのではないでしょうか。金で買われる票、利益誘導を期待する票などが健全な民主主義の発展を妨げています。

何の苦痛もなくボランティアが出来る人材を育成しないと品格ある国家にはなれないと思います。

私は、全ての国民が希望すれば保育園、幼稚園から大学(大学院)まで無料でいけるようにすべきだと考えます。親は無償で子供を学習させることが出来ます。その代わり、本人に「対価」を支払ってもらいます。お金でもいいですが、ボランティアで支払うことも認めるべきです。

地域通貨を媒介にすることも検討すべきでしょう。(続く)


[2003/03/04]  読売新聞の社説(4)

権限と税財源の移譲をすると小さな町村はますます対応できなくなるというところが、「社説」の重要な論拠となっています。

中央集権体制の下で構造的に中央と地方の較差が生じています。このことに目をつむり、現状の較差のみを論ずることは不公平な議論だと思います。

現在の較差を客観的に測定し、歪んだ構造を是正していく必要があります。その過程では「ハンデ」が必要でしょう。ハンデなしで戦ってみろ、無理だろう、というような「社説」の発想は中央の奢りをそのまま追認するものだと思います。

中央のマスコミこそが中央集権の恩恵を受けているのであり、そのことがその様な主張をさせるのかも知れません。


[2003/03/03]  読売新聞の社説(3)

「町村会など地方団体は、権限や税財源の移譲を国に強く求めているが、それが進めば、小規模な町村はますます対応できなくなる。そうした点に目をつぶって合併反対と分権促進を主張するのは、明らかに矛盾している。
 分権の受け皿となりうる自治体づくりに向けて、町村の首長や議員に、自覚と責任ある行動を求めたい。」と「社説」は締めくくっています。

社説は、中央集権的統治システムの下位に自治体を位置付けています。国が命ずる仕事が出来る「器」としての自治体をイメージすると、命じられた仕事が出来るだけのキャパシティーは当然必要です。「分権の受け皿」とはそういう文脈の中で捉えられます。

「命じているのではない、自分の仕事だろう」と言うかも知れません。自分の仕事なら「下位者」に命じることが出来ます。それが県であり、国です。住民→自治体→県→国の図式を住民の生活領域について認めるのなら、そういう論理を認める必要があります。
(続く)


[2003/03/02]  読売新聞の社説(2)

私は、自治の本質を突き詰めると、自治とは住民意思の決定システムであると定義付けられるべきだと思います。

意思決定の単位と行政サービスを提供する単位とは切り離して考えるべきではないでしょうか。行政サービスを総合的に「監督」できれば基礎自治体として充分ではないでしょうか。

読売新聞の社説は、「建築や土木などの専門職員がゼロ、という町村も多い。専門知識が必要な公共事業の検査などは不可能だ。」と主張します。

専門的職員は複数の自治体で雇えばどうでしょうか。合併してもいずれ人口は減ります。リストラにより専門職員を雇えない状態に逆戻りすることが予想されます。そうだとしたら、今から複数自治体での専門家雇用を考えておくべきです。専門的な分野は充分に民間委託が可能です。 (続く)


[2003/03/01]  読売新聞の社説

2月27日付の読売新聞は、政府側の市町村合併論を真に受け、積極的な推進論を展開しています。

曰く、「例えば、人口5千人未満の小規模町村をみると、都道府県庁の5〜6の課に関係する仕事を、たった1人の職員が担当しているケースが少なくない。これでは、複雑かつ多様な行政需要に対応しきれない。」

複雑かつ多様な行政需要に対応できない自治体は駄目なのか。本来、ここが議論の出発点のはずです。総合的な行政サービスを提供できるものでなければ基礎自治体と言えないのかどうかです。

意思決定のシステムとしての自治体と行政サービス提供機関とを同一のものと見なければならないのでしょうか?  (続く)


玉井彰の一言 2003年3月 四国の星ホーム前月翌月