玉井彰の一言 2003年5月 四国の星ホーム前月翌月

[2003/05/31]  太田市の英語教育特区

太田市は、国の構造改革特区に「英語教育特区」の申請を行い、これが特区第1号として認定されました。

太田市は、国語を除く全ての科目を英語で教える小中高一貫校を設立する予定です。かなりの反響があるようです。

外国人が人口の5%を占める太田市では、外国人を至る所で見かけます。市役所には外国人向けの窓口もあります。英語教育特区にはそういう背景があります。

太田市発の国際人が多数出てくるでしょう。夢がある企画です。「まちづくりは人づくり」などと言われますが、世界に向けて発信できる町になりそうです。


[2003/05/30] 長野県住基ネット離脱が「違法」ならば・・

長野県本人確認情報保護審議会が長野県内の市町村と国側との中継を県が当面取りやめるよう求める報告を田中知事に提出した問題で、総務省は「仮に離脱すれば(県内市町村から送られる個人情報を全国センターに通知したり、保存することを県に義務づけている)住民基本台帳法に明白に違反する」と長野県を強くけん制しています。

仮に離脱した場合は、地方自治法に基づき、片山総務大臣が長野県に是正要求するなどの法的措置を検討せざるを得ないとの立場です。

それなら、仮に自治体が損害賠償責任を負担することになっても政府が面倒を見てくれると理解してもかまわないのでしょうか?「違法」と言われるのでやむを得ず採用した制度だから、銃を突きつけられて行った行為と同じで、責任を問われない、と言えるのでしょうか?

「自治体に責任があっても自治体は損害賠償責任を負担しなくて良い。政府が法的責任を負担する。」との政府の念書が取れるのなら、私は住基ネットに賛成です。

私は、他の反対論者とは立場が異なります。頼むよ、総務省。ついでに、片山総務大臣の個人念書も欲しいところです。


[2003/05/29] 長野県本人確認情報保護審議会の報告

住民基本台帳ネットワークシステム(住基ネット)の稼働に伴って設置された長野県本人確認情報保護審議会は、県内の市町村と国側との中継を県が当面、取りやめるよう求める報告をまとめ、田中康夫知事に提出しました。これを受けて県が中継を取りやめれば、県内の全自治体が住基ネットから一斉に離脱する事態となる可能性もあります。

報告は、各自治体のLAN(構内情報通信網)に接続してあるパソコンであれば、住基ネットのサーバーにアクセスできる構造になっている事例が多いということ、個人情報が漏えいした場合の本人への損害賠償がほとんど検討されていないなどと指摘しています。そのうえで「市町村の住基ネット管理の実情は、個人情報保護が十分になされていない」と結論付けています。

「個人情報が漏えいした場合の本人への損害賠償がほとんど検討されていない」という理由に注目します。

私は、3月19日の「一言」で、「住民基本台帳で自治体が破綻する」のタイトルで、情報が漏洩した場合の損害賠償問題を議論しています。

仮に、伊予市の責任で(職員が漏洩する場合、伊予市のコンピューターシステムにハッカーが進入して漏洩した場合等があります)個人情報が漏洩して損害賠償の問題になったとき、「自治事務」であるが故に伊予市が損害賠償責任を負担するということが考えられます。

何百万人、何千万人というレベルの被害者が出て、損害賠償訴訟を起こされたら、伊予市は即アウトです。これから弁護士が過剰という事態になれば、弁護士がインターネットで被害者を組織して大量の原告が訴訟に参加するという事態もあり得ます。

市議会議員の職責として、伊予市を破滅させかねない可能性を有する住基ネットへの参加には条件を付けてもらわざるを得ないと考えています。

政府が全面的に損害賠償責任を負担する旨の念書をもらうか、立法措置を講じてもらうかです。

仮に、提案が否決されるとしたら、私が法的責任を問われないために、記名採決を求めるということも考えておかなければなりません。


[2003/05/28] 田中康夫知事、市町村合併に「待った!」

報道によると、長野県の田中康夫知事は、市町村合併について「長野県はできるならば、合併しないで各市町村が自立していけることが望ましい」と述べ、合併に否定的な考えを示したとのことです。

「合併が行政の効率化や地域の活力につながるというが、むしろ逆ではないかと(県民が)疑問を抱いている」「(市町村が)合併に進む場合は、市民が理解を深めているか、厳しくチェックしていく」との発言が続きます。

知事が公式に合併に否定的な意見を述べるのは珍しいことです。秋までに合併を目指さない市町村への支援策をまとめる方針です。

「国と地方の財政再建をどうするか」という問いに対する答えは、「市町村合併」との刷り込みが行われています。住民が合併に消極的な首長や議員をリコールしようとしたりする例も目立ちます。

しかし、「答え」は市町村合併だけでしょうか?もう一度考えていただきたいと思います。「自治とは何か?」の問いから始めてみたいものです。


[2003/05/27]  敵艦見ゆ

明治38年5月27日未明、ロシアのバルチック艦隊が対馬海峡に現れました。「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」の第1報が大本営に打電され、日本海海戦が始まりました。

日本海軍が完勝したこの日を、戦前、「海軍記念日」としていました。

連合艦隊司令長官・東郷平八郎という人事は、大方の予想とは異なるものだったと言われます。海軍大臣・山本権兵衛は、「運の強い男だから」と言ったと伝えられます。独断に走ることなく、しかも現場での臨機応変な対応力があるとの判断もあったようです。

明治には、戦時には戦時の人事を断行する決断力がありました。太平洋戦争では、戦時に平時の人事慣行を破れず、愚劣な作戦に終始しました。

NHKは、平成18年に「21世紀スペシャル大河」として司馬遼太郎著「坂の上の雲」をドラマ化するようです。松山市では、「坂の上の雲のまちづくり」が展開されています。

「坂の上の雲」は、高校時代にワクワクして読んだ記憶があります。再度読み直してみたい小説です。明治の日本を振り返り、これからの「国づくり」を考えてみたいと思います。


[2003/05/26]  群馬県・太田市

群馬県・太田市は、群馬県東南部にある工業都市です。人口15万人、面積98km2。戦闘機「隼」を造った中島飛行機製作所(戦後、合併して富士重工業株式会社となる)のあった町です。戦前は軍需産業の発達した都市でした。

清水聖義市長が誕生して以来、この都市が全国的に注目されています。著書「前例への挑戦」は地方自治に真剣に取り組みたいと考えている方にとっての必読書です。

今回の視察では、志木市の穂坂市長に関する情報をインターネットで拾い出して作った資料と太田市のホームページからの資料、および、清水市長の著書を読むことを全委員にお願いしました。「予習」充分で視察に臨みました。


[2003/05/25]  議会で市民の発言機会を

議会は閉鎖社会です。期数主義が支配します。これを破壊しなければ真の審議機関にはなりません。

しかし、数が力であり、有権者が選んだ議員構成ではどうにもならない状態です。将来的にも是正困難な地域が多いと思います。

解決策の1つとして、傍聴者の発言権・質問権を認める制度が必要であろうと思います。無論、一定の要件を定める必要があるでしょうが、主権者が直接質問する可能性があれば、議会の緊張感は飛躍的に高まると思います。


[2003/05/24]  志木市の地方自立計画(3)

考えてみれば、地方自治に関する業務を何故「公務員」がフルタイムでやらなければならないのか、疑問です。志木市は、特区構想にも名乗りを上げています。例えば農業をやりながら公務員もやりたい人を週3日勤務で雇うということを考えているようです。認定はされていませんが、面白い発想です。

この点での思いこみから自由になれば、自治の可能性は無限に広がります。情報公開を徹底すれば、ほとんどの仕事を市民に委ねることが出来ます。問題は守秘義務です。志木市はこの点も、条例により問題が起きないよう配慮しています。

将来的に人口が減少し、また、自治体の収入が減ることを予想し、しかも行政サービスの低下を防ぐということを考えた場合、自治体の仕事を市民が担っていくということが正しい選択だと思います。

そのことは、地方自治体が国の下請けであることから解放され、新たな可能性を見出すことにつながるでしょう。(一応、終わり)


[2003/05/23]  志木市の地方自立計画(2)

志木市は、500人余りいる職員を20年で半分にする計画です。さらに、職員が50人でやれる自治を目指すとしています。

21世紀型地方運営システムは、「まち」を形成した原点である「村落共同体」を想い起こし、「市民が市を運営する」ことを原則として、市の業務を市民(行政パートナー)及びNPOに委ねます。そのサービスの対価として、市税の一部を行政パートナーに還元(地域通貨とも連動)することにより(時給700円)、ローコストの自治を実現することにしています。

「行政」と「市民」との対立の図式ではなく、行政と市民とが一体となった濃密な地位コミュニティを創造し、真の住民自治の実現を目指しています。

行政機構は自治実現の手段ですから、この発想は自治の王道を行くものだと思います。(続く)


[2003/05/22]  志木市の地方自立計画(1)

<総務委員会の視察についてのメモを随時掲載します。(他の関心事が出れば、間に挟みます)>

埼玉県・志木市は、人口6万6千人、面積9km2、人口密度の高いコンパクトな街です。都心まで直通の地下鉄が走り、通勤に便利なベッドタウンです。

穂坂邦夫市長は、就任2年足らずですが、矢継ぎ早に新しい構想を出し、実施に移しています。後に紹介する群馬県・太田市の清水市長同様、構想力抜群の市長です。

今回視察した内の1つが、志木市・地方自立計画です。驚いたのは、人口増加傾向の街であり、しかも、高齢化率が全国平均を遙かに下回っているにもかかわらず(13.7%、全国平均が19%)、将来の人口減少と高齢化を見越した厳しい予測を前提とした計画を立てていることです。

人口減少地区の将来計画が人口増加を前提にしていたりするのとは大違いです。(続く)


[2003/05/21]  お見それしました、愛媛新聞「社説」

徳島県知事選挙に対する5月20日付愛媛新聞社説「徳島県の出直し知事選 地方政治に汚点残した県議会」は、思わず、「その通り」と拍手したくなりました。どうせ中立的な論評しかしないだろうと思って、寝ぼけ眼で新聞を開きましたが、後頭部を打たれたような気がしました。

「おどろおどろしさ―これも地方政治の一断面なのであろうか。徳島県の出直し知事選を振り返るとき、同じ地方政治にかかわりその恩恵を受けるものとして、私たちは暗たんたる思いにとらわれる。」と、いきなり批判が始まります。

「不信任決議でしゃにむに大田前知事をひきずり降ろした県議会。本来なら大田前知事と連帯して身を処するはずの飯泉氏―。言うなれば、おどろおどろした政治家群像と、それにちゃっかり乗りかかった中央官僚の姿がそこにある。」

「地方の政治に『内発的エネルギー』を期待することや、政治そのものに人としての節度や品性を求めることはできないものか。私たちは慨嘆を抱きながらそんなふうに思ってみる。」

「議会の対応は、両手両足を縛っておいて『歩け』『踊れ』と言わんばかりの理不尽なものであった。」「議会は数の力でさまざまな妨害を加え、自分たちの議員任期が切れる直前になって『県政の停滞を招いた』との理由で不信任を投げつけたのである。政治以前に人としてのありようすら問われよう。」

「同じことは当選した飯泉氏についても言える。」「直近まで大田前知事を支える部下だったはず。高知県の橋本大二郎知事が『違和感がある』と表明したのも至極当然だ。」

「県議会が仕向けた一連のゴタゴタは、地方の政治史にシミのような汚点を残した。」と、締めくくります。

「座布団10枚!」と言ったら茶化したことになるか。よくぞ言ってくれました。

要するに、徳島県議会および新知事は、「四国の恥」です。

http://www.ehime-np.co.jp/(愛媛新聞ホームページ)
http://www.ehime-np.co.jp/shasetsu/


[2003/05/20]  一隅を照らす

我が国はダラダラと衰弱していく可能性が高いと述べました。思えば、9年前に村山内閣が成立し、自民党が復権したときから長期の停滞が本格化したのだと思います。

この次の衆議院議員選挙が来年6月までにあります。参議院議員の選挙も来夏あります。ここで自民党が勝てば、自民党政権がさらに長期間固定されます。小泉以降に人材がいないと言われます。しかし、テレビがある程度スポットライトを当てれば「スター」は幾らでも出来ます。

ここ1年で自民党を政権の座から降ろすことが野党政治家の最大の任務です。ところが、その自覚と才覚とを併せ持つ国会議員が少ないようなので、私たち国民は自民党の半永久政権を前提としたシナリオを描くしかなさそうです。

自民党は与党と野党を一人二役でやれる器用な政党ですから、自民党一党支配でも、55年体制同様、疑似政権交代を演出できるでしょう。「関ヶ原」はしばらく来ないと思います。

「一隅を照らす」とは、伝教大師・最澄の教えです。与えられた持ち場で精一杯努力し、明るく光り輝く人間となるように精進する。そして、そのことにより社会全体も明るく照らされていくということです。

私たち個人の変革、地域の変革、地方の変革から始めて、国全体も変革していくしかないようです。長い下り坂を覚悟して、一隅を照らしたいと思います。「個人の変革」だけで終わるかも知れませんが。


[2003/05/19]  平穏に衰弱する

徳島県知事選挙は、自民党の推す前徳島県環境部長が当選しました。これで、徳島県政は平穏を取り戻すでしょう。

国政においても、民主党が自由党との合流路線を事実上否定し、自民党政権が次期総選挙においても継続する見通しが強くなりました。民主党国会議員の多くが、現在の幸せを手放すことを拒否しているからです。誰々は好きとか嫌いとか言って政治をやっていられるのですから、太平楽な日々が続くのでしょう。

しかし、一方でこの国は衰弱路線に入りました。現在只今の平穏を望み、将来破綻する危険を見て見ぬふりをする。破綻したときには責任の所在が不明確になっているという、無責任体制が確立しているようです。

野党は評論家集団であることに満足し、地方住民はおこぼれ頂戴型のぶら下がり自治に安住する。

我が国および地方には、平穏無事の日々が続くでしょう。我が国のストックから見て、突然、決定的な破局が訪れるというより、紆余曲折を経ながらダラダラと衰弱する可能性の方が高いと思います。仮に、ハイパーインフレが起きても、この国の人達は怒らないでしょう。「しかたがない・・・」


[2003/05/18]  天命

昨日、50歳になりました。

「吾れ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳 ( したが ) ふ。七十にして心の欲する所に従いて ( のり ) ( ) えず。」と論語にあります。

この年齢観は修正する必要があります。「三十キャピキャピ、四十ウロウロ」と来て、「五十にして学に志す」という程度ではないでしょうか。

現在、国民の平均年齢は42.5歳。20年後は47.9歳。50年後は51.6歳となります(国立社会保障・人口問題研究所の推計)。

諸先輩方の動向を観察すると、年齢イメージに拘束されて損をしてきた人が多いように見受けられます。40になると「四十面(しじゅうずら)」をしなければならないと思いこんでいたのではないでしょうか。今でも、「人生80年時代だから40歳が折り返し地点」という感想を持つ人がいるようです。

しかし、この感覚が少しずつ修正されてきている現実があります。上の年代がまだまだ多く(元気なんだよ)、昔の年齢イメージで過ごすことが著しく不自然になっているからです。その内、「80歳までは仕事をしよう。80歳からが高齢者だ。」ということを政府がヌケヌケと言い出しかねない状態です。

もう少し往路です。これから本格的に勉強します。60歳位を人生の折り返し地点と考えたので十分でしょう。

「天命?・・知らんワ、そんなモン」


[2003/05/17]  視察終了

幸運も手伝い、志木市、太田市の両市長にお会いすることが出来、最高の研修になりました。

この研修のまとめを私がすることになります。かなりの「仕入れ」をしたつもりです。

他市のいいものは積極的に盗んでいきたいと思います。


[2003/05/15〜17]  総務委員会視察

2泊3日で、埼玉県・志木市、群馬県・太田市を視察します。私が企画しました。両氏とも市長が抜群の構想力を持っています。かなりの資料を委員達に事前配布しました。

公式視察以外に、川越・蔵の町見学、巣鴨商店街(おばあちゃんの原宿)見学、六本木ヒルズ見学を予定。


[2003/05/14]  地区のステーション

これからの過疎地においては、集約して居住することが必要です。特に、高齢者(後期高齢者)は役場や公民館、郵便局などの周辺300メートル程度の範囲内に居住してもらい、歩ける範囲で日常の用が足せるような体制を整備していくことを考えるべきです。そのような区域を地区のステーションとして、介護や宅配システムを効率的に行えるようにします。

30年程度の期間をかけ、後期高齢者が地区のステーションの周辺に居住するシステムを整備すればいいと思います。生活の利便性が確保され、安心できる老後が約束されます。地域の衰退も最小限度で食い止められるでしょう。

高齢者の従来の住居は都市部の人々のU・I・Jターン者に貸し出します。セカンドハウスという手もあります。


[2003/05/13]  私の「政務調査費」

昨年度から1ヶ月1万円、1年で12万円の政務調査費を頂いています。使途について報告する必要のない自治体もありますが、伊予市では領収書を提出する必要があります。

私の場合、第一法規出版の法令集等の維持管理費だけで12万円を超えてしまいました。その他に、私費で書籍類を購入しています。議員として必要であると思われるものだけで30万円は超えていると思います。レシートを整理していないので正確には分かりませんが、それ以上という気もしています。IT関連の費用も含めると1ヶ月5万円〜10万円ということになると思います(家計簿を付けずに放漫財政をやっていたので、家人に追求されています)。

政務調査費を使い切れないので、旅行(「視察」と言っていますから、視察と呼んでやって下さい)に使うのが主流になっています。しかし、年間12万円くらいは地方自治関係の本を買って勉強してもらわないと、市民の代表としての研鑽を積むことは困難だと思います。

「百聞は一見に如かずだよ、キミ」などと言われても返事のしように困ります。

なお、長野県議会議員の報酬等(政務調査費を含む)に関するホームページを御紹介します。

「議員不思議発見」http://www.giin-fushigihakken.net/


[2003/05/12]  道直し

昨日のサンデープロジェクト(テレビ朝日)では、田中康夫知事が「先生」と呼ぶ、長野県栄村の高橋彦芳村長が行っている身の丈にあった公共事業のあり方を紹介していました。

国の一律基準では、その地域には不似合いであると誰もが感じる大きな事業(巨大な橋、広すぎる道路や歩道の建設)をせざるを得ない場合があります。大きなコストがかかります。しかし、一般には、国の言いなりになっている方が自治体にとって楽だし、自治体の自己負担が少なく、安上がりに付くと思われています。

高橋村長は、長年公務員として実務に携わる中で、栄村に合った公共事業のあり方を研究し、国の補助金に頼らない公共事業を実践してきました。栄村の「道直し」事業、「田直し」事業は、結果として国の補助事業に頼る場合よりコストを抑えることが出来ます。

広島県沼隈町の住民参加型公共事業も紹介されました。住民が必要とする事業が各地区から提案され、住民自らが工事を行います。国の基準から自由になることで、住民が真に必要と考える事業を、低コストで、住民自身が造ることが出来ます。

中央集権国家・日本で国の指示に逆らうことは大変な勇気が必要です。しかし、財政がひっ迫してきた現在、国の言いなりでは地方も疲弊してしまいます。紹介された事例は、これからの地方の公共事業あり方を示唆するものです。


[2003/05/11]  政争のまち

市民に対するアンケートで「合併に関して懸念される事項は何か」という問いがあり、選択肢を設けて回答するようになっています。住民負担の増大、行政サービスの低下、住民の意見が反映されなくなる、地域間格差、役所が遠くなり不便、等々の選択肢があります(伊予地区では、アンケート結果が発表されました)。

その中に1つ重要な選択肢が抜け落ちています。「政争のまちになるのではないか」ということです。

大が小を飲みこむ合併(編入合併あるいは実質的な編入合併)なら、それ程心配ありません。しかし、人口規模の同じような地域同士の合併では、妥協により、合併前にキチンとしておくべき「結論」が先延ばしにされ、新市の選挙でどの地域から首長が出るかによって様相が変わってくることがあり得ます。

結果として、政争の絶えないまちになる恐れがあります。このことが選択肢にあれば、多くの住民は思い当たるでしょう。

総務省のマニュアルでは抜け落ちているのでしょうが、最も気掛かりな問題です。


[2003/05/10]  頑張れサスケ!

岩手県議会議員に当選したプロレスラー・サスケ氏の覆面問題が話題になっています。議会の品位を問題にする勢力が覆面での議会出席に反対しています。

国会、地方議会を問わず、「品位」のない議員が多いのですが、それはさて置き、覆面即品位を汚すと断言して良いものでしょうか?

ジーパンでの議会出席はどうか等、従来の慣行に挑戦した方々もおられました。そのことが議会内の対立を生むということもありました。

私は、有権者を代表する議員としての真摯性を問題にすべきであるということを前提としながら、(1)当該服装(覆面)が議員の人格の一部と言えるかどうか(2)有権者の判断はどうか、という基準を建てて事例を検討すべきであると思います。

サスケ氏の場合、覆面はサスケ氏の経歴や主張から判断して、彼の人格の一部であると思われます。また、有権者は覆面姿の彼に投票しています。したがって、サスケ氏の場合は覆面姿が議員としての真摯性を欠くことにはならず、覆面での議会出席を認められるべきです。もし仮に、他の議員が単なるパフォーマンスでサスケ氏の真似をするとしたら、真摯性を疑われることになり、批判されるべきです。

「ジーパン」氏の場合でも、その人物が親の葬式でもジーパン姿だとしたら、それはジーパン姿が彼の人格の一部ということになろうと思います。他の場所では背広姿であるとしたら、議会を愚弄していると言われても仕方ないと思います。

もっとも、背広姿だが中身は○○という議員が主流ですので、外形的な服装問題を議員としての本質が問われる問題であるかのように議論することには違和感を覚えます(オーソドックスな考えに妥協して議論してみただけであることをお断りします)。議案審議や議論の中身こそが議員の本質問題です。

むしろ、地方議会の場合などは、堅苦しい議論を避けるために、公園で議論したり、喫茶店を活用したり、市民も交えて議論してみたり(どの場合でも正確な議事録を作る必要はありますが)、多様な試みがなされるべきであり、それこそが「民主主義の学校」の名に相応しいと思います。


[2003/05/09]  ネズミを捕らない猫

自由党との合流問題を民主党が先送りしようとしています。身内に困難な問題を抱えたくないのでしょうが、結果的に自民党を支持することになります。

自民党より悪い政権が出来るよりも現状の方が良いという判断なのでしょう。

私は、自民党より悪い政権で良いから、政権交代すべきだと考えています。「敵は本能寺にあり」。「敵」とは官僚機構です。彼等を平穏無事の毎日から怒濤の中に叩き込まなければ日本はこのまま衰弱します。

野党であっても、国会議員で居続けることが心地よくて、「布団」から出るのがおっくうなのでしょう。

しかし、政権を取らない政治家はネズミを捕らない猫であり、詰まるところ、月給泥棒です。「白猫でも黒猫でもネズミを捕る猫が良い猫だ」と言ったケ小平の言葉を思い出します。


[2003/05/08]  地域づくりの拠点

我が国が一応現状程度(あるいはジリ貧程度)であることを前提とすると、大都市、有力都市およびその近郊を除いた地域は、人口減少と超高齢化により地域の地盤沈下に悩むことになります。地域存立の危機に至るところも出て来ます。

そのことを想定すると、役所は定型的な行政サービスを提供出来ればそれでいいとは言えなくなってくると思われます。住民パワーの先細りも懸念される中で、役所自体が地域づくりの拠点として位置付けられなければならない段階に入ったと言えます(本当はこれまでもそうだったはずですが)。

都市機能が限られている中小零細都市では、戦略的に都市機能を集約する努力をすることが出来るかがポイントです。魅力ある「中心」をつくり、そこを地域コミュニティの核として位置付けることにより、地域住民の誇りと満足感、そして地域のアイデンティティを保つことが出来ます。

従来の「ぶら下がり自治」では、住民や議員達が自治を食い物にし、分け前を配分することに精力を注ぎました。そのような甘い自治が出来なくなってきたということは、一面喜ばしいことです。しかし、多くの自治体は、このような事態を血の滲む自己改革によって乗り切るのではなく、国策としての合併に乗っかり、あめ玉をしゃぶる機会にしてしまうことになりそうです。

行政の「大企業化」により、当面は数字合わせができ、危機の先送りが可能となります。役所を地域づくりの拠点などと大げさに位置付けなくても特段困らない状況が訪れます。零細自治体の存立の問題は、大きな自治体内の「大字」の問題に矮小化されていきます。


[2003/05/07]  支所になった場合の地域への影響

伊予地区の合併(伊予市、松前町、双海町、中山町)で、「本庁方式」をとり他に支所を置く方式をとった場合を想定してみます。支所になった場合、どの地区の地盤沈下が一番小さいでしょうか?(私は全国発信をしているつもりなので、他地区の方も地図を広げて「戦略」を練ってみて下さい。私も他地区の「新市建設計画」をインターネットで手に入れ研究しています。)

地盤沈下がないのは、松山市の近郊地区(ベッドタウン)である松前町です。行政サービスとは住民票と印鑑証明の発行、それに福祉の相談ということに尽きるのだと考えた場合、松前町には支所があれば地域の維持には充分です。松山市の施策の恩恵を反射的に受ける地域ですから、行政に期待される役割は僅かです(従来がそうだったと思います)。

これに対し、双海、中山地区は著しい地盤沈下が予想されます。伊予市(郡中、南山崎、北山崎地区)の地盤沈下も無視できないものになります。

役所を定型的な行政サービス提供機関だと割り切る立場の方は、支所になっても地域への影響は限定的であると理解されるでしょう(家庭からITを使えばサービスを受けられるという議論にもなります)。

しかし、役所を地域づくりの拠点であると考えると、「司令塔」がどこにあるかが決定的な問題になります。「地域づくり」「まちづくり」ということをもう少し掘り下げると、地域の実力を高めることを意味します。即ち、地域の魅力(地域ブランド)づくりを進めることにより産業振興(=働く場の確保)を行い、定住人口・交流人口増大(これからは人口減少の食い止め)に結びつけ、租税収入力のアップ(地域の自立)を図るということです。その為には、地域との密接な連携をとって役所のマンパワーを活用することが必要です。

「司令塔」たる役所は、地域の「中心」になければなりません。「中心性」を喪失すると、中小地方都市は魅力を失います。私は、伊予に実質的本庁を置き、双海・中山には支所機能プラス地域振興の拠点としての機能を持たせるべきだと考えます。松前庁舎は、対外的意味での「本庁」とし、正規の市長室、議会、教育委員会を置き、さらに、車社会に適応できる方のNPO活動の拠点として「部室」「会議室」を充実させます。伊予の庁舎には、「市長室分室」を置き、日常業務の指揮命令に当たります。当然、総務・企画を含む市長部局を置きます。将来、伊予の庁舎建て替え時に、伊予の庁舎を「本庁舎」とします。これが私の「案」です。

なお、役所には、その人的ボリュームによる地域経済への波及効果があることを忘れてはなりません。この意味での地域経済への波及効果も、伊予・双海・中山の庁舎には無視できないものがあります。


[2003/05/06]  役所の位置と官僚化

合併小委員会傍聴。新市の「事務所の位置」が決まり、「事務所の事務の方式」が新たな議題になります。どこにどれだけの機能を割り振るかで意見が分かれました。

役所の位置は必ずしも中心地である必要はないという総務省のマニュアル通りの考えを披露する委員がいます。行政が単体として行政サービスを提供する「企業」と考えれば、「サービス」が十分提供できるのであれば立地はそれ程問題にする必要がないことになります。また、「効率」を優先し、「ワンストップサービス」を追求することが合理的であるという帰結になります。

地域づくり、まちづくりの観点から見て、都市機能は集約すべきであり、役所が街の中心地に位置することが必要であることは繰り返し述べてきたつもりです。これから一段と進む超高齢社会を想定しても、歩いて暮らせるまちづくりの一環として役所の立地を慎重に議論しておく必要があります。

それらをさて置くとしても、役所が中心地から外れ、住民との触れ合いを二の次に考えるようになると、職員はサラリーマン化し、ひいては官僚化していきます。超然とそびえ立つ官庁に勤務する役人は、一般市民の目線から物事を見ることが困難になっていきます。

地方公務員とは何なのでしょうか。地域づくりの拠点である役所から地域に奉仕するパブリックサーバント(公的召使い・公僕)でなければなりません。地方自治にはぬくもりのあるマンパワーが必要です。それがない官僚・サラリーマンは、ただのリストラ対象に過ぎなくなります。


[2003/05/05]  スネかじり的合併

企業が(対等)合併するとなると大変です。従業員はもとより、企業自身もあらゆる努力を強いられます。収益構造の見直しも必至です。「ビジネスモデル」を再構築しなければなりません。

市町村(対等)合併においては、甘い幻想のみが支配します。従業員=公務員は安泰。新たに巨額の借金が可能。合併相手の駆け込み公共事業に文句を言いがたい雰囲気(仲良きことは美しきかな)。新市建設計画もバラ色。(・・・倒産しかかってたんじゃなかったのかなあ・・)

確かに、企業体としての行政は大きくなります。支出面での合理化がある程度進み、従来出来なかった規模の投資が可能になります。(その意味では、「境界線を消しゴムで消しただけ」ではありません。)

しかし、合併する地域全体の「実力」が増すかどうかは、投資に見合うリターン(税収の伸び)がどの程度かによります。そのことを想定した「新市建設計画」の事例を探しています。(支出が減る話はありますが、地域の実力がアップして税収増になるという予測はあまりなさそうです。あれば教えて下さい。)

どうも、仕送りをあてにして、学生が新しい賃貸マンション(アパート)にそろえる電器製品の種類、カーテンの色、ベッドの位置を考えているだけ、という気がしてなりません.。せいぜい、学生が相部屋で生活してお小遣いを浮かすという程度の話であり、実力が付く(=収入・税収が増える)という話ではなさそうです。

自立に向けての地域戦略を練っていくためには、地方が中央から権限、税源、人材をフルセットで奪えるかどうかが鍵になります。中央にその気がない以上、「お小遣いがふえていいね」という程度のスネかじり的発想の合併しかできないことになります。

もっとも、大銀行の極めて不真面目な合併を見ているだけに、「逃げ切れればそれで良い」というモラルハザード型合併が支配的になるでしょう。


[2003/05/05]  メルマガ休止

従来もメルマガは休止していましたが、近日中のリニューアルで正式に休止します。


[2003/05/04]  合併後10年

合併について、これは駄目だと言っても即座に検証することが出来ません。少なくとも、合併後10年くらいはそれなりに推移します。人口減少もそれ程顕在化しません。財政的にも予想の範囲内ということだろうと思います。

問題はそれ以降です。周辺部の人口減少が深刻な話題になります。高齢化も目立ってきます(後期高齢者の増加)。合併時のプロジェクトのマイナス面が認識されてくるでしょう。自治体の財政状態は一段と厳しくなります。リストラ圧力が徐々に増してきますから、「支所」や「総合支所」、分庁方式における「分庁舎」などは減員の対象になります。

「これは約束と違うではないか」という声も一部で聞かれるでしょうが、住民全体が慣らされてしまっており、しかも、合併時の責任者も引退しています。あらゆることが「忘却の彼方へ」ということになります。

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」(「君の名は」より)

忘却を誓ったつもりはなくても、責任も記憶も雲散霧消します。周辺自治体における地域づくりのリーダー達も役所を動かすだけの馬力を失っていることでしょう。

かつてのリーダーが、「役場というのは、住民票をもらうだけの場所ではなかったんだなあ」と懐古する場面に遭遇するかも知れません。「支所にいるのはサラリーマンだ。昔は、課長が駆けつけてくれた。町長にもすぐ会えた・・・・」


[2003/05/03]  憲法論争

私は憲法改正論者です。また、護憲論者です。

日本国憲法の「出自」を問題にする方々がいます。卑怯な論法だと思います。ある人物を批判するに際してその人の出自を問題にすることは批判者自身の人格を疑わせることになります。その人の言動について批判すべきです。

日本国憲法の出自を問題に出来たのは長めに見ても憲法制定後20年程度の期間であったと思います。制定後半世紀を超え、国民の多数が支持する憲法の出自を問題にするのは、為にする議論でしかありません。正々堂々、憲法の内容を問題にすべきです。

教条的護憲論にも反対です。憲法を真に国民のものにするためには、常に憲法改正を視野に入れた議論を尽くしていくべきです。

自らの政治力の欠如を憲法論議にすり替えている政治家には情けない気がします。現憲法をひっさげて世界に堂々と主張をすることが出来る政治家でなければ世界が信用するリーダーにはなれないと思います。我が国の外交能力のなさ、戦略の欠如を憲法のせいにするのは卑劣です。

政治決戦を恐れ「護憲」に引きこもる政治家も批判されるべきです。彼等の護憲論は自らの政権担当能力を否定しているのも同然です。「いつか来た道・・」というオオカミ少年的議論は卒業すべきです。

現憲法を誇りとして世界に堂々と打って出る。実態と遊離した部分を躊躇なく改正する。これが出来る政治家を選べていない国民も反省すべきです。


[2003/05/02]  地域振興室

合併によって「周辺」になる自治体があります。そこには通常「支所」が置かれます。しかし、自治体の「役場」があった頃と比べると存在感がなくなります。

私は、この場合には支所に加えて「地域振興室」を置くべきだと考えています。役場というのは、突き詰めると地域づくりの拠点です。様々な機能を失っても、地域振興の拠点としての機能を持っておけば、ある程度の役割が果たせるのではないかと思います。

ボランティアを中心に地域づくりに関心のある人達の事務局としての役割を果たすことが期待されます。

地域振興室の職員については、将来のエースを投入する考えでやれば面白いでしょう。


[2003/05/01]  「上げ膳据え膳」型民主主義

「観客民主主義」ということを問題視し、参加型への転換を主張する方もいます。観客席から無責任に論評するだけではなく、主体的な市民として参加すべきことは当然だと思います。

私は、日本の民主主義が、観客型にとどまらず、「上げ膳据え膳」の状態であることを指摘したいと思います。政治家は自分に分かりやすく説明しなければならないし、自分の感情を害さないようにすべきだし、プライバシーを守り、通常の生活を壊さないように政治活動・選挙運動をすべきだし・・・

挙げ句の果てに責任も取らない。あらゆる責任はリーダー達にあると言って憚らない「民主主義」とはどういうものなのでしょうか。

「市民がこの程度までは努力して欲しい」という意思表示を選ばれている立場の者もしてよいと考えます。

民主主義を守るための努力をどう配分していくかの問題です。有権者は、最低限、候補者の掲げている政策等を読み、候補者の人物器量を判定する責任があります。

間接民主制は、市民には直接政治を行うだけの時間も素養もないが、人物くらいは見抜ける賢明さがあるとの前提に立っています。選挙結果に責任を負うのは有権者です。

上げ膳据え膳型の民主主義は、結局、政治を「サービス産業」と位置付けることになります。サービスには対価を支払う必要があり、それを直接的な痛みを感じないで支払う方法は税金の投入ということになります。心地よい(口先だけの)サービスが受けられる代わりに、民主主義の活力が失われ、政治家は一部特権階級の「家業」になっていくことになります。結果として市民が莫大な「付け」を支払うことになります。

もちろん、「リーダー」にはリーダーとしての素養、戦略、戦術等が要求されることは言うまでもありません。


玉井彰の一言 2003年5月 四国の星ホーム前月翌月