玉井彰の一言 2006年5月 四国の星ホーム一言目次前月翌月

2006/5/31(水) 卒業式妨害への罰金判決・・・常識で考えよう

2004年の東京都立板橋高校の卒業式で、君が代斉唱時の起立に反対して式の進行を妨害したとして、威力業務妨害罪に問われた元同校教諭に対し、東京地裁は5月30日、罰金20万円(求刑・懲役8月)を言い渡しました。

被告側は「罰するほどの違法性はない。」と述べ、公訴棄却か無罪を主張。対して判決は、「退場要求に従わずに大声を出したのは威力業務妨害罪の『威力』に当たり、開式が約2分遅れるなど『業務妨害』の結果が生じた。起訴は公訴権の乱用に当たらない。」と退けています。
 
被告は同校体育館での卒業式の前、「異常な卒業式で、君が代斉唱時に教職員が立って歌わないと処分されます。」などと父母らに斉唱時の着席を大声で呼び掛けました。校長らが退場を求めると「なんで追い出すんだよ」と大声を上げ、式の開始を遅らせました。被告は2002年まで同校に勤務していた式の来賓。式の後、校長と都教委から異例の被害届が出され、在宅起訴されました。

この話、懲役になるようなものでないのは当然として、「起訴」、「罰金」というのもどうかと思います。確かに、「元教諭」は非常識です。君が代は国歌であることが法律で決まった以上(決まってなくても)、国歌斉唱を行うことは認めざるを得ません。戦前の「愛国行進曲」や「加藤隼戦闘隊」を歌うという話ではないのです。「斉唱」のやり方についても、主催者側の裁量の問題です。これに対する異論の唱え方として、卒業式の場を混乱させる方法しか考えられないのですから、教育者としての見識を疑います。これに反発して「愛国者」になる生徒や父母を増やすだけの効果しか期待できない愚行です。だからと言って、処罰しなければならない程の不法な行為とも思えません。

校長と都教委の方に、より大きな問題を感じます。もし仮に、「ヤンキー」の若者が式場で「約2分」程度(君が代とは別の理由で)叫(わめ)いた場合でも同様の対処をしたというのであれば、それはそれで筋が通ります(公平性)。しかし私がこれまで経験した範囲で言えば、そういう毅然とした態度が取れる公務員はほとんどいません。後で「お礼参り」をしたりする力もないであろう元教師だからこそ、被害届を出したのでしょう。相手が「怖いお兄さん」だったら、「まあまあ・・」などと言って、「穏便に」済ませたに違いありません。

わざわざ被害届を出したのは、政治的思惑あってのことでしょう。常識的に考えれば、式後に元教師を呼び、「そういうやり方は教育者として好ましくない。今後こういうことが行われた場合は毅然とした態度を取る。」と厳しく申し渡すのが教育関係者としての筋の通し方です。以前に同様の事態があって、本人に警告していたというのならば別ですが。

報道から読み取る限りそういう話ではなく、校長と都教委は、「権力の手先」として行動したに過ぎません。戦前の「特高警察」のような行動しか生徒の前で示せない校長と都教委の荒廃した精神状態に危惧を感じます。ちなみに、日の丸を掲げ、国歌を斉唱することを求めた、2003年10月の都教委「通達」後、君が代斉唱時の不起立などで懲戒処分を受けた教職員は延べ345人に上るということです。

「国旗は日の丸、国歌は君が代」と決めただけの「国旗・国歌法」制定後に始まった、都教委の「暴走行為」が背景にある事件であるというところは、押さえておきたいポイントです。 

「非常識教師」対「権力の手先(校長・都教委)」の対立構図。どちらがより悪質かの問題です。 

参照:「国旗・国歌法」における暴走の解明が必要(5月21日 )


2006/5/30(火) 在来線を守れ!佐賀県・鹿島市の自治

日本は広い。薩長土肥の肥前・佐賀県に人物あり。5月28日のテレビ朝日・サンデープロジェクトで、「長崎新幹線」に反対を続ける鹿島市長の戦いがレポートされました。地方自治関係者必見。感動ものです。

整備新幹線の1つ、長崎新幹線。総事業費3800億円。長崎新幹線計画に反対していた地元自治体の多くが国・県の圧力に次々と屈服し、地域振興助成と引き替えに賛成へと「転向」していきました。その中で反対を貫く桑原允彦・鹿島市長が主役。

番組では、九州新幹線・新八代鹿児島中央間開業に伴う在来線第三セクター化の現状が惨憺たるものであることを、新幹線が素通りした阿久根市における「使用前、使用後」のレポートで紹介。東北新幹線の駅ができて活性化するはずだった岩手県二戸市での予想外の不振についても映し出されました。

新幹線が地域振興の決め手になるというのは幻想である。公共事業による一時期のカンフル効果しか期待し得ない。むしろ、巨額の事業に目がくらみ在来線を失うことの方が、長期的にみて地元にとっての損失が大きい。このことを桑原市長は見抜いていました。

「わが故郷・鹿島を守るために新幹線はいらない」と反対を貫く桑原市長の存在は、新幹線推進派にとって大きな障害物です。任期満了に伴う今年4月の鹿島市長選挙。新幹線推進を掲げる対抗馬が立ちました。国・県の実力者が対抗馬を支援します。

鹿島市における県の10億円事業が突然、2月県議会で不採択になるなど、露骨な政治的圧力が加わります。強大な包囲網の中での市長選挙。「国・県・土木事業者連合軍」対 桑原市長の戦い。壮絶な戦いの軍配は、桑原氏に上がりました。もちろん、多数の住民が市長を支持した結果です。

地方自治のあるべき姿を垣間見ることができました。


2006/5/29(月) 社会保険庁、特別会計死守の戦い

今朝のテレビ朝日「スーパーモーニング」では、民主党・長妻昭氏をゲストに、社会保険庁による国民年金保険料不正免除問題が取り上げられていました。

要するに、社会保険庁による特別会計死守のための戦いであることがよく分かりました。「組織犯罪」です。厚生年金特別会計、国民年金特別会計が厚生労働省の利権であり、厚生労働省役人の重要な天下り先です。この仕組みを守るために、組織を上げて「徴収率向上」に努めなければならなかったということです。

「徴収額向上」ではなく、「徴収率向上」であるところが味噌です。国家国民のためではなく、組織を守るために「徴収率80%」が必要だったのです。

昨日の三択の解答。(1)(長官が裏で指示していた)、が正解でしょう。

長妻氏の結論は、税金と社会保険料の徴収体制の一元化、即ち社会保険庁解体です。零細業者としては、税務署が全てを扱うというのも怖い話だなあという複雑な思いがあります。正論だがなあ・・・


2006/5/28(日) 社会保険庁長官、(1)裏で指示、(2)黙認、(3)無能の三択

経済的な理由等で国民年金保険料を納付することが困難な場合には、申請により保険料の納付が免除・猶予となる「保険料免除制度」や「若年者納付猶予制度」があります。

この制度を社会保険庁が、申請もしないのに適用してくれるという大変有り難い話があり、これが大きな問題になっています。

村瀬清司・社会保険庁長官の責任問題にもなります。村瀬氏は民間の損保ジャパン出身で、社会保険庁改革のために登用された人物。村瀬氏が60%台の国民年金納付率を平成19年度に80%に上げる方針を打ち出し、社会保険事務所ごとに具体的な目標を盛り込んだ行動計画の策定を指示し、成績を人事査定に反映させる仕組みにしたことが、職員の焦りを呼んだものと言われています。「行き過ぎた成果主義」が「不正」の源です。

冷静に考えて、現在の低所得者を取り巻く社会情勢・経済環境を考えれば、納付率60%台を80%台にするためには、アイフルのような鬼の取り立てをして「分子」を大きくするか、保険料を納めなければならない人数、即ち「分母」を小さくするか、どちらかの手段しかありません。

村瀬氏が民間から登用された有能な人物だとすれば、実態を熟知して(1)裏で指示したか、(2)黙認したかのいずれかです。「知らなかった。そんな馬鹿なことが・・」と言っているようだとすれば、(3)無能な人物ということになります。

免除制度適用の話は、社会保険庁バッシングになるのか、長官の責任論になるのかは別として、これはこれで「いい話」ではないかと思います。社会保険料支払いに汲汲としている零細事業者としては、こういう形で「徳政令」を幅広く実施して欲しいものだと乞い願っています。

そもそも、国民年金制度、社会保険制度は、破綻しています。その実態を無視して納付率向上を叫ぶこと自体が、「上流階級」のママゴト遊びにしか見えません。与党国会議員、マスコミは国民年金を納付できない社会の実態は御存知ないのでしょう。

社会保険庁の職員は現場の実態をよく知っています。彼らにとって頑張れる目標値は、実質2〜3%の納付率向上というところであろうと思います。ひょっとすると、納付率を低下させないということで精一杯かも。

現場の情報を得ながら、「納付率80%以上」などという絵空事を平然と言い立てる社会保険庁長官の不誠実さが大きな問題だと、私は思います。彼は上司受けの良い言葉を連発して出世してきた人物なのかもしれません。民間時代、部下にとっては地獄だったのではないでしょうか(今も・・・)。


2006/5/27(土) 与党の審議拒否、その非情

小沢一郎氏のメルマガに登録し、夕刊フジに連載中の「剛腕コラム」を愛読しています。「剛腕コラム」226号に「与党の審議拒否」が取り上げられていました。与党の審議拒否は頻繁に行われますが、マスコミはこれをほとんど取り上げず、野党の「審議拒否」を大きく取り上げます。議会政治について不勉強と言うべきか、政府広報機関と言うべきか。

以下、「剛腕コラム」226号、全文を紹介します。

『◇夕刊フジ「剛腕コラム」226号◇

・・・がん対策に冷酷な小泉政治・・・
・・・民主党提出法案、まったく審議されず・・・
・・・闘病中・山本議員の訴えに棒読み答弁・・・

先週の党首討論でも取り上げたが、自公与党が衆院で医療制度改革関連法案を強行採決してから、国会は異常な状態が続いている。

民主党が問題にしているのは大きく2点。

まず、この法案が抜本的改革に手を付けず、国民に負担増ばかりを押し付けるひどい中身であること。そして、わが党ががん患者や家族の方々のため、今年4月に提出した「がん対策基本法案」が、自公与党の党利党略から一度も審議に乗せられないまま、棚ざらしされていることに強い怒りを感じているのだ。

がんは現在、日本人の死亡原因の31%を占め、年間30万人以上が命を失っている国民病といえる。

ところが、がん治療の地域間格差や施設格差は広がる一方で、患者や家族の方々は苦痛と不安に苦しみながら、「もっと良い治療法があるに違いない」「何とか助かりたい(助けたい)」と、良質な医療と的確な情報を求めてさまよう「がん難民」となっている。こんな悲惨な状況は放置できない。

わが党は、今こそ国と地方公共団体の責務を明確にし、がん対策に総合的かつ一元的に取り組む基本的枠組みを定めようと同法案を提出した。がん治療に対する総合的対策の推進こそが、日本の医療全体が抱える問題を解消する第一歩となると確信したからだ。

自公与党とも、法案の中身について反対しているわけではない。ただ、民主党が最初に法案化したため、「野党に手柄を取られる」といった狭い了見で審議させないのだという。

22日午後の参院本会議で、わが党の山本孝史議員は自らもがん患者であることを告白したうえで、「がん患者は身体的苦痛や経済的負担に苦しみながら、新たな治療法の開発に期待を寄せつつ1日1日を大切に生きている」と、法案の重要性について心を込めて訴えたが、小泉純一郎首相は「国会で十分に議論いただくべきものだ」と役人の書いたメモを棒読みしただけだった。

山本議員は昨年末にがんが判明し、現在も抗がん剤治療を続けながら議員活動を続けている。僕はこの報告を受けて胸が痛くなった。どうして、首相はあんな答弁ができたのだろうか。

郵政解散・総選挙でも分かるように、首相は権力闘争には敏感で、権力維持のためなら何でもするが、それ以外は極めて無関心。国民への思いやりや使命感、責任感といったものはまるで感じられない。僕はこれを「心がない」と言っているが、北朝鮮による拉致被害者家族への冷酷な態度にもよく現れている。

こんな国民不在の政治を許していいのか。少しでも早く法案が成立すれば、助かる命だってあるはずではないか。冷酷な小泉流政治を放置すれば、日本は本当におかしな方向に進んでしまう。国民の方々にはよくよく考えてほしい。 』

「剛腕コラム」は、小沢氏のホームページでも読むことができます。


2006/5/26(金) 国会での税金の使い方

国会議員の国勢調査のための国勢調査費から酒席に多額の支出があったと報じられています。衆議院で2002年、2003年度の2年間で総額約1億円が懇談名目などで議員らの飲食代に支出され、その約半額が高級料亭やスナックなどでの酒食に使われていたことが、朝日新聞の情報公開請求で明らかになっています。

現行の情報公開法では対象を行政機関に限定しているため、国会は対象外になっています。朝日新聞が会計検査院に対し、衆院から提出を受けた支出関連の書類を情報公開請求した結果判明したものです。国政調査活動費の使途がまとまった形で明らかになったのはこれが初めてということです。 

お手盛りの典型。税金の使い道を厳格に監視する国会議員の責務はどこへいったか。私の市議時代、視察研修中の酒代は自腹でやるように要求し、所属委員会では賛成してもらっていました。増税が囁かれる中、税金の使い方は厳格でなければなりません。国民の厳しい視線を感じてもらわなければ、およそ政治にはなりません。「マジメにやれ」という、基本中の基本の話です。

翻って大洲市では、実質的な市長専用トイレに200万円以上の公金が使われたのは不当であるとして住民監査請求。財政再建を公約に当選した市長の姿勢が問われます。


2006/5/25(木) 改正都市計画法成立

床面積1万平方メートル超のスーパーなど、大型集客施設が郊外出店することを原則禁止する改正都市計画法が24日、参院本会議で可決・成立しました。来秋施行の見通し。改正都市計画法は、中心市街地活性化法、大店立地法と並ぶ、中心市街地活性化のための「まちづくり3法」の1つです。

車社会の進展に呼応する形で、全国各地で郊外の「白地地域」に大型店が出店し、都市のスプロール化(都市の無秩序な拡大)を招きました。中心市街地は空洞化し、都市としての魅力が大きく損なわれました。全国何処に行っても金太郎飴的に同じ風景が広がり、その土地ならではの歴史や文化が感じられなくなりました。

都市のスプロール現象は、インフラ整備に多大な出費をもたらし、自治体財政に大きな負担となります。また、交通渋滞や少年犯罪の多発といった地域の環境悪化を招く原因にもなります。

地域コミュニティーの核となる中心市街地を守り育て、超高齢社会に対応する歩いて暮らせるまちづくりを推進し、環境負荷の小さなコンパクトシティーを目指す必要があります。個性的な中心市街地を持つ都市を戦略的につくりあげ、集約した中心街区に人・モノ・金を集めて新たな産業基盤を形成することを、自治体の産業政策上の最重要課題として位置付けなければなりません。

地方公務員の皆さんが、現在置かれている部署とは無関係に、都市の魅力づくりに積極的な意義を見い出せば、その自治体は繁栄します。官民一体となり、地域人としてまちづくりを行うことができれば、その都市に住むことが住民の誇りになります。


2006/5/24(水) 民主党は東京決戦を!

石原慎太郎・東京都知事が早々と来春の都知事選出馬宣言、と報じられています。「東京オリンピック」実現のためということです。

民主党が地方での対立軸を明確に打ち出すとすれば、「打倒石原」で東京決戦をやるべきだと思います。しかし、石原氏に勝てる人材を擁立することはかなり難しい問題です。誰でも思い浮かぶ名前は、菅直人・民主党代表代行ですが、政権交代に向けて執行部が団結するということからすれば、無理ということになります。

石原氏に勝つということを最優先に考えると、著名人であることが必要条件になってきます。それも、「この人だったら任せてみたい」と思えるようなビジョンと構想力を持った有能な人材でなければなりません。

私は、大前研一氏が相応しいと考えています。7年前に大前氏は都知事選挙で敗れています。そのときには大前氏に対するアレルギーが有権者にありましたが、今なら大前氏のビジョンはより率直に受け入れられると思います。当代きっての論客・大前氏を担いで地方主権と東京改造のキャンペーンを張れば、大きな効果が期待できます。民主党との意見の隔たりはあるでしょう。しかしそこを乗り越えて、民主党が三顧の礼をもってお願いすべきです。

後出しジャンケン男・石原慎太郎が先に動いた。チャンス到来。是非とも東京決戦をやっていただきたい。ここで勝ったら天下が取れる。ファシスト・石原を打倒せよ!


2006/5/23(火) 民主党、地方における「対立軸路線」

民主党が今後の知事選と政令指定都市の市長選で、与党と同じ候補を推薦・支持することは原則としてしない方針を決めました。来年の統一地方選に向けて、地方でも与党との対決色を鮮明にし、参院選につなげる狙いであると言われています。 

地方における「対立軸路線」が徹底できれば、民主党政権が本格的に見えてきます。しかし地方における民主党の現実には厳しいものがあります。民主党県議の戦略は、自民党の推す候補者に相乗りする形で「与党」になり、地方議員として仕事をやり易くし、選挙で自らの当選を確実にしていくというものです。

このあたりの実態を党本部がつかんだ上での方針であるとすれば、地方組織との「闘争」をやり抜く決意が必要です。各地の連合がどう判断するかも影響します。小沢氏が連合トップと交渉して合意し、各地の連合組織に「指令」が行き渡るようだと対立軸路線が現実化する可能性が出てきます。

地方の民主党は連合の考え方に大きく影響されます。本当はそれではいけないのでしょうが、自民党スタイルの政治家でない限り、個人的な地盤では当選できない人が民主党から出馬するというのが実態であり、連合が支援しない限り当選できない議員・候補者が大半です。 

もっとも、地方組織がグズグズ言っても、党本部からの支援金が上積みされたり、小沢氏はじめ名の通った大物が候補者の応援に来てくれるというような「裏付け」が示されれば、地方議員も決断する可能性があります。

民主党の弱い地域では、政権交代後に自民党の県議がゾロゾロやって来るという展開しかあり得ないという感じもします。自前の資金で選挙をやらなければならない地方議員がどれだけ「理念」に忠実に動けるか。人間模様としては見所になります。


2006/5/22(月) 組織人から地域人へ

太平洋戦争敗北から61年。先輩諸氏の御努力のおかげで早期に復興を遂げ、経済大国と言われるようになって久しいものがあります。その間、「企業戦士」として頑張って来られた方々の労苦に対し、心より感謝申し上げます。

時代は変わり、団塊の世代が大量退職する時代を迎えました。少子高齢化、人口減少。大きな環境変化のうねりが押し寄せています。環境の変化に対応して、国や自治体、企業もそれなりの対応を迫られます。そして、個人も環境変化に対応する生き方の変革をしなければならなくなっています。

最近のニュースで、女性のストレスの最たるものは「夫」であるという調査結果が報じられています。これに対し男性は旧態依然。「妻」に癒しや安らぎを感じているということです。男性を取り巻く環境は、「イエローカード」状況だと言えるでしょう。

組織人として生きてきた男性諸君、その「殻」を脱ごうではありませんか。殻を取り去った「生身」の状態で生き方の再発見をしておかないと、「レッドカード」になります。

1つの生き方として、「地域社会デビュー」をお勧めします。「肩書き」で必要以上に拡張した「自己」から解放され、「等身大の自己」を発見する作業が必要です。従来の経歴を鼻に掛け、「○○では・・」を連発して、「出羽の守」などと陰口をたたかれないようにしなければなりません。「生身」の無防備な自分を直視しながら、地域で活動していただきたいと思います。

組織人から地域人へ。ギアチェンジして、スローダウン(減速)を。


2006/5/21(日) 「国旗・国歌法」における暴走の解明が必要

教育基本法改正に向けての議論が活発です。とりわけ、「愛国心」を盛り込むか、どのような形で盛り込むのかが焦点になっています。

いくら立法過程で提案者側が慎重な運用を誓っても、実際には運用段階で暴走することがあります。「国旗・国歌法」の運用における東京都教育委員会に代表される現場の暴走は、立法段階と運用段階とでのギャップがあることの実例として重要です。

広島県立世羅高校の校長先生が国旗・国家をめぐる労組と教育委員会との板挟みになって自殺したことに端を発して、小渕政権下で「国旗・国歌法」が制定されました。この法律の推進者、野中広務氏が著書「老兵は死なず」で以下のように述べています。

「日の丸・君が代が戦争で果たした役割についてさまざまな反発があり、それが心の傷になっている人たちがいることは、国会の審議を通じても明らかになった。そのことも忘れてはいない。また、法律では義務規定、罰則規定は盛り込まれていないが、実際の教育現場で、さまざまな形で実質上の罰則、義務に近い運用がなされることのないようにお願いをしたい。」

教育基本法改正における疑念を晴らすためにも、東京都教育委員会を国会の場で喚問すべきだと思います。国旗掲揚や国家斉唱時に教員が起立しなかったから処分する。歌を大きな声で歌っているかを調査する。一つの法律を契機として、そういうところまで現場が暴走しています。立法者の意図と懸け離れた運用がなされている実態を、立法府がきちんと検証すべきです。

教師が法律に規定されていることに対してむやみに反対を唱えることは、結果として教育者としての権威を失うだけであり、自ずと自制が働くものです。国旗と国家が法的に確定したことで、教育委員会としては大らかに現場の推移を見守ればいいのです。そこに追い打ちを掛けなければ気が済まない心根の卑しさがどこから来るのか。そこに光を当てるべきです。

ファシズム・ナチズムの尖兵(我が国では特高警察など)が、功名心から、より激しく反対者を弾圧した歴史を想起すべきです。「ファシズムの日常とはそういうものだ」という体験をしたことが、現場の生徒諸君に対する「教育」であったというのも皮肉なものだと思います。


2006/5/20(土) 「住む」ことは「国防」である

地方切り捨て路線まっしぐらの小泉政権。この路線の支持者の中には、「地方が住みづらいというのなら都市部に移り住めばいい。日本国憲法には『居住移転の自由』がある。」と言い切る方もいます。

片田舎には誰も住まなくていいのでしょうか。人間の住める条件は都市部にのみあれば足りるのでしょうか。確かに、山の上の一軒家に高齢者が一人で住むという場合には、麓の集落に降りてもらうということも必要でしょう。集落における居住形態の集約化も、財政負担の軽減を考えればあり得る選択です。

しかし、田舎に人が住めなくなるようにすることは間違いです。全国津々浦々に人が住み生活を営んでいくことの意味を考える必要があります。誰も住まなくなった家はすぐに朽ち果てると言います。誰も住まない地域は荒廃します。荒廃することの対価は膨大なものになります。防災のことを考えても大変です。

津々浦々に人が住むことは国を守ることです。シンガポールのように都市だけで成り立つ国家もありまが、都市だけで覆い尽くすことのできない面積を有する国家においては、都市だけが繁栄するということでは国家は成り立ちません。地方に人が住むことは国防である。そういう認識を基礎に持っていない軽薄な国家は衰退します。


2006/5/19(金) 愛媛県の分限処分

5月18日愛媛新聞に、愛媛県が与えられた職務をこなせない職員を要綱で「勤務成績不良職員」に認定し、2006年度人事異動(4月1日付)で地方公務員法に基づく分限処分をしていたことが分かったとの記事がありました。認定対象者が十数人。内、3人が降格、6人が3月末に自主退職。

愛媛県は昨年12月に「勤務成績不良等職員の指導に関する要綱」を策定し、副知事、関係部長で組織する「懲戒委員会」を「分限懲戒委員会」に改称しています。年1回の人事考課により勤務成績不良者と認定されると、原則1年間所属長の指導を受けながら職場での研修に取り組み、人事課が目標達成度をみて、仕事をこなせるようになれば元に戻します。こなせないと判断すれば、分限懲戒委員会に諮り降格。改善がみられなければ退職勧奨し、同委員会の判断で免職ということになります。

県職員労組はこれに反対。成績不良の定義が抽象的で恣意的な運用がありうるとして、要綱の廃止を求めています。労組の懸念はもっともなところがあります。まず、「あの人たちなら仕方がないじゃないか」というところがターゲットになります。制度が定着したところで、「あれ、これはおかしいんじゃないか」と疑問に感じられる処分が出てきます。次第に、上司に逆らったらおしまいという空気が醸成されてしまうという筋道が考えられます。そういうことを考えると、成績不良の定義を明確化し、判断の恣意性を防ぐための制度的な担保が是非とも必要です。

鳥取県や和歌山県などが牽引する形で、成績不良者を分限処分で退職させる流れができつつあります。この流れは強まるであろうし、世論も反対しないだろうと思われます。時代の趨勢というべき流れは既にできあがっています。しかし、これが公務員リストラの王道であるかの如く考えるのは間違いです。

そもそも、公務員に雇用保険を掛けることなしに(=失業給付なしに)分限処分の範囲を拡大することは不当です。労働者として権利の面で民間よりも劣位におかれていることとの引き替えに公務員の身分保障があることを考えれば、分限処分を幅広く認めるのではなく、民間同様の権利を与えることが先行して議論されるべきです。分限処分による公務員リストラは、あくまで例外的かつ過渡的なものであると理解すべきです。


2006/5/18(木) 小沢・小泉の党首討論

小沢・小泉の党首討論が行われました。意外に静かなやりとりであるとか、拍子抜けであるとか、様々な論評があります。

小沢氏が考え抜いた作戦であると、私は理解します。理路整然と静かに、問題点を明らかにしていく。これに対して、きちんとした知識を背景に持っていないとハチャメチャな議論になってしまう。小泉氏の政策面での弱さを浮き彫りにするためには、こういうやりとりが有効である、という考え方なのだろうと思われます。

政治には、権力闘争の側面と、政策実現の側面とがあります。権力闘争の側面では、小泉純一郎という人物は異色の能力を持っています。これが証明されたのが昨年の総選挙でした。

政策という面になると、全く関心がないのが小泉氏の特色です。ワンフレーズの連呼で局面を突破するが、内容面は皆さん宜しく頼む、というのが小泉スタイルです。「改革」が連呼され、様々な問題の端緒は切り開きましたが、内容的な前進はほとんどありませんでした。政策の体系を持たず、理念・哲学のない人物が行う「改革」が、如何に内容空疎であるかが分かった5年間でした。

三十数年政治家をやっていたにしては驚くほど何も知らない総理大臣の弱点をつくには、パフォーマンス的やりとりではなく、静かな討論に導き、「長い台詞」を言わざるを得ない展開に持っていく作戦が妥当です。一発芸、瞬間芸のお笑い芸人に古典落語をやらせればどうなるか。

教育に関する小泉氏の答弁は、基礎知識のなさが歴然としたものでした。第二幕以降のやりとりでは、この面でのあぶり出しがどの程度うまくいくのかが見所になってきます。

「小泉って、馬鹿な奴だな」と思わせれば勝ち。


2006/5/17(水) 「群雄割拠」で行こう 

霞ヶ関の力の源泉が補助金です。地方に財源を与えることと一対をなす形で補助金をなくせば、地方は霞ヶ関に「参勤交代」する必然性がなくなります。自らの尊厳と主体性とを犠牲にしてお金をいただくという、おこぼれちょうだい型のみすぼらしい生き方から開放されることにより、地方に新たな可能性が開けます。

霞ヶ関の官僚諸君にとっても、本当に国の機関がやるべきことに集中できる環境が整ってきます。確かに、霞ヶ関の定数は減ります。しかし、官僚の皆さんにとっては、やりがいのある人生の始まりです。チマチマとした補助金の審査や査定という詰まらない仕事から解放され、真の国家ビジョンを構想する仕事が待っています。

地方で腕力を試す生き方もあります。この方が「中央」での人生よりも、もっと面白いのではないでしょうか。地方のグランドデザインを描くことには、大きなロマンがあります。地方で「群雄割拠」したい「頭領的資質」を持った官僚諸君には、是非とも野心的な取り組みをし、旋風を巻き起こしていただきたいと思います。


2006/5/16(火) 鵜飼いの鵜

「地方分権」「道州制」という言葉を自民党が用いるときには、眉に唾を付け、しかっりと意味を確認する必要があります。自民党型「分権」は、地方が権限を持ち、財源を確保し、人材にも恵まれた状態にしていくという意味では絶対にありません。

彼らの言う「分権」とは地方に仕事をやらせるという意味です。「権限移譲」といっても、要は仕事が増えるだけ。肝腎の決定権はありません。鵜飼いの鵜と同じなのが、自民党型「分権」です。「ヒモ」は中央が握っています。仕事は鵜がするが、ヒモは鵜匠が握る構造。中央集権の合理化と言った方がいいでしょう。

地方に決定権があり、中央の顔色を伺わなくてもいい状態を獲得しなければなりません。地方が自由に産業政策を樹立して競い合う状態。その前提条件の確保が必要です。

分権と言いながら決定権は中央が留保し、仕事の量を増やして財源は締め上げる。対等な競争条件を与えることなく、効果効率のみを言い立て、地方を切り捨てていく。

このやり方に反旗を翻す覚悟を地方のリーダーが持たなければなりません。そして、自民党とは、中央集権のシステムがあって初めて成り立つ政党であるという本質を見抜かなければなりません。


2006/5/15(月) 不良資産としての「小泉チルドレン」

昨年の9.11総選挙で自民党が勝ち過ぎたことで、これから自民党は悶え苦しむ可能性があります。

次の衆院選は、民主党が転ばない限り、自民党が当選者を減らすことが確実です。来年の参院選で自公が負けると、かなり政治情勢が緊迫します。

昨年10月の「文藝春秋」で中西輝政・京都大学教授が、かつて英国首相ロイド・ジョージが行った「クーポン選挙」と小泉首相が断行した9.11選挙での「刺客」騒動との類似点を指摘し、選挙で圧勝したロイド・ジョージが「クーポン選挙」で当選した議員たちの反乱よって政権の座を追われるとともに、自由党凋落を招いた歴史について示唆に富んだ意見を述べていました。

9.11選挙の落とし子である「小泉チルドレン」が、「1回当選できて良い思い出だったなあ」と割り切ってくれれば何の問題もありません。しかし、国会議員であり続けようとジタバタするのが自然の成り行きであり、そうだとすると、それが自民党の命取りになるかもしれません。

彼ら「チルドレン」は、人気のある総理大臣で選挙を戦いたいと思うはずです。「地力勝負」の選挙では浮かび上がれない方々ですから、9.11の再現を期待するでしょう。それを願って行動をし、その存在がマスコミを通して目立てば目立つほど、「勝たせ過ぎた」という有権者の苦い記憶を喚起することになります。

自民党にとっての不良資産「小泉チルドレン」の動向を注意深く見守りたいと思います。


2006/5/14(日) 「格差拡大」というほどの「改革」をやったのか?

ある論評を読むと、小泉政権による格差拡大が問題になっているが、それほどの「改革」をやったのかという意見が述べられていました。

この指摘は、半分当たっていると思います。口先だけの「改革」であって、目次だけを掲げた、食い散らかし状態。もう少しで化けの皮が剥がれるところで引退というシナリオになっています。

半分は、大きくはずれています。「改悪」はどんどん進みました。

派遣労働の規制緩和で製造業への派遣が緩和され、「請負会社」の社員が正社員と同じ仕事をしながら、将来展望を開けない日々を送っています。「規制緩和」が一部の企業や人に有利な条件を与える方向で展開し、国民の幸せには結びつきませんでした。

イラクには、憲法違反の疑いが濃厚な自衛隊派遣が強行されました。従米路線、属国路線の徹底でした。

「郵政民営化」という国富の投げ売りが総選挙の争点に仕立て上げられ、国民の労働による富の蓄積が、外資の意のままになる条件整備ができあがりました。

また、「三位一体改革」というペテンが堂々とまかり通り、地方切り捨てが極端な形で進みました。

弱者の血を吸い取り強者に提供する吸血路線。国富と自衛隊員の命をアメリカに提供する売国路線。地方切り捨ての非情路線。

これらの逸脱行動をマスコミが支援する構造ができあがった5年間でした。政権の終焉を見込んだマスコミが、「光と陰」を問題にするポーズを取るようになったのが最近です。

小泉純一郎。希有なペテン師なのか。あるいは、首尾一貫した馬鹿なのか。


2006/5/13(土) まちづくりにおける「地域資源」の発見

まちづくりにおいては、「地域資源の活用」が重要だと言われます。その「地域資源」が何かというところが問題です。

自民の目で地域資源を発見するのは至難の業です。私のまち、伊予市・郡中の古い町家について平成5年にまちづくりの勉強会を行った際、松山工業高校教諭・犬伏武彦先生(現・東雲短大教授)の説明に感じ入って以来、その値打ちを知ることになりました。

それ以前の私にとっては、古い家=おんぼろな家、でしかありませんでした。目の前にあって子供の頃から見慣れた風景に価値があると自ら判断できる人は立派だと思います。外部の人から指摘されて初めて価値が分かるというのが普通なのかもしれません。

困るのは、指摘されても分かろうとしない人たちです。「町並みとしての連続性がないと値打ちがないだろう」「この程度なら何処にでもあるだろう」「観光客を呼べるほどではないだろう」「内子のようだったら良いけどな」・・・

他の地域の立派な事例の表面だけを見て、その地域の方々の努力を知ることなく、結果だけで判断する人が多いようです。自分たちの地域の歴史は自分たちが創っていくという自覚のない「評論家」が横行するようでは、道が開けません。町並みも結果として残ったものというより、その地域の人が自覚的に取り組んで残してきたものです。

まちづくりとは、自分たちの地域の価値を発見する作業であり、新たな価値を付加し続ける現在進行形の作業です。自らの地域の歴史を、教科書に載っている「ブランド品の歴史」(信長、秀吉、家康・・)と比較して卑下する必要などありません。我々の先人たちの営為の足跡である等身大の歴史を、地域のアイデンティティを構成する重要な一部として大切にしていくことで、落ち着いた、品格ある都市ができあがるのだと思います。

地域を象る歴史と文化。それに対する尊敬の念のない機能本位の発想では、巨大投資が可能な大都市には何時まで経ってもかないません。「ナンバーワン」が狙える都市は、それを目指せばいいと思います。そうでない都市は、「オンリーワン」に徹する必要があります。地域資源に目を向けないやり方では、「ワンオブゼム」にしかなり得ないということを指摘しておきます。


2006/5/12(金) 中心市街地活性化と自治体の哲学

地方都市の中心市街地活性化がなかなかうまくいかないと言われています。その指摘を受け、まちづくり3法(中心市街地活性化法、大店立地法、都市計画法)の改正が俎上に上っています。よりより改正が望まれますが、法律がどう変わろうとも、自治体における都市についての哲学がしっかりしていなければ、なかなかうまくいきません。

超高齢社会に対応した、歩いて暮らせるまちづくりが必要です。都市的機能を集約し、狭い範囲で様々なサービスを受けられなければなりません。狭い範囲に居住することで、インフラ整備の経費が縮減されます。車への過度の依存から脱却し、車の総走行距離を短くすることで、環境負荷が小さくなります。「持続可能なコンパクトシティー」に向けた取り組みということです。

小都市ほど中心街区の人口密度を高める努力をすべきです。「台風の目」がしっかりしていればいるほど、求心力の高い、強い台風になります。それと同じことが都市にも言えます。中心街区がしっかりしており、そこにその都市の「顔」が見える都市は、求心力があります。中心街区に人・モノ・金が集約すれば、新たな産業の芽が出てくる期待も沸いてきます。人と人との出会いやコミュニケーションが、地域への帰属感を強くします。地域コミュニティ再生のためにも、中心市街地の活性化が必要です。

都市の中心部とは、単に機能的に優れているだけでは足りません。その街の歴史や文化を体現していることがあってはじめてその都市の個性を表すことになります。ここを無視すると、薄っぺらな街にしかなりません。土地の人にとってはありふれた事物・風景が、外部の人にとっては「お宝」ということがよくあります。地域の資源を生かし、「どこにでもある街」ではなく、「ここが我々の街だ」と言える個性化がどれだけ図れるか。「オンリーワン」への取り組みにおいて、自治体関係者の哲学と力量が問われます。


2006/5/11(木) 自治体内の「地域事務局」構想

昨日述べた「ぶらぶら公務員制度」の延長線上の話として、あるいは独立した構想として、公務員等が事務局員となる「地域事務局」を創設し、小学校区単位の自治、もっと狭い地域(大字、集落)の自治を充実させる必要があると考えます。

地域住民で主導する自治も、超高齢化・人口減少が進めば、運営に支障を来すことが当然予想されます。これまでのイベントや学習中心の公民館活動では地域事務の処理はできないし、より身近な地域のあり方を議論して決定することも無理です。

難しいのが、事務局機能です。大づかみな議論や決定は地域住民がすべきですが、前提となる資料を準備したり、議論や経緯を記録したり、自治体と連携したりする作業は、「事務局」なしには不可能です。

この事務局機能を、公務員あるいは一定の事務処理能力がある者が行うべきだと考えます。やり方として、「ぶらぶら公務員」に事務局を担ってもらう方法、公務員が2つ以上のポジションをこなし、週1回地域事務局としてそれぞれの地域の事務局を受け持つという方法、「公的ボラバイト」に地域事務局をやってもらう方法等が考えられます。

集落単位の自己決定→小学校区単位の自己決定→自治体レベルの自己決定がそれぞれの単位で民主的に行われること。昔ながらの風通しの悪い因習的な寄り合いではなく、民主的な決定ができるシステムを構築することで、地域住民の意思がよりストレートに自治体行政に反映されます。また、地域住民の力が効率的に結集されることになり、自治力が大幅に向上します。

地域自治の毛細血管を拡大し、血の巡りの良い民主主義社会を形成することが、地域社会の発展(衰退防止)にとって必要です。都市部からのUターン者、Iターン者等の新たな血を地域に受け入れるための前提条件としても必要な作業です。本格的な「自治体内地域分権」を、真剣に議論したいものです。合併後の「地域審議会」などという、制度化されたガス抜き装置に期待しても無駄だと思います。

<参照> 
5月10日 「ぶらぶら公務員制度」の提唱
4月28日 公的ボラバイト
4月23日 生き残れ、公務員!


2006/5/10(水) 「ぶらぶら公務員制度」の提唱

かつて、「ぶらぶら社員」というのが話題になりました。永谷園が採用した制度です。優秀な社員を通常の業務からはずし、自由な時間を活用して柔軟な発想を持ってもらい、ヒット商品開発に結びつけようとの狙いがあったと思われます。

私は、「ぶらぶら公務員制度」を提唱したいと考えています。「公務員は何時もぶらぶらしてるじゃないか」という御批判はさておいて、話を進めます。一定割合の公務員を出勤不要とし、自宅や地域で自由に活動してもらうのです。

週1回、レポート提出を義務付けます。それ以外は自由。一市民として外部から行政のあり方を見直してもらうのです。公務員の人生というのは、普通の市民の感覚を失って固まってしまう恐れが大きいものです。公務員が考えていることの大半は、「これは、こういう理由でできません」という言い訳です。市民に対するこの「ガード」を取り除かないと、真に市民のための行政を遂行することはできません。

リストラ(公務遂行システムの再構築)という意味合いもあります。国、県、市町村で「行政改革」が行われていますが、公務員は途中で辞めてもらうことが難しく、採用抑制による緩やかな人員削減しかできないのが実情です。

ある自治体が500人の職員を抱えているとします。これが毎年数人ずつ減っても大した改革にはなりません。従来の仕事を、例えば300人でやると直ちに決めるのです(100人でやれるという御意見もあるでしょうが)。残りの200人を「ぶらぶら公務員」にします。

庁舎の300人には、徹底的な業務の効率化に取り組んでもらいます(万一無理が生ずれば、「ぶらぶら公務員」が「ボランティア」で駆け付けてもいいでしょう)。「ぶらぶら公務員」が市民として地域に根ざして活動すれば大変なパワーになります。彼らが市民パワーを引き上げていく作業をし、市民の間からボランティアの後継者を育成していけば、民間の自治能力は飛躍的に高まります。

(この文脈で、自治体職員による「地域事務局」構想についても、述べてみたいと思っています。できれば、明日。)

<参照> 
4月28日 「公的ボラバイト
4月23日 「生き残れ、公務員!


2006/5/9(火) 懲罰的損害賠償

北米トヨタ社長のセクハラに対し215億円の損害賠償を求めて秘書が訴訟、というニュースがありました。ここで懲罰的損害賠償という言葉が出てきました。

懲罰的損害賠償とは、損害賠償請求訴訟において加害者の不法行為が強い非難に値すると認められる場合に、裁判所の裁量により、制裁を加えて将来の同様の行為を抑止する目的で、実際の損害の補填(てんぽ)としての賠償に加えて上乗せして支払うことを命じられる賠償のことをいいます。英米法系諸国で認められている制度です。アメリカでは、加害者の資産が考慮されるようです。

日本の制度では、損害を金銭的に評価したものだけが賠償額として請求が認められます。精神的損害の金銭的評価について、若干の裁量があり得る程度です。

我が国でも、懲罰的賠償を認めるべきです。相手が道義的に許せないから訴訟に発展する場合があります。そのような場合に通常の賠償額では、相手方に何らの痛痒も感じされることができないような賠償額しか取れないのが実情です。我が国の司法制度はこの点で、国民のニーズに応えていないと思われます。

これに対して、アメリカのようにコーヒーをこぼして火傷をした人が、コーヒーが熱かったからだと言って何十億円もの金を手に入れるような、非常識なことが起こる制度も考え物です。被害者に帰属すべき損害賠償額は、相手方の資力等に関係なく一定であるのが公平です。大企業の社長のセクハラは何百億円で、零細企業の社長のセクハラは何百万円、係長だと何十万円、というのもおかしな話です。

実際の損害を超えた懲罰的な部分は被害者には帰属せず、公的に管理するというのはどうでしょうか。例えば損害額は100万円、懲罰部分が1000万円とします。懲罰部分の1000万円については、被害者が福祉予算に充てて欲しいという意向であれば福祉予算に上乗せするということにするのです。地元の自治体の予算に加えるということもあっていいでしょう。あまり具体的過ぎると、問題が生じるかもしれません。

日本の司法制度はくそ真面目すぎて、面白みがありません。「訴訟社会」を招かない限度で、様々な試みをやってみるべきです。裁判員制度で国民が、刑事裁判ではありますが、司法に参加する道が開けました。司法をもっと国民感情に近づけるための工夫が必要だと思います。

法律や司法は(そして政治も)、国民を幸せにするソフトウェアだと考えていいのではないでしょうか。


2006/5/8(月) 「日米同盟」を疑え(2)

「日米同盟」という言葉の正当性についても一言述べておきます。

1981年のレーガン・鈴木の日米首脳会談後の共同声明で初めて「日米同盟」という言葉が飛び出しました。これが大問題になり、鈴木善幸首相は帰国後、軍事的意味合いを含まない同盟関係であると釈明。これに反発した伊藤正義外務大臣が辞任しました。その後、中曽根内閣において「日米同盟」に軍事的側面があることが表明され、それ以降「日米同盟」が徐々に市民権を得てきました。

このように微妙な内容を有する「日米同盟」であるにもかかわらず、今や軍事同盟であることが当然のことであるかのように理解され、誰も疑わない大前提として、日本の外交防衛政策が演繹的に結論付けられるようになっています。

どうも裏で、大マスコミと政府との談合があるのではないかという気がします。ちなみに、「現代用語の基礎知識」や「知恵蔵」(たしか、「イミダス」でも)で検索しても、「日米同盟」の見出しはなく、文脈の中で「日米同盟」が語られるにすぎません。

私は、「日米同盟」ではなく、「日米安全保障条約」という言葉から出発すべきであると考えます。日米安全保障条約の内容として日米間の関係はどうであるのかを絶えず分析的に検証しながら、日米間のあり方を考えていくべきであって、「大前提=日米同盟」→「結論」型の演繹法の思考パターンから脱却すべきです。

日米関係という様々な政治、経済関係、人間関係を含めた大きな絆があり、日米安全保障条約という国家間の法的関係があり、そこに軍事的な連携もあることを念頭に置きつつ、個別の問題について外交問題の一場面として考える作業が必要です。「日米同盟」で思考停止してしまうのでは、真の国益は守れません。

「選択肢1つ」という外交路線を見透かされて、衰弱しつつあるアメリカ帝国の実体経済を補完させられ、我が国の富を消耗して大損させられるパターンにはまってしまっているのが、現在の日米関係ではないでしょうか。

「ジャイアン対のび太」の「同盟関係」では、子々孫々に合わす顔がないと思います。


2006/5/7(日) 「日米同盟」を疑え

在日米軍再編に伴う日本側の負担が3兆円になるというアメリカ側の発言が報じられています。国家財政が破綻の危機に瀕している中で、何兆円単位の金が外国の希望で鷲づかみされることに対して、疑問を抱く方が多いだろうと思います。

日本の負担を正当化する論理は、「日米同盟」です。米軍による抑止力のおかげで日本は安全だ。ここからあらゆる結論が演繹的に導かれるのが我が国の安全保障政策です。

この論理に疑問を持つことが、我が国が真に自立した国家であるための最低条件です。少なくとも、「日米同盟」を費用対効果で考えてみる必要があります。外交防衛における思考停止状態は、国益を大きく損なうことにつながります。

「日米同盟」の効果は、他国からの侵略に対する抑止力です。しかし、現在の自衛隊の実力は世界有数であり、我が国単独でも侵略される危険はないと思われます。我が国を侵略する実力を有するのは、アメリカだけではないでしょうか。ということは、最も危険な国と「同盟」を結ぶことにより、自国の安全を維持しているのが日米同盟だということになります。

最も危険な国を敵にしないためだけの「同盟」を維持する経費として3兆円は高すぎるし、これまで以上の負担を強いられることは、アメリカの属州として生きることに他なりません。この屈辱と過重な負担に耐え続けなければならないのかどうか。日本国民が真剣に考えなければならない問題です。

外交無能の尻ぬぐいを国民の血税で補う構造から脱却し、真の自立に向けた国家プログラムを創る必要があります。


2006/5/6(土) 愛国心」の前に、「勇気」、「正義感」が必要だ

教育基本法改正に絡み、「愛国心」論争が益々激しくなるだろうと思われます。

「愛国心」については、多くの方が「必要」と答えるでしょう。もちろん、定義如何の話です。しかし、定義が各人各様である概念が法律に規定されることは、解釈運用によって将来どういうことになるのか極めて不安定な要素を抱えます。

「愛国心」とは、狭く、ピュアに定義すれば、国家の存立が危うい状況下において(たとえば、戦争)一命を賭して国家のために尽力する覚悟です。もう少し直截に言えば、国家のために死ねる覚悟が愛国心です。そこまで言うと大変なことになるし、多くの人は軍国主義復活だと大騒ぎするので、その周辺をウロウロしているのが与党側の状況です。

「愛国心」を、国が好きだ、故郷が好きだ、ワールドカップで旗を振ろう、という程度の緩やかなものとして認知させた後で、次第に概念を純化させていくだろうということは、常識人なら「想定内」でなければなりません。

ところで、愛国心を論ずる前に、日常生活での「勇気」「正義感」はどうなっているのでしょうか。この点にいささか問題があるのが現代社会ではないでしょうか。

自己の所属する職域や団体、地域社会で、不条理な事柄に対して見て見ぬ振りをする傾向が顕著です。そこに欠けている概念が、「勇気」であり、「正義感」です。「愛国心」を語る前に、そのことをむしろ問題にすべきではないでしょうか。

勇気があり正義感があって、愛国心がないという人がいるのかどうか。「いや、いる。反体制の連中だ。」という御意見もあるでしょう。しかしこれも、現体制に反旗を翻しているだけであって、彼らが思う国家に対しては愛情をもっているはずです。まるでアナーキーという変わり者を除いては。

逆に、「愛国心」を連呼する人の方が要注意です。戦前の社会には、圧政に対して一言も意見が言えないのに、「愛国心」だけは熱狂的に持っている人が多くいました。その人たちに勇気があったのかと問われれば、「どうかな」と疑問符を付けざるを得ません。

自らは安全地帯にいて、人に危ない橋を渡らそうという輩が、「愛国心」を強調することが多いのも事実です。彼らにおいては、「愛国心」が自らの規範として内面化することはなく、他人を駆り立てる言葉として「愛国心」を利用します。

「君たち死になさいね。我々が弔ってあげるから。」というお話。


2006/5/5(金) 力道山がいた頃

昭和38年。私が10歳の秋、勤労感謝の日の朝のテレビで、ケネディ大統領暗殺のニュースが流れました。初めての衛星中継がアメリカ大統領暗殺のニュースになってしまいました。

その直後の12月(15日)、力道山死去のニュースは、ケネディ大統領暗殺を遙かに上回るショックがありました。暴力団員に刺された力道山は、その一週間後、腸閉塞で亡くなりました。腸閉塞?そんなことで力道山が死ぬのか?「力道山は不死身だ」と思いこんでいた子供にとっては、大地の底が抜けたような衝撃でした。

「外人レスラー」が反則に反則を重ねて力道山を痛めつける。観衆が怒り狂う展開。しかし、力道山は耐え続ける。誰が力道山の立場でも、もう、怒らなければならない。力道山、頼む、やってくれ・・・と思う頃、力道山の怒りが爆発し、空手チョップが炸裂。相手をマットに沈めました。

その英雄、力道山が死んだ。何故だ?不条理だ!信じていたものが崩れた瞬間でした。社会に疑問を感じ始めた最初のような気がします。

今日はこどもの日。亀田兄弟の試合があります。「亀田の日」などと言っていますが、なんか、品格がないなあ。

ふと、力道山に熱狂した子供の頃を思い出してしまいました。


2006/5/4(木) 平均年齢

現在の我が国の人口は1億2千7百万人。国立社会保障人口問題研究所の予測では、2050年には1億人となります(もっと減少するとの説が有力)。

1967年(昭和42年)が人口1億人でした。高度成長の上り坂の1億人と下り坂での1億人とは、自ずと違った様相を呈します。

2050年と1967年の違いは、年齢構成です。2050年には、高齢化率が国で35%(愛媛では40%)になります。これに対し、1967年の日本の高齢化率は6%台でした(2004年の日本が19.5%、愛媛が23.4%)。

国全体の平均年齢は、1967年が31歳、2004年が42歳、2050年には51歳。1960年代の日本は若かった。1960年代の30歳と2050年の50歳が同じなのです。

「中年」の定義が、かつては30歳代からとされていました。1960年代の平均年齢から考えると、まあそんなものかという感じです。しかし、現在では30歳は若者真っ盛り。2050年になるとその傾向に拍車がかかり、30歳はやっと成人、50歳代〜60歳代が中年ということになるでしょう。

私の祖父母は50歳前後で「隠居」しました。その後30年前後生きたために、早く老けすぎたことを後悔していたように見えました。

人生「字余り」にならないよう、年齢感覚を修正する必要があります。


2006/5/3(水) 改正しやすい憲法(トロイの木馬)か、改正しにくい憲法か

国民投票法案制定に向けての協議が進む中で、憲法改正が大きく視野に入ってきました。

今回の憲法改正で実質的に最も大きな論点は、次の憲法の改正規定を現行憲法のようにハードルを高くするのか、ハードルを低くするのかという問題であると考えます。

与党側からすれば、ハードルを下げておきさえすれば、何時でも憲法改正ができるのですから、今回の改正では内容的には大幅な妥協も受け入れ可能です。なかなか良い憲法ができたではないかと喜んでいたら、「トロイの木馬」が入っていたということもあり得ます。

ハードルの高低の是非は、民主主義の成熟度によると私は考えます。民意が常に率直に表明される伝統があれば、駄目な憲法は議論して変えればいいのです。しかし、民主主義の成熟度が今ひとつな国では、ハードルが高い方が憲法によって国民を守る力が大きくなります。

我が国の場合、自民党政権が実質50年続くという異常な政治体制の国であることを忘れてはなりません。国民が政権交代を自らの意思で勝ち取ることがないままに憲法改正が行われること、それも改正規定によるハードルが低くなる改正は、専制政治へ道を開きやすくなります。

憲法記念日。「護憲」の「腑分け」が必要な時代に入っています。どこが守るべき天王山であるのか。「護憲」だけでは、判断や行動の指針にはならないと思います。


2006/5/2(火) 歴史の知識が出発点

敗戦後連合国の占領下で、極東国際軍事裁判(東京裁判)が行われました。開廷後60年。朝日新聞の世論調査で、この裁判の内容を知らない人が70%にのぼることが分かりました。20代では90%という有様です。

知らない層ほど、靖国神社へのA級戦犯合祀への抵抗感が希薄で、首相の靖国参拝への反対も少ないという結果。若年層については、戦争(太平洋戦争とそれに先行する日中戦争)があったこと、そして、太平洋戦争はアメリカと戦い、完敗したという知識を与える必要があります。

これからの若者には、軍の組織の論理がまかり通った無政府的な軍事行動に起因した日中戦争がズルズルと泥沼化し、破滅的な対米戦争へと進んでいった経緯を学習してもらい、当時の政治には、合理的かつ統一的な国家意思形成をする能力がなかったということも理解してもらいたいものです。

「歴史認識」などという大袈裟なものではなく、「歴史の基礎知識」が出発点です。高校での日本史・世界史の必須化、とりわけ、ここ200〜300年間の歴史を重視した教育がなければ、我が国民が国際人として通用しないし、アジア諸国とのまともな対話もあり得ないのではないでしょうか。

かく言う私も、歴史の教科書を開いて、復習しようと思います。


2006/5/1(月)  お金の使い方と時間の使い方

「景気回復」を実感できない地方や業種が数多くあります。私も景気回復を実感できないまま会社を経営しています。

グローバル経済にリンクしている産業とそれ以外の産業とで格差が出ています。地方交付税の減少、公共事業の激減など地方にお金が回らなくなったということもあります。

お金の使い方が変わってきたのではないか。そういう感じもします。薄型大画面のテレビが飛ぶように売れ、高級品の販売も好調。他方、100円ショップで買い物を済ます傾向も顕著です。携帯電話への出費も馬鹿になりません。消費者から見たモノやサービスに対して抱く価値の評価に変化が生じた可能性もあります。

時間の使い方にも変化があるのでしょうか。原・巨人好調にもかかわらず、巨人戦が低視聴率とのニュース。コンテンツとしての日本プロ野球の価値が視聴者から見て低落したのか、それとも、ライフスタイルの変化か。テレビよりパソコンなのか。

様々な現象から変化を感じ取る感性が求められています。消費者に新たな価値を提供する供給サイドの姿勢も必要でしょう。小泉さんがいなくなったら、パッと明るくなるのではという期待も地方にはありますが・・


玉井彰の一言 2006年5月 四国の星ホーム一言目次前月翌月