玉井彰の一言 2006年6月 四国の星ホーム一言目次前月翌月

2006/6/30(金) 長く市町村議員で居続けるための3箇条

市町村議員は、副業として考えると、実にいい商売です。これを長くやって、あわよくば「勲章」を手に入れたいと考える方に対する助言をします。以下、3箇条。

第1条。働くな、世話をしろ。

議員として真面目に自治体のことを考えると、袋小路に入ってしまいます。真剣に取り組めば取り組むほど、住民からは議員としての活動が見えにくくなります。そういう無駄な努力はせず、議員としての地位を利用して、支持者のための世話をすることが肝要です。心は常に次の選挙での票読みに向かっていなければなりません。もちろん、議員として頑張っているという「演出」は必要です。

第2条。他の議員に嫌われない心配りをする。

議員として「出世」するためには、人事で過半数の支持が得られるようなスタンスで身を処す心掛けが必要となります。他の議員からの拒否感情が強いと、決定的な場面で足下をすくわれます。嫌われないための心配りが是非とも必要です。付き合いを良くし、他の議員に「貸し」をつくることを忘れてはいけません。「貸し」があることを強調するのもいけません。

第3条。どうにでも曲げられる「信念」を持つ。

「私は、これまで一貫した信念で議員活動を行って参りました。」と有権者に示せなければなりません。そのための「信念」を堅持しなければなりません。ただし、「信念」に忠実に突き進んだのでは、結果として損をすることがあります。情勢を見極め、適当な理屈をつくって、安全な結論を模索しておくべきです。「信念」とは、どうにでも曲げられるものだと割り切るべきです。

以上の3箇条を実践すれば、ほぼ間違いなく議員として成功します。その自治体が発展するかどうかは知りませんが。

真剣に議員として尽くしたい方々からは、お叱りを受ける内容になってしまいました。しかし、このような処世術を上回るパフォーマンスを身に付けないと、大きな挫折感を味わうことになります。上記3箇条を「反対解釈」していただき、「時代は変わる」との確信を持って、奮励努力されるよう期待します。


2006/6/29(木) 高齢者世帯、834万世帯

厚生労働省が6月28日発表した平成17年国民生活基礎調査によると、全国4704万世帯のうち、65歳以上の家族がいる世帯は1853万世帯(39.4%)、18歳から64歳までの働き手がいない「高齢者世帯」が834万世帯(17.7%)になるとみられることが明らかになりました。高齢者世帯は、初めて800万世帯を超えました。

834万にのぼる高齢者世帯の立場に立った政治、社会のあり方が考えられなければなりません(もちろん、家族と暮らす1853万世帯の高齢者も視野に入れた話になります)。この方々が幸せを感じられる社会とはどういう社会かという問題意識が必要です。我々の将来を見据えた話でもあります。

生活物資の入手が簡便であること、移動の自由が確保されること、医療・介護のサービスが不自由なく受けられることなどが、まず考えられます。加えて、地域での語らいの場、相互扶助の精神で形成される地域コミュニティーがあることも重要です。

高齢者が社会の傍らに孤立して置かれるのではなく、地域社会の主人公として生き生きと生活できる基盤をつくることが、政治に課せられる重要な課題です。

私は、まちづくりの一環として、商店街に「高齢者のたまり場」をつくる企画に取り組んでいます。秋口には、空き店舗を活用した「たまり場」を立ち上げる予定です。高齢者の方々の積極的な参加を期待しています。


2006/6/28(水) (かもしれない)×(かもしれない)=(どうかな?)

サッカー・ワールドカップはこれからが佳境です。しかし当然というか、残念ながらというか、日本は予選リーグ敗退に終わりました。私はこれまで野球派で、野球の試合はよく見てきましたが、サッカーは点が入りにくく、イライラすることの方が多いので、ゴールシーンを編集したものを見る程度でした。

野球の場合、試合展開がゆっくりしており、いきなりのホームランでない限り、ここが山場であるということが分かりやすく、しかも投手と打者との一騎打ちという要素が強いので、推理・評論を交えてじっくりゲームを楽しめます。しかし、サッカーの場合はゲームを連続した流れの中で見ていないといけないので、甚だ疲れます。だから選手も観客も「45分」「45分」なのでしょう。

今回テレビ観戦をしてみて、日本のサッカーのレベルが、世界の中で「弱くはないが強くもない」というレベルであるということがよく分かりました。ベスト8以上のチームとは勝負にならないが、それ以下のチームとは何とか勝負できるというレベルです。今回の予選リーグでも、運が良ければ2位で滑り込める可能性はありましたが、それ以上ではありませんでした。ジーコ監督の采配云々というよりも、力量がその程度ということです。

現状の延長線上では、次回W杯アジア代表になれるかもしれないというレベルでウロウロするでしょうし、代表となっても予選リーグで残れるかもしれないというところがやっとだと思います。(かもしれない)の二乗と言うべきか、高校野球にたとえれば、全国制覇したことがない地区の「第4シード」どまりというところです。

1試合1試合、1大会1大会に全力を尽くすことは当然として、「世界制覇」ないしは「世界Aクラスのチームをつくる」ことを目標とした国家の20年計画が必要だと思います。サッカーは単なるスポーツではない。国家が世界に存在を示す「戦闘行為」であるという位置付けが必要であると感じました。「選手ではない。戦闘員である。」という気概が各「選手」に求められることになります。

そこまでやるか、「楽しむ」というレベルで納得するかの選択です。(私の本音は後者)


2006/6/27(火) 韓国の人口問題と朝鮮半島

韓国の面積は10万km2 、人口4700万人(朝鮮半島の面積22万km2 、人口7000万人)。韓国のGDPは100兆円弱(日本500兆円)。 

この数字をどう見るかです。日本が地方主権型の国家になった場合、九州、中国、四国(3地区合計2650万人)に対するウェートはかなり大きいと思われます。韓国へのシフトが地域振興の鍵を握ります。福岡という都市の活気は、その地勢的な条件による部分が大きいと思われます。西日本の将来を考える上で、韓国および朝鮮半島は是非とも研究しなければならない対象です。

さてこの韓国が、深刻な少子高齢化の波に洗われます。高齢化については、現状はまだまだ平穏です。2000年に高齢化率(65歳以上の高齢者が全人口に占める比率)が7%を超して、「高齢化社会」に入った段階です(日本は現在、高齢化率20%)。<参考までに、高齢化率7%以上が「高齢化社会」、14%以上で「高齢社会」と言われます。21%になると「超高齢社会」ということになります。日本は「超高齢社会」の段階に入りつつあります。>

ところが、出生率(女性が一生の間に生む子供の数)は2002年に1.17を記録するなど、少子化が問題になっています。日本の昨年の出生率1.25という数字が衝撃を与えていますが、韓国の数字はより深刻です。韓国の人口のピークは2023年と予想され、その後の人口減少・高齢化のスピードは日本を上回るものと見られます。

韓国の北朝鮮に対する「太陽政策」は日本にとって歯痒いものです。しかし、以上に述べた韓国の趨勢を考えると、納得のいく面があります。北朝鮮との経済的な一体化は、韓国の少子高齢化を緩和します。韓国経済は若い北朝鮮の血を欲することになるというのが必然的な流れです。この面からの朝鮮半島の分析が必要であると思います。

(「四国の星掲示板」でのリクエストに一応お答えしました。視点の提供ということで、悪しからず。)


2006/6/26(月) 懲役300年ではいけないのか

「無期懲役」の判決を「破棄差し戻し」した光市母子殺人事件の判決。遺族の7年間に及ぶ戦いと、これを支援する世論に押されて、従来の死刑の基準が実質的に変更されました。

冤罪の可能性がなく、罪状が極悪非道であるこの事件で「無期懲役」というのは、被害者側に立った場合には到底納得しがたいものだし、「正義」の実現もできないと思います。現行制度での「無期懲役」は実質的に有期刑であり、一定期間で社会復帰することになる可能性が高く、死刑との間隙が大きすぎることが判断を難しくしています。この部分の整備がこれからの課題です。

私には、この事件の加害者に生きる権利や更生する権利があるようには思えません。しかし、もう少し離れた地点から眺めたときに、「死刑」だけしかないのかという思いもあります。仮に、加害者が社会復帰することがないという確証が得られたとした場合に、それでもなお、死をもって償って欲しいという感情を被害者側が持つかどうかということも考えてみる必要があります。

例えば、懲役300年ではいけないのか。この問いを発してみたいと思います。死をもって償うことにはならないけれども、人生を失うことで償うことにはなります。それでもいけないという判断をするとして、「懲役300年、10年後の加害者の状況を見た上で、死刑執行権を被害者側が持つ」ということではどうでしょうか。ここまで行くと、死刑が新たな殺人にならないかという問題も改めて浮上します。

「十二分に反省してから死をもって償ってもらう」という考え方が本当に妥当なのかということもじっくり考えてみる必要があります。十二分に反省ができたのなら、社会復帰も可能です。もちろん、本当にそうだという判断を誰がするのか、正しい判断であるという保障があるのか、という問題があるので、ことは簡単ではありません。

つらつら考えてみて、現時点での私の結論は、社会に対する宣言としての意味を込めて「死刑判決」を出す、そして、死刑執行を一定期間後に行うこととし、執行段階で被害者側の納得を得た上で「懲役300年」or「懲役○○年」への変更を認めるということです(制度論)。


2006/6/25(日) 「はらわたが煮えくりかえる」

埼玉県戸田市の教育長が6月13日の市議会で、同市立小中学校の卒業式や入学式の君が代斉唱の際に起立しない来賓や保護者について「はらわたが煮えくりかえる」と答弁、起立しなかった来賓の氏名や人数を調査する意向を示していたという新聞記事がありました。従来、教員に対する処分が問題になっていましたが、事態はここまで進展しています。

一度大きなうねりが起きると、戸田市の教育長のようなファシズムの尖兵が闊歩するようになります。自分は正義を体現しているのだというつもりになり、高揚した気分で発言しているのでしょう。「国旗国歌法」を契機とした東京都教育委員会の暴走は有名ですが、これが全国に波及しつつあるということが裏付けられる話です。

戦争の記憶が薄らぎつつある現在、戦前のファシズムがどういうメカニズムで猛威をふるうようになったかを研究し、ファシズムの再来を防ぐための手立てが講じられなければなりません。1つだけ言えることは、一度火が付いたら、火事と同じで、素人では消せなくなるということです。その意味で、「火元」の確認を怠らないことが何より大切であり、「初期消火」が必要になります。

現時点で、各地の教育委員会がファシズムの発信源になりうる可能性を秘めています。そもそも、「愛国心」にしても当然必要だし、国旗・国歌に敬意を払うことも当たり前です。しかし、ここを突破口として戦前型社会への回帰を狙う勢力の先兵役を買って出る頓珍漢が現れるのが世の習いです。そしてそういう輩に限って、「大火事」を起こした後、そんなことになるとは夢にも思わなかったと言い訳を繰り返すのです。

戸田市の教育長に代表される大馬鹿者たちの跳梁跋扈を許さないために、きちんとした防御のシフトを敷いておく必要があると考えます。


2006/6/24(土) リセットボタンは押したけれど

近畿の超有名進学校の高校1年男子が、母と弟妹を放火で殺した事件がありました。父親は医師で、小学校の頃は父を尊敬して医者になることを将来の希望として作文に書くような子供だったといいます。

中学校進学以降の学業不振から父親との間に溝ができ、成績不振を咎める父親に憎悪を抱いたことが、事件の引き金であったようです。少年は「やり直したかった」と語っていると報じられていますが、「リセットボタン」を押すとどうなってしまうのか、その後の展開を深く読んではいなかったのでしょう。

少年にとっての人生や世界は、学業成績という限られた事象の中にしかなかったということです。家を放火するところまで追い込まれていった経緯は不明ですが、父親には「実績」があり、父親の発言に対して反論する余地はなかったと思われます。成績不振について、全て少年の努力不足に原因が求められ、あらゆる逃げ道や言い訳が封殺される状況ではなかったのでしょうか。

論理的には、逃げ道を全て塞げば、努力するしかなくなるはずなのですが、「暴発」という選択肢も残っていたのです。言い訳や逃げ道の類は、きちんきちんと人生を積み上げてきた人から見ると、邪道にしか見えません。しかし、言い訳・逃げ道は、人生の行き詰まりを防ぐ安全装置であると共に、別の価値基準を発見できる回路でもあります。言い訳を認めること、逃げ道を残しておくことの積極的意義を、この事件の教訓として再確認しておくべきでしょう。

自分の人生を振り返ってみて、父母がプレッシャーを掛けてくることはほとんどなく、大らかに接してくれたことに改めて感謝したいと思います。私も進学校に通い、成績不振に悩んだ時期がありました(私が成績不振だったと言うと、友達には嫌みに聞こえるので言いにくいのですが、自分が想定していた成績よりは遙かに下だったということです)。そういう状態というのは実に嫌なものですけれども、小説を読んでその世界にはまったり(試験の前日に小説を読むと、実に良く読めて、のめり込みます)、テレビの主人公に共感したりする中で、学業の延長線上にある人生だけではないものに遭遇し、別の価値基準をつくることで心の平穏を保っていました。

この少年には、深く反省してやり直してもらいたいと思います。新たな価値基準を確立して。 


2006/6/23(金) 牛肉販売、料理等について、産地を表示すべし

小泉政権による究極の無責任政治は、国民を生け贄にする決定で幕を閉じそうです。米国訪問の手土産に、検査態勢が十二分に確保されていない米国牛の輸入再開決定。

米国の圧力にいとも簡単に屈する政治には、無力感すら覚えます。この流れを止め得ないとしても、最低限、牛肉がどの国のものかどうかは消費者が明確に分かるように表示すべきです。レストランでの牛肉料理、牛を原料とする食品類、全てについて原産地が表示されて初めて、消費者の安全が情報面で確保されます。

米国産であるということが分かった上で、「丁か半か」賭けのつもりで食べるのであれば、それはその人の決断であるとも言えます(ただし、判断力のない子供などの場合にはこの論理は通用しません)。とにかく、情報提供がなければ食の面での安全は確保できません。

牛肉に限らず、様々な食品についての情報が適切に提供されているのかは、甚だ疑問です。米国牛の問題を突破口として、食に関する情報提供を徹底する必要があります。

「馬の骨」という言葉は死語になりましたが、「何処の牛の骨だ?」と問わねばならない時代が到来しました。


2006/6/22(木) 「政権交代なければ憲法改正なし」

憲法改正は、国民が主体的に政権交代を選択するという政治的経験を積んでからにすべきだというのが、私の従来からの主張です。「政権交代なければ憲法改正なし」。

自民党が誕生した1955年以降、政権交代は1回だけ。しかも、その1993年の総選挙の結果は、国民が政権交代を求めているのかどうか不明なものでした。確かに自民党は過半数を下回りましたが、他党との連立で政権維持をすることは十分可能でした。それを阻んだのは、小沢一郎氏の政治的手腕だったと言うべきでしょう。戦後の日本で、国民が自発的に政権交代の意思表示をしたことはありません。

普通の先進国では、数年あるいは十数年という期間で、政権交代が起こっています。それが我が国では起こらないのは何故か。自民党の政治がずっと良かったからということではないでしょう。真の民主主義が根付いていないからだと思われます。国民に国家の意思を決定する最終的権限があるという国民主権の原理、政治を国民の意思で決定するという民主主義の原理を国民が体得していないことの結果として、半世紀に渡り自民党政治が継続しているのです。

もちろん冷戦構造下では、社会主義を唱える政党に政権を委ねることは実際上できなかったと思われるし、中選挙区制では「政権選択」よりも「政治家選択」が行われたわけですから、国民が政権選択を行うという意識で選挙に臨んだのは、小選挙区制成立以降のことになります(その意味では、実質「3打数ノーヒット」というくらいかもしれません)。

永らく「お上」意識の中で自己抑制をしてきた日本国民が、政権選択をするという意識で国政選挙に臨み、従来の政治を否定して新たな政治を選択するという政治的経験をすることにより初めて、我が国が政治的先進国の仲間入りができるのだと思います。優柔不断さを克服し、決断できる国民に変わらなければなりません。個々人が権利意識を持ち、社会の主人公として国民主権を担える存在へと生まれ変わらなければなりません。

憲法改正という、国の基本スタンスを変える選択をするためには、国民が真に民主主義の担い手として成熟している必要があります。従来の政治を追認する経験しかしたことがない状況下で憲法改正の決断をするのは、時期尚早です。

まず、現憲法下で政権交代の決断をする。その後で、国の形について議論して変更を決断すべきだと思います。「民主党政権で憲法改正を」と言っているのではありません。自民→民主→自民の政権交代後でも構わないのです。政権選択を決断する勇気なくして国の基本スタンスの変更を決めるのは、憲法改正に国民の真意が反映されたどうか、疑問が残るということです。「決断」の実質が問題です。


2006/6/21(水) 安倍晋三型・ピリピリ保守の時代

昨日の続き。四国の星HP、玉井彰の一言(2004年4月22日)を再掲します。

【[安倍晋三型・ピリピリ保守] 

安倍晋三・自民党幹事長の記者会見をテレビで見ていると、常にピリピリした感じが伝わってきます。厳しい論調が多いようですが、伝わってくる周波数に余裕のなさが感じられます。幹事長の重責に実力がついていかないということもあるでしょうが、思想的な包容力がないということもあるように思います。

元来の自民党は、陽性で自堕落でおおらかな政党だったように思います。「清濁併せのむ」といった、いい加減な処世術を本旨とし、現実的で中庸を好むスタンスでした。

今回のイラク人質事件を通して思うのは、現政権幹部の、特に世襲議員の偏狭さです。彼等の親父さんは、辛く悲しい戦争体験もしながら、他方で汚職(まがいのこと)や、「英霊達」には顔向けできない諸々のこともしながら、靖国神社で拝礼をしていました。大いなる矛盾を抱えての政治でした。

戦争のことを思い出すと涙ぐんでしまうような親父達の時代が終わり、倅(せがれ)達は、親父の引いた路線を順調に歩みました。しかも、颯爽(さっそう)と。親父達の薄汚さはなくなりましたが、「情」も失いました。彼等が中心となる政権の怖さは、自らはリスクを負わずに出世しながら、嫌いな国民には「自己責任」を説くアンバランスにも表れています。

寛容の精神なき、ピリピリ保守の時代がやってきました。政権交代なき中選挙区型保守政治家と政権交代の悪夢にうなされる小選挙区型保守政治家の違いなのでしょうか。右肩上がりの時代と右肩下がりの時代の違いなのでしょうか。政権末期を示す一断面のようにも思えます。】 


【コメント】

選挙に不安のない政治家には、良い点があります。目先のことにとらわれず、天下国家について常にじっくりと考えることができるということです。その利点を生かし、思想を充実させ、国家百年の大計を誤らぬ政治を目指していただきたいものです。

しかし、小人閑居して不善を為すのが世の習い。親や祖父の七光りで、リスクなく地位を得た政治家がいかに薄っぺらなものであるかを身をもって示しているのが、次期総理最有力候補・安倍晋三氏です。テレビの脚色で、なんとか体裁が整っているようではありますが。

余裕のない、しかも「左翼コンプレックス」のない保守主義、自制する思想・理念を持たない、無反省かつ傲慢な政治が力を得ることで、この国の将来に暗雲が立ちこめてきました。

様々なスキャンダルも噂されています。統一協会合同結婚式への祝電のニュース。祖父、父から譲り受けた政治資産のなかにある「不良債権」ないしは「不良資産」が躓きの下になる可能性があります。

それ以上に、「より軽薄な小泉」がさらに数年、国民から支持され続けることは難しいだろうと思います。この点は、自民党有志の懸念されている通りです。


☆御意見は「四国の星掲示板」でどうぞ


2006/6/20(火) 保守の左翼コンプレックス

MouRa」というホームページがあり、宮崎学責任編集「直言」のコラムコーナーが面白いので、ときたま見ています。その1つ、民主党前参議院議員・平野貞夫氏の「日本国漂流」に面白いことが書いてあったので、引用します。

2006.06.13 第16回「ホリエモン・村上世彰ら東大出身者の犯罪的行為にみる亡国性」 

【・・・・・私は衆院事務局に勤務していた頃、大正から昭和の初め一高、東大で教育を受け官僚から戦後に政治家となった前尾繁三郎・椎名悦三郎・福田赳夫といった人物から、直接間接に指導を受けた。この人たちの全てを評価するものではないが、心の底にある「左翼コンプレックス」を知ったとき、これが敗戦後の日本を再生させた根本思考だと感動した。それは一高、東大の同級同窓生で左翼運動に生涯を賭けた友人に対する感性であった。

「自分達は官僚として、政治家として権力を握り、それなりに日本資本主義の発展に尽くし、それなりの贅沢と栄誉を体験した。しかし思想信条に生き、貧しい人たちのために一生を尽くした人たちの方が、人間として立派だ」という話をしばしば聞かされた。
 
前尾・椎名・福田といった人たちがいた自民党政治には「人間の匂い」があった。この人たちが逝(な)くなり、引退した後、自民党の政治は狂ってくる。東大出身の政治家は大勢いるが、自分の権勢欲を追求するだけの人が実に多い。民主政治は少数派の権利を大事にすることで成り立つ、という思想を知っている政治家は自民党にはほとんどいなくなった。東大出身者が「金儲けを目的」とする時代になったからだ。・・・・・・】
 
ここに書かれている保守政治家の左翼コンプレックスが、我が国の戦後を平和で安定したものにしていった原動力ではなかったかと思います。自民党50年の支配の根拠は、この点での幅の広さないしは包容力であったのではないでしょうか。

翻って現在。二世・三世の政治家が跋扈し、左翼コンプレックスの欠片もない傲慢な政治が行われています。19世紀資本主義の中で何が行われ、どのような弊害があったが故に左翼思想に力があり、多くの人々を惹き付けていったのか。ここのところの分析なしに、結果としての社会主義の敗北にのみ目を奪われ、資本主義を謳歌するのでは、余りにも底の浅い政治思想しか身に付けることができません。

政治を志す者が、社会的弱者の辛さや社会の不条理に目を向けて心痛めることなく、競争原理を煽ることしかできない有様。日米同盟だ、国の安全保障だと空騒ぎする政治には、子供に危険なおもちゃを与えているような不安感があります。

自民党は幅が狭くなりました。硬直した発想の小泉政治が継承されたならば、一撃で政権が沈むという事態もあり得ると思います。


2006/6/19(月) 自治体の破綻、夕張市の事例

北海道夕張市が、多額の負債により、国の管理下に入って財政立て直しを目指す「財政再建団体」に移行する方針を固めています。実質負債総額が500億円を超えており(予算規模、114億円)、自主再建は困難との判断です。国から財政再建団体に指定されれば、1992年に指定された福岡県の旧赤池町以来となります。

炭坑の街だった夕張市。街の基幹産業だった炭坑が閉鎖され、昭和35年に11万6千人だった人口が1万4千人に激減。基幹産業を失った夕張市は、観光を頼みの綱として多額の投資を続けました。「資金源」となった「一時借入金」は最後の炭鉱が閉山した1990年ごろから増え出し、2001年に産炭地を対象とした財政優遇措置が打ち切られて以降、さらに5年で2倍近く(292億円)に膨れ上がりました。

一時借入金は、予算で上限額は定めるものの、「一時的な資金繰り」という性格から、実際の運用額は予算・決算に表れません。このため、北海道が全市町村を対象に春夏の2回実施する財政状況の聞き取り調査でも、点検項目に入っていませんでした。資金不足を補うため銀行から金を借り、他の銀行から借りて年度内に返すという自転車操業を続けていたけれども、新規借り入れが困難になったということです。

夕張市の事例は対岸の火事ではありません。今後、自治体の破綻が増えてくることが予想されます。このことを見越し、竹中総務大臣の私的懇談会「地方分権21世紀ビジョン懇談会」が、財政難に陥った自治体を対象に、破綻法制を数年以内に整備することなどを盛り込んだ中間報告をまとめています。

市町村合併が「地方リストラ」の嚆矢(こうし))でしたが、これからは弱小自治体解体の動きが加速されます。地方は、トカゲの尻尾以下の扱いで、切り捨てられるのです。

地方における産業振興、そして地方から富を生み出す仕組みづくりにどう取り組むか。このことを真剣に考えれば考えるほど、「邪魔者」が見えてきます。中央集権のシステムであり、霞ヶ関の官僚機構です。この「邪魔者」が見えない人は、中央集権のマインドコントロールないし刷り込みから解放されていない人です。


2006/6/18(日) 支店経済の衰退と地域産業の創出

大手企業や官公庁の支店、支部、支所といった地域の営業や業務の拠点の存在が地域経済の重要な支柱であることを表現して、「支店経済」という言葉が使われます。

近年、支店経済の衰退が地域経済に深刻な影響を与えつつあります。官公庁における財政再建のためのサービス縮小、企業の合併、経営戦略の見直し、道路事業改善による地域間の時間距離短縮等、地域に「支店」を置く必然性が年々乏しくなってきたことに加え、リストラにより「支店」の人員も大幅に削減されています。

地方における拠点都市においても、中小零細都市においても、かつて活発であった「支店」が閉鎖され、人員がほとんどいなくなるといった事態が進行中です。

このマイナスを跳ね返すために、地域産業創出等による、地域からの富の創出が必要になります。ところが、地域には「種」がありません。地域資源を大切にしろ、地域資源を発見しろということが言われますし、それは正論なのですが、地域資源の発見・活用となると、これは容易なことではありません。

困難を来す要因の最たるものは、「補助金」が生み出す大きなロスです。何かやろうとすると、補助金のリストを虱潰しに探すのが地方公務員の重要な仕事です。これだなと思う補助金が見つかったとして、それからが大変。

中央官庁への子細の問い合わせ、何度となく繰り返される「要件」クリアのためのやりとり。場合によっては、「政治」の登場。結果として、当初の企画とはニュアンスが大きく異なる事業を遂行するために補助金をいただくことになります。補助金を獲得して消化するために仕事をしていたという事態に陥ることもしばしばです。

決定権がなく、補助金の要件に当てはめる作業しかしないのですから、地方公務員が地域のグランドデザインを描く能力を身に付ける時間などありません。

地域主権の社会を社会をつくらなければ、新たな発想も生まれないし、人材も育ちません。中央集権を前提とした、「支店」に依存する生き方が最早不可能であることを自覚し、地域産業創出のために「主権」を獲得することが地方生き残りのための必要条件です。


2006/6/17(土) 「第2国歌」制定を

国歌「君が代」は、じっくり歌うと実に良い歌です。独唱させると、その人の歌唱力が端的に表れます。内容的な問題も、我が国固有の歴史を表現したものと考えれば、異を唱えるに当たらないと思います。

「君が代」を「第1国歌」とすることを前提として、「第2国歌」を制定すべきだと考えます。広くこれを募り、我が国民が愛唱できる歌、現在の国民の感性に合致した歌をつくることで、国民のよりよい結束を図ることが可能になります。

「第2国歌」は、そのまま歌い継がれれば結構だし、変更することもあり得るということでいいだろうと思います。「第2国歌」も置いておき、「第3国歌」を新たに募集する展開でもいいでしょう。

「第2国歌制定」は、新憲法制定時。新時代を国民が担う決意を表す内容にすればいいだろうと思っています。ただし、私の立場は「政権交代なければ憲法改正なし」です。政権交代の決断もできないひ弱な国民では、真に国民主権と民主主義の担い手たり得ないからです。


2006/6/16(金) 儒家の思想と法家の思想

かつて中国で行われていた科挙の試験。そこでは、儒学即ち孔子の教えを基本とする儒家の思想が試されました。ところが、科挙に合格すると、そのような学問は忘れてしまえと言われ、法家の思想が叩き込まれました。

儒家の思想は庶民の道徳であり、法家の思想は支配の原理です。儒家の思想は庶民が守ればいいのであり、支配階級は統治の原理を体得すべきであるとされたのです。

現在の我が国においても、支配階級には庶民の道徳は反映されません。このところ繰り返し述べている「生きて虜囚の辱めを受けず」の語は、兵卒や庶民が守るべきものであり、政府高官が守るべきものではなかったのです。

福井・日銀総裁は、日銀の内規に違反する利殖行為を行っていましたが、辞任の考えはないと明言しています。日銀の内規は、日銀の一般職員の準則であると考えているのでしょう。

我が国では、高位高官の方々には、「大所高所からの判断が必要」との論理で、幅広い「免責特権」があります。庶民が守るべき準則と高位高官の者が拠って立つ論理とが異なるのです。

この規範の二重性が、戦死者が眠るはずの靖国に「A級戦犯」が眠る根拠です。

参照:
6月11日、「生きて虜囚の辱めを受けず」
6月14日、「生きて虜囚の辱めを受けず」(補説というか、本質論)


2006/6/15(木) 市町村議会議員と団塊世代

市町村議会議員がどの程度の仕事をしているのか、疑問に思う方々も多いだろうと思います。経験者として言わせていただくと、それほどの仕事はしていません。正確には、やっている人はやっているが、やってない人はやっていないという状態です。

それでは、「タダ飯を食っている存在か」と言われると、そうでもありません。議員がいなければ、役所に緊張感がなくなります。「議員からこういう質問が出るかもしれないから、こういう風にしておこう」という様に、行政の監視者がいるということで、それなりの規律が保たれることになります。

しかし、それだけの存在に多額の費用を負担する余力は、今の自治体にはありません。完全ボランティアというのは無理でしょうが、時給制のボラバイト(ボランティア的アルバイト)という形もいいだろうと思います。

選挙ということで言えば、市町村議会議員の選挙は大変難しいものです。仮に1000票が当選するための最低ラインだとします。「落選者も少ないし、1000票だったら、大したことないじゃないか」と思われる方は世間知らずです。

1000票以上が見込める方が立候補するのですから、それは熾烈な戦いになります。普通の人生を送っていて、地域で1000人もの人が1票入れてくれる関係が構築できているなどということは到底考えられません。市町村議会議員になるにはかなりの運動量が必要になのです。当選するということは、地域でそれなりの信用があるという証でもあります。

ところが、そのような戦いを経て当選された方々の顔ぶれを見て、ガッカリするのが通例です。「悪貨が良貨を駆逐する」を地で行くのが、地方選挙なのです。「選挙」というヤクザなものには、普通一般の家族は反対するので、いい人は出にくいのが現実です。

団塊世代が定年を迎える時代に入りました。菅直人・民主党代表代行が、「団塊党」なる構想を出していました。そこでは、団塊世代が地方議員になるのを支援するということが含まれていたはずです。「あれはどうなったのかなあ」と考えていたら、「団塊党」のホームページがあることが分かりました。御紹介しておきます。

団塊世代が経験に基づく知恵とパワーとを発揮して、地域社会の牽引役になっていただきたいと思います。地方議員も有力な選択肢です。

団塊党ウェブサイト


2006/6/14(水) 「生きて虜囚の辱めを受けず」(補説というか、本質論)

11日の続き。

私は戦後生まれなので、「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉が、国民や兵士の行動原理としてどのくらいの重みをもっていたのかについては実感するすべがなく、戦時体験を文書等の資料で確認するしかありません。

太平洋戦争末期の沖縄戦では、軍民併せて19万人の犠牲者が出ました。驚くべきは、民間人の死者です。当時の沖縄県の人口が59万人。民間人の死者は9万4千人。「生きて虜囚の辱めを受けず」の言葉故に、多くの方々が自決し、あるいは敵の捕虜になる前に家族を殺害したと言われています。日本軍による住民虐殺もありました。沖縄、および沖縄住民は「捨て石」になったのです。

このような、国民を死に追いやるメッセージを発した責任者は、当然のことながら「生きて虜囚になる」べきではありません。国家の指導者、およびそれを目指す者であれば、繰り返し述べているこの言葉を知らなければならないし、指導者が自己の発した言葉に殉じなければならないことを当然であると思う倫理観がなければなりません。

しかし我が国の不幸は、現在の指導者たちにもそういう自覚が全くないことです。「虜囚の辱め」を受けぬために死を選んだ人たちと、それを禁じておきながら「虜囚の辱め」を受けた人との区別が付かないのです。もっと言えば、敢えて区別したくないのです。それは何を意味するのでしょうか。

国民向けの規範と、支配層向けの規範とが全く別物であり、それが当然であると考えているからです。だからこそ、「同じ戦死者じゃないか」という馬鹿げた主張ができるのです。国家の最高権力者が靖国神社に参拝することの政治的意味が問題になっているにもかかわらず、自己の私人としての「人権」を声高らかに主張し、「心の問題」などという非論理的な主張ができるのです。

国家指導者の規範構造の二重性が、戦前・戦中・戦後の指導者に共通するからこそ、靖国神社に「A級戦犯」が合祀されることに違和感がないというだけではなく、「合祀されるべきである」という確信があるのです。

「A級戦犯」から内閣総理大臣になった祖父を持つ次期総理候補。彼にとっては、「A級戦犯」が合祀されていなければならないのです。そうでなければ、自己のアイデンティティーが確保できないのです。支配者と被支配者とは全くの別物であり、別の規範で生きていく者であることの象徴として、「虜囚の辱めを受けた」指導者も同じ「戦死者」でなければならないのです。

ことの本質は、外交問題などではありません。国家指導者における責任のあり方の問題なのです。国家指導者の責任の方が国民の責任より軽くていいという、我が国指導層の悪しき体質の問題なのです。

日銀総裁が村上ファンドに重大な関わり合いがあっても、責任問題はないと言い切る小泉総理の見解。これまで述べた文脈の中で考えると、この国の指導者としては当然の感覚なのでしょう。


2006/6/13(火) 内政干渉?

衆議院は13日の本会議で、日本人拉致問題など北朝鮮の人権状況が改善しない場合に政府に経済制裁発動を促す北朝鮮人権法案を、与党と民主党などの賛成多数で可決しました。共産、社民両党は反対。16日の参議院本会議で可決、成立する見通しです。

同法案は、拉致などの人権問題で北朝鮮の姿勢が改善されない場合、政府が外為法による送金停止など「必要な措置」をとることを定める内容です。自民、民主両党の修正協議を踏まえ、人権侵害の救済対象には脱北者も含めています。

共産党の市田忠義書記局長は12日午後、国会内で記者会見し、「北朝鮮人権法案」に反対した理由について「日本の主権を侵害した国際的な犯罪の拉致問題と、北朝鮮国内の人権問題を同列に扱うのはおかしい」と指摘。その上で「脱北者支援を日本政府に行わせるのは、北朝鮮からの脱出の動きを、国家として推進することになり、(北朝鮮の)内政問題への介入になる」と述べました。
 
衆議院拉致問題特別委員会が衆議院に委員長提案することを可決したことについては、「質疑抜きで、政府の明確な見解表明もなしに、(国会)会期末に採決するやり方も容認できない」と強く批判しました。
 
同じく反対した社民党の又市征治幹事長は国会内で記者団に、「韓国、中国、ロシアの協力を得ず、日本だけ感情的、排外主義的に、こんなことをやっても、拉致問題の解決には逆効果だ」と強調しました。

以上が、新聞情報です。共産・社民の主張の中で、手続き論と効果論については、それなりの見解だと思います。しかし、「内政干渉」という主張には違和感を覚えます。

一般論としては、国家に主権がある以上、当該国家の国民がその国を脱出することを助長することは、内政干渉の誹りを免れません。その国で人権侵害が行われていることが明確であってもです。その国で解決すべき事柄だからです。この一般論が北朝鮮に妥当するかどうかが問題です。

北朝鮮は、国家として対外的に可能な限りの犯罪行為を行い、自らの利益を確保しようとしています。通貨偽造、覚醒剤、偽造たばこ、そして他国の国民の拉致監禁等々。北朝鮮の国家収入の40%が犯罪行為によるとの説もあります。異常を通り越しています。

北朝鮮は、国家の法人格を悪用して不法行為の隠れ蓑にしているのであって、この国の「主権」を形式論理で尊重することが正義であるかどうか、真剣に考えるべきです。実体としては、犯罪集団が「国家」を名乗っていると言ってもいいのではないでしょうか。

やっかいなことに、軍事力を頼みの綱として「瀬戸際外交」を展開しているこの「国」は、存在することで害悪をまき散らし、崩壊することで韓国や中国、日本に深刻な影響を与えます。そういう不気味な存在に対しては、妙な手出しをしない方が得策であるという大人の論理もあり得ます。

しかし、犯罪を生業とする不法集団である「北朝鮮」の実体を直視するならば、この集団の「主権」、国家としての「法人格」を無条件に認めるわけにはいかないのではないでしょうか。不法集団に蹂躙されている人たちの人権を、結果として無視してしまう考え方は、「主権」から演繹される形式論理に溺れて、実体から目をそらすものです。


2006/6/12(月) パーク・アンド・ライドとコミュニティー再生

放置駐車違反取り締まりの民間委託が6月1日より実施され、一定の効果を上げています。今後の動向に注目したいところですが、どうしても対症療法という面は否定できません。

環境問題、超高齢社会に対応する社会のデザインを考えるに当たり、主に個人の移動手段である車と、大量輸送機関である公共交通との棲み分けが問題になります。考えられる手段の1つがパーク・アンド・ライドです。

パーク・アンド・ライドとは、都市部や観光地などの交通渋滞緩和のため、自動車を郊外の鉄道駅又はバス停に設けた駐車場に止め、そこから鉄道やバスなどの公共交通機関に乗り換えて目的地に行く方法です。都市内部の移動をスムーズにし、中心部を歩行空間として確保することで、都市の魅力が増してきます。

パーク・アンド・ライド実施に向けては、参加者に対する優遇措置(運賃、税制上の優遇措置等)が必要になります。それ以上に重要なのは、車社会に慣れた個々人の意識改革です。私自身、過度に車に依存した生活をしているので、「おっくうだなあ」という気持ちがあります。

パーク・アンド・ライドがもたらす社会は、車という個人空間で遮断された人と人とのふれあいの回帰です。「ふれあい」と言われても、心の底から納得しがたいのが現代人の心理です。この心理の壁を破り、失われつつある地域コミュニティーを再生できるかどうかが、21世紀の社会の質を決めることになります。


2006/6/11(日) 「生きて虜囚の辱めを受けず」

これから秋にかけて、「首相の靖国参拝」が大きな争点として議論されることになるだろうと思われますので、私が繰り返し主張してきた点を、もう一度ここで述べておきます。(何度でも述べるつもりです)

「生きて虜囚の辱めを受けず」

戦争を知らない方に、特に覚えていただきたい言葉です。戦前・戦中の若者、徴兵で取られた若者は、戦争に臨む心構えとして、この言葉を叩き込まれました。日本男児なら、捕虜になる前に潔く死ねということです。国民にも、この言葉が強制されました。

「同期の桜」たちは、「靖国神社でまた会おう」と言い合って戦死したと言われています。靖国神社は、そうした英霊たちの死を悼む遺族や後輩たちが手を合わせる場所です。

「生きて虜囚の辱めを受けず」と若者たちに指導していた高官たちはどうだったか。敗戦になると自分だけは生き残ろうと画策した者もいたようです。

A級戦犯と言われる人たち。この方々を庇う言説があります。戦勝国による極東軍事裁判は裁判の名に値しない。「大東亜戦争」は正当防衛である等々。確かに一理あります。

しかし彼らは、「生きて虜囚の辱めを受けた」方々ではないか。この一点で、靖国に祀られる英霊たちと合祀されるべきではないと思います。英霊たちに合わす顔がないことは、本人たちが一番分かっていることなのですから、わざわざ恥をさらさせることはありません。私が死にきれなかった「A級戦犯」の立場なら、絶対に嫌です。

極東軍事裁判の不当性については、とことん議論すべきです。我々日本人が裁けばいいのですから。しかし、「生きて虜囚の辱めを受けるな」と呼号しておきながら「虜囚の辱めを受けた」高官の皆さんには、靖国神社は一応御遠慮願った方がいいのではないでしょうか。それが最低限度のけじめです。

中国、韓国がどう言った、こう言ったということは、副次的な問題です。


2006/6/10(土) 「愛国心競争」

先日テレビを見ていたら、「愛国心」について議論していて、その中で新右翼の鈴木邦男氏がコメントをしていました。彼は「愛国心」について慎重な考え方を持っており、「愛国心競争」の弊害を指摘しています。鈴木氏の政治的体験の中で、「自分の方がお前より愛国心がある」という、不毛な競争が仲間内で起こったというのです。

意外なコメントでしたが、核心をついていると思います。戦前の日本に歯止めが利かなくなった原因は、ここらあたりにあるような気がします。ファシズムが急進化するとき、そこには独裁者に対する忠誠心競争が起こります。これにより、独裁者が考えていた以上の独裁が現実のものになります。「愛国心」についても、同様の競争が起こるのです。

抽象的かつ情緒的な概念を扱うときには、他との比較は危険です。最近、「愛国心」を採点しようとする動きがありました。末端の小役人は忠誠心競争で暴走するものであるということも計算に入れながら、制度設計がなされる必要があります。小心者の大風呂敷とでも言うべき、詰まらない「愛国心競争」「忠誠心競争」に巻き込まれるべきではありません。

鈴木氏の著作、「愛国者は信用できるか」(講談社現代新書)を買い求めました。サミュエル・ジョンソンの「愛国心はならず者の最後の避難場所である」という言葉も引用されていました。「愛国」も突き詰めると、随分妥当な結論になるものだなあと感心しました。

「愛国心」は必要だが、取り扱い危険物である。このことを私は、繰り返し主張しています。


2006/6/9(金) 事前規制による不自由と事後規制による転落

事前規制というのは不自由です。何をするにも「お上」の意向を確かめ、周辺を見回して進みすぎず遅れすぎずというところでやっていくことになります。「護送船団」と言われる規制の仕方によって、我々は不自由と引き替えに安定を得ることが可能でした。

これに対し事後規制の仕方を採用すると、合法・非合法すれすれのところで大いに「活躍」する人物が現れ、「時代の寵児」に祭り上げられることになります。彼らの手段が「違法」だった場合、得意の絶頂の中で「塀の中」に落ちることになります。

社会的な評価も十分得た上での転落。これは当人の立場に立てば大変なことだろうと思います。「スピード違反で捕まったようなものだ」、「他の人もやっている」「社会の妬みにやられた」、「国策捜査だ」等々、自己の「悲運」を嘆くことになります。

事後規制とは何なのか。このことが分からずに有頂天にはしゃぎ回っていると大変なことになります。「転落」と背中合わせの自由が与えられているのです。「自由の境界線」の中の安全な内側にいる人たちには、大もうけの機会はありません。「安全な内側」では、血のにじむ努力なしには成功はないのです。

一般論として言えば、「塀の上」を歩く覚悟なしには、競争の激しい自由な社会の中で楽々と他に抜きん出ることは不可能です。「悪い奴」ほど、法律を完璧に読み込まなければなりません。村上ファンド・村上世彰氏にしてもホリエモン氏にしても、違法行為の結末については当然自覚していなければならなかったし、自覚していたはずです。

事後規制による「自由」とは、「成功」と「転落」が同居する、厳しい自由です。


2006/6/8(木) 一般市民が行う公務

昨日の続き。公務員を、公務を行う労働者ではなく、公務を担う市民であると定義してみました。あくまで専門職としての話です。これに対し、一般市民が公務を担うケースが想定されます。私が市議時代に視察した埼玉県・志木市においては、穂坂邦夫市長(当時)が市民ボランティアが公務を担うシステムを導入していました。

もともと、市民が自治を行う上で必要な事務を全てこなすのは困難であるところから、事務能力の高い人物(公務員)を雇って地域事務を委ねたのが地方自治であると考えれば、オーナーである一般市民が自ら公務を遂行するのは自然な話であるとも言えます。

これからの時代は、一般市民が公務を担っていくことが地方自治の本筋であると理解されてくるものと思われます。主権者たる市民が自ら公務を担う。その中で、専門職たる「公務市民」が中核となって、志ある自治を確立していくのだという方向性が明確になっていけば、我が国の地方自治は、中央指向の「おこぼれちょうだい型」から、内発的な「地域主権型」へ変貌できると思います。

もちろん、「主権」を持つためには、「権限・財源・人材の3点セット」を獲得しなければなりません。しかし、受け皿としての「自治のスタイル」が確保されていなければ、「猫に小判」になってしまいます。

★穂坂・前市長の主催する「NPO法人・地方自立政策研究所」のホームページを発見したので、お知らせします。


2006/6/7(水) 「公務員」から「公務市民」へ 

国家公務員、地方公務員の削減が実施される展開になっています。給与条件にも変更が加えられつつあります。

公務員に対する世間の嫉妬感情を利用して、国や自治体がやりたい放題という展開になることには警戒が必要です。憲法に保障された労働基本権が与えられていないのに、一方的に労働条件が変更されることが不当であるということは、何度言っても言い過ぎではありません。

しかし、公務の民間委託が進みつつある中で、「公務とは何か」、「公務員とは何か」ということが問われなければならない時代になってきたことも事実です。「公務」、「公務員」の再定義が必要です。

公務員の皆さんが、自分たちは「公務労働者」、「公務サラリーマン」ではなく、「公務市民」であるという自己認識を持っていくべきだと思います。公務を担う労働者から、公務を担う市民へ。根無し草のサラリーマンから、地域に根を張った地域人としての公務市民へ。

自治労がそういう自己再定義を行うことができれば、支持の輪が大きく広がってくることは確実です。地域にとってなくてはならない存在。公務員でなくなるとただの粗大ゴミでしかなくなる方が多いのが現実です。公務を辞めても市民である。この自負が、後半の人生の支えになってくると思います。

<参照>
生き残れ、公務員!(4月23日)
「ぶらぶら公務員制度」の提唱(5月10日)
組織人から地域人へ(5月22日)


2006/6/6(火) 「物言う被疑者」の自己矛盾

「物言う株主」村上世彰氏の逮捕前記者会見は、なかなかのものでした。理路整然たる物言い。認めるべきところは認める潔さ。引退というけじめ。

表面を追っているとそのように見えるのですが、よく考えてみると、「村上ファンド」継続の投資家向けアナウンスなのか、「延焼」を最小限度に食い止めようとする戦略的撤退なのか、村上氏が策士であるだけに「真意」の読みとりが難しい発言でした。

「株主価値を高める」という資本主義的正論を掲げて、株主として物を言ってきた村上氏。しかしその正論が妥当するのは、継続的な株主であり、「投資家」の場合です。「ファンド」責任者として数千億円の資金を運用して「利益を確定」しなければならない立場と、継続的な株主としての立場は矛盾します。「投資家」を装う「投機家」という本質。

村上ファンドが動くことで多額の資金が集中して株価が急上昇する仕掛けができあがりました。高値が付いた段階でいつの間にか売り逃げというパターン。籠抜け詐欺師としての側面を有する世紀の山師の弁論術は、「物言う被疑者」としては見事でした。

「聞いちゃった」ですむかどうかは、分かりませんが。


2006/6/5(月) 路上駐車問題と車過剰社会

放置駐車違反取り締まりの民間委託などを盛り込んだ改正道交法が6月1日より施行され、大きな社会的関心を呼んでいます。駐車場不足、違反取り締まりの公平性確保、宅配便等の一時停車に対する配慮の必要性などが指摘されており、検討すべき多くの問題を含んでいます。そのことを踏まえて態勢が整備されていけば、路上駐車一掃の効果は十二分に期待できます。

違法駐車による交通事故誘発の危険、道路渋滞による社会的・経済的損失を考えれば、車利用者の便益を多少損なったとしても、社会的有用性の方が数段勝るものと思われます。

一方では社会が車に過度に依存しつつ、他方では車に対する配慮を欠いた都市の構造を許容していることには大きな問題があります。車はそれなりのスペースを必要とする交通手段です。社会が車を必要とする以上、車のスペース確保が前提問題として解決されていなければなりません。

しかし車には、大きな制約条件があります。資源と環境の問題、そして超高齢社会到来に象徴される車弱者の問題です。この問題は避けて通れません。石油燃料に頼らない車、環境と調和できる車の開発が急ピッチで進んでいますが、中国等の巨大な需要を考えると石油資源消耗のスピードの方が勝りそうです。

資源と環境の問題をクリアしたとしても、車社会に適応できない方々(高齢者、子供、生徒)が都市的なサービスを受けることが可能なシステムをつくるためには、歩いて暮らせる街への転換がこれからの地域社会における重要な課題となってきます。

そもそも、これほど車が必要なのかという根本的な疑問があります。歩行を中心に考え、足らざるところは公共交通機関が補完するという方向にシステムを変更していくべきです。駐車場が足りないのではない。車が多過ぎるのです。


2006/6/4(日) 断末魔の自民党総裁選挙

来年の参院選とのからみで、自民党総裁選がヒートアップする可能性があります。テレビに頻繁に登場し、油紙が燃えるようにペラペラとよくしゃべる議員が、ある総裁候補を応援する唄をつくったという話題もありました。

テレビが、ある総裁候補について特別扱いでキャンペーンを張っています。うんざりする情景です。現在のマスコミに思慮がないこともあるでしょうが、権力サイドの要請もあるのでしょう。NHKまで悪乗り状態。

今回の総裁選「レース」で面白いのは、派閥対抗ではなく、考えの浅い議員たちと考えの深い議員たちとの色分けが顕著だということです。パフォーマンスや人気頼みでお祭り選挙をする方が選挙に勝利しやすいと考えるのか、もう少し現実をよく見て政策面での修正を加えないと国民の意識との乖離が甚だしくなると考えるのか。この点での認識の差が背景にあります。

「逃げ馬」が第2コーナーから「独走」し始めたような光景。しかしこの「レース」は、第3コーナーから第4コーナーで大きな波乱があるように思われます。

「バカ」対「イヤミ」のマッチレースでは、本当の盛り上がりにはなりにくいのではないでしょうか。だからこそ「キャンペーン」なのでしょうが。

自民党断末魔の足掻きにも見える総裁選挙。5年前はその中で奇蹟が起きました。しかし、貴重な5年間が失われました。さて、今回も「ドジョウ」がいるのかどうか。


2006/6/3(土) 金は90歳までに使い切れ・・「老後のための貯金」をなくす政治を!

「超高齢社会」に突入しています。日本の高齢化率(65歳以上の人口が全人口に占める比率)20%を超えました。高齢者人口は2560万人。

多くの方々の不安は「老後」にあります。何時まで生きるか分からない。したがって、どれだけの蓄えが必要なのか分からない。蓄えを残し過ぎて死ぬのももったいない。嗚呼、ポックリ死にたい・・

あらゆる人が一定年齢になったら、医療・福祉が無料、十分な年金(掛け金不要)という環境を整えれば、それまでに「貯金」を使い果たすことができます。何不自由ない、人生における黄金の日々。人生の最終章をそういう形でデザインする政治を実現したいものです。(本来、そういうつもりで年金制度をつくったのでしょうが)

堺屋太一氏が著書で、85歳という数字を出してそういう発想を提示されていました。それだといいのですが、財政が持たないのではとの不安があります。長寿者の増え具合を勘案すると、90歳が妥当なところだろうと思います。

ともあれ「期限」が決まれば、人生設計が明確になります。かつて「100歳」からデビューした「金さん、銀さん」が、お金の遣い道を問われ、「老後のために貯金する」という名言を残しました。そういう心配が無用な社会をつくるべきです。

「高齢者」概念も、75歳ないし80歳以上というところに再定義し、中高年パワーを社会的に活用できる仕組みをつくることも必要です。もちろん、一定年齢以上の方々における健康・体力・気力・能力等の実態は直視すべきですが。


2006/6/2(金) 出生率1.25・・「日本列島の先住民」にならないための思考

もう「大本営発表」は信じられない。2007年に出生率1.30で底を打ち、2050年に1.39まで回復することが前提だった一昨年の年金制度改革は、基礎となる出生率が大きく外れており、「構造設計」に偽装があったことが明確になりました。「100年安心」はインチキ広告だったということです。

出生率の「先行指標」とされる東京都の出生率は「1」を割り込みました。日本民族が日本列島における少数民族になる未来も想定しなければなりません。「我々はこの『列島』の先住民だった」ということにならないように、政治がその機能を発揮する必要があります。

小手先の「少子化対策」では無理です。子供とお父さん、お母さんにとって幸せな社会とはどういう社会かが問われます。男女が一緒にならなければ食っていけない時代、子供を産み育てることが個々人にとっての「社会保障」だった時代は遠い昔になりました。男女が「自立」する時代にあっては、子供を産み育てる動機は、これまでと全く違うのだという前提に立つべきです。

生産中心の社会から、生活中心の社会への抜本的な変革が必要です。生活中心の社会を構想する。子供と家族にとって幸せな社会を構想する。政治の構想力の問題です。「出産・育児・教育における、ゆるやかな社会主義」ということも考えられていいテーマです。子や親の目線で障害となるものを取り除きます(職場環境、地域社会、子育て資金等)。画一主義ではなく、「選択の自由」が保障される、子供中心のゆるやかな社会主義。「資本主義」では、この国は滅ぶ。


2006/6/1(木) 首長の退職金

本日の愛媛新聞1面に、自治体首長などの特別職の退職金問題が取り上げられていました。小泉首相が多すぎると発言し、「自分は受け取らない」としたことで、波紋を広げました。

首相の退職金を小泉氏が受け取らないのは彼の勝手であり、パフォーマンスに過ぎないと思います。首相を辞めても国会議員である人物と、辞めれば「ただの人」になる首長とでは話がまるで違います。

この点、佐々木龍・新居浜市長が立候補以来退職金廃止を公約としているのとは、本質を異にしています。佐々木氏の場合、首長は毎月の給料と期末手当で十分であり、退職金制度自体が不要であるとの見解です。

ただしこれは、市民派の市長が草の根の市民に支えられ、選挙に金を使わないやり方に徹した結果、淡々たる姿勢で職務を担当しているということと無関係ではありません。しかし、多くの首長選挙の現実を見ると、一定の資金を掛けないと選挙にならないというのが現実です。(佐々木市長の場合、退職金廃止が遡って政治のあり方の変革につながるという発想ではないかと推測します。)

取り分け、愛媛県南予の政治風土(選挙風土)には、凄まじいものがあります。「選挙に出ておいて金がないとは何事だ」というのが南予の一般的な雰囲気であろうと思います。こういう雰囲気では人材が逃げだし、地域は衰退の運命を免れないと思うのですが、如何ともし難い。(私の衆議院候補者時代、愛媛の政治風土を変えたいとの思いから、「保守の岩盤」である選挙区外の南予で演説を繰り返し、このままでは終わりですよと呼びかけたものですが・・・)

実際問題として、金のない人物が選挙に出て当選した場合、借金をしたまま職務に専念できるのかという問題もあります。選挙の借金は退職金で何とかなるということであれば、それなりに真面目な政治生活を送れます。退職金の大きさよりも問題なのは、公共事業等における「リベート」(=賄賂)です。「貧すれば鈍する」であっては、却って公共の資金を食い潰すことになります。

これからの地方自治は、分権が進めば進むほど、トップの力量で大きく左右される可能性があります。任命されてその職に就く助役等の特別職を含め、人材確保という側面は無視できないであろうと思われます。

選挙公約で「私は年俸3億円、退職金10億円取るが、自治体は飛躍的に活性化し、皆さんの生活は大幅に改善される」と主張する人物がいたとして、応分の仕事をやるのであれば「多額」とは言えないというのが、私の発想です(仕事ができなければ、月給泥棒・退職金詐欺)。


玉井彰の一言 2006年6月 四国の星ホーム一言目次前月翌月