3・11大震災/原発事故は、その被害の甚大さとともに、私たちの社会のあり方、私たち自身のあり方を根底的に問うています。
特に原発過酷事故は、政官財界、学界、司法、マスコミが一体となって謳って来た「安全神話」に取り込まれ、「原発体制」を許してきてしまった私たち自身の責任も問わなくてはなりません。

  戦後、キリスト者は自らの「戦争責任」を問うてきましたが、今、原発体制を許してきた「戦後責任」が問われています。

しかし、政府・原子力産業界は、過酷事故を起した当事者にもかかわらず、その責任を一切問うことなく、生命より金儲けを優先させ、原発再稼動・原発輸出を推し進めています。

  私たちは、そのような「原発体制を問う」ために力を合わせようと、この会を立ち上げました。

 

 今なお原発体制を問うことがタブーな教会も多く、孤立しかねないキリスト者も多いと聞いています。 また、市民活動などに参加して反原発・脱原発の取り組みをしているキリスト者も多くおられます。


 そのようなキリスト者が互いにつながり、協力しあい励ましあい、またアジアで志を同じくする人々とつながり、原発・核兵器の廃絶のためにともに歩んでいきたいと願っています。



2012/08/01

CNFE共同代表
鈴木伶子 崔勝久 内藤新吾

 


 

巻頭言


 CNFE(当会)の先日の総会で、予定した大体の議事が終わったあとの自由討議で、ある方より、「牧師さんたちは、礼拝説教の中で、原発の問題を語ったりされているだろうか」という質問がなされた。牧師の出席は少なかったので私が、「私は、しょっちゅうというわけではないが、その日の聖書箇所から話しても自然であると思うとき、原発そのものの細かなことは話さないけれども、私たちの生き方として、倫理的な問題として、神が私たちに与えられた戒め、隣人を愛し豊かにいのちを得させよとの教え、また地球を大切にお世話せよとの真意を覚えて、語る場合が当然ある」とお答えした。

 

 質問者は正直に、「しかし私の周りでは、そうした説教を聞くことはほとんどない」ということを、少し悲しそうに語られた。他の方もまた、「このことを説教で話せる牧師はどの団体も非常に少数である」と口にされた。私もそう感じる。それで私は、「多くの教派で、原発に関する声明は出たが、実際にそれを信徒の前で語る牧師は少ない。それはたぶん政治的な発言はしてはならないという考えが頭にあるのだろう。しかし私は、どの党がいいとか、どの政治家がいいとかいう発言ならば問題だが、政治の中身について、実際にそれによって人権や命や平和が影響を受けているのだから、どう改善がされてほしいかということを語ることは何ら問題ではない。むしろ必要なことと思う。しかし牧師たちは教会にはいろんな方々がおられるからと、縮こまっておられる場合もあるだろうから、信徒さんのほうから、“先生。社会がどうあらねばならないかの、中身を話すことは、全然問題じゃないんですよ”と、励ましてあげてほしい。そういう応援があると、勇気が与えられると思う」とお願いをした。それには、出席者の多くの方がうなづかれていた。

 

 実際、もし今、かつての日本のようにまだ女性に参政権がなかったら、当然それは差別だと声を上げ、改革のために祈り、また行動も起こしていくべきことは、今ならば誰でも想像できることだろう。またもし、国がどこかの戦争に加担しそうになったとき、それはならないと態度を示す務めが教会にあることを、誰もが理解するだろう。そうであるならば、原発問題についても同じはずである。できないなら、何に遠慮しているのだろうか。経済界が原発を進めたがっているから、教会はそれらの人の機嫌を損ねたくないのだろうか。教会にも巨大企業の信徒がいるからと。あるいは、教会にも電力会社員やその家族の方がいるからと、もっともらしく聞こえる理由にて、このことについては触れないようにしているのだろうか。いずれにしてもおかしなことである。原発はウラン採掘の段階から最終の死の灰処理に至るまで、その全ての工程において環境への影響があり、また労働者被曝を伴い、そして事故が起きれば取り返しのつかない被害をもたらすのである。これをやめずして、いったい未来の子どもたちに対して、私たちはどんな言い訳ができるのだろうか。教会の信徒に電力会社の方がおられても、何も問題ないはずである。電力会社は、原発なしで電気を作ればいいだけのことである。経済的にも、原発は実はトータルで最も割高なのがバレてしまっている。財界が原発にこだわるのは、自分たちに利権が集中しているシステムが、壊れることを恐れているからに過ぎない。しかも、政府与党がこれまで核武装をも視野に入れていたことを示す数々の記録や、少なくとも潜在的抑止力であるとする発言など、キリスト者としてこれらを放置することのほうが問題である。

 

 ところで今年の2月、私は初めてドイツに行った。NCCドイツ委員会の主催にて日独教会協議会の交流プログラムで、日本から9名がドイツへ出かけた。現地で三泊四日を過ごした。私は最終日に、『少数者としてのキリスト者の宣教』~教会と社会の課題:原子力問題~というテーマで発題を担当した。パワーポイントを使い、地震大国に原発が乱立する狂気の状況と、貧しい地域と人々が犠牲を押し付けられていること、しかしそこにおいてキリスト者が虐げられている人々と少数者であるがゆえに連帯することができ、さらに市民たちとも解放のわざを広げていくことができるということなどを、前任地の浜岡原発近くでの経験をもとに話した。

 

 途中で、これはどうしようかと紹介を悩んだ写真もあったが、浜岡港にプルサーマル用のMOX燃料が入ってきたときの、抗議に駆けつけた私の姿も思い切って見せた。それはカトリック教会やルーテル教会が現在用いている祭服姿である。私は宗教者として、人々に勇気を与える存在として立つことが、自分の務めと思っていたし、今もそれでよかったと信じている。しかしドイツや、一緒に行った人たちの中には、文句を言う方もいるかもしれない。けれどもそれをお見せした。ドイツでは、エネルギーとは無縁の教育者や哲学者また教会関係者たちも含まれた倫理委員会によって、原発政策の見直しがなされたことを聞いていたが、それとこうした牧師の抗議行動への理解は別物との印象があった。

 

 発題と質疑応答が終わって休憩に入るやいなや、私は何人ものドイツの男性の神学校教授や牧師たちから、がっしりとかなり熱烈にハグをされた。中には日本語の話せる先生から、「ルーテル教会はあなたを愛している」と、これまた日本では聞くことのなかった言葉を、ギュッと抱きしめられながら聞いた。静岡で過ごした時代、いろいろと弾圧を受け、仲間の牧師たちからさえ理解されず、少ない教会員と少ない市民との連帯以外、孤独と苦労の日々であったが、まさかドイツへ来て、それらのトラウマからの癒しを受けるとは、思いもしなかった。と同時に、私は、やがて天国の門をくぐるときも、イエス様に抱きしめられて、「お前はわたしが大切に覚えている人たちのために、よくやってくれた」と言われるために、これからも闘い続けなければならないな、ということを感じた。そのことはどこにいても意識次第で出来ることであり、誰と共に何を求めて生きるかということが、問われていることであると思う。

 

 

2013/06/01
共同代表 内藤 新吾

 

 


 

 
 原子力規制委員会が全国16原発の事故の際の放射能拡散予測結果を発表した。安全神話を振りまいていた国が、ついに自ら原発の苛酷事故の可能性を発表したわけだが、自治体・企業・そして国自身がなすべきことは、防災計画ではなく、原発廃止ではないか。

 一度は原発ゼロの可能性を調査する方向に動いた野田首相が、すぐに原発依存へと動いた原因は、経団連の米倉会長が「それは了承いたしかねる」と言ったこと、さらに米国から強い「懸念」が表明されたことによるといわれる。この国の政策決める要因は経済力と軍事同盟でしかないのだろうか。ドイツが倫理委員会の報告を受けて脱原発を決めたことに比べ、あまりにお粗末である。その後の政治、そして電力会社の方針は、あたかも福島での事故が無かったかのように、大飯原発再稼動であり、大間原発建設再開に向かった。

 先日「エリア51」という本を読み戦慄を禁じられなかった。米ソ冷戦の中で、ネヴァダに広大な秘密基地を作り、米国民にも一切知らせることなく巨額の資金を投じて兵器開発が行われた。そこで超音速爆撃機開発に携わる飛行士は飛行のつど増えていくクレーターを目にする。それは核実験の跡であった。基地内では多くの人や動物が命を奪われ、自然環境が破壊されていった。「自国の勝利」が唯一絶対の目標となり、そこでは人間が人間であることを許されず、人の命は鴻毛のように軽かった。

 原発も同じ体質を受け継いでいる。自らが、より豊かに、より強く、より快適に生きることのためには、他の人の命を犠牲にし、環境を汚染することを厭わない。それは厳重な管理の下に極秘のベールに包まれ、差別と人権侵害のうえに成り立っている。

 私たちは、かつて自国の強さと豊かさを求めて、アジア・太平洋の諸国を侵略し、朝鮮半島と台湾を植民地として支配した。その謝罪も行われないままにいま、ふたたび、沖縄へのオスプレイ配備や日米共同演習、自衛軍や天皇君主を盛り込んだ憲法改定案など、軍事大国への道を急速に進んでいる。その狙うところは「米国と一緒に戦争が出来る国になるため」である。そして、原発体制はこの軍事化と表裏一体をなしている。脱原発という方向は「日本経済と世界の安全保障にとって誤りだ」と米国戦略国際問題研究所のジョン・ハレム所長は言う。米国の世界戦略と利潤追求のために、あれだけの災害をもたらした原発を廃止させられないという。

 利潤追求の流れは日本国内に留まらない。日本では新規の原発が作られそうもないと、原発輸出の話が着々と進み、廃棄物を押し付ける交渉が進んでいる。東芝は英国の原発会社を買収するという。除染に除染を重ねても、ひとたび放出された放射能は消えず、そのために故郷に住めない人がいるにもかかわらず、同じ危険性を持つ原発を輸出して金儲けをするとは、日本企業は金の亡者になりさがってしまったのか。

 日本のキリスト教界は、かつてのアジア・太平洋戦争で戦争に協力したことを悔い、多くの教団が、神と隣人に対し罪の告白を表明した。

 いま、ふたたび同じ罪を犯そうとしているこのとき、現実をただ座視していることは出来ない。この世界を造り、一人一人の人の生命を何ものにもかけがえの無いものとされた神を心から信じ、同じ神の愛に生かされた隣人を本気で愛そうとするなら、力と豊かさを神と並べて祭り、自分中心の生活ゆえに隣人を苦しめることは赦されない。生命か死かの分かれ道に立って、私たちは生命の道を選ばなくてはならない。軍事力と経済力のみを重視し、人間の生命という視点を持たないこの国にあって、キリスト者が声を上げることは重要である。

2012/11/01
共同代表 鈴木 伶子