教育のツボ


教育雑感//1997/10/18≫
視点1――いじめ問題をめぐる子供たちの言説を端緒として

 以前、現代文の授業で山田詠美「風葬の教室」に取り組んだ際,当時(1992年度・高1)の生徒たちが提出してくれた感想文には,いじめに触れたものが最も多かった。そのうちのいくつかをここで掲出しておくことにする。 (1) 僕はこの時(引用者注:転校先で自己紹介を終え,席に着いた時)に,このクラスでやっていけるだろうかとか今後のことについて考えます。やはりいじめが存在するからだと思います。
(2) いじめる方の立場といえば,自分がむしゃくしゃする時に無抵抗な者に悪口や暴力をふるうと面白くてただのストレス解消に過ぎない。僕もそうだった。
(3) この「杏」(引用者注:「風葬の教室」の主人公で小5の女子)の様に,(その頃は)自殺したくなる様なイジメにもあったので,多少はわかるのですが,……兄弟のいない私が,似た様な「心の中で相手をなぐり倒すこと」を自力でみいだしたのは,中学校の一年の時でした。
(4) 小学三年ぐらいの頃,うちの学校でも,当時問題の「いじめ」があり,そのいじめられっ子というのが自分だった。一度だけ,「死のう。」と思ったが,杏のような勇気はなかった。
(5) 自分たちの小学生時代を思い出したら,いろいろいじめたり,いじめられたりしたものだと思いました。今から思えば本当にしょうもないことでそれに対してのいじめがあったと思いました。
(6) いじめられているところでの杏の心境は,僕がある時いじめられていた時となんとなく重なって,……僕も小学校のとき,実際にいろんな役を演じていました。でも,いじめっ子になったからといって,なんだか後味が悪いし,いじめられっ子はもっと悪い。(拙著『《読み》のたちあがる場をめざして』より引用)

 均質化された集団の中でわずかな差異が問題となり,その差異を持つ個を排撃することで他の成員たちは“同じもの”たりうる。ただし,その地位に必ずしもずっと安住しうるわけでもない。このように,いじめが単なる個の対立の範囲にとどまらず,周囲をも巻き込んであたかも当然の空気のごとく膨張していく要因の一端について,生徒たちは次のように指摘している。 (7) それ(引用者注:いじめられる側の立場を考えて行動すること)をやってしまうと,みんなから杏のように避けられるのが恐いんだと思う。だからみんなは自分の意志に反して杏をいじめてるんだなと思った。
(8) 人間は弱い生物だと思った。仲間はずれにされるのがいやなため,罪もない人を傷つけている。彼らは杏の気持ちを考えたことがあるのだろうか。
(9) 中心的人物がいて,そのまわりのいじめに参加している人々は意志を持っていないのです。もしまわりの人々が意志を持っているのなら,それは中心的人物にしたがうという意志だと思います。 (同上より引用)

 いじめの関係そのものが流動的で立場逆転の可能性すら孕んでいるということは,子供同士の関係が確かな《絆》を伴ったものになりえていないということでもある。このことは,ひとりひとりが意志的な個となりえていないとする生徒たちの指摘ともおそらく根源的な部分で響き合う。しかし,こうした不確かな個が互いに取り結ぶ不確かな人間関係は,単に子供社会の現実としてのみ把握されるべきものではあるまい。次に引く生徒たち(中学生)の言説は,それが私たち大人社会の問題でもあることを鋭く突いている。 (10) それが行われているのは学校だけじゃないってことだ。会社でもあるだろう。社会のどこにだって「いじめ」はあるんだよ。それとも,大人達のは「いじめ」じゃない,と言う人がいるのか? だとしたら私はそいつを嘲笑するよ。大人達だってやっていることだろう? それなのに!! 自分たちのことは棚に上げて,私達学生ばかりなぜ批判する!? お前らがやっていることなのに,学生の私達の「いじめ」だけをなくそうとするのは,大きな間違いだ。
(11) 大人はわかったよーに“イジメ”という3文字をブンセキして,あーだ,こーだ言いますが,そんなことしても何にもならないです。勝手ですよ,そんなの。きっと“大人の中でのイジメ”から直さなきゃイジメはなくならないと思います。
(12) 私は学校のことを子供達の小社会だと思っている。だから決して甘くもなく簡単でもない。私もこの小社会の中にいる一人として見えてくるものは,大人達の社会も子供達の小社会も,問題が起こった時の原因の原点のようなものは同じではないかと思う。
(13) 中学校だから“いじめ”と子供扱いで大人はこの言葉を使うけど,例えば会社でも嫌われてる奴っているわけでしょ? その差なのよ。大人になるとちょっとした嫌がらせでもいちいち口に出して言えないし,世間体ってものもあるから「問題」にもならないのよ。でも中学校は違う。皆,つっぱってるだけで,まだ子供だ。大人の様にいかないだけなんだと思う。いじめは奥が深いだのなんだの言うけど,深くなんてないよ。やってる方は悪気という神経を持ってないだけ。
(『学校で起こっていること―中学生たちが語るいじめの「ホント」』より引用)

 ここには,一方的に単なる保護対象として位置づけられてきた子供の側からの,いわば自己決定権要求にも似た叫びとともに,大人は大人の領分で自身の問題にまっすぐ向き合っているのか,という厳しい問いかけが含まれている。

 成員のひとりひとりが排除者にも被排除者にもなりうる集団,あるいは〈大人〉と〈子供〉という時間的に不可逆な存在であるはずの両者を(現在という時間軸状の同一地点において)内面的に等価で交換可能な存在と見なしうるような社会に,私たちは身を置いている。だとすれば,いま(例えば,少年のモラルの低下・少年犯罪の残虐化といった)子供の問題について語ることは大人のそれを語ることでもあり,同時に大人の問題について語ることはまた子供のそれを語ることにもなるはずだ。だから、生徒たち(あるいは児童たち)の個々の事例をとりあげていくことは,とりもなおさず,私(あるいは私たち)自身の問題性について語ることにほかならない――そんな気がしている。


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