教育のツボ


教育雑感//97/10/27≫
ああ、無情――山田詠美作品をめぐる国語教科書検定の顛末

 皆さんは、「高校時代の現代文の教科書に何が載っていたか?」って聞かれたら、どんな教材を思い出しますか。

 羅生門、山月記、こころ、舞姫……なんてのが思い浮かぶところでしょうか。これらは現在の教科書にも採用されている作品たちです。でも、実を言えば、いまをさかのぼること――約20年ほど前、なんと、私が高校生だった頃にも、これらは教科書に登場していました。

 もう少し上の年代の方たちも同じ作品に接していたということをお聞きしていますが、だとすれば、この一連の作品群は教材としてずいぶん長いこと、多くの高校生たちに読まれて(読ませて?)きたことになります。まあ、だからこそ、≪定番≫教材なんて言われているのでしょうけれど。

 生徒の立場で言えば、教材として(その作品に)出会うのは、1回っきりなわけですが、教師の立場になるとそうもいきません。仮に、毎年必ず高1を担当しているセンセエがいるとして、各年度の教科書に同じ教材の載っているものが選ばれていたら、きっとスゴイですね。私なら、あきてしまうだろうと思います(などと書くとお叱りを受けますね)。

 「優れた作品というものは、読み返すたびに新しい発見があるものだ」という主張は、確かに私にもわかります。しかし、学校現場が外部の人の想像する以上にゴチャゴチャといそがしいことを考えると、毎回、新しい発見をしうるほどに教師の内面のほうが年々グレードアップ(というか成長)しているのかどうか。私はむしろ、授業のパターン化やマンネリ化をもたらすような気もして、それこそ、そんな授業を≪受けさせられる≫生徒にしてみれば、たまらんやろなあ――なあ〜んて考えたりもします。

 もちろん、最近は教科書も少しずつながら、変わってはきています。芥川作品として羅生門の代わりに蜜柑が入っていたりとか、定番教材を排した新版(ただし、これらは、いわゆる「進学校」と呼ばれるところでは使われないようです。ここらへんにも現代日本の教育事情の一端が垣間見えます)が出されていたりとかね。

 「何か、新しいもん、載せられへんの?」とか言っても、教科書会社の営業マンが「そんな文句言わはるんやったら、買わへんかったら、よろしいがな!」なんて答えるご時世ですし、逆に≪定番≫はずしたら、楽をしたい教師もいますから(現場は、ほんまに忙しい! しかも、公立・私立を問わず教師集団の高齢化が進行しています。なにせ、私の勤務校でも、30代半ばの私が、国語科の最若手――<PASHIRI!>とも言う――だったんですから。それはともあれ)、今度は教師のほうから、「なんで、アレが入ってないねん!」とクレームがついたりもするそうです。(なあ〜んて書いていると、「アレは名作だ!」と思っておられる仕事熱心な方々からお叱りを受けそうですね。)

 まあ、教科書会社も商売なわけですから、教科書が売れへんかったら、どうもならんわけです。ただ、教科書検定ってやつがあるわけで、そこで認めてもらわな、教科書として売ることも出来ひんのです。言うまでもなく、いまの教科書会社や学校現場の状況を規定しているのは、文部省ということになるわけですねえ……。

 かつて山田詠美の「風葬の教室」・「蝉」・「ぼくは勉強ができない」などを授業で取り上げたことがありまして、(私の予想とは裏腹に)生徒たちの反応はなかなかのものでした。もちろん、単なるウケ狙いで教材化したわけではありません。ちなみに、授業実践記録のほうでも書きましたごとく、「蝉」というのは、教科書教材の候補となりながらも、不採用とされた作品の1つです。

 ここでは、山田詠美「晩年の子供」が、教科書教材の候補となりながらも、不採用とされた経緯について、いくつかの資料をあげておくことにしますけれど、おそらく問題は、山田詠美作品だけに限定されるものではないはずです。

 児童・生徒たちへのアンケート結果で、算数・数学とともに≪嫌いな教科≫のトップにランクされてしまう国語を、何とかしたい(してやりたい)と私は考えています。現代作家の作品の導入も、(もちろん、そういう教材ばかりにしろと言っているのではなく)その1つの足がかりになるような気がするのです。


≪資料1≫A出版社H氏からの私信(1995年12月2日)より抄出

 '93年4月に、文部省検定に出願した『現代文』(白表紙本の段階)では、「晩年の子供」を教材として採っておりました。その時点では、B社版『国語(一)』の検定経過は明らかになっておりませんでした。編集会議では「蝉」「海の方の子」「ひよこの眼」(いずれも単行本『晩年の子供』所収)も含めて採録の検討をした結果、最終的には「晩年の子供」を採りあげることで決しました。

 その後、「文春」報道もあり、教材さしかえも考えておかなければならないと予想しつつ、93年11月の検定通知に出向いたところ、案の定、「図書館で手続きをせずに〜新しい方法に挑戦した。」「私はかばんの中に〜何くわぬ顔をして理科準備室を出た。」という箇所をとりあげて、不適切だという指摘(検定意見)を受けました。検定官は明言こそしなかったものの、意図としては、教材のさしかえを明らかに要求しておりました。編集委員の先生方とは、その検定意見に対する異議申し立てをすることも含めて協議しましたが、「異議申し立て」が通る可能性が低いこと(「文春」誌上で報じられた=すでにB社が教材さしかえという対応をした=ことで、文部省側が譲らないであろうこと)、さらには、検定不合格の可能性も考えられることのために、「ひよこの眼」に採録を変更することで検定に対応しました。(教材選定の段階では、「晩年の子供」と最後まで競り合ったこと、山田詠美の作品が持つ表現性を)何とかして、教科書に採りあげたいと考えたことが、主たる理由と申せましょう。


≪資料2≫1993年7月8日付『週刊文春』/「教科書検定で落とされた山田詠美さん頭の固い文部省を嗤う」より抄出

 「読売、毎日、共同、東京、NHKと、新聞、通信社やテレビ局からじゃんじゃん電話が来て、『どうしてだと思いますか、ひどいとは思いませんか』って。みんな怒らせたがっているのね。でも、私は、『別に、いいんじゃないですか』って、答えてる。おかしいとは思うけど、教科書に載せてもらおうと思って、私は作品を書いているわけじゃないから……」――突然、思わぬ出来事の渦中に身をおく羽目になった作家の山田詠美さん(34)は、反響の大きさにいささか戸惑い気味。

 検定申請中の高校用国語教科書に収録されていた詠美さんの短編小説『晩年の子供』が文部省から「教材として不適切」との指摘を受け、志賀直哉の『城の崎にて』に差し替えになったという事実が判明したのは6月23日のことだった。 「検定結果についての文部省の発表でわかったんです。理科室で石を盗むところ、学校のピアノの鍵盤にイタズラをするところ、図書室から本を手続きをせずに持ち出すところ、この3ヵ所が検定審議会で問題になったそうです。まるで重箱の隅を突っつくような指摘で、文学作品の一部分をこんな形で問題にすることには大きな疑問も感じましたね」(文部省担当記者)

 「これは教科書向きだなあ、と実は僕などもマークしていました。こう言っては失礼ですが、以前の彼女のイメージとは違って、オーソドックスな、しみじみとした作品で、本当に感心していたんです。あれが検定に引っかかったというのは、ちょっと意外ですねえ。……最新の短編集に収録されている『眠れる分度器』は、去年の筑波大付属高の入試問題にも使われています。入試問題に採用される作家の作品が教材として不適切というのもおかしな話しですよ」(教科書編集者)

 大体、図書室から手続きをしないで本を持ち出す行為を問題にするのなら、教科書にはおよそ小説の類は一切収録できなくなる。教科書古典といわれる、たとえば『羅生門』には盗みはもちろん人殺しだって登場する。

 文部省の委嘱で検定審議会の委員をつとめたこともある作家の河野多恵子さんは、今回のことについて、こんな感想を語っている。 「詠美の文章は魅力があるから、文部省も困ったんでしょう。私は『晩年の子供』は読んでないけど、『風葬の教室』などを読んだ類推で言うと、そういう箇所がすごく魅力的で魅惑の力がある。サラッと書いてるところでも、実に生き生きしているのね。下手な作家なら問題ないんでしょうけど、イメージを喚起する力があるだけに、生徒への影響を懸念したんじゃないかしら。でも、高校生の教科書でしょう。余計な心配ですよ」

 では、実際のところ、文部省は、今回の処置について、どう考えているのか? 「『晩年の子供』については、審議会で3ヵ所指摘があり、教科書会社に伝えました。その結果、問題の箇所は全体の流れから削れないということで、出版元のB社の判断で志賀直哉の『城の崎にて』に差し替えになりました。ものを盗むという記述がすべて駄目だというわけではありません。ただ、今回は学校が舞台になっているということが問題になったんです」(教科書課検定調査係)

 なんとも、首をかしげるばかりの回答。評論家の塩田丸男さんは――。「じゃ、学校の外だったら盗みをやってもいいのかって聞きたいね。学校の中だけ、そういうことがなければいいというのは、偽善的な安全、偽善の平和でしかない。これは、今の日本社会の悪しき反映ですね」

 もっとも、当の詠美さんは、そんなおかしな判断で自分の小説が差し替えられたことには、全然憤りはないらしい。 「今回のクレームは、作品についてだけだったのかな? 案外、私のイメージに対して、なのかもね(笑)。でも、そうだとしたら、三島由紀夫だって駄目でしょう。太宰だって、谷崎だって私生活は私なんかよりずっと過激よ。切腹したり、心中したり、奥さんを友だちにやったり、すごいんだから。だけど、文学って、そんな不埒(ふらち)な奴がやるものなんじゃない? 大体、健全な小説、品行方正な小説なんて、ありえないと思う。そういう部分からこぼれるところを描くのが文学でしょう。教科書に載ったら作家が喜ぶと思ったら大間違い。私はむしろ恥だと思ってる。ま、両親は喜ぶんでしょうけどね。実はあの小説は来年のC社版の教科書にも入ってるの。どうなるのかしらね(笑)」

 それにしても、本物の文学が国語教科書に登場しない国というのも困ったもの。政治改革とともに教科書改革も、日本の緊急課題といえそうだ。


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