教育のツボ


教育雑感//1997/11/19≫
プリン工場のバイトを終えて――他サイト掲示板への書き込み

 ここ数日の間は、自分とこのUPもせずに他所(よそ)の掲示板で皆さんに遊んでいただいてました。で、今回は「よそ様」のボードに投稿した記事を6篇ここに掲載することにしました。こうして読み返してみると、ある程度共通するテーマ(この言葉は大袈裟すぎますね)というか、共通する私自身の気分が垣間見えるような気もします。前後のやり取りを知りたいという方は、≪Lスクール≫と≪うまり≫へリンクコーナーからジャンプして、是非そちらの掲示板にもお立ち寄り下さい。新サイトの発見につながるかも知れませんし、書き込みをしてこられるのもいいですよね。

≪97/11/16/03:42≫ぷでぃんぐ工場の夜は寒い―Lスクール01

 工場の期間労働の夜勤アルバイトを終え、久々に帰宅。ここへも久しぶりに来訪しました。夏は電器部品の工場に行きましたが、今回は乳業関係。冷菓生産ラインなので、かなりサブイ中での労働でした。工場労働の夜勤の多くが期間労働者によって担われていますが、今回も高校中退の若者や沖縄出身の同世代の人々に出会いました(前の工場では外国人労働者の人も)。

 Lスクールのキーワード読みました。ますたあの熱い思いが伝わってきます。教育とか文学云々なんてのは「青くさい論議」だと以前の職場での先輩教諭(40代)の言葉がありましたが、いつまでも「青くさい」部分が人間には必要だと私は思っています。とは言っても、教育現場の青くさい「熱血教師」は困り者ですが。

 「生きる力」や「心」の育成という、ある種心地よいキーワードが人々を捕えていますが、ますたあの言われるように具体的な方法論のないところでの抽象的な思い入れ(あるいはCM的なキャッチコピー)として、この言葉が独り歩きしていますねえ。

 現在のままのシステムでその育成が可能なのか、そもそも生きる力や心は学校が育てるものなのか、「育てる」という時の主体の側の「生きる力」や「心」を疑ってみる必要はないのか、と限りなく「?」(疑問符)が私の中で連発されてしまいます。

 追伸_「欲望」や「感動」までもが「生産」され、「消費」されていく社会。「自己実現」という言葉に託すますたあの思いは確かに伝わってきますが、最近ではこれまた様々な「自己実現産業」によって商品化され、「消費」されている現状も一方にあります。金で買えない「生きざま」こそが大切にされるべきなのにねえ。


≪97/11/17/03:43≫「教育」(カッコ付教育)は、いらないよねえ!―Lスクール02

 EDELさん(と呼ばせていただいていいですか? 「匿名希望」よりもアドレスに使っておられる「edel」の方が素敵だと思いますので)の言われる、
 『別に良い教育をしなくても、私個人は、構わないじゃないかと思っておりますが、せめて故意に子供達の人間性を破壊することだけはやめにして戴けないかしら』
ってのは、私も同感です。「学校」という現行システムが教育を「する」ことの、ある種極端にデフォルメされた形が「私立某名門校」に顕現しているのだろうと考えます。

 ただ私たちが気を付けなければならないのは、眼前に見えている(すなわち直接的に捉えやすい対象、例えば)「名門進学校」や「モーレツ進学塾」を撃つだけでは本質的な解決につながらないということですよね。

 私自身は進学塾の基準で言えば「私立某3流校」で仕事をしていましたから、中高受験競争の中でつぶされてきた子供たちとそれなりに出会います。時として「問題行動」としてあらわれる彼らの内面に「出来ない子」として見捨てられた「傷」のようなものが見受けられるケースがあります(子供ってのは、親の期待に応えようと頑張ってしまう存在ですからねえ)。彼らが自分の力でなんとか立ち上がろうとする時、その疎外者としてたち現れてくるのは時に「学校」であり、時に「家庭」であったりするわけです。

 おそらくEDELさんも気付いておられるから、
『心ある父兄の方は、人間性を損なう同校の教育に対し、心と言葉と行いをもって反抗していらっしゃいます』
という部分で「心ある」と限定的に書かれたのだと思います。問題はやはりこのネガの部分――つまり「心ある父兄の方」ではない「父兄(母は?)」の思惑――が「私立某有名校」の教育を支える底流としてあるということですよね。それがなくならない限り、某有名校は自身の「狂育方針」の正当性を主張し続けることができるわけですから。(しかしまあ、学歴信仰もここまで進んでくると凄いと思います。中流幻想に囚われた人間のうち、どれだけの数の者が「学歴」なるものを立身出世の糧としてやっていけるってんですかねえ。)

 私は大工の息子ですが、「職人の世界を選択する」ということが学歴信仰サイドから言えばドロップアウトのように見なされている現状がありますよね。大人の側に生きる(あえて「生活する」に限定しません)ための多様な選択肢が準備されうるならば、子供たちはもっと楽でしょうにねえ。

 なんだかダラダラと書いてしまいましたが、じゃあ、どうしたらええのんか? 私が即答できるほど問題はヤワじゃないですよね。

 最近、工場のアルバイトの合間に『ハマータウンの野郎ども』(ちくま学芸文庫)というのを読み返しました。イギリスにおける「学校文化」に対峙する所謂「対抗文化」の問題が取り扱われています。(対抗文化もまた現行制度の補完物として作用してしまう点が指摘されてはいますが)私は「心ある」人々の連繋によって何らかの「対抗文化」を生成していけないかなあということを考えています。(Lスクールが、その拠点となっていくと面白いなあとも思いますが、ますたあ、どないですか?)

 ともあれ、学校に限らず、教育観というのは必要だと思います。EDELさんの「絶対に許せない」と感じておられる「生徒を完全に潰してしまうやり方」には、子供を育てるという視点(教育観・教育論)が欠如してるんですよ、やっぱり。

 駄弁で掲示板のスペースを沢山とってしまいました。おっと、こんな時間、そろそろ寝ることにします。おやおや、OFFで作業している間にべっちさんの発言がUPされていました。私は学校で教師から受けた理不尽体験というのが、それなりに尾を引いているだけに、
『私は高校までの学生生活の中で「こころ」以外の教育を受けたと言う実感が極めて少ない』
というのは羨ましいところではあります。また、いろいろお聞かせ下さいね。今日のところは、このへんで。


≪97/11/17/18:29≫そうですねえ。―Lスクール03

 べっちさん、ありがとうございます。私は、被害者意識としてでなく、自身の「学校」体験を捉え返そうとしている最中なので。仲間たちのことはいろいろと思い出すのですけども。

 それから、匿名希望さんもお気を悪くなさっておられるかも知れませんので、お詫び申し上げます。ここで既にそのお名前で定着していたのだとすれば、なおさら、勝手な暴挙でした。ごめんなさい。

 でも、個人的にはハンドル名には遊び心があった方が楽しいなあと思っています。なんかメールでも「Re***」って自分の出した題名がリピートされて返ってくるよりも、少しふるった題名の付いているものの方が好きです。まあ、これは個人的な嗜好の問題ですので。皆様、ご笑捨下さい。

 ますたあ、やっぱ手弁当の活動の統合体ですよ。独立独歩の、「心ある(匿名希望さん言)」人間が別々に立脚点を持ちながら、どこかに集うというのがいいですねえ。

 でも、人間の集団ってのは、どんな場合でもリーダーが教祖化してしまう可能性を孕んでますね、国語教育関係の団体でもそうです。おっと、こんな事を書くと非難を浴びまくりそうですが。だから、独立独歩、なんていうと堅い単語ですが、一人一人がしなやかにフワフワしたいですよね(それは根無し草ということか、と突っ込まれそうですねえ)。


≪97/11/18/04:48≫異議なし! やっぱりedelさんの方が素敵!―Lスクール04

 あんまり連発すると、「おいおい何じゃ、この新参者は?」と黙ってしまわれる方もあるかも知れません。(えらそーにハバをきかせてすみません。しばらくは来れませんので、ご容赦を!)

 べっちさん、毎回、丁寧にRESいただき、有り難うございます。「被害者意識」に関してやや言葉足らずだったので、少し補足しときますね。べっちさんが私の語りに対して「被害者意識」を指摘しているというふうには受け取っておりませんので、謝らんといて下さい。

 3年間持ち上がったガキんちょどもとの関わりの中で、私自身はいま、教室における教師と生徒の関係のダイナミズムみたいなものに関心があるんですわ(これは親と子の、あるいは大人と子供の、といった位相にまで、ゆくゆくは敷衍(ふえん)しうるのかも知れないなあなどと思いつつ)。

 で、教師として直面した現実と、自身が生徒だった時に直面した現実という双方向から考えてみようとしているのですが、ただ「理不尽」体験の把握が生徒だった自分の主観にのみ流されてしまうと、どうしても「被害者意識」的な姿(描写・把握)におさまってしまうのではないかという懸念が常にあったものですから、被害者意識としてでなく、自身の「学校」体験を捉え返そうとしているという言い方をしたのでした。1つ例をあげてみましょう。私の小学校1年生の1学期の頃の記憶の素描です。

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 始業のチャイムが鳴ったにもかかわらず、「たまぶり」と「かぎぶっちょ」は席に着いたものの、ふざけ合っていました。(当時は2人がけの木製の机でした。描写の簡略化のため、あっち向いてホイみたいなことをやっていたとお考え下さい。)

 「何をしてるんですか!」 遊びに夢中で、私たちは先生が入って来ていることに気付きませんでした。
「かぎぶっちょクン、廊下に立ってなさい!」 彼は廊下へと出ました。続けて、
「たまぶりクンも、廊下に立ってなさい!」

 非はこちらにありましたし、かぎぶっちょが既に廊下に立っていました。先生の命令ですから、私も席を立ちました。私が教室の後ろの戸口にさしかかったところで、先生は言いました。
「ふ〜ん、あなたは廊下に立つの?」

 その時間中、私は戸口にたたずんだまま、泣いていました。授業は何事もなかったかのように進んでいきました。授業を終えた先生は、そのまま職員室へと引き上げて行きました。
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 みなさんは、この場面をどのように≪読み≫ますか。あくまでも子供の側の記憶ですから、不確かな点があるだろうし、どうしても主観的な要素が強いですよね。これを客観的な姿に再構成することは難しいのではないかというのが私の懸念の内容なのです。

 そんな懸念を抱きつつ、この場面に対するいまの私の≪読み≫を示してみますね。小学校に入学して間もない年代にとって、教師の言葉は絶対でしたよね。「廊下に立ちなさい」といういわば絶対と思われる言葉の直後に、その言葉の絶対性を反転するような「立つのか」という問いを投げかけられた時、6歳の子供はどう反応しうるのでしょうか。この場面では所謂ダブルバインド(二重拘束)――要するに相反する二重の禁令が同時に提示されることだと考えて下さい――の状況が成立しているわけですが、子供の発達段階に照らしてみても、ここでなされた指導は不適切であると現時点での私は思います。

 ただし、こうして教師の目で同じ場面をくぐり直してみたとしても、基になるデータが既に主観に彩られているだけに「被害者意識としてでなく」というのはかなり難しいことですよね。しかし、出来るだけ「恨みつらみ」から抜け出したところで捉えたいという思いはあるのです。逆に言えば、私が教師として接した生徒たちの事例だって、私の主観から完全には自由でないはずですから。

 こう言い出すと、いつもの書き込みと同じく袋小路にはまっていくのですが、とりあえず「被害者意識としてでなく」ってのは、私が自身に向けた自戒の掛け声みたいなもんやとご理解下さい。

 今日のところは、このへんで。それでは、みなさん、また来週!


≪97/11/15/23:25≫わたしゃ、今朝までぷりん作りのおじさん!―うまり01

 ♪うまりに来たぞ、来たぞ、来たぞ、うまりに来たぞ〜、そら逃げろ!(「魔王」のフシで)/うまりさん、うちの閑散(かんさん)とした掲示板にぎやかにしてくれはって、おおきに。/ばらんの件、納得しました。

 久しぶりに来てみると、いろんな新コーナーできたんですねえ。/私は、12月中旬締切の原稿があるというのに、今朝まで某乳業のプリン工場でバイトしてました。先日までのアップロード(といっても、「読ぶり」ばかりですが)は、工場の事務所からだったんですねえ、実は(事務のおばさん、もといおねえさんは快く許可してくれましたが、もちろん、工場長には内緒)。/「プリンやゼリーにうまってたぞ!」ってんで、「うまり体験」に書こうかと思ったんですが、あそこはどうやって送信すんの?/しかしまあ、この掲示板見てると「うまり人脈」は秀逸(しゅういつ)ですねえ。糞尿路線に走ってる辺りで、「たく」さん作の「ごろうのうた」がいいねえ。ひらがな表記の五文字正方形が視覚的な効果(?)も孕(はら)んでて、右からタテに読んでいくと、「てるんでた」で始まり最後の行が「つるごろう」ってのが笑けます(関西弁「笑えます」の意)。/ほな、今日はこのへんで。もう寝ますわ。明日は「やまも」さんちでも行ってみよっかな。


≪97/11/16/01:55≫誤解はないと思いますが。―うまり02

 たまってたメールの返信を書いていたら、もうこんな時間。さっきの投稿、少し気になったので、補足しときますね。「つるごろう」氏が自分の名前を笑われたと誤解したら申し訳ないさかいに。

 「たく」さん、「ヨブチ」さん、「うまり」さんが連続でやってるのは、(中高の国語なんかで「自分の名前を冒頭に入れて自己紹介の詩を作ってみよう!」ってな取り組みがあったりもしますが)、例の『伊勢物語』−−「か」らころも「き」つつなれにし「つ」ましあれば「は」るばるきぬる「た」びをしぞおもふ−−なんかに見られる折句(おりく)という言葉遊びの延長ですわな(こんな講釈すると興ざめですが、みなさんなかなか高尚です)。

 私が面白いと思ったのは、意味がありそうでなさそうな5文字単語がならんでる最後に有意の単語が入っているという取り合わせの妙についてですから、念のため。



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