教育のツボ


教育雑感//1998/09/04≫
オレたち、なんで、《国語》をベンキョーすんのやろ?

 以下に引用するのは、(以前の勤務校で)学習指導部に依頼されて高校2年生対象の3学期『学習だより』(1997年2月発行分)に寄せたものです。ちょうど数号続けて「〜とは何を学ぶ教科なのか」といったコーナーを設けていた時期のもので、標題は上記の通り。本日、フロッピーの整理をしていたら、偶然見つけたのでした。


 なあーんか、いかにもムズカしい(ヒョ〜ロンとか呼ばれる)文章を読まされて、「この文章の筆者(たいていエラそうなオッさんであることが多い)は、ここで何を言いたいんか」ってことばあーっかり聞かれて、センセエがこう読むんやって言わはるから、(ナットクいかへんけど)その通り覚えて、定期試験でそう書いたら「バツ」付けられてもーた。なんでやねん!

 それから、同じ日本語やっちゅうのに、何を言うてんのか、さーっぱりわからへん『伊勢物語』とか『徒然草』とか『源氏物語』とか読まされて、「この助動詞の意味は? 活用形は?」ってまくしたてられて、「オレはいま何やってんにゃろ」と思いつつ、「ケンコー(吉田兼好やね!)も、シバシキブ(紫式部ちゃうん?)も、大嫌いじゃあーッ、オマエらがこんなもん書き残すから、オレが苦労すんのじゃあ!」なあんて、パニクったオレの脳ミソが悲鳴を上げる。

 こないだ、あるセンセエが言うてはった、「《国語》の勉強の基本は、自分なりの《読み》を持つことなんや」って……。どういうことかって言うと、ホントはようわからへんねんけど、オレなりにまとめると、だいたい、こんな話やったと思う。

 オレらは、ふだんの付き合いの中で、ほかのヤツの態度とか表情とか見たり、そいつの言葉とか聞いて、自分なりに反応したり、判断をして行動するもんやんか。その自分なりの反応とか、判断っちゅうのが《読み》ということになるらしい。それからな、例えば、好きな女の子おったとするやん、その子にな、自分の気持ち伝えよう思うたら、オレの気持ちを《読み》取ってもらえるようなコトバとか態度とか選ばなアカンやろ、ほんで、それがちゃんと伝わってんのかとか、あの子、オレのことどう思ってんにゃろとか、結局、こっちも《読み》取っていかんならんやろ。

 ただな、ツレとやったら、気持ちが通じてるさかい、簡単なコトバでもええやん、そやけどな、世間(せけん)ではアクトク商法とかいろいろあって、うまいコトバに乗せられてもうたヤツって大人でもけっこうおるやん。だまそうとしてるヤツの真意(しんい)っちゅうのを《読み》取ることも、オレらが痛い目に合わんためには大事なことなんや。

 ガキの時なんか、目の前におんのが「母さん」や「父さん」やとわかって、ワンワカほえてんのが「犬」やとわかって、チュンチュク鳴いてんのが「スズメ」やとわかって、道路をブータラ走ってんのが「自動車」やとわかって、そうやってコトバを身に付けてくことで、オレらの心の世界は少しずつ広がってきたはずや。ほんでな、ヒョ〜ロンやらコテンやら、書かれたもんを《読み》取っていくっちゅうことも、オレらが《コトバ》を獲得(かくとく)していくことやし、「自分の心の世界を広げていくこと」になるわけで、もっと言うと「文化ってやつを受け継いでいくこと」を意味してるらしい。なんかオオゲサやけど、これはオレが言うてんのとちゃうで!

 そやから、授業の時にな、センセエの《読み》がナットクいかへんかったら、どんどんそれを言うたらええって、言うてくれるんを待ってるって、そのセンセエは言うてはった。新聞でも、教科書でも、活字になってるからいうてそのまま信用せんと、いったん疑ってみることや自分なりに《読み》を組み立てていくことが大事なんやて! そうやとすると、《国語》の勉強で、自分なりの《読み》を作っていくってことは、やっぱ、自分を作っていくことにもなるような気がする。

 そやし、センセエ、授業中にオレが変な質問しても、ぜ〜ったい、怒らんといてや! 約束やで!


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