教育のツボ


教育雑感//2000/08/08≫
「ひよこの眼」授業プレ・ノート

 「ひよこの眼」という山田詠美の短篇があります。現在は知りませんが、私の高校教員在職当時には三省堂の高校3年生用『現代文』の教科書に収載〔しゅうさい〕されていました。付言しておくと、同作品は『晩年の子供』(講談社、1991年)に収載されたもので、既に文庫にもなっています。作品の詳細については、ここで語りませんので、是非、皆さん一人一人が作品を繙〔ひもと〕いてみてください。

 さて、私が小学校1年生の頃。同じクラスに知的障害のあるF君という男の子がいました。私は主人公・亜紀のように≪ひよこの眼≫を彼に見出したわけではありませんが、ある日の放課後、なぜかF君と二人で遅くまで学校に残って、平行棒で遊んでいたのを記憶しています。いつも彼と遊んでいるというわけでは決してなかったのですが……。その日の夜半、わが家から500mほど離れたF君の家から出火。翌朝、教室ではF君一家(F君・弟・母親)の訃報〔ふほう〕が伝えられ、お母さんは(火を消そうとしていたのか)バケツを持って倒れていたとの由〔よし〕でした。

 ところが、後日判明したのは、離婚して知的障害のあるF君と小さな弟を抱えることになった母親が無理心中を図ったという事と、彼女のそばにあったのはバケツではなく灯油缶だったという事でした。いま無理心中の是非については措〔お〕くとしても、当時(昭和40年代)はまだ女性が自立して仕事をしていくには厳しい時代。しかも、幼い子供を二人抱えての仕事と子育ては大変だったに違いありません。

 幼稚園入園前の頃、祖母の死を理解できなかった私が、その数年後にF君の死を対象化できたなどとはとても言えませんが、私自身、やがて≪死≫というものに改めて直面することになるのは、中学2年生の頃に祖父が亡くなった時だったと思います。奇〔く〕しくも主人公・亜紀のそれ(中学3年生)に近い年代の頃ということになります。

 昨日まで確かに存在していた人が存在しない、眠っているかのように肉体はそこにあるのに、再びその瞳が開かれることはないという現実。生の対極にある死が人を招き寄せる時は必ず来ます。それでもなお、人は天寿を全うする時まで命の炎を燃やすのでしょう。しかしながら、人生半ばにして死に掬い取られてしまう人の瞳だけが、亜紀のいう≪ひよこの眼≫のように、私たちに見えない何かを見据えているのでしょうか。

 亜紀が抱いた≪ひよこの眼≫(=死を見据えた瞳)への関心の強さを――死に対する異様な執着と見るよりは――まさに、その裏返しとしての≪生きること≫への強い関心の表明でもあるという事実を授業では生徒たちと共に押さえていきたいものです。


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