ことばのお祭り
教育のツボ
私の「ぎゃまん」の域を越えてる…
 さっき偶然入った喫茶店。有線で黒夢の歌う「MARIA」が流れていた。6月8日付でこの曲について書いて以来、久々に聞いたことになる。
 
 先日、たまたまテレビをつけたら、サザン・オール・スターズの20周年番組をやっていた。その中で、森雪之丞が祝福メッセージを寄せて「サザンが登場していなかったら、日本のロックの歌詞はこんなにひどくなってなかったろう」という意味のことを語っていた。これは桑田に対する揶揄(やゆ)というよりも一種のジョークとして語られたものではあったが、それなりにいまの日本ロック界における言葉の状況を言い当ててはいるだろう。
 
 これまた偶然(「偶然」とか「たまたま」が多いのは、私が自分からわざわざテレビの歌番組を見ようと思うことがないからである)、テレビで久宝留理子が「ぎゃまんできないよぉ〜」(だったかな?)と歌うのに出くわした。その間、同じフレーズが3度登場したが、表示された歌詞の字幕には「我慢」と書かれていた。
 
 前にも書いたように、歌の中で「た・ち・つ・て・と」が「つぁ・ち・つ・つぇ・つぉ」に、「か・き・く・け・こ」が「きゃ・き・く・きぇ・こ」に転訛(てんか)されていることに、さほど目くじら立てても仕方がないのだが、(おそらくサザン以降に)定着してきた歌詞の常識みたいなものに同じジャンルの和製「あーてぃすと」たちが囚(とら)われていることが私には面白い。
 
 結局、創造というものに関与していながら、既にステレオタイプ化したものに何の疑いもなくからめ取られているわけである。要するに、ここにも(そのジャンルにおける)みんなと《同じもの》であろうとする心性が働いているということになるだろう。
 
 しかし、それがかっこいいと信じているのなら、なぜ作詞の段階では「我慢」と普通の言葉で書くのだろうか。字幕にも「ぎゃまん」と出るほうが統一性は保たれると思うのに…。
 
 結局のところ、詞を書く段階において、彼らは従来の言葉の意味の枠組やメッセージ性にこだわっているのであり、それを曲にのせて発信する際には言葉の意味やメッセージ性を捨てているという二重性の中に在る。そんな業界の「文法」を当然のものとして受け入れ、自身の言葉が引き裂かれている中で和製「くりえいてぃぶ」な活動に取り組んでいるということでしかあるまい。
 
 旧来の言葉の枠組から逃れ、同じくステレオタイプと化した業界の言葉の枠組からも逃れて「創造」にいそしむのなら、瑣末(さまつ)な部分=「づぉづぉづぉづぉ」「ぎゃぎゃぎゃぎゃ」ばかりでなく、意味の連鎖そのものから解き放たれるしかないのかも知れない。
 
 まあ、そこまでやってしまうと、「売れ」へんのやろけども…。
執筆日時:
1998/08/05

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