北原白秋
 

「東京景物詩」より

  
 おかる勘平




 
 おかるは泣いてゐる。
     うすあかり                    ふる
 長い薄明のなかでびろうど葵の顫へてゐるやうに、
 
 やはらかなふらんねるの手ざはりのやうに、
                 くさぶ
 きんぽうげ色の草生から昼の光が消えかかるやうに、
 
 ふわふわと飛んでゆくたんぽぽの穂のやうに。
 

 
 泣いても泣いても涙は尽きぬ、
 
 勘平さんが死んだ、勘平さんが死んだ、
 
 わかい奇麗な勘平さんが腹切つた………
 

 
 おかるはうらわかい男のにほひを忍んで泣く、
 かうじむろ         む                しげき
 麹室に玉葱の噎せるやうな強い刺戟だつたと思ふ。
            はだ        ごぐわつ     ぐわいくわう
 やはらかな肌ざはりが五月ごろの外光のやうだつた、
              ほて         いき
 紅茶のやうに熱つた男の息、
  だきし         とき  ひるま  えんでん
 抱擁められた時、昼間の塩田が青く光り、
      せり                                しを
 白い芹の花の神経が、鋭くなつて真蒼に凋れた、
                            えんせう
 別れた日には男の白い手に烟硝のしめりが沁み込んでゐた、
  かご
 駕にのる前まで私はしみじみと新しい野菜を切つてゐた………
 

 
 その勘平は死んだ。
 

          おんしつ        みなしご
 おかるは温室のなかの孤児のやうに、
         くわんのう
 いろんな官能の記臆にそそのかされて、
               ゆらく   ふけ
 楽しい自身の愉快に耽つてゐる。
 

   にんぎやうしばゐ                    かうじ
 (人形芝居の硝子越しに、あかい柑子の実が秋の夕日にかがやき、
                しがい
  黄色く霞んだ市街の底から河蒸気の笛がきこゆる。)
 
 おかるは泣いてゐる。
         みぶり
 美くしい身振の、身も世もないといふやうな、
  せま     しやみ   つ
 迫つた三味に連れられて、
          さ は り
 チヨボの佐和利に乗つて、
               おぼ
 泣いて泣いて溺れ死にでもするやうに
 
 おかるは泣いてゐる。
 

      にほひ
 (色と匂と音楽と。
 
 勘平なんかどうでもいい。)



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