梁塵秘抄 巻第二 法文歌 雑法文歌

 
 ほとけ むかし          われら  つゐ
 仏も昔は人なりき 我等も終には仏なり
           ぐ           し
 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ
 
(232)

大意……

仏も昔は人だった。私たちも最後には仏になる身である。
三身仏(法身、応身、法身の三つの仏)になることの出来る性質がそなわっている身体だ、
と知らないで生きていくことは寂しいことだなあ。


 



 仏様だって昔はただの「人」だったんですから、まかり違えば極悪の「われら」でも、仏性の種が備わっているのだから、上手に育てればいつかは仏になれるんですよ。そんな意味を込めた歌でしょうか。

 素朴でたくましい信仰心が感じられるような気がします。

 ところで、上の歌によく似た、こういう歌をご存じではありませんか。

      仏も昔は凡夫なり われらも終には仏なり
          いづれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ


 これは、『平家物語』の中で平清盛の寵愛が仏御前に移ったと知って、白拍子の祗王が六波羅探題を出る間際に歌った今様です。

 上記の歌の替え歌と思われますが、「仏と人の対比」を巧みに「仏」御前と「われら」祗王祗女姉妹に置き換えて、それぞれの本性は本来差別は無いはずなのに、ことさら善し悪しをつけられるのは悲しゅうございます、と訴える歌にしています。

 それとも、こちらの方がもと歌で『梁塵秘抄』の方が替え歌でしょうか。どちらがどちらとも言い難いところがありますね。

 もともと、今様は宴席や巷で歌われた民衆的なものですから、「替え歌」を積極的に作り出せる人が、機才に富んだ人として一座の人気者だったのではないでしょうか。


BACK戻る 次へNEXT
[梁塵秘抄] [文車目次]