萩原朔太郎
『月に吠える』より

   
   雲雀の巣


                               ふるさと
 おれはよにも悲しい心を抱いて故郷の河原を歩いた。
 
 河原には、よめな、つくしのたぐひ、せり、なづな、すみれの根もぼうぼうと生えて
 
  ゐた。
 
 その低い砂山の蔭には利根川がながれてゐる。ぬすびとのやうに暗くやるせなく
 
  流れてゐる。
 
 おれはぢつと河原にうづくまつてゐた。
 
 おれの眼のまへには河原よもぎの草むらがある。
 
 ひとつかみほどの草むらである。蓬はやつれた女の髪の毛のやうに、へらへらと
 
  風にうごいてゐた。
 
 おれはあるいやなことをかんがへこんでゐる。それは恐ろしく不吉なかんがへだ。
 
 そのうへ、きちがひじみた太陽がむしあつく帽子の上から照りつけるので、おれは
 
  ぐつたり汗ばんでゐる。
 
 あへぎ苦しむひとが水をもとめるやうに、おれはぐいと手をのばした。
                                   ヽ ヽ ヽ ヽ
 おれのたましひをつかむやうにしてなにものかをつかんだ。
 
 干からびた髪の毛のやうなものをつかんだ。
 
 河原よもぎの中にかくされた雲雀の巣。 
 

 
 ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
 
 おれはかわいさうな雲雀の巣をながめた。
 
 巣はおれの大きな掌の上で、やさしくも毬のやうにふくらんだ。
           はぐ
 いとけなく育くまれるものの愛に媚びる感覺が、あきらかにおれの心にかんじられ
 
  た。
 
 おれはへんてこに寂しくそして苦しくなつた。
 
 おれはまた親鳥のやうに頸をのばして巣の中をのぞいた。
 
 巣の中は夕暮どきの光線のやうに、うすぼんやりとしてくらかつた。
 
 かぼそい植物の纖毛に觸れるやうな、たとへやうもなくDELICATEの哀傷が、影
 
  のやうに神經の末梢をかすめて行つた。
 
 巣の中のかすかな光線にてらされて、ねずみいろの雲雀の卵が四つほどさびし
 
  げに光つてゐた。
 
 わたしは指をのばして卵のひとつをつまみあげた。
 
 生あつたかい生物の呼吸が親指の腹をくすぐつた。
 
 死にかかつた犬をみるときのやうな齒がゆい感覺が、おれの心の底にわきあが
 
  つた。
 
 かういふときの人間の感覺の生ぬるい不快さから惨虐な罪が生れる。罪をおそ
 
  れる心は罪を生む心のさきがけである。
 
 おれは指と指とにはさんだ卵をそつと日光にすかしてみた。
 
 うす赤いぼんやりしたものが血のかたまりのやうに透いてみえた。
 
 つめたい汁のやうなものが感じられた、
 
 そのとき指と指とのあひだに生ぐさい液體がじくじくと流れてゐるのをかんじた。
 
 卵がやぶれた、
 
 野蛮な人間の指が、むざんにも纖細なものを押しつぶしたのだ。
 
 鼠いろの薄い卵の殻にはKといふ字が、赤くほんのりと書かれてゐた。
 

 
 いたいけな小鳥の芽生、小鳥の親。
 
 その可愛らしいくちばしから造つた巣、一所けんめいでやつた小動物の仕事、愛
 
  すべき本能のあらはれ。
 
 いろいろな善良な、しほらしい考が私の心の底にはげしくこみあげた。
 
 おれは卵をやぶつた。
 
 愛と悦びとを殺して悲しみと呪ひとにみちた仕事をした。
 
 くらい不愉快なおこなひをした。
 
 おれは陰鬱な顔をして地面をながめつめた。
 
 地面には小石や、硝子かけや、草の根などがいちめんにかがやいてゐた。
 
 ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと空では雲雀の親が鳴いてゐる。
 
 なまぐさい春のにほひがする。
                 ヽ ヽ
 おれはまたあのいやのことをかんがへこんだ。
 
 人間が人間の皮膚のにほひを嫌ふといふこと。
 
 人間が人間の生殖器を醜惡にかんずること。
 
 あるとき人間が馬のやうに見えること。
 
 人間が人間の愛にうらぎりすること。
 
 人間が人間をきらふこと。
 
 ああ、厭人病者。
 
 ある有名なロシヤ人の小説、非常に重たい小説をよむと厭人病者の話が出て居
 
  た。
 
 それは立派な小説だ、けれども恐ろしい小説だ。
 
 心が愛するものを肉體で愛することの出來ないといふのは、なんたる邪惡の思想
 
  であらう。なんたる醜惡の病氣であらう。
 
 おれは生れていつぺんでも娘たちに接吻したことはない、
 
 ただ愛する小鳥たちの肩に手をかけて、せめては兄らしい言葉を言つたことすら
 
  もない。
 
 ああ、愛する、愛する、愛する小鳥たち。
 
 おれは人間を愛する。けれどもおれは人間を恐れる。
 
 おれはときどき、すべての人々から脱れて孤獨になる。そしておれの心は、すべ
 
  ての人々を愛することによつて涙ぐましくなる。
 
 おれはいつでも、人氣のない寂しい海岸を歩きながら、遠い都の雑閙を思ふのが
 
  すきだ。
                                ふるさと
 遠い都の灯ともし頃に、ひとりで故郷の公園地をあるくのがすきだ。
 
 ああ、きのふもきのふとて、おれは悲しい夢をみつづけた。
 
 おれはくさつた人間の血のにほひをかいだ。
 
 おれはくるしくなる。
 
 おれはさびしくなる。
 
 心で愛するものを、なにゆゑに肉體で愛することができないのか。
 
 おれは懺悔する。
 
 懺悔する。
 
 おれはいつでも、くるしくなると懺悔する。
 
 利根川の河原の砂の上に坐つて懺悔をする。
 

 
 ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよ、ぴよと、空では雲雀の親たちが鳴いて
 
  ゐる。
 
 河原蓬の根がぼうぼうとひろがつてゐる。
 
 利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる。
 
 あちらにも、こちらにも、うれはしげな農人の顔がみえる。
 
 それらの顔はくらくして地面をばかりみる。
 
 地面には春が疱瘡のやうにむつくりと吹き出して居る。
 

 
 おれはいぢらしくも雲雀の卵を拾ひあげた。